はぐれ遍路のひとりごと

観ながら歩く年寄りのグダグダ紀行

遠江四十九薬師霊場3-3

2014-09-21 11:15:25 | 遠江49薬師
歩行記録
歩行時間:9時間10分   休憩時間:2時間00分   延時間:11時間10分
出発時間:8時15分   到着時間:19時25分
歩  数:  56、787歩   GPS距離43.5km
行程表
 岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
 0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅

                         31番 一雲斎(三斉)
 
                天竜川飛龍大橋                    一雲斎入口付近の風力発電

 30番玖延寺を打ち終り来た道を県道まで戻る。次の31番一雲斎入口までは、この県道と天浜線と付かず離れず
の状態で進んで行くのだが距離は大分ありそうだ。まだ疲れは出ていないがゴールを袋井駅とするともっとピッチを
あげなければと思うが、一人歩きだとどうしても自分ペースに戻ってしまう。
それも仕方ないだろう、その速さが自分にとっては一番疲れない速度なのだから。

 天竜川を浜北方面に渡る飛龍大橋の入口に出る。この橋は私には渡るメリットが無くて、まだ一度も渡った事はない。
だがこの橋が出来たお蔭で、狭い谷(や)の間にある玖延寺下にも分譲団地が出来たのだろう。
 県道は天竜川の左岸を少し下った所で堤防上の磐田方面に行く道と、袋井掛川方面の道と別れる。次の一雲斎は
袋井方面の堤防の下の細い県道40号を行くのだが、車の多くは堤防の道を直進していくので歩きにくくはなさそうだ。

 旧道の豊岡市所前で丁度で目があった人がいたので一雲斎の道を尋ねると
「あそこまで歩くの? まだまだズート先だよ。それに寺の入口の道が分かるかなー、目印が無かったと思うけど」
「エー? ガイドブックには入口に寺の看板があると書いてありますけど?」
「ウーン チョット待ってね」
と云って近くの店に入り、そこの主人を連れてきた。店の主人は
「寺の看板は以前はあったけど今は建ってないよ。一雲斎さんの入口は、この道が県道に出たら左折していくと
風力発電の塔の近に寺の入口があるけど分かるかなー。そうだあそこには川があった。あの川は一雲斎さんに
続いていて道も川に沿ってあるよ。こちらからなら川を渡らず、川の手前を山に入って行けば一雲斎があるよ。
そこからも大分あるけどお寺は大きくて行けばすぐ分かるよ。ともかく橋を渡らず手前の道に入らなきゃダメだよ。」
分かりやすい説明ありがとうございました。

      
                 電柱名                    屋台置場

 県道に入る前から風力発電の3本の塔が見えてきた。搭はまだ大分先だが、後は橋に気を付けていればいい
だけで気は楽だ。
前方に橋が架かっているのが見え風力発電の塔も近くにある。橋の手前には北に向かう道もあり間違いはなさそ
うだ。だがここで道を間違えたら無駄足になってしまう。慎重に判断しなければと、電柱の札に目をやると。そこに
あった電柱の名前は「大楽寺支」となっていた。何?大楽寺? 確か一雲斎は大きな寺だと云っていたが、それなら
「一雲斎支」だろう。それが何で大楽寺支なんだ。
さっきの人の案内は一雲斎でなく大楽寺を案内してくれたのではないかと不安になってしまった。時間的余裕がある
ならこのまま進んでも良いが、袋井まで行くとなったら無駄足は踏みたくない。
悩んでいるとトラックが県道から曲がってきた。早速手を挙げて「この道は一雲斉に行く道ですか?」と聞くと
「アー そうだよ」と云って走り去ってしまった。
 この道で間違いない事は分かったが疑問は残ったままだ。気になって歩いていると畑仕事をしている人がいた。
「済みません。ここの地名は何て言うんですか」「大楽だよ」
「大楽と云うお寺があるのですか?」「イヤそんな寺はないが、ここは昔から大楽だよ」

よく理解できないが地元の人がそう言うなら仕方ないと歩き出すと、今度は屋台置き場があった。そしてその名前は
「大楽地屋台置場」となっていた。となるとここの地名は大楽地で電柱名が間違っていいるのだろうか???。

