昔に出会う旅

歴史好きの人生は、昔に出会う旅。
何気ないものに意外な歴史を見つけるのも
旅の楽しみです。 妻の油絵もご覧下さい。

「ゆうひパーク三隅」昼に見た美しい日本海

2009年10月31日 | 山陰地方の旅
10月11日~12日石見旅行(島根県西部)の続きです。

「畳ヶ浦」の次に浜田市三隅町の国道9号線沿いにある道の駅「ゆうひパーク三隅」へ立ち寄りました。



11時頃、「ゆうひパーク三隅」から見下ろした日本海の景色です。

海岸を山陰線が走り、左手には岩場の海岸が続いています。

よく晴れ、海の色がとてもきれいでした。



「ゆうひパーク三隅」付近の地図です。

浜田市街から国道9号を西に約15Kmの場所にあります。

地図①は、建物の裏手にある海を見下ろす場所です。
地図②は、美しい海岸を背景に山陰線を走る電車を撮影するポイントです。
黒い点は、道の駅のレストランや売店です。



道の駅「ゆうひパーク三隅」の案内板にあった見取り図です。

レストランの右上辺りが、海を見下ろす場所です。

方角は、右手がだいたい北になるようで、上の地図の国道9号の角度を参考にして下さい。



道の駅「ゆうひパーク三隅」のレストランを海側から見た景色です。

■道の駅「ゆうひパーク三隅」の案内板を転記します。
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町の紹介
古くから「水澄みの里」と称され、海、山、川と大自然の恵みが息づく島根県西部の三隅町に位置します。
天然記念物の太平桜、中国地方でも有数のツツジの名所としてしられている三隅公園等、行楽シーズンには県内外からの観光客でにぎわいます。
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建物の裏手の海を見下ろす場所です。

歩道を進むとすぐに、美しい海が見えてきます

写真右手に夕陽の案内板(下段に掲載)があります。



海を見下ろす場所にあった「夕映え見ごろ時間帯」の案内板です。

各月毎に夕日の時間帯がグラフ化され、赤い帯で表示されています。

赤い帯の縦の幅を見ると、夕日は1~1.5時間見ることが出来、10月ではPM6:00頃からが見ごろのようです。



海を見下ろす場所には生垣があり、更に木の柵があります。

左手の山には山陰線のトンネルが見えます。

地図で見ると、夕日が沈む位置は、左手の山のようです。

海に沈む夕日を期待する人は、「ゆうひパーク浜田」などの場所が適当のようです。



山陰線の線路のすぐ脇に岩場が見え、その向こうには三角の岩礁が見えます。

見晴場の下の道に年配の夫婦(?)が見え、そのそばに鉄道写真を撮る機材も見えました。



鉄道写真を撮影するカメラが二つ並んでいました。

二人は、話をしながら電車を待っていました。

ここを通過する電車は、上下合わせて40本余りのようです。



鉄道写真マニアのカメラのそばで撮った景色です。

西側のアングルは、この範囲の中で撮るのでしょうか。

この美しい海岸を走る電車の写真を撮ろうとするマニアの人達の気持ちが少し分かるような気がします。



上段の写真と同じ場所から撮った東側の写真です。

しばらくの間、景色を眺めて電車を待っていましたが、あきらめて次のスポットへ向かいました。

断層と、化石が、いっぱいの「畳ヶ浦」

2009年10月28日 | 山陰地方の旅
石見旅行、島根県浜田市国分町の海岸「畳ヶ浦」の続きです。



前回も掲載した「馬の背」を少し違う場所から撮った写真です。

「馬の背」の上の大部分が砂岩層、裾に砂利の交った礫岩層が見えます。

右手に潮が押し寄せ、手前の水面には「馬の背」の姿が映って見えます。

写真右端に小さく帽子をかぶせた様な面白い形の岩を見つけました。



右手に帽子をかぶせた様な岩が見えます。

海岸に抜けるトンネル内にあった案内板の説明にあった「きのこ岩」の一つと思われます。

隣にも同じような岩がありますが、年月と共に波に削られてしまうのでしょうか。

■案内板の「きのこ岩」の説明文を転記します。
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きのこ岩
風や雨の力によって、砂岩のやわらかい部分がけずられ、かたい部分が残ってできたものです。
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海岸を歩いていると、足元に網の目のような形の岩がありました。

そばの「馬の背」にも同じ形の岩がありましたが、実に面白い形です。

同じような岩は、三重県熊野市の海岸「鬼ヶ城」や、高知県土佐清水市の海岸「竜串」でも見ましたが、極めつけは和歌山県古座川町の「虫喰岩」でした。



05年07月に行った和歌山県古座川町の「虫喰岩」での写真で、右上部分が「虫喰岩」の全体写真ですが、妻が立っているのはその右下隅です。

硬い岩の表面が剥がれ、内側の岩が浸食されて蜂の巣状になったものです。



海岸の平らな岩場に長い亀裂がありました。

明治の大地震で出来たものでしょうか。

右手には「馬の背」が見えます。



「畳ヶ浦」の「千畳敷」を歩くと足元にこんな亀裂が見えてきます。

この亀裂は、地震で出来た「節理(亀裂)」だそうで、畳が敷かれたイメージから「畳ヶ浦」「千畳敷」の名が付けられたと言われています。



「千畳敷」に抜けるトンネルに「節理」の説明図がある案内板がありました。

赤い線が断層で、沢山の細い線が「節理」です。

■「節理」の案内板にあった説明文を転記します。
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千畳敷と節理
千畳敷は、およそ4900㎡の広がりをもつ、平坦な砂岩層の浸食面です。その表面には縦横に走る無数の亀裂が見られます。
これを節理といいますが、よく見るとその方向には規則性があり、ちょうど畳を敷いたような形をしています。千畳敷という名称はここからきています。

節理(亀裂)
砂岩のような堆積岩の節理は、大地が動くことによって生じた亀裂であると考えられています。
千畳敷では、いくつかの断層がみられますので、これらの活動と関連して節理が生じたものと考えられます。
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ボランティアの方から教えて頂いた駐車場のすぐ脇にある山の斜面にある断層です。

山の斜面は、土砂崩れの防止のためか断層が見えるこの部分を残してコンクリートで覆われています。

上が礫岩層で、下が砂岩層すが、下の説明文にあるようにこの砂岩層からは海水と淡水が交る汽水域に生息する生物の化石が見られるとのことです。

■案内板の説明文を転記します。
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畳ケ浦と露頭[ろとう]
 この露頭で見られる地層は、1600万年前に堆積したもので、畳ヶ浦をつくっている礫岩[れきがん]層とその下部にある砂岩層を観察できます。砂岩層からは、海水と淡水が混じった沼地に生息する貝や植物の化石が見られます。礫岩層は河川が氾濫し、土石流となって河口に堆積したものです。
 左手の畳ヶ浦の崖を見ると、この露頭にある砂岩層は見られません。これは左側の駐車場に断層があり、露頭側が上がり、畳ヶ浦側が下がったことを示しています。
 また、畳ヶ浦の崖の礫岩層上部にある砂岩層からは、海に生息する貝やサメ、クジラの化石が見られます。この砂岩層と露頭の地層とを合わせて考えると、環境の変化をより理解することができます。
 この露頭は畳ヶ浦の成り立ちを知る上で貴重です。
 平成15年9月30日
 浜田市教育委員会
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トンネル入口付近から見上げた断崖の写真で、上部に砂岩層、その下に礫岩層が見えます。

上段の説明文に「また、畳ヶ浦の崖の礫岩層上部にある砂岩層からは、海に生息する貝やサメ、クジラの化石が見られます。」とあり、上段の露頭の写真にある汽水域で出来た砂岩層とは時代が違うようです。

