はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-2

2014-09-17 14:51:27 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅


                         29番 栄林寺(二俣)
        
              天竜川沿いの鰻屋                        金貸し水神

 次の29番栄林寺は旧天竜市(現浜松市天竜区)二俣町二俣にある。
その二俣には、徳川家康が長男の信康を自刃させた悲劇の城、二俣城があります。本来なら今日は城も見学
したいのだが何せ行程の先が明白でない。ゴールが天浜線の敷地駅までなら城見学の時間はあるが、
ゴールが袋井駅だとそんな余裕はない。今は一応袋井駅を目指しているので城見学はパス。
 
 岩水寺から国道に出ず天竜川に向かって行くと、道の正面に大きく「うなぎ」の看板が見えた。
浜松は鰻で有名だがその代表は浜名湖の養殖ウナギ。だが天竜川では天然のウナギも獲れると聞いた事も
あるのでここのウナギは天然ウナギだろうか? 今はウナギの稚魚のシラスが不漁でウナギの蒲焼が高値に
なり中々食べれなくなってしまっている。

 鰻屋の少し下流に小さな祠と案内板があった。案内板には「病気を担保に金を貸す 金貸し水神様」とある。
興味を覚えて更に読んでいくと 「水神宮病気証文の由来 むかし天竜川が氾濫し、鹿島村の河岸に祀って
あった水神様が流れ出してしまった。それを見た地元の船頭・権三郎が激流に飛び込み、水神様をお救いて
現在地にお祀りしました。権三郎は水の冷えで持病が再発して重体に陥ったある夜、水神様が夢枕に立ち
「そちの病気はこのたびの功により速やかに全快させてやる。他に病気で苦しんでいる者があれば、病気を
質として借金証文を上げさせよ、期限までに必ず全快させよう」
 と、お告げがあり権三郎の病気も不思議と
全快しました。それ以来、病気の水神様として人々の信仰厚く、遠近からお札参りや祈願される人が現れる
ようになったそうです」


 ウー? 病気を担保に金を貸す? ではその金を治療費に使えてという事か?
イヤイヤそうではないだろう。きっと病気が治ったら何々をします。とか、一両献金しますから病気を治して
下さいとかの証文を書いて祠に奉納祈願したのだろう。きっとそうに違いない。と、勝手に結論を下した。
祠の中の賽銭箱は証文箱と一体化していました。

 
             金原明善の胸像                        天竜川の鹿島橋

 金貸し地蔵の下には金原明善の胸像が建っていた。金原明善はこの遠江49薬師の最初の回で、生家の
記念館の前を通っている。過去に何回も生家の前は通っていたが一度も入った事はない。どうも金を払って入る
のが嫌いな性分(単なるケチ)なのだろうが、後で後悔することが多い。なるべく入ろうと思っているのだが-------
 金原明善の功績は、天竜奥地の植林と天竜川の護岸工事により「暴れ天竜」と云われた天竜川の氾濫を抑え
地元を救った治山治水の先駆者だった。
 その暴れ天竜も今日は水量も少なく穏やかに流れていた。

 
            天竜川の写真地図                   鳥羽山下のトンネル

 地図で見ると二俣の町は天竜川の左岸(東岸)にあるが、直接天竜川とは接していない。町と川の間には低い
丘陵が自然の堤防のように囲んでいる。この丘陵の一部に悲劇の城二俣城はある。
さらに「二俣」の地名の謂れは、地元鉄道天浜線のHPでは 「二俣は道の二股ではなく、天竜川と阿多古川の
二股のデルタ地帯を意味しいる」
 と紹介している。
 まず写真地図を見てください。デルタを形成したという阿多古川は写真の左側にあり、その川と天竜川の間には
デルタなどの平地は存在しない。近くにある平地は天竜川が蛇行した内側にある二俣町だが、ここが阿多古川の
影響で出来たとは考えにくい。写真地図をよく見ると町の中を縦断している川が見える。この川の名が二俣川。
この二俣川は昔は天竜川が増水して水位が上がると、二俣川は水の行く手が塞がれ、幾度となく洪水を起こして
いたらしい。それに二俣の地名が川の二俣から来ているのなら、その二股に関係の無い川に二俣の名前を付ける
のも変だ。
またまた妄想的歴史観が湧いてきた。「天竜区二俣の地名の謂れは、天竜川と二俣川の合流部から発生した」
どうでしょう今回の妄想的歴史観は。

