たろの日記ページ,gooブログ版

http://taro-r.sakura.ne.jp の分家です。一部内容が重複してます。

ネットコミュニティ形態と議論

2005-06-09 09:42:18 | ココロ
なんども書いてるので…またか…といわれそうですが,わたしはコミュニケーションの「場」っていうに興味があって,いろいろ世の中を見ては考えてしまいます。ずっと観察してるのはネット上のコミュニティーで,何度も書いてますが,わたしもインターネットをやりはじめて20年近くなっているわけで,メイル,ネットニュース,パソコン通信,掲示板などを見ていて,現行おもしろいなぁ…と思ってるのがソーシャルネットだったりします。
ただ見ていて思うのはやっぱり個人的にはネットニュースの頃が一番深い議論が出来ていたように思います。もしくはML。Webベースのコミュニケーションになって,どうもそうでも無くなった気がします。なぜでしょう?…。ネットニュースやMLの頃は引用をし,そこに意見を挟んでいくという形式だったのが,Webではそういう風になってないからでしょうか?。一次元のスレッドだと古い発言が埋もれてしまうからでしょうか?。ブログも印象的には同じです。それとも文化的な問題でしょうか?。ソーシャルネットを見ていてもあまり長文を書く人がいない気がします。
一つは自分でWebを持ってる人が増えていて,公共の空間に自分の情報を載せるのをけちってるというか,別に公共の空間に長々と文章を書く必要がない…って思ってる人が多いのかも知れませんね。かくいうわたしもまとまった文章はソーシャルネットには書かずにここに書いていたりしますし…。
ブログって古い文章にアクセスしにくいですからね,恒久的に文章が目につくようにしたいのであれば,Webの方を選ぶのだろうなと思います。ただ個人のページはコミュニケーションの場にはなりにくいですね。
ソーシャルネットを見ていてもどんどん自分でコミュニティを立ち上げてそっちに話を引っ張ろうと画策している人達もいるんですが,結局そういうのって分散するだけで,どこで話がされているかがわからなくなるだけのような気がします。
難しいですね…。
ところでネットではなくてリアルの世界も良くわかんなくて,ヨーロッパとかではバーでは知らない人に話しかけるのが当たり前…って文化らしいんですが,実は日本の飲み屋も場末にいくと結構そういうことあります。ただ普通の居酒屋はグループに閉じたセカイになるし,カラオケもスナックからボックスになってやっぱり狭くなった…。でもスポーツバーでのスポーツ観戦とかがあるようにそういう需要はあるようにも思います。
どうも個人主義という建前に振り回されて,場が見えにくくなっているような気も…。
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靖国問題 (高橋哲哉著)

2005-06-09 07:11:18 | 書評
昨今問題となっている靖国問題。実は意外に等の日本人が靖国神社とはなんなのか?…というのを正しく理解していない。その歴史,存在理由,そして靖国参拝と宗教,政教分離等の問題,そして外交問題等…。この本は歴史学者や宗教家ではなく哲学者であるところの著者が哲学的な論理で靖国問題を論考するという本です。
靖国問題,靖国神社については,どれくらいの人がどれくらいの事を知っているかはわたしはしりませんが,わたしは一応明治にできた神社ということとか,戦没者が祀られているとか,A級戦犯も合祀されているとか,西郷隆盛は祀られてない…とか, 一宗教法人である…とかいうのは知ってました。で,そのわたしがこの本を読んで,知ったことというは結構あって,そういう意味では読んで良かったと思います。ただ感想としては,結局論理的思考でも(ちょっと不適切な言い方ですが)バイアスがかかるのだろうなぁ…ということです。
というのは,論理的思考で靖国のことを語ろうとしても結局は資料から歴史的事実を引用するので,その選択により論考が影響をうけてしまうということ,あと論理的に突き詰めるとある意味実現不可能なところまでいってしまって,痛み分けとかしゃんしゃんみたいなところに落せないという事です。
まずこの本でいっていることで,わたしが読んで知って比較的驚いたことを書くと,(1)靖国神社は戦前戦中戦死した兵士を祀ることにより,遺族・家族は悲しみを喜びへ昇華できた。これにより国に命を捧げることを喜びと感じるようになった。(2)A級戦犯は歴史認識の一部であり,本来は植民地主義こそが問題である。(3)首相の靖国参拝を合憲とした司法判断はこれまでない。しかし宗教法人を国がいじることは憲法上無理だし,靖国神社を非宗教かすることがかえって戦前の国体へ向かう危険性をはらんでいる。(4)死者を祀るという風習がたしかに日本にはあるが,敵を祀っていない,戦争で被害者になった民間人を祀っていないという意味で靖国は日本の伝統文化に即しているわけではない。というあたりです。
(1)は靖国神社は国に命を捧げる兵士を作る装置として作られた事を示してます。戦没者の遺族を国費で招待して天皇陛下が祈るという行事を戦前は何度も行っていて,この時に遺族達は恍惚を感じたようです。逆にいうと,それだけの栄誉を感じたからこそ,現在でも靖国にこだわる遺族は多いという事です。(3)の靖国の非宗教化の危険性というのは,明治に政府は神道を国家宗教としようとしたが,仏教とキリスト教の反対を受けた結果,「神社に詣るのは宗教行為ではない」ということにし,神道を超宗教にしてしまったということ。つまりある意味無宗教なわけで,無宗教な施設が国民の献身のよりどころになる危険性を既に表しており,このことから靖国以外の非宗教施設を作るとかえって危険である…ということを著者は指摘してます。
この辺はなるほどと思ったのですが,(2)の植民地主義の問題というのはわたしとしては,あまり共感しませんでした。つまりA級戦犯をさばいても,中国や韓国の人達を傷付けた人達がいるのは事実だということですが,それをいうと結局日本以外のアメリカやイギリスも植民地時代に不当に現地人を迫害していたわけで,植民地主義をしたすべての国が罪を償うべきという議論になり,あまり現実的ではないとわたしは感じます。また組織的に行った行為を個人におしきせるのはおかしいと思います。
そういうわけで,この著者がいう結論は,どうもわたしには日本は徹底的に謝罪して中国にずっと頭を下げつつける…という風に読めてしまって,そこだけが同意できませんでした。ただ戦前における靖国の機能を考えると戦没者記念施設ですらある意味恐ろしさを感じますが,ただアメリカやヨーロッパにもそういうものがあり国威掲揚というか国民の意識を高めるためには利用されているのです。哲学者的には,こういう国のような組織が国民の意思をコントロールすべきではないという意見なのかもしれませんが,人間はそんなに賢い人ばかりではないし,実際に国の周りには国民の意思をコントロールして他国に圧力をかけている国があるわけですから,国がまとまる事をすべて否定するには,現実は理想的ではないようにわたしは思います。
というわけで,結論的にはあまり賛同はできませんでしたが,読みやすいし,いろいろ新しいことを知ったので,まぁ読んで良かったかとは思います。
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