前回掲載の断層図でも書きましたが、千畳敷の表面にある砂岩層は、この崖の上に見えるものと同じものです。



畳ヶ浦の海岸を歩いているとあちこちで足元に化石が見られます。

ここには白く細長い巻貝の化石が多いようです。



上段の写真の近くにも多くの化石が見られました。

貝の化石は、やはり海辺の海底だった頃のものでしょうか。



観光案内所の壁に掛けられていたハート型の化石の写真です。

ボランティアの女性に説明して頂きましたが、畳ヶ浦の海岸にはハート型の化石が3個あるそうです。

「運よく見つけた人は幸せになる」と言われているそうです。

浜田市の海岸「畳ケ浦」の地殻変動と、 「馬の背」の景色

2009年10月25日 | 山陰地方の旅
10月11・12日に行った石見旅行の最初のスポット、浜田市国分町の「畳ヶ浦」(2009-10-18掲載)の続きです。



駐車場からトンネルを抜けて海岸に出ました。

平らな岩が、遠くまで続く「畳ケ浦」の海岸は、右手の山に沿って広がっています。



上段の写真と同じ場所から撮った満潮の時の写真です。

駐車場にある観光案内のボランティアの方がいた小屋に掲示されていた写真です。

写真の説明は聞きませんでしたが、二段上の写真を比べると、かなり海水面が高くなっています。



トンネル入口の案内板にあった上空から見た「畳ケ浦」の写真です。

右手上に赤い字で「現在地」とある場所がトンネル入口、その左下にある赤い●印の場所がトンネル出口です。

■「畳ケ浦」の案内文を転記します。
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国指定天然記念物
石見畳ケ浦[いわみたたみがうら]
指定 昭和7年3月25日
畳ケ浦は別名を床の浦[とこのうら]とも呼ばれ、およそ四万九千平方メートルの見事な礫岩[れきがん]・砂岩の海食崖[かいしょくがい]や幾つもの断層がみられます。
波食棚は千畳敷[せんじょうじき]と呼ばれ、江戸時代(1817年)の文献にも景勝地として紹介されています。
千畳敷は砂岩層は、約1600万年前に堆積した砂岩層で、多種類の貝や流木、鯨骨などの化石が含まれています。
また、床面には多数の腰かけ状の丸い石(ノジュール)が並んでいますが、これは貝や植物が溜り、貝の炭酸カルシウムなどによって砂粒が固められ、その後、周辺が浸食を受けて残ったものです。
畳ヶ浦は景観の素晴らしさとともに、地学など学術資料としても大変貴重なものです。
 平成21年3月  浜田市教育委員会
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トンネル出口の上を見上げると地層が見えていました。

上段の褐色のきめ細かな地層と、その下に丸い岩が混じった厚い地層が見えます。



トンネル出口のすぐ近くに大きな案内板があり、この図ははその一部です。

上段のトンネル出口から見上げた山の高さは、断層のズレの高さと知り、改めて唖然としました。

■案内板に書かれていた説明文を転記します。
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「断層と千畳敷」
私たちは今、断層の上に立っています。この断層の千畳敷側は大地がずり上がり、さらに波によって平坦に浸食されています。千畳敷ではおよそ1500万年前の海の底を直接観察できます。

大地が動いた後の石見畳ヶ浦
大地の活動(断層)によって、トンネルのある山側がずり上がり(隆起)、千畳敷側はずり下がっています(沈降)。
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トンネル出口の前に広がる海岸、「千畳敷」と呼ばれるようですが、平たい岩の海岸にはたくさんの丸い岩が盛り上がって並んでいます。

この岩は、「ノジュール」と呼ばれているようです。



楽しそうに干潟で遊ぶ親子連れがいました。

良く見ると千畳敷にはノジュールが、直線的に並んでいるようです。



トンネル内に畳ヶ浦の地殻変動を解説する案内板が並び、「ノジュール」の説明文もありました。

下段の図は、ノジュールが出来るプロセスが描かれています。

上段の図は、「畳ヶ浦」の海岸全体に並ぶノジュール列(11列)が描かれています。

■ノジュールの説明文を転記します。
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ノジュール(団塊)
千畳敷でまず目につくのは、リジュールと呼ばれる腰かけ状の丸い岩です。これは貝殻に含まれている炭酸カルシウムなどがとけだして、化石などに集まり、砂岩層中にかたい部分を形成します。その後、かたい部分の周囲が波で浸食されて、丸い岩として顔を出してきたものです。

ノジュール列
ノジュールは地層に平行に入っていますが、地層が地殻変動で傾いてから表面が平坦にけずられますので千畳に並んでみえます。
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千畳敷を山に沿って少し右手に進むと「馬の背」が見えてきます。

有明海に生息するムツゴロウのようでもあり、トカゲのようにも見えます。

最も高い部分は、5mはありそうです。



「馬の背」の最も高い場所に大きな鳥がとまっていました。

トビでしょうか?

数分間同じ場所にとまり続け、近づいても逃げませんでした。



「馬の背」が左手にはるか先まで伸びている様子です。

この長さは、「馬の背」のイメージをはるかに超えており、もと長い「龍」・「蛇」・「トカゲ」なとが適当と思えます。



トンネル内の案内板にあった「馬の背の断面模式図」です。

上段にある「馬の背」の写真は、図右の山側から見た景色で、高くなった面が左右に伸びているのは断層面のようです。

■「馬の背」の案内板の説明文です。
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千畳敷の最高峰 馬の背
馬の背は千畳敷の中ほどにあります。周囲の砂岩層よりもかために小高い丘として残りました。馬の背の地層は、断層によって山側の地層よりもせり上がり、海側に傾いています。観察してみてください。
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「石見畳ヶ浦」の犬島・猫島・穴観音の景観

2009年10月18日 | 山陰地方の旅
10月11日~12日石見旅行(島根県西部)に行きました。

最初のスポットは、浜田市国分町の「畳ヶ浦」です。



「畳ヶ浦」は、浜田市街の北にある海岸で、地図右下の国道9号を国分中学校付近から地図左の海岸方向に進んでいきます。

福山から高速道路で浜田インターを経由して「畳ヶ浦」近くの①国府海水浴場に着いたのは8:40頃でした。

「畳ヶ浦」は、赤い点線で囲まれた辺りの海岸で、②付近に駐車場と、トンネルの入口、③にトンネルの出口があります。



国府海水浴場の駐車場から「畳ヶ浦」方向を見た景色です。

晴天に恵まれ、日本海のながめは、とりわけ気持ち良く感じられます。



国府海水浴場の海にはサーフィンをする人が波を待って浮かんでいました。

手前の建物には海水浴場の監視所や、シャワーなどがあるようです。



「畳ヶ浦」方向の海の中に防波堤が造られ右端に「猫島」がつながっています。

右の半島の先には「犬島」があります。



写真を拡大して見ました。

左手の「猫島」の下部には穴が見え、右手の「犬島」は「猫島」より少し大きな島です。

「畳ヶ浦」の入口にある駐車場に観光案内所があり、観光案内のボランティアさんから「犬島・猫島」にまつわる伝説を聞きました。

■観光案内のボランティアさんから聞いた「犬島・猫島の伝説」です。
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奈良時代、聖武天皇が全国に国分寺の建立を命じ、石見国でも「畳ヶ浦」の近くに国分寺が建立されました。
石見国分寺には高い塔がそびえ、その立派な様子を見て海の向こうの唐は、快く思わなかったそうです。
唐は、石見国分寺を焼き払おうと、猫を日本に派遣しました。
日本には忠犬がおり、幸いにも猫の動きを察知し、戦いが始まりました。
忠犬の攻撃に、猫は追詰められ、ついに畳ヶ浦の海に飛び込み、忠犬も後を追掛けたそうです。
しかし、畳ヶ浦は真冬の厳寒の海で、ついに二匹とも凍死してしまい、「犬島」「猫島」になったと言われています。
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聞いた話を思い出し、適当に書いて見ましたが、間違っていたらお許し下さい。



