歩行記録
歩行時間:9時間10分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間10分
出発時間:8時15分 到着時間:19時25分
歩 数: 56、787歩 GPS距離43.5km
行程表
岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅
***** 体調が回復しない日が続いていて、厄払いでもしなければと考えて思いだした事がある。
今年3月に歩いた「遠江四十九薬師」の遍路日誌が中断したままになっていた。
「さわらぬ神に祟り無し」と云うが、医薬の仏様である薬師様に一度は触れてしまったのに
途中で投げぱっなしにしたため神罰が当たっているのかもしれない。
てなわけで遠江四十九薬師の遍路日誌を再開します。 *****
28番岩水寺(続・竜神)
想定外で終わってしまった2回目の霊場巡りのつけが、3回目に早速出てしまった。駅から駅への遍路を
目標にしているので、今日のゴールも鉄道の駅にしたい。そうなるとJRの袋井駅か天浜線の敷地駅の
どちらかしかなかった。しかし袋井駅だと推定距離は40kmを越えてしまい、実質距離が45km以上になって
しまう恐れがある。かと言って敷地駅だと15km程度で、歩きが午前中には終わってしまいそうだ。
更に都合の悪いのは岩水寺は8時半からの受付なので、その前に行くとご朱印がもらえない事も分かった。
ウーン困った。しかしここは考えても仕方ない。ともかく岩水寺でご朱印を受けて、袋井駅を目指すしかない。
岩水寺駅に8時13分に到着。前回歩いた道を岩水寺に向かう。今日は風は強いが暖かなので出発時から
トレーナーは脱いでいた。前回のように冷たい風が強すぎるのも困るが、余り暑くなると歩く速度落ちてしまう
のでこれも困る。でもまだ3月14日なので、そこまで暑くはならないだろう。
前方に何とも味気ない入口が見えてきた。この様な施設を造る寺は金持の真言宗かと思ったら、まさに
その通りで真言宗高野山派の所属だった。しかしそんな思いを感じたのはその時だけだった。
山門手前の鐘楼に 「合掌して一礼し、一回心静かにおつき下さい」 との表示を見て鐘を突いてみた。
「グォ~ン」と重く余韻のある音が響き渡る。鐘の音は良いものだが、これも四六時中鳴っていれば煩く感じる。
四国でバス遍路の団体が、鐘の余韻も終わらないうち次々と鳴らしていたが、あれは頂けなかった。
ところで鐘は参拝のどこで突くか知っていますか? 四国遍路の心得として 「戻り鐘はつかない」 とあり
参拝の帰りに鐘は突かない事となっています。理由は神社の鰐口や鈴と同じで「これからお詣りします」と
神様、仏様に合図をするためだそうです。いわば一般家庭の呼鈴のような物なのでしょう。
赤い幟を見て遠江49薬師の幟かと思ったが違った。幟には 「天竜川竜神化身 厄除子安地蔵尊」 と
なっている。オット!早速竜神様の登場だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c5/e96c8b6f6268708b2ad5d19b7ba2340f.jpg)
岩水寺入口 岩水寺
岩水寺の地図
岩水寺の入口に額に入った幽霊のような写真が飾ってあるが、一体何なのだろう? 一見すると能か歌舞伎の
衣装のように見えるし、服装は男と云うより女性のようで幽霊のようにも見える。
岩水寺のHPを見ると
「高野山真言宗別格本山である龍宮山岩水寺は、神亀2年(725)行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み開創され
ました。その後延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂公東征時、天竜川の龍神様(蛇神様)が薬師如来の功徳に
より、玉袖姫という美しい女性に変身され、将軍様と恋に落ちました。
その後お子様である坂上田村麻呂俊光将軍は、人々の救済を願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた、
厄除子安地蔵様(国重文:伝弘法大師作)を岩水寺に安置されました。
昔から”家をまもるは岩水寺”と言われております。これは厄除子安地蔵様(龍神様)が母であり、実際に
子供を産んでいる女性が神仏になったという、非常に珍しい仏様であるからです。」
ヘエー!、あの幽霊が弘法大師が彫った厄除子安地蔵だったとは、とてもお地蔵さんには見えないな。
そうなると弘法大師は坂上田村麻呂か子供の俊光から赤蛇(竜神)の話を聞いて、地蔵を彫った事になるが、
時代は合っているのだろうか。調べてみると坂上田村麻呂は758-811年で、弘法大師は774年生まれだった。
これなら年代的には誤謬は生じていない。
何となく地蔵尊の由来は理解できた。ではHPでは竜神の話はどのように書いてあるのだろう。
