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第1章 文献等から探る千葉恭(テキスト形式)

2024-03-17 16:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
第1章 文献等から探る千葉恭

1 千葉恭探索開始
 さて、宮澤賢治の下根子桜時代はずっと「独居自炊」だったわけではなさそうだ。その時代に一緒に暮らしていた千葉恭なる人物がいたということを知るに至って、私は戸惑いと共にこの真相が解りたいという想いが強くなっていった。
 そこで先ずは『宮沢賢治 語彙辞典』(原子朗著、東京書籍)で千葉恭を引いてみたのだが、千葉恭なる人物の項目は……?いくら頁を捲っても、頁を捲り直しても…やはりない。ということは千葉恭なる人物は賢治との関係で言えばそれほど重要な人物ではないのか。
 しかし待てよ、賢治と下根子桜で一緒に生活していたという人物がいたのならばそもそも賢治の下根子桜時代は「独居自炊」でなくなる。また寝食を共にすればお互いのことを裏も表も知り合えるわけだから、賢治研究という立場から言えばかなりの重要人物でかつ貴重な存在であるはずなのにと訝りつつ、次の手をどうしようかと思案した。
 ならばと、インターネットで千葉恭関連の文献等を検索してみたところそのリストは以下のとおりだった
【千葉恭関連文献】のリスト
(1) 「宮澤先生を追ひて」<千葉恭著、『四次元4号』(昭和25年1・2月、宮澤賢治友の会)>
(2) 「宮澤先生を追つて(二)」<千葉恭著、『四次元5号』(昭和25年3月、宮澤賢治友の会)>
(3) 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」<千葉恭著、『四次元7号』(昭和25年5月、宮澤賢治友の会)>
(4) 「宮澤先生を追つて(四)」 <千葉恭著、『四次元9号』(昭和25年7月、宮澤賢治友の会)>
(5) 「宮澤先生を追つて(五)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元14号』(昭和25年12月、宮澤賢治友の会)>
(6) 「宮澤先生を追つて(六)羅須地人協会と肥料設計」<千葉恭著、『四次元16号』(昭和26年2月、宮澤賢治友の会)>
(7) 「羅須地人協会時代の賢治」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊2号』(昭和30年1月、宮澤賢治の会)>
(8) 「羅須地人協会時代の賢治(二)」<千葉恭著、『イーハトーヴォ復刊5号』(昭和30年5月、宮澤賢治の会)>
(9) 「賢治抄録」<千葉恭著、『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房発行(昭和33年)>
(10) 「賢治と千葉恭のこと」<佐藤成著、『ふるさとケセン67号』(ふるさとケセン社、平成14年3月)>
 以上がその時点で検索出来た千葉恭関連の文献等の全てであった。それほどの苦労もせずにこれらのリストを調べられる便利な時代になったものだと感心しつつ、これだけのものがあるのならばそれらのうちのいずれかにその「日」及び「期間」が書かれているであろうと楽観していたし、期待していた。
 そこでこのリストを持って早速『宮沢賢治イーハトーブ館』に出掛けた、これらの文献そのもの等を見せてもらおうと。イーハトーブ館は大変親切だ。一般人に対しても資料は見せてくれるし、「宮沢賢治学会イーハトーブセンター」の会員になればそのコピーも出来るという。私は即会員になって資料を見せてもらった。

2 『ふるさとケセン67号』より
 まずはタウン誌『ふるさとケセン67号』を見てみた。この冊子の中で佐藤成氏は「賢治とケセン⑫ 賢治と千葉恭のこと」というタイトルで次のようなことなどを述べていた。
 賢治が花巻農学校の教師三年目を迎えた大正13年の11月12日、賢治は学校の水田で収穫した米を大八車に積み生徒五、六人で穀物検査所へ運び、「この一俵は早生大野で、これは陸羽一三二号、これは愛国ですが、品種毎に等級検査から見た点を説明してください」と依頼した。
 このときに対応したのが千葉恭である。千葉はこの3月に水沢農学校を卒業し、10月岩手県穀物検査所花巻出張所に着任したばかりの18歳であった。彼は明治39年生まれ、気仙郡盛町の出身で、賢治より十歳の年下である。…(略)…
 そして、羅須地人協会時代の賢治に千葉は「君も来ないか」と誘われ、それから一緒に自炊生活をはじめたが、千葉は「二人の生活は実にみじめなものでした」と語っている。
<『ふるさとケセン67号』)>
 そうかたしかに千葉恭なる人物は賢治と下根子桜である期間一緒に暮らしていたのだ、この文章を読んでみてそう確信した。下根子桜時代が最初から最後まで「独居自炊」だったというわけではなかったのだ、と。
 ところでこのエピソードは『イーハトーヴォ復刊2号』、『同5号』そして『四次元7号』を基にして書いていると佐藤成氏は注釈しているので、次はこれらの冊子を見てみた。

3 『イーハトーヴォ復刊2号』より
 まずは『イーハトーヴォ復刊2号』を見てみる。この冊子の中には千葉恭が「羅須地人協会時代の賢治」というタイトルで行った講演(昭和29年12月21日)の内容が綴られていて、次のようなことなどが記されていた。
 文学に関しては、私は何も知ることはありませんが、私が賢治と一緒に生活して参りましたのは私自身百姓に生まれ純粋に百姓として一つの道を生きようと思ったからでした。そんな意味で直接賢治の指導を受けたのは或いは私一人であるかも知れません。
