時々 稍々肌寒し 旧暦4月小12日
今回は寺内町随一の旧家、昭和58年重要文化財に指定された〝杉 山 家〟を紹介する。(現在・市が管理している)
↑明りとりと風通しの「虫籠窓(むしこまど)」や「格子」が見える
↑塀は「焼き板塀」上には防犯用の「忍返し」が
↑左上の屋根には竈の煙を外に出す「煙り出し」が
↑鬼瓦がある「4層の大屋根」
↑座敷から外を見ると2っの蔵が
左奥の蔵には露子ゆかりの遺品や一時期当市で過ごした織田作之助の絶筆となった作品「土曜夫人」の原稿等の資料が展示されている
↑玄関を入って直ぐの部屋、左「格子の間」、右は台所
↑「格子の間」
↑1737(元文2)年作られた薩摩杉を用いた菊の模様の透かし彫が施された「欄 間」
↑「大床の間(おおとこのま)」障壁画は文化文政の頃、狩野杏山守明により描かれた
↑街角で見かける
石上 露子(いそのかみ つゆこ)
明星派歌人・本名、杉山タカ[1882(明治15)年~1959(昭和34)年]
早くから和歌や芸能に秀で18歳の時半年ほど東京に滞在。その時高等商業(現・一橋大学)の学生と惹かれ合う仲になるが、双方とも家督相続者であったため恋は成就しなかった。
21歳で彼への思慕に満ちた短歌を与謝野鉄幹が発刊する「明星」に発表。以後も同誌に寄稿し続けて高い評価を得たが1908年忽然と文芸界から消息を絶ってしまう。
その前年家を継ぐため、意に添わぬ婿養子を迎えたが夫の意向により別居するまでの約20年断筆。
50歳で作歌を再開したが、長男(京大卒)、夫の病死、次男(東大卒)の自殺と不幸が続く。
1959年10月8日、奥座敷で虫干しのために広げた衣類に埋もれて人知れず脳内出血で世を去った、享年77。
自死はしなかったが何処か「金子みすず」に似た境遇を思う。
↑ハイカラな露子が作らせたという「螺旋階段」
↑数奇屋作りの「奥座敷」1734(享保19)年増築された、露子も好んで使用したという 向うに見えるのは「茶 室」
↑竈は黒漆喰作り
*続きは後日掲載します
今回は寺内町随一の旧家、昭和58年重要文化財に指定された〝杉 山 家〟を紹介する。(現在・市が管理している)
↑明りとりと風通しの「虫籠窓(むしこまど)」や「格子」が見える
↑塀は「焼き板塀」上には防犯用の「忍返し」が
↑左上の屋根には竈の煙を外に出す「煙り出し」が
↑鬼瓦がある「4層の大屋根」
↑座敷から外を見ると2っの蔵が
左奥の蔵には露子ゆかりの遺品や一時期当市で過ごした織田作之助の絶筆となった作品「土曜夫人」の原稿等の資料が展示されている
↑玄関を入って直ぐの部屋、左「格子の間」、右は台所
↑「格子の間」
↑1737(元文2)年作られた薩摩杉を用いた菊の模様の透かし彫が施された「欄 間」
↑「大床の間(おおとこのま)」障壁画は文化文政の頃、狩野杏山守明により描かれた
↑街角で見かける
石上 露子(いそのかみ つゆこ)
明星派歌人・本名、杉山タカ[1882(明治15)年~1959(昭和34)年]
早くから和歌や芸能に秀で18歳の時半年ほど東京に滞在。その時高等商業(現・一橋大学)の学生と惹かれ合う仲になるが、双方とも家督相続者であったため恋は成就しなかった。
21歳で彼への思慕に満ちた短歌を与謝野鉄幹が発刊する「明星」に発表。以後も同誌に寄稿し続けて高い評価を得たが1908年忽然と文芸界から消息を絶ってしまう。
その前年家を継ぐため、意に添わぬ婿養子を迎えたが夫の意向により別居するまでの約20年断筆。
50歳で作歌を再開したが、長男(京大卒)、夫の病死、次男(東大卒)の自殺と不幸が続く。
1959年10月8日、奥座敷で虫干しのために広げた衣類に埋もれて人知れず脳内出血で世を去った、享年77。
自死はしなかったが何処か「金子みすず」に似た境遇を思う。
↑ハイカラな露子が作らせたという「螺旋階段」
↑数奇屋作りの「奥座敷」1734(享保19)年増築された、露子も好んで使用したという 向うに見えるのは「茶 室」
↑竈は黒漆喰作り
*続きは後日掲載します
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