「坂上田村麻呂将軍は勅命で東征の折、船岡山に到着した。当時はそれより先の天竜川は岩田の海と呼ばれる
程広く、荒れる事も多くて地元の人々を困らせていました。
そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、御祈願されました。すると寺のすぐ東側にある
天竜川の袖ヶ浦の荒れ狂う波の中から、美しい玉袖と名乗る姫が現れました。
将軍の愛人いなった玉袖は、やがて身重となり、いよいよ出産のとき「決してこの中を覗かれないで下さい。」と、
将軍に堅く言いおいて産屋へ入りました。それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、
心配になった将軍が産屋の節穴より覗いてみると、中には大蛇が赤子を舐めていました。
驚いた将軍が産屋の中に入ると、大蛇は玉袖姫の変身して
「自分はこの海に住む蛇です。本来の姿を見られたからにはお別れしなくてはなりません。ただこの子はどうか
立派な武将にお育て下さいませ。」と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行きました。
それから八年の年月が経ち、将軍は一子赤蛇丸(俊光)を同行してこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に
水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。水が干上がった時赤蛇は
岩水寺の赤池に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。
現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものです。またその玉が奉じられているのが浜松市
東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。」
ウン!中々面白い話だ。船岡山も岩田の海、袖ヶ浦、椎ケ脇渕等の地名も全て出てきているので説得力もある。
ただ最後の岩水寺の鍾乳洞が信州の諏訪湖に通じている話は、御前崎市佐倉の桜ヶ池の竜神伝説と同じだ。
マーどちらにしろ遠州は天竜川を介して諏訪湖とは繋がっていたので、そんな話が出来ても不思議ではない。
話はまだ続いていて次に幽霊の正体が分かる。
「成長した俊光は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上しました。
父が寵愛の頃の姿を現し給えと一七日間参籠し、満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ
「玉袖のかわく間もなし ここに来て われ母ならば 子安をぞいのる」といいつつ姿を消しました。
かくて俊光は衆生済度法悦楽土を築く為に母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師一刀三礼の地蔵尊を
銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。そして父田村将軍の守り本尊の
十一面観世音菩薩を岩水寺鬼門の守り神としました 。また田村将軍は岩水寺に寺領を寄付され、寺の名前を
龍宮山龍池院と名付けられました。」
ここまできてやっと幽霊の正体が分かった。初めは弘法大師の地蔵菩薩が幽霊かと思ったが、どうやらそうでは
なく、母玉袖の姿を写した比丘尼如来像が幽霊の正体のようだ。
尤もこれも私が勝手に解釈しただけで間違っているのかもしれないが。
山号の竜宮山にも面白い言い伝えがあったが、先を急ぐのでそれは次回の話としよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/06/5e96be99f186d5f6aa1ee0e0ce3a3528.jpg)
本堂の玄関 竜神化身厄除地蔵(HPより)
岩水寺の本堂は朝の掃除の最中だった。近くで掃除をしている僧にご朱印を頼むと気持ち良く受けてくれて、
「よかったら上がってお詣りしてください」と「見学者立入禁止」と書かれた本堂に誘ってくれた。
本堂のお詣りを済ませ薬師堂に向かう途中、弁天さんをお祀りしている所に池があった。その名前が「赤池」。
この小さくチャチな池が赤蛇が隠れた赤池なのか、これなら赤池など無い方が伝説が尤もらしく聞こえる。
これで分かった。御前崎市の桜ヶ池の竜神伝説が有名なのは、桜ヶ池が如何にも竜神が住んでいそうな池に
対して、この赤池は良いところ青大将がいる程度の池だからだ。
薬師堂の前にも赤い幟があり、こちらの幟も竜神化身の厄除地蔵の幟だった。ただ山門には遠江49薬師の
白い大きな看板はあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/4c/066abb0b226358ceec0b90b0b095f540.jpg)