 賢治と私との関係は私が十九才のとき、花巻の穀物検査所に就任しこれで生活しようと考えておつた時代で、当時賢治は花巻の農学校の先生をしておられ、年令からすると凡そ十才も違つていたでしようか。その年は豊作で立派な米が出来、賢治が穀物検査所にこれは何等米だとか、米の食生活に及ぼす関係とかで参つたことがございます。私も学校を出たばかりで、これは何等米だという米の等級づけの理由を訊かれ、肥料成分の如何によるものだ言えば、それはどういう訳だといろいろ質問され、とうとう質問攻めにされついには怒つてそんなことには返答しないと言つてしまつたことがあり、この実習教師は生意気な奴だと思つておりました。
 勿論私は賢治であることは知つておらずただの実習教師であろうぐらいに思つておりました。そのようなことがあつた次の晩に私のところに電話があり、宿直だから学校に遊びに来るようにとの電話でしたが、下宿のおばさんにお聞きして宮沢先生であろうということを知つて出かけて行つたものでした。そんな関係からぼつぼつ賢治と知り会うようになりました。
 実際彼は変わりものでしたし、私も少し変わりものでしたので、むしろ喜んで受け入れてもらい、親しくなつて参りました。それから宿直の度毎に電話があり、出かけて種々話をして参りました。二人の語らいというものは殆ど百姓の問題ばかりでありました。
 そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。…(略)…
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。しかしどやされたけれども、普通の人からのとは別に親しみのあるどやされ方であつた。しかも〝こらつ〟の一かつの声が私からはなれず、その声が社会を見ていく場合常に私を叱咤するようになつて参りました。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
 ここで千葉恭が語っている穀物検査所での賢治との出会いとは、佐藤成氏が言うところの大正13年11月12日のそれのことであろう。賢治の質問攻めに千葉恭はかなり辟易したであろうことがありありと目に浮かぶ。なお、ここに松田甚次郎という名前が出てきていることは注目に値する。後でこの部分の千葉恭の証言は大きな役割を果たすことになるからである。
 さらに千葉恭は次のように続ける。
 私は農事関係の指導面から賢治をみた場合、彼は科学的な農民の指導者であつたと感じています。これらのことはさつきの話にもありましたが、一つの例は、賢治が各町村の講演を頼まれたとき私も腰巾着としてお伴をしたことがありますが、彼は自分の知っている範囲のことは徹底的に教えてやろうという態度がうかがわれました。しかしそれは知識程度の低い百姓にとつては架空のことに感じられたようです。あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので、三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた。話が終わつて後に、自分の方からも説明しなければならないようでした。…(略)…
 羅須地人協会の設立の目的というものは、自分に語つたところによると、百姓に稲の目的を言っても医者が病人を診断して薬を与えると同じでその細部に関してはわからないから、自分達が土地設計をして農民を指導していかなければならない。それには気候・土質・肥料の問題が大切であり、これは農芸化学としても一番面倒で而も最も大切なところであるが、現在の百姓はそんなことは知らないし又知ろうとしない。これを知らしめることが必要なのだ。百姓の喜びは収穫の喜びなのだ、というわけで毎年十一月~翌年二月まで集会をもつた。最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して〝いちの川〟というところの土間を借りて勉強しておりました。次の年から忙しくなつて私も応援を頼まれてお手伝いしました。
 賢治は三年間肥料設計をしてやり、その後は結果をみて設計いたしましようと言つておられたが、惜しいかなその結果を見ずして死なれたわけです。
<『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)>
 というわけで、上述の証言から次のようなことなどが言えそうだ。
(1) 千葉恭自身が賢治と一緒に暮らしたと言っているのだから、賢治が下根子桜でずっと「独居自炊」生活をしていたわけではないというのは事実であったのであろうこと。
(2) 千葉恭にしてみれば下根子桜の寄寓は賢治からの誘いによるものであったということ。それは賢治自身が一人では自炊生活をやっていけそうになかったから誘ったのだろう、と千葉恭は忖度していたこと。千葉恭は賢治を不憫に思って寄寓したのではなかろうかということ。さらには、これだけしばしば賢治は千葉恭と農業や農民のことを語り合った仲なのに、花巻農学校を辞める理由を一切明かさなかったこと(そのつれなさが彼をして「賢治は何を思つたか知りませんが」という突き放した表現になっているのではなかろうか)。
(3) 千葉恭にしてみれば、二人での生活は実に惨めなものだったこと。
(4) 千葉恭の言い回しは慎重だが〝徹底的にいじめられた〟という表現や〝松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた〟という表現から、弟子入りしたという立場からか賢治は二人に対してかなり厳しい指導をしたようだということ。
(5) 「あのような先生のやり方では、教わる方では受け入れが出来ていないので三時間の講演もそれほど意味があると思われなかつた」と千葉恭が評価していることから、賢治の講演はそれほど実効的ではなかったとも考えられること。また、千葉恭は批判精神もあるということが解る。
(6) これだけのことが賢治と千葉恭との間にありながら、羅須地人協会に集っていた他のメンバーの口からは千葉恭に関するエピソードが語られていないのではなかろうかということ。
