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名護博物館の見学で最も印象に残った展示がこの写真で、「ハジチ(針突)」と説明されていました。
本で「入れ墨の文化」を知っていたものの、見たときはちょっと衝撃的でした。
とっさに「魏志倭人伝」の記述を思い出しました。
「郡より女王国は一万二千余里、男子は大小無く皆鯨面文身」
邪馬台国では男子が子供から大人まで顔、体に入れ墨をしていたようですが、沖縄では女性の入れ墨でした。
明治32年(1899)政府から禁止令が出され、現在ではほとんど見られなくなっているようです。
「ハジチ」は、指・手の甲・ひじに入れ墨を施すもので、7~10歳頃から初めて、結婚前までに少しずつ完成させるそうです。
「ハジチ」は、土地により模様が違うようですが、一人前の女性のシンボルとされ、魔よけにもなるようです。
江戸時代まで続いていた既婚女性の「お歯黒」も連想しますが、いずれもルーツは古代までさかのぼるようです。
ただ現代人、特に日本人にとっては悪いイメージしかない入れ墨も、当時は一人前の意味を持つものであったとしたら、少しその偏見を取り去って考えてみなければならないと思いました。
そうすると逆に、明治政府はなぜこの風習に対し、禁止という措置をとったのだろう、という疑問が生まれました。
その不便さや傷口からばい菌が入るなど、考えられるリスクゆえに自然に沖縄からなくなっていった風習だとしたら、別に不思議でもないのですが。
やはり”みんな同じ”が最優先の日本の文化にあって、沖縄の女性だけの入れ墨というのは、政府からの
禁止の処分(?)に値する風習だったのでしょうか?
もちろん私個人としても、そのような”痛そうな!”
風習はなくなった方が良かったと思っています。
明治元年~6年に大政官布告で、皇族、華族の「眉剃りとお歯黒 の禁止令」を出しました。
1871(明治4)年、「散髪脱刀令」を公布し、髷(まげ)を落とし、帯刀しない自由を認めました。
明治天皇に髪型を変えて頂くことで、髷を落とすことを普及させようとした記録もあるようです。
1872(明治5)年、明治政府は沖縄以外に「入れ墨禁止令」を布告しています。
このような風習の変更政策の目的は、日本の近代化を急ぎ、欧米からの植民地化を防ぐことではなかったかと思います。
インド・東南アジア諸国・中国と欧米各国による植民地化が進む中、日本にも危機感が高まっていたものと思われます。
沖縄の入れ墨禁止令は、だいぶ遅れて出ていますが、従わない女性も多かったようです。
世界には様々な風習が残っていますが、自分達とは違うことで野蛮だと思うこともあると思います。
他民族の風習をよく理解することは大切ですが、むずかしいことだと思います。