本堂の沙弥壇 薬師堂の山門
歩行時間:9時間10分 休憩時間:2時間00分 延時間:11時間10分
出発時間:8時15分 到着時間:19時25分
歩 数: 56、787歩 GPS距離43.5km
行程表
岩水寺駅 0:15> 28番 0:50> 29番 0:20> 30番 1:35> 31番 1:10> 32番 0:30> 33番
0:20> 34番 0:40> 35番 0:20> 36番 0:40> 37番 1:15> 38番 1:15> 袋井駅
***** 体調が回復しない日が続いていて、厄払いでもしなければと考えて思いだした事がある。
今年3月に歩いた「遠江四十九薬師」の遍路日誌が中断したままになっていた。
「さわらぬ神に祟り無し」と云うが、医薬の仏様である薬師様に一度は触れてしまったのに
途中で投げぱっなしにしたため神罰が当たっているのかもしれない。
てなわけで遠江四十九薬師の遍路日誌を再開します。 *****
28番岩水寺(続・竜神)
想定外で終わってしまった2回目の霊場巡りのつけが、3回目に早速出てしまった。駅から駅への遍路を
目標にしているので、今日のゴールも鉄道の駅にしたい。そうなるとJRの袋井駅か天浜線の敷地駅の
どちらかしかなかった。しかし袋井駅だと推定距離は40kmを越えてしまい、実質距離が45km以上になって
しまう恐れがある。かと言って敷地駅だと15km程度で、歩きが午前中には終わってしまいそうだ。
更に都合の悪いのは岩水寺は8時半からの受付なので、その前に行くとご朱印がもらえない事も分かった。
ウーン困った。しかしここは考えても仕方ない。ともかく岩水寺でご朱印を受けて、袋井駅を目指すしかない。
岩水寺駅に8時13分に到着。前回歩いた道を岩水寺に向かう。今日は風は強いが暖かなので出発時から
トレーナーは脱いでいた。前回のように冷たい風が強すぎるのも困るが、余り暑くなると歩く速度落ちてしまう
のでこれも困る。でもまだ3月14日なので、そこまで暑くはならないだろう。
前方に何とも味気ない入口が見えてきた。この様な施設を造る寺は金持の真言宗かと思ったら、まさに
その通りで真言宗高野山派の所属だった。しかしそんな思いを感じたのはその時だけだった。
山門手前の鐘楼に 「合掌して一礼し、一回心静かにおつき下さい」 との表示を見て鐘を突いてみた。
「グォ~ン」と重く余韻のある音が響き渡る。鐘の音は良いものだが、これも四六時中鳴っていれば煩く感じる。
四国でバス遍路の団体が、鐘の余韻も終わらないうち次々と鳴らしていたが、あれは頂けなかった。
ところで鐘は参拝のどこで突くか知っていますか? 四国遍路の心得として 「戻り鐘はつかない」 とあり
参拝の帰りに鐘は突かない事となっています。理由は神社の鰐口や鈴と同じで「これからお詣りします」と
神様、仏様に合図をするためだそうです。いわば一般家庭の呼鈴のような物なのでしょう。
赤い幟を見て遠江49薬師の幟かと思ったが違った。幟には 「天竜川竜神化身 厄除子安地蔵尊」 と
なっている。オット!早速竜神様の登場だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/76/768ebed00c2526a3251aa9088beb4990.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/33/c5/e96c8b6f6268708b2ad5d19b7ba2340f.jpg)
岩水寺入口 岩水寺
岩水寺の地図
岩水寺の入口に額に入った幽霊のような写真が飾ってあるが、一体何なのだろう? 一見すると能か歌舞伎の
衣装のように見えるし、服装は男と云うより女性のようで幽霊のようにも見える。
岩水寺のHPを見ると
「高野山真言宗別格本山である龍宮山岩水寺は、神亀2年(725)行基菩薩が薬師如来の尊像を刻み開創され
ました。その後延暦年間征夷大将軍坂上田村麻呂公東征時、天竜川の龍神様(蛇神様)が薬師如来の功徳に
より、玉袖姫という美しい女性に変身され、将軍様と恋に落ちました。
その後お子様である坂上田村麻呂俊光将軍は、人々の救済を願い、お母様(龍神様)の魂が刻まれた、
厄除子安地蔵様(国重文:伝弘法大師作)を岩水寺に安置されました。
昔から”家をまもるは岩水寺”と言われております。これは厄除子安地蔵様(龍神様)が母であり、実際に
子供を産んでいる女性が神仏になったという、非常に珍しい仏様であるからです。」
ヘエー!、あの幽霊が弘法大師が彫った厄除子安地蔵だったとは、とてもお地蔵さんには見えないな。
そうなると弘法大師は坂上田村麻呂か子供の俊光から赤蛇(竜神)の話を聞いて、地蔵を彫った事になるが、
時代は合っているのだろうか。調べてみると坂上田村麻呂は758-811年で、弘法大師は774年生まれだった。
これなら年代的には誤謬は生じていない。