(7) 賢治と千葉恭との間の関係は結構微妙だったのではなかろうかということ。
などということが言えそうである。ただし残念ながらここにもあの「日」及び「期間」に関してははっきりとは書かれていなかった。

4 『イーハトーヴォ復刊5号』より
 では次は、前述した講演会後の質疑応答<*1>を見てみたい。それは『イーハトーヴォ復刊5号』に「羅須地人協会時代の賢治」と題して掲載されているので、その中から幾つか抜粋して見る。
問 講演会はどの様にしてもたれたか。
答 百姓たちが進んで賢治に依頼したようだ。賢治も又その依頼の真劍さに対して喜んで出かけて行つた。聴講者は七、八〇人、多いときは三百二十人位で、学校や役場の二階を利用した。話しぶりはむしろ詳細に過ぎるという具合なのでその点を忠告すると、〝僕はそう思わないが〟と言つておられた。
 私たちが五の頭で先生が二十では、こちらがまいつてしまう。賢治は自分の知つていることは全部何でも、而も限られた時間のうちに話して聞かせたいのだし、賢治自身ごく簡単なことと思つていることが、人々にとつては案外むずかしいことであつた。これらは大正十四、十五年の頃のことである。
 それで講演会の結果、話が分からなければ、設計肥料をして上げるから来るようにと言つた。昭和三年頃までに二、三千人の人に設計してやられたことと思う。
問 羅須地人協会ので生活について。
答   …(略)…
賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだつた。
農民の指導は、その最低の生活をほんとうに知つて初めて出来るのだと言われた。米のない時は〝トマトでも食べましよう〟と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
    ×
金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけた<*2>こともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生が取られた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論ゆかず、そのまま十字屋に返して来た。蓄音器は立派なもので、オルガンくらいの大きさがあつたでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだつた。
   …(略)…
ある時、レコードをかけてもらつたことがあつて、しばらく黙つて聴いておつたが、途中で私が思わず〝いやッ、そこがいいところだ〟と言つてしまつた。賢治は大きな声で〝こらッ〟とどなつた。全部聴き終わつてから後で、〝人間の感情としては、よいところはよいと言うべきではあるが、全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ〟と言われた。…(略)…
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
<*1>この講演及び質疑応答は昭和29年12月21日の「賢治の会」例会で行われたものである。
<*2>この蓄音器の件については、千葉恭自身が別なところで語っている内容とやや異なっているがこのことに関しては後述したい。
なお、この当時千葉恭は農林省岩手県食糧管理事務所和賀支所長であった。
 さてこれらの質疑応答から窺えることとして次のようなことがあげられると思う。
 千葉恭が一番困ったこと
 それにつけてもこの質疑応答の中でつい苦笑してしまったのは、千葉恭が
「一番困つたのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだつた」
と述懐しているところである。というのは、森荘已池が
 すると賢治は、「御飯は三日分炊いてあるんス」と、母をおどろかした。お母さんが、「どこに。あめてしまうべ」と言うと、「ツボザルさ入れて、井戸にツナコでぶら下げてひやしてあるンス―」と答えた。
<『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷印刷出版部)>
と語っていることを思い出したからである。
 千葉恭が下根子桜に寄寓していた頃は彼に米を毎日買いに行かせている賢治なのに、森の語るこのエピソードはそれこそ「独居自炊」生活時代のことだろうが、賢治自身が御飯を炊く時には三日分をまとめて炊いている。ということは賢治は毎日炊きたての御飯を千葉恭に食べさせたかったからそうしたのだろうか、それとも賢治はダブルスタンダードだったのだろうかなどと考えてしまった私はつい苦笑いしてしまった。賢治も案外人間的じゃないかと。

 賢治の気性の激しさ
 そして、この質疑応答で一番意外だったことは
「途中で私が思わず〝いやッ、そこがいいところだ〟と言つてしまつた。賢治は大きな声で〝こらッ〟と、どなつた」
というくだりである。
 賢治の気性は案外激しいところもあったと聞いてはいたが、このエピソードはまさしくその一例かなと思った。また、千葉恭は賢治から「自分も徹底的にいじめられた」とか「〝こらつ〟の一かつの声」でどやされたと言っているわけだが、その具体例の一つがこれなのだろうと私は認識した。
 賢治の物の見方考え方
 次にこの質疑応答でなるほどと得心したことは、賢治は
「全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ」
と語っていたということである。というのは賢治が伊藤忠一へ宛てた手紙の中で
根子ではいろいろお世話になりました。
たびたび失礼なことも言ひましたが、殆どあそこ(筆者註:「羅須地人協会」のこと)でははじめからおしまひまで病気(こころもからだも)みたいのもので何とも済みませんでした。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>