「畳ヶ浦」のトンネル入口に来ました。

右手に駐車場(100円/回)があり、左手に向かう道路(通行止)の先に「犬島」があります。

この切立った断崖は、1872年(明治5)の浜田地震で出来た断層だそうです。

この断崖は、断層の面で、土地が隆起してこの高い断崖が出来たようです。



左手に二つの島が見えますが、手前が「犬島」、向こうが「猫島」で、手前の海は防波堤に囲まれた唐鐘漁港です。

「犬島」には橋がつながっていますが、道路は通行止めです。

島や、手前の断崖は礫岩[れきがん]のため、崩れやすく土砂が落下する危険があるものと思われます。

この「犬島・猫島」の美しい景観も、いずれ崩れて無くなってしまうのかもしれません。

「犬島」の上に生えている松の木が少しでも長く、島の崩壊を守ってくれることを願うものです。



「畳ヶ浦」のトンネル入口を入り、少し進んだ場面です。

幅2mの長いトンネルは、蛍光灯が明るく照らしていました。

トンネルの向こうから「ドドー!! バシャー!!」潮が岩に激しくぶつかる音が聞こえてきました。



トンネルを進むと突然薄暗い洞窟の部屋が開け、左手に海に向かって二つの穴が開いて、時折波のしぶきが立っていました。

ここは「賽の河原」と呼ばれる「海食洞」(波浪で出来た洞窟)だそうです。

この右隣にもうひとつトンネル状の洞窟があり、海に向かって歩いて行けるようでしたが、通行止めの標識が立っていました。

この広い洞窟「賽の河原」は、三つの穴で海とつながっていました。



トンネルから「賽の河原」に出たすぐ右手の様子です。

右手奥に「穴観音」が安置され、その右隣には多くの石仏が並んでいました。

トンネル入口に唐鐘漁港がありましたが、「穴観音」は、昔から漁師達の厚い信仰を集めているようです。

写真左手に次のトンネルの入口が見えています。



「穴観音」の前から海につながる穴をのぞくと「猫島」が見えます。

浜田地震で海が隆起したと聞きましたが、この洞窟の景色はいつからあったのでしょうか。

「三平山」から見た「大山」「烏ガ山」の絶景

2009年09月16日 | 山陰地方の旅
9月13日、岡山県の蒜山[ひるぜん]に近い、鳥取県の県境にそびえる三平山[みひらやま]へ登りました。



「三平山」頂上から見た伯耆大山と、右手が烏ヶ山[からすがせん]です。

久しぶりの山歩きで、爽快な気分になりました。

晴の予報でしたが、残念ながら、大山の頂上に少し雲がかかっています。

本のグラビア写真で見た三平山頂上からの雪の大山は、素晴らしいものでしたが、今日は全体的に少し霞んでいるようです。



「三平山」(標高1009.m)付近の地図です。

蒜山ICから国道482号を米子方面(西)へ走ると「内海峠」があり、下り始めて直ぐに左折します。

さらに案内標識を見ながら左折すると三平山登山口の駐車場があります。

駐車場からは①から⑥の番号順に進み、①の駐車場へ戻ってくるコースを歩きました。



「内海峠」を左折し、数百メートル走った左手にある案内標識です。

ここから左折し、約2Km走ると三平山の登山口です。

三平山の南には朝鍋鷲ヶ山(標高1,074m)があり、三平山からの縦走コースがあります。



①駐車場のすぐ先にある三平山の②登山口です。

10:10頃、10台程度の駐車場は、すでに満車状態で、幸運にも1台空いていました。

ここから頂上までの道は、ジグザクの道でコンスタントな傾斜が造られ、予想以上に楽な登りでした。

登山道は、全体的によく整備され、素晴らしい眺望と合わせて気持ちの良い山歩きが出来ました。



②登山口から③八合目付近まではこんな「蒜山三座」の眺望が楽しめます。

「蒜山三座」の麓に広がる蒜山盆地は、約15万年前には東西に長い湖(蒜山原湖)だったそうです。

2年前の4月、「蒜山郷土博物館」を見学して知ったことですが、すぐ隣に「四つ塚古墳群」もあり、たくさんのツクシを摘んだ思い出がよみがえりましたす。



③八合目付近を少し上から振り返って見た景色で、茶色い案内板が見えます。

写真ではよく分かりませんが、道の両側の地面が、だいぶ低くなっています。

■茶色い案内板に「土塁」の説明文がありました。
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土塁[どるい]
この土塁は、明治31年(1898)蒜山の原野2,300haが陸軍の軍馬育成場として接収された時に放牧された軍馬が外に出ないように建設されたもので、実に総延長56Kmに及ぶ大工事であった。現在残存している46Kmの土塁には往時をしのばせる幾多の史実が秘められている。
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土塁は、稜線に沿って造られ、一段高い土塁の上を登山道として利用しているようです。

土塁は、頂上を挟む南北の登山道にありましたが、頂上付近では跡形なく崩れていました。

高い山上に56Kmの土塁を築く工事は、実に膨大な労力をかけたもので、明治の富国強兵政策のすざまじさを感じます。



すぐ先に頂上が見えてきました。

周囲にはほとんど木が無くなり、ネザサと、ススキが広がっています。

前日の雨のせいか、急斜面では道の黒土が滑りやすくなっていました。



11:00頃、山頂に到着しました。

左手の雲が掛った山が、「大山」、右手の三角形の山が「烏ヶ山」[からすがせん]です。

石柱は、その裏側をくり抜き「豊年様」[とよとしさま]が祀られています。

■石柱のそばに茶色の説明板がありました。
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豊年様[とよとしさま]
明治5年(1872年)4月に建立され、豊受大神(食産霊神)を祝って豊年祈願をしてきた。古くは6月11日に、ふもとの白髪の人たちによって祭られている。
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「豊受大神」は、伊勢神宮の外宮の祭神ですが、「豊年様」[とよとしさま]と呼ぶのはここだけではないでしようか。

写真の左手に、遠く米子市街や、弓ヶ浜の景色かが広がり、素晴らしい眺望でした。



「烏ヶ山」[からすがせん]を頂上からズームで撮ったものです。

名の由来通り、烏が羽を広げたような姿に見えます。

手前の草が「ネザサ」で、1本の茎に細い葉が10枚程度ついている種類です。

三脚を立て、妻と記念写真を撮り、広い山頂の草原に座り、家から持参したおにぎりを食べながら素晴らしい景色をゆっくりと楽しみました。



④山頂から南の下山コースを見た景色で、⑤穴ヶ乢[あながたわ]は、すぐ先の山を過ぎて下った場所にあります。

山頂から少し下ると道が二手に別れ、案内標識が無く、迷いましたが、左折する方向に進みました。(正解だったようです)



上段の写真に見えた小高い尾根から振り返った三平山山頂です。

山頂で一緒だった10名程度のにぎやかなパーティーが、下山して来るのが見えます。



⑤穴ヶ乢[あながたわ]の北にある急斜面の道から下の舗装された林道を見下ろした景色です。

真赤な木の実がとてもきれいでした。

穴ヶ乢までの急斜面の道は、非常に歩きづらく、何度も滑りそうになりました。

おかげで久々の筋肉痛登山になってしまいました。

大神山神社 本社へ参拝

2007年12月26日 | 山陰地方の旅
大山の麓にある大神山神社本社に参拝しました。
大神山神社は、大山中腹にある奥宮と、米子市尾高にある本社の2ヶ所にあります。
本社の場所は、米子インターチェンジ近くにあり、佐陀川と、尾高城跡に近い平坦な場所に建っていました。
冬になると雪深い奥宮からこの本社に移り住むそうで、奥宮を夏宮、本社を冬宮・里宮とも呼ぶそうです。



大神山神社本社の参道入り口で、向かって左側に駐車場があります。
鳥居の前に狛犬がありましたが、向かって左の狛犬は、心無い人に壊されたものか元の形が分からないほどの状態でした。
しかしながら、台座に置かれ風化した狛犬の姿には長い歴史を感じさせられます。



境内にあった神社の案内板です。
「式内社大神山神社」とあります。
「式内社」とは927年(延長5年)に作られた「延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)」に登録されていた神社です。
「延喜式神名帳」に記載されていなかった「式外社(しきげしゃ)」もありましたが、「式内社」は、政府公認の「官社」だったようです。
又、「式内社」には「大社」、「小社」のランクがあり、「大神山神社」は「小社」の格だったようです。

