「浦添グスク」を後にして近くの「当山(とうやま)の石畳道」を見に行きました。
「当山の石畳道」の南端は、浦添市当山1丁目20付近にあり、「浦添大公園」に含まれているようです。

「当山の石畳道」の南側の入り口です。
向かって右に下りて行く坂で、歩行者専用の道でした。
入り口のすぐ横に未舗装の駐車スペースがあり、駐車できました。(事前情報にナシ)
この入口から最初に真直ぐ下る約20mの坂道は、非常に急な傾斜です。
「馬がころぶほどの急坂」と案内板に書かれていましたが、納得です。

「当山の石畳道」周辺の地図です。
牧港川(まきみなとがわ)が流れる谷間を横断する二つの赤い丸印を結ぶ道が、「当山の石畳道」です。
南には「浦添グスク」の山が見え、その中腹には「浦添ようどれ」があります。

最初の急な坂道を過ぎ、道が左にカーブした場所です。
敷石の間に草が生え、石の表面に踏み続けられた年代が感じられます。
なつかしさ、すがすがしさを感じて散策できる道でした。
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■「当山の石畳道」の案内板があり、転記します。
浦添市指定文化財 「史跡 当山の石畳道」
琉球王国時代に王府は、首里城と各間切の番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋をかけ、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切番所をとおって宜野湾間切番所にいたるいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅4.5m、長さ約200mの石畳道が残っています。
馬がころぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。この道を通って、国王は普天間宮に参詣し、また各間切の年貢が首里城へ運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半頃に整備されたと考えられていますが、橋は大正時代に改築されました。
昭和59年3月1日指定
浦添市教育委員会
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道の向こうに「当山橋」が見えてきました。
向って左に石垣に囲まれた広場には屋根のある休憩所があります。
公園的な施設のようでした。
琉球王朝時代、沖縄のほぼ全域に間切(まぎり)と言う行政区域(現代の市町村)があり、各間切には番所(ばんしょ)と言う役所が置かれていたようです。
首里城から、各地の間切の番所は、「宿道(すくみち)」という街道で結ばれ、宿次(しゅくつぎ)と呼ばれる早馬などによる情報伝達のしくみがあったようです。

「当山橋」に近づくと、敷石が少し大き目になっています。
「当山の石畳道」は、橋を渡って右に続いています。
橋を渡った突当りにも石垣に囲まれた広場がありました。
突当りを左に進むと「浦添大公園」の中央部に続いているようです。

「当山橋」に近づいて見ました。
牧港川をまたぐアーチ型の石組や、橋の欄干などの造りには素朴さが感じられます。
「当山橋」は、長さ約6m、幅2.7mの大きさで、かっては木の橋だったものを大正時代に石橋に改築したようです。
その後、石橋は沖縄戦で大きな被害もなく今日まで残ったようです。

「当山橋」を渡り、振り返ってみた景色です。
向かって右手に石垣で囲まれた一段高い場所に広場があります。
手前に見える石碑には「普天間街道」と書かれていました。
このあたりの道は、首里城から宜野湾間切にある「普天間宮」への参拝の道でもあったようです。
「普天間宮」は、王府から特別の扱いを受けた「琉球八社」と言われる神社のひとつで、15世紀中頃に古来からの御嶽に熊野権現を合祀したと言われています。
「琉球八社」は、金武宮(金武町)、普天満宮(宜野湾市)、末吉宮・安里八幡宮・天久宮・識名宮・沖宮(以上那覇市)とあります。八幡神が、祀られている安里八幡宮以外は、熊野権現を祀っているようです。

「当山の石畳道」北端への最後の坂道の景色です。
何の花かわかりませんが、道端に赤い花が咲いていました。

「当山の石畳道」の北側の出口にたどり着きました。
突当りの建物に「田場商店」の看板が見えます。
出口は、十字路になっていて、「田場商店」の前を通り、真直ぐ北に歩くと住宅街が続いているようでした。
東に向かう道の先には当山小学校がありましたが、休日のため静かでした。

「当山の石畳道」の北側の入り口です。
南側入り口と同様に車止めが立っています。
陽射の強い日でしたが、所々にある木陰の道にはさわやかな風がながれ、気持のよい散策ができました。

「当山の石畳道」の北側の入り口から高く積上げられた「浦添ようどれ」の石垣が見えます。
山頂に近い目立つ場所で、付近からも遥拝できるよう考えられたのかも知れません。
「当山の石畳道」の南端は、浦添市当山1丁目20付近にあり、「浦添大公園」に含まれているようです。