 天竜川に架かる鹿島橋を渡ると丘陵の下に「筏問屋 田代家」と云う展示場を兼ねた保存家屋があった。
平日のうえ時間も早いので人の気配はない。仕方ない案内板だけで我慢しよう。
「田代家は徳川家康の遠州経略に協力して、天竜川の筏川下げと緒役免除の特権が与えられました。
江戸時代には北鹿島の名主と、渡船場船越頭を勤める一方、天竜川筏の受け継ぎ問屋も経営していた旧家です」
 
この地方には家康が自分に協力した地元民にお礼をした話が多数残っている。天竜川上流の西渡では家康が
負戦で落武者となり、敗走するとき家康を匿った者に 「天下を取ったら見渡す限りの山を授ける」 と言ってその
通りにしたとか、中には人間だけでなく山犬にもお礼をしている。秋葉神社の近くに山犬信仰の山住神社には
「家康が三方原の戦いで武田勢に追われ山住に逃げ込んだ時、山全体が鳴動し山犬の大音声がおこり、武田勢を
退散させた。お礼に二振りの刀剣が奉納され徳川家の崇敬を受けた。」
 話もある。
 三河出身で幼いころから駿河で人質の生活を送った家康は、馴染みの薄い遠江の住民を手なずけるためには、
協力した住民を積極的に褒賞したのだろう。

 田代家の横の丘陵を貫くトンネルを通り二俣の町に入る。このトンネルの上の丘陵には二俣城址や鳥羽山城跡が
あるが今日は寄っていれない。更にこの町の山奥には火伏で有名な秋葉神社と水防の光明寺がある。
江戸時代には 「ついで参り」 と称して火の秋葉山と水の光明寺山の両方をお参りしていたようだ。
私もいつかついで参りをしたいと思っているが何時になることやら。そうそう現在の二俣にある光明寺は、昭和6年の
光明寺山の火事で山にあった光明寺が焼失したため麓に移転したそうです。

     
                 29番栄林寺
   栄林寺の場所

 地名の元になったにしては小さな二俣川を渡り、川沿いの道を少し行くと29番栄林寺が見えた。広くはない
境内だが手入れが良く行き届いている。雰囲気のある穴地蔵の石仏や境内の花や木に名札が付いているのも嬉しい。
ご朱印をお願いして本堂左側の瑠璃殿でお詣りしていると、寺の奥さんが朱印帳と寺のパンフレットを持ってきて
くれた。そのパンフレットを見て思いだした事があった。この栄林寺は15mは越す大きなハクモクレン(白木蓮)の
木がある事を。だが今境内から入ってきたがハクモクレンには気が付かなかった。奥さんに尋ねると最近樹勢が衰えて
花を余りつけなくなったと言う。理由は境内に水道管を敷設するとき木蓮の根元を掘って根を痛めたのが原因らしい。
瑠璃殿から出て眺めると確かに蕾や葉の数が少なくしかも小さかった。
早くパンフレットに紹介されているような見事なハクモクレンに回復して欲しい。

                         30番 玖延寺(フウ)
 
             二俣川(下流の山は鳥羽山か)           玖遠寺とアメリカフウの実

 二俣川沿いの道を県道40号まで戻る。この県道は天竜二俣から磐田や袋井、掛川に抜ける道で、過去に車では
何度も走っている。その時のイメージでは歩きにはあまり適していないように感じていた。そこで今日は県道は
なるべく避けて旧道等を主に歩こうと思っている。
 今も県道に出る前に左折して細い川沿いの道を行く。時折見える県道側を見ると天浜線の天竜二俣駅が見えた。
その先で東に向かっていた県道は向を右にカーブして南に変える。だが次の30番玖延寺は県道とは逆に北に延びる
道に入る。更に山奥に入るのだと思っていたら、何の事はない分譲団地が現れた。車道が整備され来たので二俣町内に
住むより、少し離れているが静かで地価の安い所のが良いのだろう。しかし日の出は遅く、日の入りは早そうだ。