「延喜式神名帳」によると伯耆國には小社が6ヶ所あり、案内板にある「宗形神社」は、会見郡にあるもうひとつの式内社です。



津和野藩主亀井氏が奉納し、現在東京国立博物館に寄託されている短刀が紹介されていました。
東京国立博物館のリストでは「銘 備州長船住兼光 南北朝時代・14世紀 鳥取・大神山神社蔵」とあり、名工「備州長船住兼光」は、後醍醐天皇や、足利尊氏が活躍していた時代の人のようです。
その作品は、足利義政や、上杉謙信などの武将の愛刀にもなっていたようです。

このような歴史的な名刀を「大神山神社」へ奉納した津和野藩主亀井氏は、非常に深い信仰があったものと考えられ、そのいきさつに強い興味を感じます。
ちなみに12月3日に掲載した「大神山神社奥宮」の末社「下山神社」の美しい建物も津和野藩主亀井氏の寄進によるものとされています。



境内の横を流れる小さな小川(溝)があり、鯉がたくさん泳いでいました。
この小川は、大山から流れ出た水でしょうか。
猫や、悪い人達に捉まえられず、よく育っていたのには感心しました。



鳥居をくぐって参道を進むと「神門」があり、その両側に神殿を囲む塀がありました。
「神門」の正面両側は、長い提灯を掛けるようになっています。
一般的には、両脇の正面には格子窓があり、格子の中に弓矢を持った随神像があります。



神門の両脇には、二番目の狛犬が座っていますが、鳥居の前の狛犬より少し時代が新しいようです。
向って右側の狛犬は、口の下から胸の辺りまで石が欠けて痛々しい姿です。



神門をくぐる時、両側が格子窓になっており、中には石の狛犬がありました。
あまり見ない狛犬で、極めて古いものと思われます。



後ろの本殿の屋根のてっぺんと、拝殿の屋根が重なり、美しい建物です。
しめ縄が、出雲大社のものとなんとなく似ています。
そういえば、この神社の祭神が、大国主命でした。

狛犬は、比較的新しく造られたものと思われ、ライオンに近い、洋風のデザインです。
隣の建物につながるアーチ型の渡り廊下が印象的です。



拝殿の奥に見える祭壇です。



拝殿に入り、上を見上げると立派な社号額がありました。
奥宮の社号額と同様、由緒あるもののようです。


横から見た大社造りの本殿です。

妖怪キャラがいっぱいの境港商店街

2007年12月23日 | 山陰地方の旅
境港駅(鬼太郎駅)から水木しげるロードを歩く途中、妖怪キャラの看板がある商店をがたくさんありました。
百種類以上の妖怪のブロンズ像も各商店の提供で置かれているものも多く、町を挙げて妖怪の街を演出しているようです。



「鬼太郎はうす あかいし家」というお店のようです。
「鬼太郎はうす」の文字と、鬼太郎と、ねずみ男、目玉おやじがなかよく並んだ看板が目を引きます。
向かって右の窓の上に「絵画まんじゅう」と書かれてありました。



「浜のごっつお屋」と言うおみせがありました。
テントの下の窓に「一反もめん焼」とメニューが掛けられています。
いったいどんな食べ物か興味をそそられましたが、なにぶん朝だったので食べられませんでした。
「鬼太郎ソフトクリーム」の看板もありましたが、何の味か分かりませんが、グレーと、白のソフトクリームのようです。



お店の端の狭い間口にお土産物の陳列がありました。
以外にもたくさんのお土産があります。

おみやげ人気ベスト5が表示されていました。
№1 お守りクッキー
№2 水木しげるのほのぼの名言クッキー
№3 ゲゲゲの鬼太郎ファミリーパイ
№4 目玉餅
№5 ゲゲゲの鬼太郎お椀クッキー

お土産は、ほとんど600~800円程度で、買い易いお値段です。
ベスト5以外のお土産の名前を写真で確認しました。
ゲゲゲの鬼太郎せんべい、ゲゲゲの鬼太郎まんじゅう、妖怪人形焼、妖怪汁(ドリンク)、ぬりかべしょうゆひら餅、ゲゲゲの鬼太郎妖怪BOX、鬼太郎の好きなビーフカリー。
色々ありますね。



まだ開店していないので中で売っているモノはよく分りませんが、お土産の雑貨のようです。



看板に「もののけ本舗」と描かれ、着物姿の女の幽霊・人玉の絵がありました。
ここもお土産物の雑貨を売っているようです。



鬼太郎の絵の描かれた大きな下駄のある履物屋がありました。
普通の商店街の履物屋さんでは、廃業に追い込まれる時代ですが、お店を続けているのは妖怪のおかげなのでしょうか?



ショーウインドウにたくさんのお面が飾られているお店がありました。



境港駅から商店街を往復する帰りになって、開店するお店が増えてきました。
このお店は、ソフトクリーム、お菓子、本など土産物なら何でも売っています。
観光地の土産物店の通りでは、同じようなものを売る店が並んでいますが、そうならないようにしてほしいものです。



「鬼太郎飴」発売元とあります。
このお店が、どこかで造らせた飴を発売元として販売しているものと思われます。
こんな小さな商店がリスクをもって自分の商品を作るのはなかなか大変なことだと思います。



「ヘアーサロン ゼント」といお店がありました。
「一反もめん」が、「鬼太郎」に追いかけられ、ハサミで切られそうな感じにも見えます。



「一反もめん」に乗った「鬼太郎」の絵がある「野々村電機工業」の看板がありました。
このお店の中にも妖怪グッズが並んでおり、得体の知れない電気店です。



「妖怪神社」がありました。
向って右の黒い板壁に「妖怪念力棒」と言う細い板がたくさん並べてかけてありました。
所々に絵馬が掛けられ、「妖怪念力棒」は、絵馬のようなものと思われます。
とにかく妖怪の世界を徹底して演出し、客を楽しませようとする姿勢を感じます。

水木しげるロードを一周しましたが、朝の開店前の時間帯で、チョット雰囲気を味わえなかったのが残念でした。

境港駅周辺の妖怪漫画の世界

2007年12月17日 | 山陰地方の旅
9/24の山陰旅行2日目、雨上がりの朝、米子駅近くのホテルを7:30頃に出て、境港市の「水木しげるロード」の見物に行きました。
時間が早すぎたようで、人がまばらでしたが、写真が自由に撮れて助かりました。



写真は、駐車場と、駅の間にある交番です。
外壁に「鬼太郎交番」の看板があり、交番の中にもタスキ掛けの鬼太郎人形が見えます。
街中が力を合わせて「水木しげる」の妖怪漫画の世界を演出しているようです。



向って左は、JR境港線の終着駅「境港駅」で、「米子駅」と結ばれています。
JR西日本は、境港駅を「鬼太郎駅」、米子駅を「ねずみ男駅」とし、その間の14駅にも妖怪の名を駅名にしているようです。
8時過ぎ、駅前を歩いていると鬼太郎や、妖怪達の絵が描かれた電車が入って来ました。

正面は、「みなとさかい交流館」で、建物の裏手に隠岐の島を結ぶ隠岐汽船の乗り場があります。
境港駅の屋根が灯台の形ですが、隠岐の島と接続しているイメージを表現しているのでしょうか。



駅前にあった「水木しげる先生 執筆中」と書かれた像です。
子供達や、大人までもドキドキ、ワクワクさせる妖怪の世界が、水木先生と、鬼太郎達との会話で創られてきたのでしょうか。

ネズミ男の足付近の黒い石の台座が鏡のように磨かれています。
「水木しげるロード」にあるたくさんの妖怪のブロンズ象の台座も同じように磨かれていました。



境港駅前にある「鬼太郎ポスト」です。
街頭にある郵便ポストに「一反木綿(いったんもめん)」に乗った鬼太郎と目玉親父が飾られているもので、投函しても特に変わったことはないようです。

しかし、「みなとさかい交流館」の1階や、妖怪神社の隣に設置されている、「妖怪ポスト」に投函すると鬼太郎や、カニの絵をデザインした「妖怪消印」が押されるそうです。
確か、漫画では「妖怪ポスト」に投函すると鬼太郎に届くはずだったと記憶しています。