「当山の石畳道」の南側の入り口です。
向かって右に下りて行く坂で、歩行者専用の道でした。
入り口のすぐ横に未舗装の駐車スペースがあり、駐車できました。(事前情報にナシ)
この入口から最初に真直ぐ下る約20mの坂道は、非常に急な傾斜です。
「馬がころぶほどの急坂」と案内板に書かれていましたが、納得です。

「当山の石畳道」周辺の地図です。
牧港川(まきみなとがわ)が流れる谷間を横断する二つの赤い丸印を結ぶ道が、「当山の石畳道」です。
南には「浦添グスク」の山が見え、その中腹には「浦添ようどれ」があります。

最初の急な坂道を過ぎ、道が左にカーブした場所です。
敷石の間に草が生え、石の表面に踏み続けられた年代が感じられます。
なつかしさ、すがすがしさを感じて散策できる道でした。
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■「当山の石畳道」の案内板があり、転記します。
浦添市指定文化財 「史跡 当山の石畳道」
琉球王国時代に王府は、首里城と各間切の番所(地方の役所)を結ぶ宿道を、川には橋をかけ、坂は石畳道に整備しました。この道は、首里城から浦添間切番所をとおって宜野湾間切番所にいたるいわゆる普天間街道で、牧港川の谷間に幅4.5m、長さ約200mの石畳道が残っています。
馬がころぶほどの急坂で「馬ドゥケーラシ」と呼ばれていました。この道を通って、国王は普天間宮に参詣し、また各間切の年貢が首里城へ運ばれました。宜野湾間切が新設された17世紀後半頃に整備されたと考えられていますが、橋は大正時代に改築されました。
昭和59年3月1日指定
浦添市教育委員会
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道の向こうに「当山橋」が見えてきました。
向って左に石垣に囲まれた広場には屋根のある休憩所があります。
公園的な施設のようでした。
琉球王朝時代、沖縄のほぼ全域に間切(まぎり)と言う行政区域(現代の市町村)があり、各間切には番所(ばんしょ)と言う役所が置かれていたようです。
首里城から、各地の間切の番所は、「宿道(すくみち)」という街道で結ばれ、宿次(しゅくつぎ)と呼ばれる早馬などによる情報伝達のしくみがあったようです。

「当山橋」に近づくと、敷石が少し大き目になっています。
「当山の石畳道」は、橋を渡って右に続いています。
橋を渡った突当りにも石垣に囲まれた広場がありました。
突当りを左に進むと「浦添大公園」の中央部に続いているようです。

「当山橋」に近づいて見ました。
牧港川をまたぐアーチ型の石組や、橋の欄干などの造りには素朴さが感じられます。
「当山橋」は、長さ約6m、幅2.7mの大きさで、かっては木の橋だったものを大正時代に石橋に改築したようです。
その後、石橋は沖縄戦で大きな被害もなく今日まで残ったようです。

「当山橋」を渡り、振り返ってみた景色です。
向かって右手に石垣で囲まれた一段高い場所に広場があります。
手前に見える石碑には「普天間街道」と書かれていました。
このあたりの道は、首里城から宜野湾間切にある「普天間宮」への参拝の道でもあったようです。
「普天間宮」は、王府から特別の扱いを受けた「琉球八社」と言われる神社のひとつで、15世紀中頃に古来からの御嶽に熊野権現を合祀したと言われています。
「琉球八社」は、金武宮(金武町)、普天満宮(宜野湾市)、末吉宮・安里八幡宮・天久宮・識名宮・沖宮(以上那覇市)とあります。八幡神が、祀られている安里八幡宮以外は、熊野権現を祀っているようです。

「当山の石畳道」北端への最後の坂道の景色です。
何の花かわかりませんが、道端に赤い花が咲いていました。

「当山の石畳道」の北側の出口にたどり着きました。
突当りの建物に「田場商店」の看板が見えます。
出口は、十字路になっていて、「田場商店」の前を通り、真直ぐ北に歩くと住宅街が続いているようでした。
東に向かう道の先には当山小学校がありましたが、休日のため静かでした。

「当山の石畳道」の北側の入り口です。
南側入り口と同様に車止めが立っています。
陽射の強い日でしたが、所々にある木陰の道にはさわやかな風がながれ、気持のよい散策ができました。

「当山の石畳道」の北側の入り口から高く積上げられた「浦添ようどれ」の石垣が見えます。
山頂に近い目立つ場所で、付近からも遥拝できるよう考えられたのかも知れません。