何となく地蔵尊の由来は理解できた。ではHPでは竜神の話はどのように書いてあるのだろう。
「坂上田村麻呂将軍は勅命で東征の折、船岡山に到着した。当時はそれより先の天竜川は岩田の海と呼ばれる
程広く、荒れる事も多くて地元の人々を困らせていました。
そこで田村将軍は船岡山から鬼門(北東)にある岩水寺に参拝し、御祈願されました。すると寺のすぐ東側にある
天竜川の袖ヶ浦の荒れ狂う波の中から、美しい玉袖と名乗る姫が現れました。
将軍の愛人いなった玉袖は、やがて身重となり、いよいよ出産のとき「決してこの中を覗かれないで下さい。」と、
将軍に堅く言いおいて産屋へ入りました。それから七日経ちましたが一向に出る気配がありません。外は大嵐となり、
心配になった将軍が産屋の節穴より覗いてみると、中には大蛇が赤子を舐めていました。
驚いた将軍が産屋の中に入ると、大蛇は玉袖姫の変身して
「自分はこの海に住む蛇です。本来の姿を見られたからにはお別れしなくてはなりません。ただこの子はどうか
立派な武将にお育て下さいませ。」と2つの宝珠を渡して岩水寺の赤池(閼伽池)へ消えて行きました。
それから八年の年月が経ち、将軍は一子赤蛇丸(俊光)を同行してこの地に来ました。そして荒れ狂う岩田の海に
水干の玉を投げ入れました。すると海はたちまち汐が引き広々とした陸地になりました。水が干上がった時赤蛇は
岩水寺の赤池に隠れ、そこから奥の洞穴(鍾乳洞)に入り、その後鹿島の椎ケ渕へ入られました。
現在の浜松市天竜区の椎ケ脇神社は将軍がこの赤蛇を祀ったものです。またその玉が奉じられているのが浜松市
東区の有玉神社です。また鍾乳洞は信州(長野県)の諏訪湖に繋がっていると云われております。」
ウン!中々面白い話だ。船岡山も岩田の海、袖ヶ浦、椎ケ脇渕等の地名も全て出てきているので説得力もある。
ただ最後の岩水寺の鍾乳洞が信州の諏訪湖に通じている話は、御前崎市佐倉の桜ヶ池の竜神伝説と同じだ。
マーどちらにしろ遠州は天竜川を介して諏訪湖とは繋がっていたので、そんな話が出来ても不思議ではない。
話はまだ続いていて次に幽霊の正体が分かる。
「成長した俊光は母の姿を知らない事を悲しく思い、母を地蔵菩薩として崇めたい旨を天子に奏上しました。
父が寵愛の頃の姿を現し給えと一七日間参籠し、満願の夜、雷鳴轟く豪雨の中に母が現れ
「玉袖のかわく間もなし ここに来て われ母ならば 子安をぞいのる」といいつつ姿を消しました。
かくて俊光は衆生済度法悦楽土を築く為に母玉袖の姿をお比丘尼如来像とし、弘法大師一刀三礼の地蔵尊を
銘「子安地蔵大菩薩」(国指定重要文化財)として岩水寺に安置されました。そして父田村将軍の守り本尊の
十一面観世音菩薩を岩水寺鬼門の守り神としました 。また田村将軍は岩水寺に寺領を寄付され、寺の名前を
龍宮山龍池院と名付けられました。」
ここまできてやっと幽霊の正体が分かった。初めは弘法大師の地蔵菩薩が幽霊かと思ったが、どうやらそうでは
なく、母玉袖の姿を写した比丘尼如来像が幽霊の正体のようだ。
尤もこれも私が勝手に解釈しただけで間違っているのかもしれないが。
山号の竜宮山にも面白い言い伝えがあったが、先を急ぐのでそれは次回の話としよう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/53/dc/27e7e024a75c3f1f5a2d3d64573ee692.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/06/5e96be99f186d5f6aa1ee0e0ce3a3528.jpg)
本堂の玄関 竜神化身厄除地蔵(HPより)
岩水寺の本堂は朝の掃除の最中だった。近くで掃除をしている僧にご朱印を頼むと気持ち良く受けてくれて、
「よかったら上がってお詣りしてください」と「見学者立入禁止」と書かれた本堂に誘ってくれた。
本堂のお詣りを済ませ薬師堂に向かう途中、弁天さんをお祀りしている所に池があった。その名前が「赤池」。
この小さくチャチな池が赤蛇が隠れた赤池なのか、これなら赤池など無い方が伝説が尤もらしく聞こえる。
これで分かった。御前崎市の桜ヶ池の竜神伝説が有名なのは、桜ヶ池が如何にも竜神が住んでいそうな池に
対して、この赤池は良いところ青大将がいる程度の池だからだ。
薬師堂の前にも赤い幟があり、こちらの幟も竜神化身の厄除地蔵の幟だった。ただ山門には遠江49薬師の
白い大きな看板はあった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/e3/c9d3492562944bafa85104bf383b998a.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/4c/066abb0b226358ceec0b90b0b095f540.jpg)
本堂の沙弥壇 薬師堂の山門