写真は、境港駅前にあった「河童の三平」の像です。
「ゲゲゲの鬼太郎」「悪魔くん」と並ぶ水木しげるの代表作と聞きますが、漫画の記憶がなく、ストーリーもよく覚えていません。
機会があれば読んでみたい漫画です。



駅前に「麒麟獅子」と書かれたちょっと楽しそうに踊っている像がありました。

鳥取県東部から兵庫北部では空想の動物一角獣の「麒麟」を獅子頭とした「麒麟獅子」と呼ばれる獅子舞があるそうです。
金色の獅子頭と、赤い布の胴の中で、前足・後ろ足を二人で演じているようです。
また麒麟獅子の踊りには先導役の「猩猩(しょうじょう) 」が真っ赤な仮面と衣装をつけて一緒に舞うそうです。

お祭りの「麒麟獅子」見物にも改めて来てみたいものです。



駅前から歩道に曲がる所に「ガラッパ」と書かれたスマートな河童の像がありました。
昔の週刊誌に掲載されていた漫画家「小島功」さんの描いたカッパを思い出します。
「ガラッパ」は、南九州の妖怪的なカッパのようです。



歩道の脇にある柵の杭を真上から見たものです。
「鬼太郎」がデザインされていて、ここまでやるかと感心しました。
この他に鬼太郎の顔だけのデザインの物もありました。



駅のタクシー乗り場の横にある観光案内版です。
朝でしたが、ぼつぼつ観光客が増えてきていました。



「傘化け」と書かれたとてもかわいらしい妖怪です。
昔からおなじみの代表的な妖怪で、あまり怖さを感じない妖怪です。



「口裂け女」がいました。
大きな台座に小さな穴があり、その中に立っています。

「口裂け女」の噂が、小学校などで全国的に広まったことが昔にありました。
マスクをした若い女が「私、きれい?」などと聞いて来た時に「はい」と応えるとマスクを外して口が大きく裂けた顔を見せるそうです。
そして「これでもきれい?」と尋ねられ、正直に「いいえ」と言うと切りつけられると言った話が本当らしくささやかれていました。



駅前から通りの歩道を歩き始めた辺りにあった「青女房」です。
平安時代の女性の妖怪のようですが、大きく開いた口に小銭が入れてありました。

日本人は、何かにつけてお賽銭を入れるクセがあるようです。
まったく、開いた口が塞がりません。

大山の「賽の河原」と、「金門」

2007年12月10日 | 山陰地方の旅

大神山神社の神門「後向き門」を下ると、左手に別れる「旧参道」があります。
案内板の写真がピンボケで、字があまり読めませんが、洪水で「旧参道」が流れてしまったようです。



あまり使われていない石段があり、とりあえず進んで行きました。



途中、道が見えなくなり、適当に進んで行くと河原に出ました。
写真は、歩いて来た草むら方向を撮ったものです。

石積みが二つ並んで、花がお供えされていました。
ここは佐陀川(さだがわ)の南光河原(なんこうがわら)で、「賽(さい)の河原」とも呼ばれているようです。



河原を川の方へ進むとたくさんの石積みがありました。

「賽の河原」とは、この世と、あの世の境にある川「三途川」の河原とされています。
「賽の河原」では親に先立って亡くなった幼い子供が、親を供養する石の塔積み重ねると、鬼が来て塔を壊すそうです。
幼い子供の霊は、その後も何度も泣きながら石の塔積み重ね、その度に鬼に壊されてしまうそうです。
しかし、その哀れな子どもに救いの手をさしのべるのは唯一、地蔵菩薩だそうです。

しかし、このたくさんの石の塔は、誰が積み上げたのでしょうか。



「佐陀川(さだがわ)」の細い流れがありました。
岩・小石・砂が灰色で、水も濁っていました。
この世と、あの世の境にあるという「三途川(さんずのかわ)」のイメージはあまりにも小さな流れです。
ちょっとまたいで渡ってしまいました。


この「佐陀川」は、ちょっと変わった川です。
大神山神社付近から始まり、2Km余り流れた後、地中に姿を消してしまいます。
ところが、約3Km下った場所(大山平原GC付近)から再び「佐陀川」の流れが出てきます。
「佐陀川」は、日野川と並行して流れ、最後には三保湾に流れ込みます。



「佐陀川」は、両側に大きな岩がある「金門」に流れ込みます。



「金門」の全景です。
高い岩山がそびえてとても雄大です。
こんな狭い岩の門があるのは不思議な景色です。

言い伝えでは、この場所に道を開こうと僧徒等が工事を行っていたが、難工事で途方に暮れて居たそうです。
その時、二羽の烏が飛来し、手伝い、程なく竣工したそうです。



金門から下流は、高い断崖になっており、下を見下ろした写真です。
予想外に、落差のある滝の口で、左右の雄大な絶壁や、巨石の見えるはるか下の河原の景色にもチョット感動しました。



金門の横に、石垣があり、大きなお地蔵さんがあります。
「賽の河原」を見下ろし、子供たちの霊を見守っているのでしょうか?



河原から上流の大山方向を見た写真です。
とても雄大なながめでした。
たまたま山頂付近のガスが晴れてきて山頂が見え始めました。



大山の荒々しい北壁が見えます。
北壁の崩壊は進んでいるようです。

「大神山神社奥宮」と、そこから遥拝したご神体

2007年12月03日 | 山陰地方の旅

「大神山神社奥宮」への最後の石段です。

この石段の下から右に曲がると「女坂」と言うもう一つの参道があります。
最後の急な石段がきつい時に利用する緩やかな坂道です。

最近、妻は自転車でフィットネスクラブに通い、しっかりと体力を鍛えています。
仕事に追われ、運動不足で体力の落ちた男の方が「女坂」を通りたいと思うのでは・・・。
いっそ坂の名を「男坂」に変えてくれたらと、横目で見ながら石段を登って行きました。



「大神山神社奥宮」に到着です。
等高線の地図で見ると、標高830メートル位です。

曇っていて方向もよく分らず、大山頂上付近がよく見えませんでした。



「大神山神社奥宮」から大山山頂にかけての地図です。

大山は、古代から「神の宿る山」として崇められ、「大神山神社奥宮」の地は、大山頂上を間近で遥拝する場所だったと考えられます。

地図の向かって左上の「大神山神社奥宮」の場所から頂上の「弥山」「剣ヶ峰」が南方向に遥拝出来るようです。
又、頂上付近には「エボシ岩」があり、各地で神の山の磐座とされている岩によく付けられている名前です。

古代の遥拝の対象は、祖霊が降臨されるという磐座の「エボシ岩」だったのかも知れませんね。



格式を感じる建物が左右に長く伸び、「権現造り」の特徴とされています。
下の説明文で、国の重要文化財に指定され、日本最大級の権現造りと説明されています。
「級」が付いているところから日本一ではないのかも知れません。

■案内板にあった神社の略由緒を転記します。
「大神山神社奥宮略由緒」
主祭神 大巳貴命(又の名を大国主命)
大山は太古より大巳貴命が鎮り座すお山として大神岳又は大神山と呼び此の所を神祭りの場として居ました。
奈良時代より修験道、更に仏教が入り神仏習合説のもと大神に大智明権現の稱名を奉り神官社僧により奉仕し平安時代には此の奥の宮を中心として三院百八十坊僧兵三千の西日本一の霊山となり以来時勢により盛衰を重ねて居ましたが明治八年神仏分離令に依り大神山神社奥宮となり元の様に純然たる神社となりました。
現在の社殿は重要文化財に指定され文化2年(1805)の建築で日本最大級の権現造り、内部には色彩豊に長大な柱や長押の白檀塗は日本一と云われて居ります。
正面の社号額は明治新政府の総裁であった有栖川宮熾仁親王の揮毫である。
御神徳 農耕 畜産 病気平癒 交通 開運 勝運 良縁



派手な案内板に「日本最大の白檀塗」とあり、300円で拝観出来るようでしたが、疲れ気味でパスしました。

「白檀塗」は、銀箔を貼った上に生漆を塗り、金色に変化する化学変化を利用した装飾技法だそうです。
柱・天井等、内装全体に使われ、群を抜く規模のようです。

■参道の入り口付近の案内板に「大神山神社奥宮」には三つの日本一があると案内されています。
①「自然石参道」約500m
②「権現造り社殿」神仏混交の様式を伝え、正面の長廊が両翼約50メートル
③「内部極彩色白檀塗」本殿内の大規模な装飾