と謝っていることをあるとき知ったが、そのことに対して私はやや違和感を感じていた。
 ところが今回、「全部を聴いてから批判すべきだ。途中でとやかく批判すべきではない。これはどういう場合でもそうなのだ」と賢治が諭したということを知った。すなわち、全てが終わった後、初めて総体を振り返って批判せよという物の見方と考え方を賢治はしていたことになる。そこでこの論理に従えば、伊藤忠一に宛てた手紙で賢治が語っていることは下根子桜での営為を総括しての自己評価を正直に吐露しいたいうことになる。したがってこの賢治の悔恨はそのまま素直に受けとめればいいのだと、すなわち百%の納得をしていいのだと得心した次第である。
 冷静に考えてみれば賢治は何一つ全う出来なかったと誹る人もあるが、そのことは本人の賢治自身がそれ以上に自覚していてさぞかし忸怩たる想いであったに違いないと、下根子桜から豊沢町の実家に戻って病臥していた頃の賢治の心中を察した。そしてその賢治の悔恨の情が「雨ニモマケズ」の中で〝デクノボー〟という表現をなさしめた一つの要因だったのかな、と。

5 「宮澤先生を追ひて」より
 ではここからは、『四次元』の中に千葉恭がシリーズで連載した「宮澤先生を追ひて」を見ていきたい。
 賢治と出会う前までの千葉恭
 まずはその初回が載っている『四次元4号』から見てみよう。そこで千葉恭は次のように述べている。
 現代社會の別の世界を求めてそこに生きて行くことが私の今の心であり實行であるのです。私が先生と知り合つたのは大正十三年秋、私がまだ十九歳の大人の世界に立ち入る境で、大人の世界に入る試験期といつた境でした。…(中略)…
 その年もいよいよ秋となりみちのくの山國にも、水田には黄金の波うち、小さい風にもキンキンと音をしてたなびいてゐました。それは大正十三年の秋でした。百姓達は経営経済上田から穫った稲を調整して、商人を相手に現金と交換する時、生産者と商人の取引に正確な格付けをするのが私達の仕事でした。(出荷する米に等級を決定する検査)そろそろ忙しくなりかけてきた十一月十二日、秋としては珍しいほどよく晴れた日でした。
<『四次元4号』(宮澤賢治友の会)>
 聞くところによると、食管法(食糧管理法)は昭和17年に制定されたということだから、この当時(大正13年頃)はもちろんまだ食管法などというような制度はなかった。そこで、農家は米相場を睨みながら自分の判断で俵米を売っていたことになる。だからもし判断を誤ると悲劇が起こる。例えば、どうせ秋になれば自分の田圃から米は穫れるのだから米貨が高い時点で手持ち米を売ってしまえということもあったであろう。ところがその年の秋、当てにしていた米が凶作で穫れないということになると、なんと農家なのに米を購入しなければならないという悲劇が起こる。
 話が少し横道にそれてしまったので元に戻そう。いずれ、自分の田圃から収穫したお米の出来が如何ほどのものであるかは農家にとっては最大の関心事なわけで、千葉恭はその等級付けの仕事をしていたわけである。
 出会い後の千葉恭と賢治
 この千葉恭の回想では次に例の「米の等級検査のエピソード」が続くのだが、それは以前触れたことなのでここでは割愛する。さらにその後には、翌々日のエピーソードが次のように語られている。
「先日は失禮致しました私は宮澤と云うものですが、あなたに是非お會ひいたしたいのですが、今農學校の宿直室にをりますからお出でいたゞけませんでせうか」と、電話を切つたのですが、何せ知らぬ他人のところに來いと言はれても何となく行くのがおつくうでしたが、さうかといつて行かねば申譯ないやうな氣がされたし、また會ひたい様にも考へられたので、秋の晴れた月の夜を散歩がてら出かけて見ることにしました。…(略)…。
「實はあのとき私は等級を附けて貰ひましたが、何だかその時は、一生懸命になつて作つたものを臺なしにされた様に思はれたのですが、學校に帰つてからちよくちよく考へて見ましたが、やつぱりあなたが付けた等級に間違ひないことを知り感心して了ひました」…(略)…
 最後に私が考へた結論として、やつぱり稲作其他農事に就ては深く研究してゐる靑年教師だなと斷定したのでした。其後二、三日位に一囘の電話があり、學校に訪ねたり、家庭に訪ねて行つたりして、農事に関する種々の問題を質問して、私としては私の好きな農事の大先生を見出したやうな氣がされて本當に嬉しかったのでした。
<『四次元4号』(宮澤賢治友の会)>
ということから千葉恭は賢治を〝農事の大先生〟として尊敬し、出会えたことを素直に喜んでいることが判る。そして、2、3日に一回の割合で二人は直接会って農事問題を熱く語り合ったであろうことも窺える。
 とはいえ、この「宮澤先生を追ひて」における千葉恭の賢治に対する心情と以前触れた「羅須地人協会時代の賢治」におけるそれとでは微妙な違いがあると私は感じ取ってしまった。この「宮澤先生を追ひて」は昭和25年に書かれたもの、一方の「羅須地人協会時代の賢治」は昭和29年に語られたものであるようだから、もしかするとその時間的な流れの間に彼の賢治に対する心情や評価が少しずつ変化していったということなのかもしれない、と。

6 「宮澤先生を追つて(三)」より
 ここでは時系列を考慮して先に「宮澤先生を追つて(三)」の方を先に見てみたい。その内容は大正15年の、下根子桜における賢治のたたずまい等に関わる次のようなものである。
 下根子桜の朝の賢治
 「宮澤先生を追つて(三)―大櫻の實生活―」
 大正十五年の春、先生は農學校を退いてから、花巻町の南端大櫻という部落に移りました。…(略)…春雨が長く續き北上川の水が増して、水音は何んとなくどんよりとした空に響き合ひいひ知れない音を立てゝ流れてゐます。先生はその音をたゞだまつて聽いてゐました。何を聽いてゐたのでしょうか?
