
これから目指す鳴滝山展望台辺りを鳴滝城山から眺めた景色です。
頂上左手に白い展望台の建物が見え、枯草の部分はパラグライダーのフライト場所になっていました。
写真に向って左下にU字カーブの先端が見えています。
(下段の地図では下部中央の道が大きく曲った辺りです)

熊野神社から鳴滝山展望台へ至る道順を記した地図です。
神社から山道を歩き、八注池駐車場の前で車道と合流します。
八注池[やつがいけ]から鳴滝山展望台への遊歩道が始まります。

熊野神社の横から裏手付近の道が珍しい階段になっていました。
階段の中央にコンクリートの細い斜面が作られ、初めて見るものです。
農作業などで使われる一輪車を通すためでしょうか???
山道の所々で、荒々しく土を掘った跡が見られ、イノシシの仕業と思われます。
山道で、熊に遭遇した場合の対応を本で読んだことを思い出しましたが、イノシシへの対応は完全に忘れていました。

車道に合流してすぐに車道の終点となる、八注池[やつがいけ]です。
葉の無い木が目立つ地味な山に囲まれ、深緑色の八注池は美しく輝いています。
案内板の前の石碑に「紅葉のひろば 鳴滝山植樹三十周年記念 平成十九年十一月二十二日」と刻まれていました。
この遊歩道に沿った森一帯には長い期間植樹が続けられているようです。
左の柵の入口を進むと池の土手で、土手の下に20台程度の駐車場があります。

「瀬戸内海国立公園 鳴滝山公園案内図」と書かれた案内板がありました。
図に向って右下の「現在地」から公園を一周する遊歩道が整備されているようです。
美しい景色を早く見ようと池の土手を通る時計回りのコースを進みました。
上段の地図に鳴滝山の三角点がありますが、この案内図には見られなく、場所が分かりませんでした。

「有名画家 写生地 小林和作画伯」と書かれた案内板がありました。
二本足の案内板の上部にある長方形の窓をのぞくと、小林和作画伯が描いた瀬戸内海の風景の構図が見えるようです。
元々、二本足の案内板には小林和作画伯の絵があったと思われますが、消えて見えなくなっていました。
小林和作画伯は、山口県の生まれで、46才に尾道の風景に魅せられて移住し、他界するまでの40年間、尾道の風景を愛して描き続けた洋画家だそうです。

長方形の窓から見える範囲と思われる写真です。(もう少し右手かも知れません)
薄曇りの午前10時頃、南南東方向の景色で、逆光の暗い写真になってしまいました。
向こうの長い橋は、「因島大橋」で、向って左の島が「向島」、右手の島が「因島」です。
中央の島は「岩子島」で、左の「向島」との間に赤い橋「向島大橋」が見えています。
この印象的な「因島大橋」が開通したのは小林和作画伯が86才で他界された1974年から9年後のことで、残念ながら絵にはありません。
赤い「向島大橋」は画伯他界の6年前(1968年)の開通で、絵にあるかも知れません。

急な坂道を登りきると「鳴滝山展望台」の白い建物が見えてきました。
左手の柵の下には瀬戸内海の美しい絶景が広がり、ここから見える島々を描いた説明板も見えます。
展望台の周囲は広場の入口に石碑があり、「パラグライダー(フライト広場)・・・」と刻まれていました。
柵のクサリのすぐ先は急斜面で、クサリを外してパラグライダーで飛び出して行くことを想像するだけでも身震いがします。

展望台から眼下に広がる景色を写真4枚に撮り、その左手2枚をつないだ写真です。
左手前に鳴滝城山がそびえ、その麓に尾道の町並み、対岸に向島の海岸が伸びています。
写真に向って右端に岩子島の東端が見え、向島の向こうには加島、百島、横島、田島が見えています。
尾道水道の風景は、千光寺公園から左右に見渡しますが、鳴滝山から見る尾道水道には、一直線に伸びる構図で、雄大さが加わっています。

上段の写真の右に続く景色ですが、右端は南南西の方向で、西の三原市方向は見えていません。
眼下の尾道市吉和町町並みの対岸に岩子島の全景が見え、その沖に大きな因島があります。
右端の手前に細島、そのすぐ沖に小細島、右端の沖には生口島、その向こうには大三島の島影が見えています。
瀬戸内海のほぼ中央に位置するこの海域は、島が最も多いエリアです。

展望台を過ぎ、遊歩道の南端辺りから西を見ると鉢ヶ峰がそびえています。
鉢ヶ峰の沖には小さな「宿祢島」が浮び、その沖に「小佐木島」「佐木島」「生口島」などが見えます。
「宿祢島」は、新藤兼人監督の名を世界的にした映画「裸の島」のロケ地となった無人島です。
ここから鳴滝山の遊歩道を外れ、鉢ヶ峰へ至る縦走ルートの案内板がありました。
鉢ヶ峰の中腹に見える寺は、麓の観音寺の奥の院で、この山の開祖は「万慶上人」と言われています。
「万慶上人」は、このブログ01月17日掲載の<白滝山「観音堂」と、開山の由来>で観音堂の山門にあった「白滝山霊異記」の説明文で、インドから来日して白滝山を開山した「法道上人」の弟子とされています。
鉢ヶ峰の「万慶上人」は、沖の細島に住んだ「白道上人」と共に、この地で永く布教を続けたようです。

遊歩道が北の方向に変わると下り坂になり、道の両脇に植樹がされていました。
植えられた木には小学校の児童の名が書かれた札が2名づつ付けられています。
道の周辺の山にも沢山の植樹が見られ、この地域の人々が鳴滝山で熱心な活動をされていることが分かります。
鳴滝山の次は、車道を下り、鳴滝城山の頂上を目指しました。