拝殿の中に木製と思われる「御神馬」がありました。
馬の前の方は、通りすがりの人です。

写真では黒く写っていますが、実物は茶色でした。
御神徳を期待した妻が、馬の顔をなぜていたので写真を撮りましたが、物忘れは変わらないようです。

■張り紙を転記します。
「御神馬」
頭や、顔をなでるとボケ防止、健康増進、願望成就、牛馬安全の御神徳をいただけます。合掌



見慣れない八角形の美しい神輿がありました。

平安時代に始まり、明治18年まで続いていた大山寺の会式のひとつ「神輿行幸」で練り歩いていた7基の内、最も大きかったのがこの神輿だったそうです。
昭和62年に御幸保存会が発足し、「神輿行幸」は2基の神輿で復興されているようです。

■説明板を転記します。
「西日本一の大神輿」
八角神輿では、西日本一の大きさといわれている。
平安時代から「大山神幸行列」が行われ、常に七基が繰り出されていた。その中でもこの神輿が最大のもの。担ぎ手が40~50人は必要。
明治18年まで神幸行列が行われたがその後は行われていない。
 平成14年10月 復元修理
 形式   両部神道式
 高さ   3.2m
 重さ   1トン
 担ぎ棒  5.6m



「大神山神社」の横に「下山神社」がありました。
とても美しい建物です。
天守閣にも見られる「八ッ棟造り」の建物だそうで、江戸時代の雰囲気を感じます。

ここでも狐の石像がありました。稲荷神社でもないのに・・・よく分りません。

■本殿に建物の説明板があったので転記します。
「大神山神社奥宮末社 本殿・拝殿・弊殿」
通称「下山神社」といわれ、檜皮葺の権現造りで、俗に「八ッ棟造り」と呼ばれている。現社殿は文化二年、津和野藩主亀井矩賢により寄進造営された。


■現地の案内板を転記します
「下山神社由緒略記」
祭神 下山大明神(渡邊源五郎照政命)
元徳二年(1330)大神山神社尊信した備中郡司渡邊日向守一子照政公は参拝の帰路奇禍に遇い不慮の最期を遂げ人々これを憐れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験あり。
後、夢のお告げにより、此の地に奉遷したもので、多くの武将の信仰があり現在の社殿は代々の信仰が篤かった石州津和野の領主亀井隠岐守矩貴公が文化2年(1805)年に再建されたもので重要文化財に指定されています。

御神徳 勝運・除災・病気平癒


大神山神社奥宮の横に「キャラボク(伽羅木)」がありました。
大山の頂上付近には他と比較しようのない大群落があり、国の特別天然記念物、鳥取県の県の木になっているようです。

キャラボクは、東北から中国山地にかけて生育する日本原産の背の低い常緑樹で、イチイ科イチイ属とされています。
キャラボクは、イチョウと同じように雌・雄の木があり、3~5月に花が咲き、秋には雌の木に可憐な赤い実がつくそうです。

表示板に「ダイセンキャラボク」と書かれているのは、以前にキャラボクから独立の種とされた時期があったため今でも名前が残っているためと思われます。

日本一長い石畳の参道「大神山神社奥宮」

2007年12月01日 | 山陰地方の旅

大山寺の山門の手前を左に曲がると「大神山神社奥宮」の鳥居が見えます。
この石鳥居は、文政三年に建てられた「石造明神鳥居」で、国の重要文化財に指定されています。


「大神山神社奥宮」の参道です。
緑の参道に静寂さがただよい「歩いてみたい道」といった感じです。

案内板に「日本一長い自然石の道 ごゆっくりとどうぞ」と書かれていました。
参道の石畳は、500m位続いているようです。


「大山寺本堂」から出てきた道と合流し、さらに進んで行くと左手に「ほほえみ地蔵」が見えてきます。
三体の「ほほえみ地蔵」には赤い手編みの頭巾が掛けられ、参道を歩く人たちを慈悲深くほほえんで見守っているようです。



「ほほえみ地蔵」のすぐ奥に「本坊西楽院水車小屋跡」の標識があり、僧兵の力石があります。
「僧兵の力石」は、石の台に置かれた円柱形の石で、見た感じで50Kg以上はあるでしょうか。
僧兵達が、この石で力を競ったとされていますが、いったいどうやっていたのか興味のあるところです。

■案内板を転記します。
「僧兵の力石」
大山寺の僧兵は約五百年の昔その数三千人と言われ、勇猛無比その勢いは大山颪(おろし)と言われ山陰を風靡(ふうび)したが、平時この力石で力を競ったと伝えられる。



とても長い石畳の参道が続いています。
「ほほえみ地蔵」をさらに進むと大きな杉の木がありました。
「夫婦杉」です。



「夫婦杉」は、隣接して生えた2本の杉が、大きく生育する過程で合体した状態になったものと思われます。
参道沿いにはこの他にも少し合体した杉が散見されました。

余談ですが、島根県松江市の「八重垣神社」の「夫婦椿」を思い出しました。
神社の門前に推定樹齢約500年の椿があり、見事に木が1本になっていました。
「神秘夫婦椿 連理玉椿」の案内板があり、東京資生堂の花椿会はこの木を神聖視して発展されたと言われています。

■案内板を転記します。
「夫婦杉」
この杉は数百年の間、自然の摂理により根が交り、夫婦杉と呼ばれている。



「夫婦杉」を過ぎた参道脇に大きな岩に彫られた石仏がありました。

■説明板を転記します。
「吉持地蔵」
江戸中期の頃会見郡の長者吉持甚右衛門が悟院住職豪堅に仲を持ってもらい寄進したもので大山寺の数多い地蔵の中で自然石にきざまれた数少ない地蔵である。



やや上り坂の石畳の道に二つ目の鳥居が見えてきました。

一見、コンクリートの比較的新しい鳥居に見えますが、天明二年(1782)に建てられた「銅製明神鳥居」だそうです。
一番目の石鳥居と合せて国の重要文化財に指定されています。



「銅製明神鳥居」の柱を拡大した写真です。
鳥居を寄進した人たちの名が貼り付けられています。

よく見ると「米子市 後藤市右衛門」と書かれています。
天明二年(1782)に建てられたとされる鳥居に昭和二年(1927)に市制施行した「米子市」と書かれているのはいったいどう言うことでしょうか。
よく分りませんが、近年の修理費用に関わる記載かも知れませんね。



参道脇に「延命長寿 御神水」と書かれた水呑み場がありました。
とてもありがたい水のように書かれていると、その気になってしまいます。

最近、大山の湧水が商品化されているようですが、ここでは飲み放題です。



参道を進むと石段の上に大神山神社の神門「後向き門」が見えてきます。
写真の右下は上の石段から見下ろした「後向き門」です。

門の扉をロックする閂(かんぬき)の裏表が、逆に建ててあることから「後向き門」と呼ばれているようです。

1857年、大山寺本坊西楽院の表門をこの場所に移築した時、そのままの向きで移転したのが後向きとなった理由と言われています。

まさか、これだけの建物の移動を考えた人は、うっかり表裏を間違えるとはないと思われます。
むしろ、門の両側は自由に歩ける山で、扉を閉じてカギを掛ける必要がなかったのではないかと勝手な推測をしています。


■大神山神社奥宮の本殿にあった建物の説明板を転記します。
「大神山神社奥宮神門」
単層・桧皮茸・四脚の向唐門で、江戸時代末期の技法が豊かな門である。
神門右側の石柱にあるように、安政四年(1857)にいまの日野郡根雨の近藤氏が寄進したことがわかる。


2007-11-12このブログ 「近藤氏」は、出雲街道「根雨宿」の町並み で掲載した、たたら製鉄の「近藤家」と思われ、根雨の町並みで「備後屋」の看板があった建物です。