 北上川をへだてゝ北上山脈は目の前に展開しています。夏の暑い眞晝むくむくと湧き上がる入道雲を、頭上に押して來る時もだまつて見てゐました。この建物の前の雑木林が赤くなる秋の夕映へもだまつて見てゐました。また裏の杉林を北風が少しの隙を急いで通り過ぎる音もだまつて聽いてゐました。
 かうして四季の景色の變つて行くのを眺めながら、先生は黙々と考へてをられたやうでした。たゞ先生は一番その家に居て嬉しかったのは、四季ともに共通に晴れた朝を北上山脈の頂上から、新しい空を破つて静かにのぼる太陽を見た時です。その時は何をやめてもまばたき一つせず、ぢつと見つめ朗々とした聲を張り上げて法華経を讀上るのでした。静かな朝の新しい空氣に響いて北上川を越へ杉林を渡り流れていくのです。そして初めてここかしこに鶏の聲はあがり、遠く路を行く荷車の音が聞こえて來るのでした。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 この部分からは、下根子桜での賢治のたたずまいがありありと目に浮かんでくる。下根子桜の別宅に寄寓していた千葉恭は賢治のことをじっくりと観察していたのだろう。
 下根子桜での賢治の目的
 引き続き「宮澤先生を追つて(三)」を見てみよう。
 大櫻の家は先生が最低生活をされるのが目的でしたので、台所は裏の杉林の中の小さい掘立て小屋を立て、レンガで爐を切り自在かぎで煮物をしてをられました。燃料はその邊の雑木林の柴を取つて來ては焚いてをられました。食器も茶碗二つとはし一ぜんあるだけです、私が炊事を手傳ひましたが毎日食ふだけの米を町から買つて來ての生活でした。…(略)…
 朝食も詩にあるとほり少々の玄米と野菜と味噌汁で簡単に濟ませ、それから近くの草原や小さい雑木のあつた處を開墾して、せつせつと切り拓き色々の草花や野菜等を栽培しました。私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しましたが、実際貧乏百姓と同じやうな生活をしました。汗を流して働いた後裏の台所に行つて、杉葉を掻き集めては湯を沸かして呑む一杯の茶の味のおいしかつたこと、これこそ醍醐味といふのでせう!時には小麦粉でダンゴを拵へて焼いて食べたこともありました。毎日簡單な食事で土の香を一杯胸に吸ひながら働いたその氣分は何ともたとへやうのない愉快さでした。開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きでなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。先生が大櫻にをられた頃には私は二、三日宿つては家に歸り、また家を手傳つてはまた出かけるといつた風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 この部分からは、私は新たに次の3点を知ることが出来た。
 その一つ目は、一般に賢治が下根子桜で自炊農耕生活しようと思った理由やその目的は今一つはっきりしていないのではなかろうか今まで思っていたが、彼が賢治から聞いていたであろうそれは
 〝最低生活をするのが目的〟
だったということを知ったことである。宜なるかなと思った。たしかに、下根子桜での生活はまさしくそのとおりのようだったからである。
 二つ目は、「私は寝食を共にしながらこの開墾に從事しました」ということだから、それまで私は下根子桜での開墾は賢治一人でしたものとばかり思っていたが、賢治は彼に手伝ってもらっていたということである。
 三つ目は、千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間の寄寓の仕方が分かったことである。長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子桜の別宅に二、三日泊まっては彼の実家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったということのようだ。  
 断りの使者
 ところで、賢治は白鳥省吾の訪問を許諾しておきながら千葉恭に断りに行かせたということがあったと聞いていたが、そのことがここでは引き続いて次のように語られている。
 ある年の夏のことでありましたが朝起きると直ぐ
「盛岡に行つて呉れませんか」
私は突然かう言はれて何が何だか判らずにをりますと、先生は静かに
「實は明日詩人の白鳥省吾と犬田卯の二人が訪ねて來ると云ふ手紙を貰っているのだが、私は一應承諾したのだが―今日急に會ふのをやめることにしたから盛岡まで行って斷はつて來て貰ひたいのです」
そこで私は午後四時の列車に乗つて盛岡に出かけることにしました。車中で出る前に聽いた先生の言葉が、何んだかはつきり分からずに考へ直してみたのでした。
…(略)…控室に案内されて詩人達に會はして貰ひました。そして「私は宮澤賢治にたのまれて來た者ですが、實は先日手紙でお會ひすることにしていたのださうですが、今朝になつて會ひたくない―斷つて來て下さいと云はれて來ました。」田舎ものゝ私は率直にかう申し上げましたところ白鳥さんはちよつと驚いたやうな顔をしましたが、しばらくして、「さうですか、それは本當におしいことですが、仕方ありません―」
   …(略)…
「濟みませんが先生が私達に會はないわけを聞かして下さい」
私はちよつと當惑しましたが、私の知つていることだけもと思ひまして
「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから先生の今の態度は農民のために非常に苦勞しておられますから―」
