たろの日記ページ,gooブログ版

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理不尽な感情

2005-06-16 22:33:41 | ココロ
夏目房之介さんのブログでの話…。前半はマンガのリアリティの話で,途中から引用とかの話になってますが,そこの話はおいておいて,最後の方。「人は必ず『自分がもっとも愛して出会った瞬間のマンガ(音楽でも文学でもいい)』を自分の中で重要な価値指標にしますから…」のところです。その後「次第に『何だか面白くない』と感じる瞬間がきます」と続きますが,氏はこういうのを「理不尽な感情」といい,批評家としてそれを乗り越えるのに苦労したような事が書いてます。
夏目氏はプロの批評家なので,それを明確に自覚し乗りきったことことは必要に駆られてのことだと思いますが,こういう思いを乗り越えられることは,批評家にあらず,一個人としてもメリットがかなりある…,いやメリットというよりはその人自身が世界をネガティブに感じるか面白く感じるか…という事の大きな要素になるように思います。
わたし自身も単なる一音楽リスナーですが,今の音楽がつまらないという感情を払拭するために,それなりに自覚的になった時期はありますし,音楽だけではなく,社会自体,自分の環境自体,そういうものも含めてそれを乗り越えることを意識した時期があります。特別な時代というのは自分の中に存在するもので,自分の外に存在するわけではないので,社会自体が悪くなることは無いし,逆に自分がそうあれば,いつでも社会はとてもすばらしいものであるとわたしは思います。
夏目氏のこれに関する文は上記のページではそんなに量はありませんが,「ある種の『批判的』言語のもつワナ」とか,「言葉が優秀だとかなり頭よく見えちゃう」とか鋭い指摘をしっかりしてます。つまり「批判めいた事を述べることが評論」と思ってるような,個人の評論を見掛けることもありますが,それらはもしかするとその理不尽な感情から個人のルサンチマンとして述べられているのかもしれません。ですのでわたし自身は他の人が書いた批評はどうでもいいのですが,自分自身がネガティブな印象を持ったときにそれがいったいどこから出てくる感情なのか?…ということに関してはかなり自覚的に自問自答するようにしてます。そうして自分の感情を客観視し相対化すると,実は結構
楽にいきられる…と実感してます。
つまりは楽にいきられるかどうか…というのは,こういう物事に対する評論のなかにその姿勢が反映するわけで,ある意味批評というのは批評される作品というより批評する人の姿勢やココロの状態が赤裸々にみえるものだと言える気がします。
というわけで,批評というのは実はかなりこっぱずかしい行為だったりします(^^;)。
コメント
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