大神山神社奥宮の最後の石段の下にあった狛犬です。

とても変わった狛犬で、怪獣映画のゴジラを想像してしまいます。

石段を上がるといよいよ「大神山神社奥宮」です。

鳥取県大山町の「角磐山 大山寺」

2007年11月29日 | 山陰地方の旅

大山寺の参道の入り口付近です。
長い参道の両脇には旅館、食堂、土産物店などが並んでいますが、少しさびれているようです。

道のはるか向こうに大山の峰のひとつ「宝珠山」が見えています。
上の参道の写真で見えた「宝珠山」があたかもご神体の山のように見えますが、ご神体として崇められている峰は、「弥山」のようです。



参道の坂道を登って行くと大山寺の山門があります。
上り坂の上に高い建物が見えて来るとなかなかの迫力を感じます。

山門の左右の格子の中には大きな仁王像が立っています。
ここで「参拝志納金」300円(大山寺宝物館入場料含む)を払います。

「大山寺宝物館」は、山門の少し手前の向かって右手にあります。
又、山門の脇には「角磐山 大山寺」の石碑があります。



最初の階段を登った所に「下山観音堂」があります。
向って右の出入り口横に「大山寺本坊」「大山寺法務所」の看板がありました。

■大山寺のパンフレットの説明を転記します。
「下山観音堂」
御本尊は十一面観音菩薩。白鳳期の金銅仏で国の重要文化財に指定され、現在霊賓閣に安置されている。下山観音堂の御本尊はその控仏です。



下山観音堂にあった狐の石像で、玉と、巻物をくわえているようです。
観音堂と、狐の組合せが珍しく、狐の足元に子狐が置いてあります。
向かって左には子狐が2匹いますが、右には子狐が1匹しかいませんが、いったいどこに行ったのでしょうか?



参道をはさんで「下山観音堂」の向いに小さな「護摩堂」があります。
お堂の向こうには「大山」の頂上付近と思われる山が見えています。

■大山寺のパンフレットの説明文を転記します。
「護摩堂」
10月24日に行われる山伏の修験問答や天地四方に矢を放つ儀式「採灯大護摩法要」は迫力満点で賑わっています。



「下山観音堂」と、「護摩堂」の間に次の石段の上り口があり、大きな杉の木と、お地蔵が立っています。
伝説のある「灯明地蔵」「灯明杉」だそうです。
「灯明地蔵」は、新しく造られたお地蔵さんのようです。

■説明板があり、転記します。
「灯明杉」
その昔、日本海を航行する船が難航の折り、この杉の頂きから、一大せん光を発し、方向を教えたために難をのがれたといわれる霊木で、この名がある。



「下山観音堂」から更に石段を上がると本堂のある広場です。
すぐ前に牛の銅像「宝牛」があります。

■大山は、牛馬の守り神として信仰されていますが、「大山寺縁起」に牛にちなんだ説話があります。
「大山寺縁起」は大山寺に伝わる写本で、43の説話があるそうです。

「大山へ連れて来られた牛の説話」
昔、法隆寺に民連法師という僧がいた。不思議なことに法華経の第八巻がどうしても暗唱できなかった。
稲荷・長谷寺・熊野山・住吉の各社寺に参詣してお告げを受け、伯耆大山へ来て一夏精進し、権現のお告げを得た。その結果、前世は美作国から大山参詣する人の糧米を背負って来た牛であった。大山の宿坊で法華経の八巻を聞かずに出発したために暗唱できなかった。三業に誠をいたして法華経を読唱せよと教えられた。

■現地の案内板を転記します。
「宝牛」
牛の霊を慰めるために鼻ぐりの銅をもって鋳造し、岡山県岡山市の宗教団体「福田海」より寄進された像で、別名を撫牛ともいい、一つの願いだけを心に念じてこの牛を撫でると願いを叶えてもらえるという縁起のよい牛である。



鎌倉時代の作と言われる「開運鐘」と書かれた「鐘」がありました。
天空に舞う天女の絵が描かれていたのが印象に残っています。



大山寺本堂です。
大山寺は、養老2年(718年)金連上人が創建、地蔵菩薩を本尊として祀ったのがはじまりとされています。
貞観7年(860年)天台宗第4代座主慈覚大師により天台宗となったそうです。
その後、鎌倉~室町時代に最盛期を迎え、100を越す堂塔伽藍に、僧兵3000人を抱える大寺となり、中国地方屈指の修験道場だったようです。

■「大山寺縁起」に大山寺が始まった説話がありました。
「大山寺の起こり」
出雲国玉造の猟師「依道」は、三保の浦を通り過ぎようとした時、海底から金色の狼が出現したそうです。
追いかけて大山まで追いつめ、矢を射ろうとした時、地蔵菩薩が現れ、狼も老尼に変身して地蔵の御利益を説いたそうです。
猟師「依道」は、金連上人となって長年修行、釈迦を祀る「南光院」阿弥陀を祀る「西光院」を開いたそうです。

大山の火山活動と、国引き神話

2007年11月25日 | 山陰地方の旅

鳥取県大山町「大山自然歴史館」に手書きの資料が掲示されていました。
火山活動で大山が出来る前、「大山自然歴史館」や、「大山寺」の真下は海だったようです。
向って左上の図で、大山の中腹にある「大山レークホテル」でのボーリング調査の結果、海抜460mから掘り下げ、現在の海水面より更に150m下に基盤岩があったことが分かります。(実に600mの地下に基盤岩があり、海岸線がかなり南にあったようで、噴火により島根半島との間が狭まったようです)
中国地方では最も高い「大山」の大半の部分が火山活動で噴出した溶岩で出来ていたことを初めて知り、改めて火山活動のすごさを感じました。



「大山火山の層序」という大きなパネルの下に古い順に4枚展示されていたパネルで、タイトルが「大山火山(爆発)形成以前の地形」とあります。

蒜山は、大山が噴火活動を始める約200万年以上前に噴火し、蒜山三座が出来たようです。
噴出した溶岩が蒜山高原の溶岩台地を作り、堰止湖となっていたようです。
その後、堰止湖から旭川に水が抜けて現在のような蒜山高原の形になったそうです。



大山が噴火を始めた図で、タイトルは「古期大山形成期」とあります。
古期大山は、約180万年前から噴火が始まり、50万年前頃までの噴火活動で出来た成層火山だそうです。
現在の大山は、古期大山のカルデラの上に「新期大山」と言われる溶岩ドームが出来たものだそうです。



パネルのタイトルには「船上山溶岩流出」とあります。
マグマの噴出が両脇からもしているようです。
火山活動による地層も描かれていますが意味がよく分りません。



最後のパネルのタイトルは、「大山中央火山・弥山の形成以降の地形」です。
「新期大山火山活動」は、約30万年から1万年前頃までの火山活動を言うようです。(5万年前から1万年前の活動とする資料も見られ、素人にはよく分りません)
最後に溶岩ドームが盛り上がり、「弥山」「剣ヶ峰」「天狗ヶ峰」などの山頂部分が出来たようです。
又、この時期に大山の側火山も数々出来、北の「孝霊山」に向けて連なる側火山列、北東の「船上山」に向けて連なる側火山列、南にある「烏ヶ山」も側火山のようです。



昨年9月島根県の三瓶山にある「三瓶自然館サヒメル」で見た島根半島の地形変化のパネルです。
三瓶山では、3500年前までの噴火が確認され、島根半島西部との間が、神戸川や、斐伊川が運ぶ火山灰・土砂で陸続きとなった図です。
島根半島東部は、1万年前まで大山の噴火が続き、陸が北に拡大、島根半島との距離大きく縮まったようです。
パネルの2000年前頃には弓ヶ浜半島が綱のように島根半島まで伸びています。
国引き神話では八束水臣津野命が、杭の代わりに大山・三瓶山に綱をつないで土地を引き寄せたとされていますが、何となくイメージが合うようです。
縄文時代まで噴火していたこの二つの山が、島根半島と本土がつながったことに大きく影響していたことが分かります。
スケールの大きな国引き神話の誕生がなんとなく分かるような気がしました。