私はあまり話せる方でもないのでさう云ふ質問は殊に苦手でしたし、また宿錢も持つてゐないので、歸りを忙ぐことにしたのでした。盛岡を終列車に乗って歸り、先生にそのことを報告しました。私は弟子ともつかず、小使ともつかず先生に接して來ましたが、詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しそうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 さてこの断りの使者としての千葉恭の心境は如何ばかりだったであろうか。一旦会うことを約束していたのに、「急に會ふのをやめることにしたから」と約束していた前日に賢治から言われて、その旨を断りに行くのが千葉恭であれば気が進まなかったのは当然であったであろう。その心理が「小使ともつかず先生に接して來ました」という表現をさせているに違いない。
 賢治と千葉恭の共同生活期間
 ここまで千葉恭のことを調べて来てすっきりしないことの一つに、千葉恭は下根子桜の別宅で賢治と一緒に生活していた期間等を明らかにしていないということがある。穀物検査所で賢治と初め出会った月日とか、初めて豊沢町の賢治の家を訪れた月日ははっきり判るのに、である。千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していたのはこの年(大正15年)の前半の半年らしいが、一体いつ頃からいつ頃までは寄寓していたのだろうか。前述のとおり「春雨が長く續いたために増水した北上川の流れの音を賢治はたゞだまつて聽いてゐました」と千葉恭が述べていることから、この頃既に彼は下根子桜の別宅にもう寝泊まりしていたと考えて良いのだろうか。
 そこでとりあえずここままで探ってきた事柄から次のようなことが言えるのではなかろうか。
・千葉恭は大正15年7月25日の朝起きると直ぐに断りの使いを頼まれ、その夕方盛岡に来ていた白鳥省吾に断りに行った。そして下根子桜に帰ったのがその日の深夜と考えられるから、これは彼が賢治と一緒に暮らしていた時期の出来事と見なして間違いなかろう。
・更に、前述のように大正15年、春の長雨で増水した北上川の流れ、真夏の入道雲そして雑木林が赤くなる秋の夕映えの下根子の様子を詳らかに述べているから、少なくともこの期間つまり大正15年の春から晩秋の間は、千葉恭は下根子桜に寝泊まりしていたと考えらる。
 一方で『イーハトーヴォ復刊5号』でも触れたように、千葉恭自身が「私が煮炊きをし約半年生活をともにした」と言っているのだから、このことも合わせ考えれば、
〝千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間は大正15年の 春からの半年間である。〟 
ということがとりあえず言えそうだ。

7 「宮澤先生を追つて(二)」より
 千葉恭の帰農と研郷會
 では今度は前に戻って「宮澤先生を追ひて(二)」の方を見てみたい。次のようなことが述べられている。
 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
 家に歸ることについては先生は非常に喜んでくれました。家には年寄ばかりで朝から晩までせつせつと働き續けるのを見てはぢつとしてはゐられなくなり、私は元氣を出して働き出したのです。田舎の朝の空氣一番先に胸一杯吸ふのはやつぱり百姓だ!私もその百姓として先生の教へを乞ひつゝ働きつゞけて美しい農民の生活に入つて行こうと決心したのです。鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました。…(略)…
 村で農學校を卒業して働いてゐる青年は三十二名もありましたので、稲作も濟んだある夜役場に集まつて、何とか農村日本の美風を保つて行きたいと相談しました。その結果先づ農村は味氣なく殺風景だから、文化による向上で農民の土に親しむ道を講じ、それと共に農會の機能を活發に活動するやう促進させることであると、各人担當研究員として組織し農會を盛り立てゝ行くことゝしました。そして實地農業技術の透徹であり、農業経営の理想化と自然に親しむ芽生えの昂揚であることを強調しました。それでこれを組織化する必要に迫られ、研郷會と云ふ名稱の下に組織して水稲関係は水稲の担任者の意見、副業関係は副業担任者意見によつて、農民の働く力を増進させること、それと共に一方靑年によつて農民劇を、子供には童話會を開催して文化により土に親しみ土地を去る心をおさへることに腐心しました。
    研郷會規則
一、この會は農村の隆盛と技術の向上により理想化し親しみのある農民の集合である。
二、この會は研郷會として事務所を會長宅に置く。
三、この會は事業の遂行のために左のことを行ふ。
 1.各種目の研究を担當する
 2.研究會・座談會・普及會・農民劇・童話會・農事視察・農事調査を開始する
 3.その他必要なる事項
四、この會には農民の誰もが入りうる。
五、この會の事業は奉仕的にやり役員を必要とする。
 1.会長 一名 2.専任役員 四名 3.研究員 三十名 4.修養員 十名 5.幹事 若干名
六、この會は互いに随時集まり必要なる問題につき研究討議するものとす。
七、この會は理想農村の完遂までつゞくること。…(略)…
 かうした方法で色々の問題が解決して行き、靑年の離村も苦い顔もなくなり、水稲其他の収穫等も多くなり模範村となつたことだけは記して置きます。
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 さて、千葉恭が述べているこの回想に関して次の二つのことをここでは述べてみたい。
〝一ヶ年の親交〟とは?
