はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-6

2014-09-30 12:08:20 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         37番 西楽寺(やまなし)
 
             西楽寺本堂                      本堂横のお堂
 西楽寺の場所

 太田川の右岸を少し遡った深山橋を渡り山梨地区に入る。山梨は遠江33観音や遠州33観音でも歩いたが、
最初来たとき山梨の元の名が「月見里」と知って驚いてしまった。それも慣れてしまえば特段の感想も湧かなく
なってしまったので、今回は少々手抜だが初めて来た時のブログを引用してしまおう。

 『8番札所に近づいてくると「山梨」の字が目に付くようになった。下山梨、上山梨、沖山梨などの地名もある。
この辺りは今は袋井市になっているが以前は周智郡山梨町だった。その所為で山梨が多いのは分かるが何故
山梨と呼ぶようになったのか、面白い説を聞いたので紹介したい。
子供の頃「山が有っても山なし県」「痛くなくても大いた県」とか言って遊んだ経験は無いだろうか。ここの山梨は
その言葉通り「山が無くて山なし」なのだ。
 むかし地名を付けるとき、この辺りの地形は低い岡はあっても視界を遮るような高い山が無かった。そこで
「山なし」
と思ったが、これではチョット芸が無さ過ぎ面白くない。トンチの利いた昔の人はもう一捻りした。
近くに山が無いのなら月見に適している。そこで「月見里」と書いて「やまなし」と呼ぶようになった。
嘘? いえ嘘ではなさそうですよ、その証拠として苗字の 「月見里」 はやまなしさんだし 「月見里神社 」
やまなし神社と読むらしいですよ。
 なら山梨県は本来は月見里県なのか思いたくなりますよね、ウィキペディアにはこんな事が書いてありました。
”山梨郡の名前の由来は 「旧春日居町の山梨岡神社の裏山に有名な梨の古木があり、そのためこの地域は
いつしか山梨と呼ばれるようになった」 
という伝説が存在しているため、果物のヤマナシに由来していると思われ
がちである。しかし風土記には 「山無瀬」「夜萬奈之」 と記されており、語源としては 「山平らす(やまならす)」
つまり甲府盆地の高低の少ない平坦な様子を表す言葉が次第に「やまなし」へ転化したとみるのが妥当である。
そして 「梨園」 などの言葉に見られる一種の優雅さを感じさせる「梨」という好字を当てて 「山梨」 と呼ぶように
なったといわれている。”
月見里が出てこないので面白くないが、山梨県は本来なら山無で、恰好を付けて山梨と書くようになったようだ。』

 信州街道の県道58号を横断して行くと、前方の丘の上に西楽寺の大きな看板が見えてきた。
エッ!月見里なら山は無い筈ではないかって?でも山梨の東から北に掛けては丘陵が連続していて、とても
山が無いなど言えそうもない景色です。
考えてみれば平野の中に山無しとか月見里では余りに当り前過ぎて面白くもなく、場所の特定も出来ませんよね。
それが山を幾つか越してきて、やっと平地に出ると何処にある月でも眺められるようになる。そうなればその地が
月見里になるのは必然的なことだとも思います。その後の山無しの読みは昔の人のユーモアのセンスでしょう。

 丘の上にあった西楽寺は、寺と言うより大きなお堂と言った方のが相応しい優雅で落ち着いた感じの建物だった。
辺りに人気は無く無住のようで庫裏などは近くには見当たらなかった。
これまで静岡県内の寺はかなりお詣りをしているが、これ程の建物は余り無い。ここ西楽寺と次に寄る油山寺、
そして島田千葉山の智満寺くらいのものではないか。

  
      真言宗西楽寺 入母屋造柿葺 県指定文化財

  
      真言宗油山寺 入母屋造茅葺型銅板 県指定文化財

 
      天台宗智満寺 入母屋造茅葺 国指定重要文化財 

 上の写真を比べてみると、お堂の形はどれも正方形に見えるが、これは宝(方)形造りとも言うらしい。
違いのあるのは屋根の形で、油山寺と智満寺は似ているが、西楽寺向拝(本屋根の庇の部分・参詣人が礼拝
する所)の形が単なる庇ではなく、唐門のように丸みを持って盛り上がっている。
更に屋根の素材も西楽寺はこけら葺(木を薄く削って葺いた屋根・板葺)で、油山寺は茅葺の上を銅板で覆って
ある。一方智満寺の屋根は茅葺で厚みと柔らか味を感じさせる。
こうしてみると智満寺が国指定の文化財なのは分かるが、西楽寺もそれに劣ってないように感じるのだが-------

 (蛇足:こけら葺の「杮」は果物の「柿」とは違うんですよね。「杮・柿」何となく違うのは分かりますよね。
エクセルで拡大するとこけらとカキです。
 因みにこけらとは木屑のことで「こけら落とし」とは木屑を落として完成する事だそうです)

境内の立札には 「西楽寺本堂 江戸時代中期に建築された禅宗様式の五間堂。入母屋造柿葺の屋根や、
豪壮な組物に260年前の歴史を偲ぶことができます。 静岡県文化財指定 」
 とありました。

      
               西楽寺本坊入口                  案合図

 時間があればユックリ眺めたいが、もうすぐ5時になる。隣に建っている薬師堂と思われるお堂をお詣りして
早々に階段を下った。ご朱印を求めて庫裏のありそうなお堂正面の太い道を下ると、山勘は見事に当たり
右手に「真言宗安養山西楽寺本坊」の看板と「遠江49薬師」の看板が立っていた。案内板もあり、そこには
「西楽寺は奈良時代に僧行基により開かれ、真言霊場として大いに栄えた。境内には多くの御堂や塔が立ち
並び、最盛期には十二坊もありました。明治維新には官軍総大将が江戸へ向かう途中、西楽寺の不動明王に
戦勝祈願のご祈祷を行いました」
 
確かに本堂からここの本坊までの間は、坊が幾つかあっても不思議はなそうに感じる。それにしてもまたまた
行基さんの出現。こう幾つもあると本当に行基がこの地を訪れたのかと思いたくなる。

 
               新しい薬師堂                         薬師三尊

 境内に入り最初に目に入ったのは、真新しいお堂だった。入口には何の表示も無いが、覗き込んでみると
正面に座像の薬師如来が、左右に日光・月光菩薩の脇侍(きょうじ)が立っている。
でも、アレー? 今まで見てきた薬師三尊は、主役の薬師如来が大きく脇役の二菩薩は小振りだった。
それがこの薬師三尊は脇侍の菩薩の方が大きいとは。例え座像と立像の違いはあるにしても不自然に感じる。
何か謂れでもあるのだろうか聞いてみたいのだが、アーアもう5時になってしまった。
まだこの先油山寺に行かなければならないし、更に油山寺から袋井駅までもかなりの距離がある。ここで
ゆっくりするわけにはいかないと朱印も受けないで西楽寺を後にした。またいつか来てみよう。