大山の姿と歴史

2007年11月22日 | 山陰地方の旅

前々回掲載の鳥取県大山町「大山自然歴史館」を見学した続きです。
館内にあったこのパネルの写真は、大山を西から見た景色と思われます。
春の初め頃、菜の花畑の向こうに雪の残る「大山」が美しくそびえています。
「伯耆(ほうき)富士」とか「出雲富士」と呼ばれるこの山は特に西側から見た姿です。



このパネルは大山の地図で、向って左上が北のようで、45度右に廻すと上が北を指します。
「弥山(みせん1709.4m)」「剣ヶ峰(けんがみね1729m)」「槍ヶ峰(やりがみね1692m)」が東西一列に並んでいます。
パネルの向かって左下の西側から見た大山の峰が富士山のように美しく見えるのも見る方角によるものと思われます。
各地に「○○富士」がありますが、これぼど見る角度で姿が変わる地方富士も珍しいと思います。


今年3月26日、広島空港から千歳空港への機中から撮った「大山」です。
南から見た「大山」で、大山の向こうには日本海の海岸線が横たわっています。
「弥山」「剣ヶ峰」「槍ヶ峰」が横一列に並び、頂上が台座のような形状です。



東南の上空から見た「大山」です。
積雪の山頂の手前に見える白い峰は、「烏ヶ山(からすがせん1448m)」です。
写真に向って左上は、米子市の街が広がり、その先に境港市がある「弓ヶ浜半島」が見えています。



東南東の上空から見た「大山」です。
写真の大山の山頂から向って左手前に「烏ヶ山」があります。
又、向って右に伸びている峰々は、「東大山」とも言われ、三鈷峰(さんこほう1516m)・野田ヶ山(のだがせん1344m)・矢筈ヶ山(やはずがせん1358.4m)・甲ヶ山(かぶとがせん1338m)・勝田ヶ山(かつたがせん1149.1m)と続き、先端に船上山(せんじょうさん616m)があります。

船上山は、鎌倉時代末期に地元の豪族「名和長年」が隠岐の島から脱出された後醍醐天皇を擁して立てこもり、幕府軍と戦った場所です。

「大山」の山々には「山」を「せん」と呼ぶものが多くあり、約10Km東にある「蒜山(ひるぜん)」も同様の呼び方になります。

奈良県吉野山には「金峰山(きんぷせん)」があり、「金峰山寺」は修験道の中心地の一つです。
金峰山寺や、大山寺は、修験道の開祖「役小角(えんのおずぬ)」(飛鳥~奈良時代)が深く関わっているようです。

普通「山」の音読みは「さん」ですが、なぜ「せん」と読ませるのでしょうか。
漢字は、中国から伝えられた時代により読み方も変化したようです。
漢字の音読みには、時代順に「呉音」「漢音」「唐音」「宋音」があります。
「せん」の読み方は、「呉音」のようです。
「呉音」は、奈良時代の遣隋使・遣唐使の交流以前に伝わっていた最も古い漢字の読み方だそうで、仏教用語に多く残っているようです。

奈良時代の出雲国風土記では「大神岳(おおかみのたけ)」「火神岳(ほのかみのたけ)」の名で登場しますが、「大山」の呼び名の変遷はよく分りません。

大山博労座牛馬市

2007年11月16日 | 山陰地方の旅
9月23日お昼過ぎ、大山寺、大神山神社への参道下の駐車場へ着きました。
少し曇って大山の 山頂がよく見えませんでした。



広い駐車場から階段を上がると参道です。
階段の左側に草原が広がっていました。



階段を登る途中に案内板がありました。
「博労座」とあり、大規模な牛馬市があったことが書かれています。



階段を上り、参道の入り口に「大山自然歴史館」がありました。



参道脇にあった大山寺、大神山神社周辺の地図です。
下の赤く塗られた場所が「大山自然歴史館」、その少し下に「博労座」と書かれています。



「大山自然歴史館」に入ると「大山牛馬市展」開催中の案内板がありました。



写真は、館内の「大山牛馬市展」のメインパネルです。

説明書きを転記します。
■市の様子
 市に参加するものは、まず入場料を支払う
 (横手道にある石の鳥居に番所があった)
     ↓
 売買が成立し手数料を支払う
 (現在の八橋警察署大山寺駐在所あたりに中番所があった)
     ↓
 売り手と買い手双方拍手を打ち、飲食をして売買終了

特に春の祭り(旧4月24日)には神輿行事もあり、非常に賑わった。当時のエピソードとして「大山の大糞流し」がある。例年梅雨の前触れの大雨が降り、牛馬の糞を流すというものであった。
市では露天商の出店があった。ただし、商人の把握・場所割りは大山寺領の大庄屋の任務であった。

■大山関係の年表から抜粋したものです。
 1726(享保11年)博労座に牛馬市がおかれる
 1884(明治17年)博労座牛馬市の取引が12000頭にのぼる
 1937(昭和12年)博労座牛馬市廃止


メインパネルの左上にあった昔の牛馬市の様子を撮った写真です。
帽子に着物姿の男たちが牛を引いています。

説明書きを転記します。
■牛馬
大山牛馬市に来る牛馬は、出雲、伯耆、隠岐からが全体の8割、備中・美作・因幡からが残りの2割であった。隠岐からの牛は、淀江沖で海中に追い落とし陸揚げしていた。したがって、最初に陸地に着いた牛が真っ先に売れ、残りを大山にあげていたようである。

■博労(ばくろう)
博労とは牛馬の取引の仲介者であり、数十人の追子(おいこ)を抱えていたといわれる。
その取引は袖中取引で、博労は袖の中で相手の手の指を握って値ぶみをする。例えば、指1本握れば1、全部握って5、親指を握れば6、3本の指を折れば7、1本を折れば9という具合である。単位はその時の情勢次第であった。
中には悪徳博労もいたようで、中間利益を独占したり、手数料や酒食を要求するなどしていた。
「博労は手の裏をかく」「ばくち、ばくろう、ばではてる」「ばくち、ばくろう、ばか、ばばあ」などは、そういった博労を風刺したものである。



牛の飼育関連グッズが展示されていました。
「はなぐり」
鼻の両穴の間を貫通する穴を開け、この器具を鼻先に取り付けて牛を扱っていたようです。

「餌筒」
竹筒に餌や、薬を入れて牛の口に差し込み、強制的に食べさせる道具のようです。

「金櫛」
ギザギザ部分で牛の毛並みを整えてやる器具のようです。




牛の飼育関連グッズ展示の続きです。
「鼻さし」
鼻の両穴の間にハナグリを通す穴を作る道具のようです。
材料は、鹿の角に見えます。

「靴」
ワラで作った牛のわらじだそうです。



歌川広重(1797-1858)の作と伝えられる「大山博労座牛馬市図」が展示されていました。
江戸時代の末期、牛馬市の賑わう様子が描かれています。

説明文にある「日本三大牛馬市」には複数の説があり、「大山博労座」の他、広島の「久井の牛馬市」、福島「白河の馬市」、大分の杵築「若宮の市」の四市場の組合せの違いですが、「大山博労座」だけはどの説にも含まれています。

2007/4/18掲載の真庭市蒜山「茅部神社」の日本一の大鳥居と桜並木で大山道の宿場町郷原が牛市場の往来で賑わっていたことなどをご紹介しています。


「大山博労座牛馬市図」の一部を拡大したものです。
上の鳥居に通じる参道の左で牛馬市に人や馬・牛があふれかえっている様子がよくわかります。
参道を陣傘をかぶった武士と思われる行列が描かれています。

大山の大智明権現は、牛馬の守護神として鳥取県・島根県・岡山県・広島県に及ぶ広い地域で信仰されていたようで、日本三大牛馬市の一つ、広島県久井の牛馬市でも大山信仰があったようです。
久井(三原市)の牛馬市は、平安時代中期の963(応和3年)に牛馬市が創設され、江戸時代に始まった大山博労座と比較し、はるかに長い歴史があるようです。

「田植歌にみられる大山信仰のひろがり」という展示資料の中に広島県東城町、岡山県哲西町に伝わる田植歌の歌詞がありました。
農耕や、牛馬と、大山信仰が民衆に深く根付いていたことが分かります。