 その一つ目は、
「親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました」
の部分の解釈に関してである。これに続けて「昭和四年の夏…とうとう役所を去ることになりました」と千葉恭は語っているわけだから、素直にこれを受け止めれば彼が役所を去ったのは昭和4年の夏ということになろう。とすればこの、〝一ヶ年の親交〟の〝一ヶ年〟とは〝昭和3年の夏~昭和4年の夏の一ヶ年〟ということになるはず。
 ところが、賢治は昭和3年の8月初旬には発病してそれ以降は豊沢町の実家に戻っているはずだから下根子桜には居らず、この期間を〝親交の一ヶ年〟という表現をする訳にはいかない。この〝昭和四年〟は明らかにおかしいことになる。
 では次に、〝親交の一ヶ年〟を〝昭和四年の夏〟と切り離して、〝親交の一ヶ年〟の部分だけに焦点を当てて考えてみることにしよう。〝親交の〟といえば直ぐに思いつくのは彼が賢治と一緒に暮らしていたと考えられる大正15年の二人の関係である。ところが、彼自身はその期間を約半年と言っているから大正15年頃の一ヶ年も〝親交の一ヶ年〟とは考えにくい。
 すると、〝親交の一ヶ年〟とは一体いつの期間のことなのだろうか。そしてどのような〝親交〟だったのだろうか。はたまた、役所を辞した時期はそもそもいつで、それと〝親交の一ヶ年〟どんな関係があったのだろうか…。理解に苦しむところである。このことは今後の大きな課題の一つとして残る。
『研郷會』を組織
 述べたいことの二つ目は千葉恭が『研郷會』なるものを組織したことである。松田甚次郎と同じ様に彼もまた地元に戻って帰農した、盛町の実家に戻って農業に専心したということになる。さらには、水沢農學校を卒業して働いている地元の青年32名を誘って『研郷會』を組織し、農村の隆盛と農業技術の向上により理想の農村を創ろうと腐心したことになる。千葉恭は松田甚次郎同様まさしく「賢治精神」を実践しようとしたのだと、私には二人がダブって見えて来るのだった。
 もしここに書いてあるとおりに千葉恭が実践したのであればそれは誰にも出来るものではない。松田甚次郎の『最上共働村塾』と同様、規約を設けた組織を設立し、農業技術や農村生活の改善・向上、農村文化の振興などに努めたことになる。もちろん農民劇や童話会も企画していたようだ。さらにはこの様な実践活動により実際それ相応の成果を上げたようだから、私はそのことに敬意を表したい。わけても、そのことにより村の青年が離村することのない未来ある農村になったといえるような実績を上げたということに、千葉恭もなかなかやるじゃないかと今さらながらエールを送りたくなる。
 帰農後の千葉恭と賢治
「宮澤先生を追つて(二)」は続けて次のように述べている。
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。…(略)…そして農民の最低生活を基準に農村を研究し指導しなければならないと、強調されて私にも時々聞かされました。「今迄の農民又は其他の問題でも指導する指導者が間違つてゐた。農民の生活には巾があり、その中間平均を指導の基準として、最低生活者を指導し又最高生活者を指導するのも同じだ。眞劍に指導せんとするには總ての最低生活者を基準として指導すべきである。そして早く進めみんなと近づけて行き、一人ひとりの幸福を滿してはじめて世界の幸福がひらけるのだ!」<*1>私にはこの言葉こそ未だに忘れ得ぬものとして胸に烙印となつてゐます。…(略)…私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。…(略)…
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 ここでは千葉恭帰農後の、賢治との付き合い方を千葉恭は語っている。下根子桜の寄寓を解消して実家に戻ってしまった彼ではあるが、その後も時々下根子桜にやって来ては賢治の指導を受けていたということになる。
<*1>もし賢治がこのとおりに言っていたとすると、それは農民芸術概論綱要の序論で『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』と高らかに宣言した内容とは全く逆になる。
 盛町から花巻への来訪
 それにしても千葉恭は頑張るよなと私はつくづく思ってしまう。千葉恭は大船渡の盛町出身であると佐藤成氏は言っているが、その盛町から花巻まで時々訪ねて来るということは生易しいことではない。盛町から直線距離でも60㎞以上は優にある花巻下根子桜の賢治の許まで、交通の便が悪かった当時に度々訪ねて来ていたということになるからだ。
 では、具体的にはどのような経路と方法で千葉恭は盛町から花巻へ通ったのだろうか。ちょっとシミュレートしてみたい。彼が通ったのは昭和初期と考えられるから、たまたま手許にあった昭和10年12月1日時点での『岩手縣内自動車便』を見てみると、そこには