 団地が過ぎると正面の広い広場に石碑が建ち 「玖遠寺」とあった。30番札所に案外容易に着く事ができた。
アレーチョット待った! 車道の上に点々と木の実が落ちている。ピンポン玉より小さめなで丸い茶色のイガが実の
回りを覆っている。何の実だろう? 近くには親と思われる樹高の高い木が新芽もなく枯れ木の状態で何本もある。
ブナ(橅)の実もこんな感じの実だったが、まさかブナの木を街路樹風に植えては無いだろう。寺で聞いてみよう。

 
              玖延寺山門                趣のある石仏群
      玖延寺の場所
 「生かさるゝ いのち尊し 今朝の春  中村久子」 寺の山門には珍しく俳句の扁額が掲げられていた。
私も生かされているお蔭で、こうして歩き遍路をする事も出来る。まだ朝の陽射しが残っているとき、石仏を眺めて
いると心も落着き感謝の念が湧いてくる。 ナンテ言っちゃってね-------
それでも普段より深く一礼をして山門を入った。

 後で作者の中村久子さんの事を調べると
「中村久子さんは、1897年、飛騨の高山で誕生し、三歳のとき突発性脱疽に罹り、両手両足を無くされた。
中村さんはその障害の事実を真正面に引き受けて、人権意識が未成熟で障害者への差別の厳しい、生きて
いくのも非常に困難な時代を、女性として、母として、そして何よりも一人の人間として72年の生涯を生き
抜かれた。」
 と紹介されていました。

 
              境内から玖延寺                   薬師堂

 山門の扁額の句の所為ではないが、広い境内を持つ玖延寺は、落ち着いた静かな雰囲気の寺だった。
庫裏に入り早速広場にあったイガの実の事を尋ねると「あれはアメリカフウの実です。あの実をクリスマス
リースの飾りにすると云って拾っていく人がいますよ」
 との事。
アメリカフウ? 何の事か再度聞くと「私も詳しくないがアメリカの楓の事らしいですよ」 
あの実が楓? クドクド聞いては申し訳ないので後で調べる事にした。
「フウは「楓」と書かれるが、カエデはムクロジ目に属し翼果をつけるのに対し、フウ属は雌花の花序が球形で
垂れ下がるので区別できる。まっすぐに伸びる樹形は美しく、また秋の紅もが美しく落葉後は長く枝に残る実も
風情があり街路樹や公園樹としてよく利用される。一般家庭の庭には大きすぎて庭木としての利用はあまりない」

何々楓がふう? 恥ずかしながら「楓」が「ふう」と読むことは知らなかった。確かに木偏を取れば風だから
「ふう」とも読むだろうが、一応確認のため漢字辞典で確認したが間違いは無かった。
そうか「アメリカフウ」は、言い換えれば「アメリカカエデ」なのだと納得。

 少し寺の事も紹介しなければ----
玖延寺の開祖は駿河慈悲尾(しいのう)にある増善寺の和尚によるのだそうです。
増善寺といえば今川七代目当主で今川中興の祖とも云われている今川氏親(うじちか)の墓所のある寺です。
増善寺は駿河一国33霊場の札所なので当然お詣りしています。人里離れた山の寺だったが本堂は新しく改築され
ていて、少々趣を欠いていたと記憶している。しかし知っていいる寺の名前を聞くと余計に親近感が湧いてくる。

    
                     薬師瑠璃光如来・日光・月光菩薩・十二神将 

「薬師堂は自由にお詣りください」 と云う事なので清々声を出して般若心経と延命十句観音経を唱えた。
この二つの経は般若心経は四国遍路のとき、延命十句観音経は駿河一国観音霊場のときに暗唱できるようになった。
ただ私の場合は「門前の小僧、習わぬ経を読む」と違い、耳からではなく目(文字)から覚えたので、息継ぎの場所や
調子(アクセント)のつけ方が自己流のため実際のお経とは大分違っている。言うなれば隠れキリシタンのオラショの
ようになっている。たまに般若心境のCDでも買って正当般若心経を聞いてみようか、など思うときもあるが------

 玖延寺薬師堂の須弥壇の上は薬師瑠璃光如来・日光菩薩・月光菩薩・十二神将が揃って祀られていた。
この薬師如来は檜材割矧造りで鎌倉中期の阿闍梨暹咸作。長年秘仏とされていたが昭和60年に修理をしたのち
薬師堂に安置され、誰でも拝見できるようになったのだそうです。