はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-5

2014-09-25 17:04:05 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         34番 建福寺(二俣街道)
        
          二俣街道                      34番建福寺
 建福寺の場所
 34番建福寺は龍源寺方面から流れてくる敷地川と、遠州一宮の小国神社から流れてくる一宮川の合流部の
川会(かわえ)にあった。一宮川は昨年の遠州七福神で、磐田桶ヶ沼から森町の紫陽花寺のとき歩いている。

 龍源寺を出て手持ちの地図は県道61号を歩くようになっていたが、適当に判断して天浜線の線路に沿って南下
して行くと、踏切が無いのに少しづつ線路は向きを変えてきた。これは拙いと線路を強引に横切って田圃の中の
道に入り県道を目指した。県道に出れば後は地図通りで順調に建福寺に到着。
 寺の入口にあった石碑の正面に 「旧二俣街道」 とあり、横には 「是ヨリ二俣 二里十丁」 と刻まれていた。
現在の二俣街道は浜松から天竜二俣を通り、長野県に抜ける国道152号線の浜松・天竜間を指してる。
だがこの石碑にある二俣街道は、袋井から二俣に抜けるローカルな街道の事で、きっと街道の名前も地元の人だけ
にしか通じない名前なのだろう。
更に石碑には二俣までの距離は書いてあるが道標とは言い難く、街道の名前の上に「旧」と付いている位だらから
近年に建てられた石碑と思われる。また近くには、秋葉神社の常夜燈も建っているところを見ると、秋葉神社に
参拝する人達は、秋葉道とも呼んでいたかもしれないな。
 二俣までの距離の二町十丁(町)は約9kmになるが、今日私が二俣の栄林寺からここまで歩いた距離は約
19.2kmになる。一雲斎など方向違いの所も行ったので10kmの大回りになったのだろうが、それにしても遍路とは
倍の道のりになるのだからご苦労な事だ。

  
           観音堂                観音堂内部             知恵観音?

 建福寺も静かな感じの小振りな寺だった。本堂の横に庫裏らしき民家があるが留守のようで返事が無い。
ご朱印は諦めて観音堂に入ると薬瓶を手にした木彫りの薬師如来のが祀られていた。これがここの本尊かと
一応お詣りして格子の中を覗いてみると、中には薬師三尊と十二神将が祀られていた。ではこの仏像は?
ガイドブックにこんな紹介がしてある。 「建福寺の薬師様は行基菩薩の作で、12年に一度御開帳される
秘仏です。薬師様は、またの名を妻薬師ともいい、縁談を祈願すると、ご利益がてきめんに現れます。」

エー! 薬師観音なのに縁結びの神、イヤ仏様?  マー49もあるなら色々の薬師様もあって当然だが。
でもどうせなら惚れ薬でも作り、最近の心霊スポットのようなブームの乗れば、もう少し人が集まっただろうに。
そうだ、ご本尊の観音様は12年に一度しかご開帳しないので、その身代わりとして仏壇の外に、この仏像を
安置してあるのかな、きっとそうだ。 でもチョット安--------- 「南無大師観世音菩薩」
 建福寺にはそれ以外にも観音様が祀られていた。名前は「知恵観音」残念ながら謂れは書いてない。
縁結びの観音様に縁を取り持ってもらい、子供ができたら知恵観音に知識を授けてもらう。で丁度良いのにな。

 伝説を信じるなら弘法大師と行基菩薩もこの地を歩いている。この二人は日本中のあちこちを歩いて、その距離は
とても人の一生では歩ききれない距離だと思う。しかも不思議な事は二人が彫った仏像等が、文化財に指定されて
いるものが少ない事で、それは二人が仏師としての腕がなかったのか、それとも言い伝えは嘘八百なのか。
とはいえ今日最初に寄った岩水寺は、行基菩薩が薬師如来像を刻み開創した寺で、弘法大師作と伝わる国宝の
厄除子安地蔵尊も安置されていた。なのであながち嘘八百とは言い切れないが、せめて 「伝行基作 」や「伝弘法
大師作」
と頭に 「伝」 を付けた方が良さそうな物が多い事も確かだ。

                         35番 蔵泉寺(転勤)
 
              34番蔵泉寺                          薬師堂
 蔵泉寺の場所
 建福寺から河畔に出た所が丁度敷地川と一宮川の合流部で、ここからの川の名前は敷地川となり南に流れ
ていく。更に下流では遠州森町から流れてくる太田川と、更に下流で原野谷川と合流する。この原野谷川の
源流は今年の春に歩いた八高山だ。こうしてみるとこの辺りは結構歩いている事になる。
 去年遠江七福神では敷地川の左岸を歩いたので、今回は次の蔵泉寺が右岸に有る事から右岸を歩く事にした。
とは云え昨年の記憶は殆どなく、新しい道を歩くのと同じで、右岸でも左岸でも変わりはなかったが。
 川の畔を歩いていると下校途中の小学生たちに会った。 「おじさん何処に行くの?」 と気軽に声を掛けてきた。
最近では知らない人と話をしないようにと教えるところが多いようだが、まだ田舎を歩いていると挨拶をしてくれる
子供は多い。だが挨拶以外に話しかけてくる子は少ない。
「蔵泉寺というお寺に行くのだけけど、まだ遠いの」 と聞くと
「蔵泉寺ならこの子のうちがそうだよ」 と女の子を指す。するとその子は
「お父さんが袋井の大きなお寺に変わったから今は蔵泉寺には泊まってなくて、お母さんに迎えに来てもらう」
「それじゃ今はお寺に誰も居ないの?」
「ウーンう。お婆ちゃんが片づけに来ている。」
それを聞いてご朱印を貰えるとホッとした。