 
                  31番 一雲斎                     六地蔵          
      一雲斎の場所
 集落が途絶えた所に「涙橋」と名の付いたコンクリートの橋があり、ガイドブックにこんな話が載っていた。
「徳川家康の命により、一雲斎の仏像を可睡斎に移そうとしたところ、山門まで来ると仏像は動かなくなってしまい
ました。そこで山門を焼払い移そうとしたのですが、今度は門前の丸木橋の所で再び動かなくなってしまいました。
しかも仏像の両眼からは涙が流れていたばかりか、いつの間にか人の手も借りずに本堂の中に戻ってしまいました。
それからその丸木橋のことを涙橋と呼ぶようになりました。」

移動した仏さんがいつの間にか元の場所に戻ってしまう話は、金谷の「松島歩き観音」もそうだった。きっと仏像の
移転に反対する人がいて、移転できなかったが、それを反対派の所為にもできないので、仏像の自らの意思で動か
なかったとした方がお互い無難だったから、こんな話ができたのだろう。

 涙橋を過ぎ左手に紅梅などが咲く土手を過ぎると、広い駐車場の先に土塀の続く山門、その奥には本堂や庫裏、
左手には薬師堂が立つ堂々たる寺院が見えた
30番の玖延寺もそうだったがこんな場所にこんな大寺が、と驚いてしまった。一雲斎の謂れを見ると
「室町時代後期、川僧禅師により開創。川僧禅師は時の天皇が重病に陥ったとき宮廷に召され回復祈願したところ、
天皇はみごと平癒した。それ以来川僧禅師の名は全国に知れ渡り、信徒や諸国の大名の喜捨により、本堂は三層、
山門は間口十一間(20m)、奥行六間(11m)の二層で門弟は700人を超えていた。」
そうです。
今見てもその言い伝えが大袈裟ではないと思えるような堂々としたお寺だった。
 だがそれにしてもこの寺の名前は変わっている。まるで人の名前のようだ。お寺で変わった名前ですぐ思い出すのは
袋井の可睡斎や藤枝の盤脚院があるが、そのどちらの寺の名前も徳川家康が付けた名前だと云われている。
この一雲斎も徳川家康が命名したのかな?

 
                     一雲斎本堂                 お接待

 庫裏でご朱印を頼むとき、気になっていた寺の名前の事を聞いてみた。
「いえそんな話は伝えられていませんし、人の名前とも聞いていません。ただ袋井可睡斎と豊田の智恩斉、そして
ここの一雲斎で「遠州三斉」とは呼ばれています」

「遠州三斉」? 初めて聞く名前だが、ここ一雲斎と可睡斎は徳川家康と関連がある。ならば智恩斉も家康と何か
関係があるのではないかと、早速ネットを検索すると
「家康が信玄との戦いに敗れ、浜松城に敗走したが武田軍に追いつかれてしまい、戦況不利とみた家康が近くに
あった観音様に勝利を祈願した。この観音は、一生に一度しかも一言だけ願いを叶えてくれると伝えられており、
徳川軍は戦いには敗れたが、無事浜松城への退却に成功した。その後、この観音様は「一言観音」と呼ばれるよう
になり現在では智恩斎の山門脇に奉られている。」

ウーン! これで家康が観音様を智恩斉に移転させ褒賞を与えたなら、家康と智恩斉の関係が成立つのだが-------
 ついでに一言坂の戦いの有名な話も紹介しておきます。
「一言坂の戦いで徳川軍の本多平八郎忠勝は、得意の蜻蛉切の大槍を振り回し一人奮戦し、見方の軍を無事退却
さた。敵軍の武田軍から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と、その武勇を讃えられた。」

この中で出てくる「蜻蛉切」とは、刃長43.8cmの大身槍で、穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという
逸話もあり、天下三名槍の一つに数えられている。
さらに「唐のかしら」とは、家康が趣味で集めていたヤクの尾毛を飾りに使った兜を指すそうです。
もう一つ寺の入口の看板の事を聞くと、以前にはあったが腐って倒れてしまったの止めたそうです。
 一雲斎では寺名の入った光背と、寺の紋所入りの菓子をお接待された。ありがとうございました。

 
                薬師堂                          薬師堂

 紅梅の咲く境内にある薬師堂に入り、一人お詣りをする。十二神将は見る事ができたが、薬師三尊の厨子の扉は
閉じられていた。






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