 今まで寺の相続は、比叡山延暦寺とか高野山金剛峯寺等の大本山は別として、大部分の寺は実子相続が
主で、寺に後継ぎが居なければ養子縁組をしたりして、その名跡を継いでいると思っていた。尤もどうしても
後継ぎが無く無住になった寺は、その宗派の本部から僧侶が派遣されるのかもしれないが。
 蔵泉寺の住職はこの寺から、より大きな寺に行くらしいが、その寺と蔵泉寺とは特別な関係があるのか。
子供の話では大きな寺に行く事を喜んでいるようにみえるが、祖父や親戚の寺との話はなかった。
仮に蔵泉寺が住職の先祖代々からの寺としたら、この移動を引き受けてだろうか。色々と疑問が湧く。
考えられるのは蔵泉寺も移動先の寺も本部管理の寺で、ここの住職は寺付住職ではなく派遣住職だったのでは
ないか。と勝手な解釈をした。
 それにしても住職の転勤となると普通の会社員の転勤とは違い、究極の 「職住近接」 になる。他にこんな職業は
と考えて思いついたのは、田舎の駐在さんがだった。
警察の駐在所は家族と一緒に駐在所と同じ建物に住むし、妻は夫が留守の間は受付などの仕事を手伝うだろう。
その点、寺の奥さんも寺の雑務を引き受けざるを得ないだろう。   何か話が変な方に行ってしまった。

 蔵泉寺に着くと寺の子供がお婆さんを呼んできてきくれたのでご朱印をお願いした。雑巾片手で何か忙しそうだった
ので、余計な話はしないでお詣りだけにした。

                            36番 長楽寺()

               36番長楽寺                         観音堂
 長楽寺の場所
 35番蔵泉寺は敷地川の袂にあり、次の長楽寺は東に流れる太田川の畔にある。その間は田園地帯で田圃が
主だがメロンを栽培している温室も所々にある。
今日は浜松市浜北区を出発し、天竜区、磐田市、そしていつの間にかメロンの袋井市に入っていたようだ。
ミカンやカキ程度なら土産にしても良いのだが、メロンとなると荷が重すぎる。そう懐にも肩にも。
 新しそうな寺の屋根が見えてきた、あれが長楽寺だろう。蔵泉寺からは20分も掛からず着いてしまった。
出発からは既に28kmを越してしまったが、平らな道だったので余裕を持って歩く事ができた。
この先もこうでありますように。
 
 庫裏とおぼしき所は鍵が掛かり開かなかったので、左手にあった薬師堂も中に入れず堂前でお詣りを済ませた。
観音堂の前に案内板にはこんな事が。
「昔、この辺りの深見村に熱病が流行し、医者にかかったり神仏に祈願したが一向に熱病の勢いは衰えず、村の
庄屋たちは久能城のお殿様に村の窮状を訴えた。お殿様は「城内に祀ってある薬師如来を貸すので、日夜病魔
退散を祈願しなさい」
と諭された。村人たちは薬師如来の像に、身を清め心を清めひたすら薬師如来のご加護を
お祈りした。その甲斐あって病勢もやっと治まり人々は安堵した。そして村人は「薬師如来像を永久に、ここに
奉安し如来の遺徳と領主の大恩を子孫に伝えたい。」
と、殿様に嘆願すると願いは聞き取られ、薬師如来の尊像は
深見村に賜った。
 御本尊薬師如来像は、聖武天皇の御代に僧行基が、一本の樹から油山寺の薬師如来像と共に作ったものと伝え
られている。像は袋井市の指定文化財になっている。」

オッ! ここにも行基が出てきた。しかも私の意に反して文化財にも指定されている。これは調べなければと
早速油山寺のHPを見ると、
「油山寺は行基大士が本尊薬師如来を奉安、開山された真言宗の古刹であります。」とあっただけで文化財の事も
長楽寺の事も書いてない。ただ薬師如来の厨子は今川義元の寄進で、国指定の文化財になっていた。
では国や県の指定ではなく袋井市の指定かと、袋井市のHPを覗いたが文化財の一覧表に辿り着けなかった。
長楽寺の薬師如来は、行基作と伝えられているから市の指定文化財なのか、それとも美術的価値があったので
指定されたのか、チョット知りたいな。



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