・盛→遠野については 盛発6:30、7:30(所要時間2時間30分)
・遠野→盛については 遠野発12:30、14:30(所要時間1時間50分)
<『昭和10年版岩手縣全図』、和楽路屋>
と記載されていた。その他には便利で使えそうな交通手段はなさそうだから、当時千葉恭はこの自動車便を使って遠野~盛間を往き来し、おそらく遠野からは、遠野~花巻間は軽便鉄道にでも乗ったのだろう。いずれ当時にすれば大船渡盛町~花巻下根子桜間は所要時間もかなり要したであろうからそう簡単に往き来出来る訳ではない。にもかかわらず千葉恭が「農業に従事する一方時々先生をお訪ねし」たということは、「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展に掛ける彼の意気込み、そして彼と賢治の親密な師弟関係をそこから読み取れるのではなかろうか。
 なぜ語られぬ千葉恭のこと
 なお、こうなるとますます気になることがある。千葉恭は約半年間賢治と一緒に生活し、彼が穀物検査所を辞めてからも時々こうやって下根子桜に来訪していたことになる。そしてその場合の彼は盛町~花巻間を一日のうちに往復はしなかったはず。というのは前述したバスの所要時間等を考えれば明らかで、時間的に無理だったろうし、その上「夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ」と証言しているのだから、この当時も時々彼は下根子桜に泊まったはずである。
 したがっておそらく、下根子桜の別宅に集った人達はこの熱心な賢治の弟子、約半年間寝食を共にしその後も時々盛町からはるばる訪ねてやって来る弟子の千葉恭のことは良く知っていたはずだし、一目置いていたに違いない。なのに何故なのだろうか、彼等は千葉恭のことを公には一切語っていないようだ。なぜかくも千葉恭のことが語られていないのだろうかということがますます気になるのである。

8 「賢治抄録」より
 ではここでは「宮澤先生を追ひて」のシリーズはちょっと中断し、時系列のことを考えて千葉恭が著した「賢治抄録」の方を先に見てみたい。そこには次のような大正14年10月20日に豊沢町の賢治の実家を初めて訪れた際のピソード等が語られている。
 大正十四年は豊作に近い年で、季候も良いのであつた、晴れ勝ちな日が多い年であつた。十月二十日役所に出勤し、何かと忙しく働き夕方下宿先の鎌田旅館に歸った時、宿の主人は「あなたところに宮澤先生から電話がありましたよ」と云われ、早速電話した。先生を呼び出した時、先生は若い元氣のある聲で出て呉れた。「何かお用でしたでしようか」と尋ねたところ、先生の方から急ぎの句調で「先日は失禮致しました、私も突然のため何ごともなし得なかつたのに非常に申譯なかつた」と本當に申譯ないような聲で私に語つた。そして「今晩是非學校でなく私の家に遊びにお出で下さい。是非來るように、待つております」と電話を切つて了つた。
 その晩九時頃豊澤町にある賢治の家を訪ねた、屋がまえの大きな家で、花巻町として相當の舊家であつた。
 賢治は喜んで私を迎え入れた。
 私としては初めて家を尋ねるので、少しえんりよであつたが、來て了つたと云うあきらめの心になり静かに入つた。
 賢治の親達も聲をかけ「どうぞお入りえんせ」と云われて、力をえた氣持になつた。
 「賢治はおであんしたからどうぞ」と賢治の母親の優しい聲に誘われ、私はちよとあいさつをして濟むと賢治は「さあどうぞ」と表二階に誘われ、それに從つて階段を上がつて行つた、二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた。
 賢治の母は早速お茶を持つて室に來た「どうぞおあげんせ」と出され、私は恐縮して「ども……」と簡たんに頭をさげたが、賢治は自分の母に對してひざをついてていねいに「ありがとうございまいした」とお禮をしたのを見て、私はうろたえてひざをつき直して、今だやつたことのないていねいさで再びお禮を申上げたことは今だに頭の中に殘つている。…(略)…
 母が去つてから、二人で肥料の話、水稲栽培の話、花造りの話、地理の話をしたりして、それのあとは「一つレコードでもかけましょうか」と自ら蓄音機を持ち出し、賢治は蓄音機を大切にしレコードも大切にして、針は金でなく、竹の針は本當の音が出るし又レコードを長持ちするために必要であると説明して呉れた。…(略)…
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房33年版)>
 この後には引き続いてベートーベンの名曲を観賞し、その感想を訊かれたというエピソードが続けて書かれてあり、最後に銀河の星とか北斗七星のことなどの空の話をし、賢治の家を辞したと書かれている
 さてこのエピソードは大正14年10月20日のことだから、千葉恭が賢治に出会った大正13年11月から1年弱を経て彼は初めて賢治の実家を豊沢町に訪ねたことになる。その彼が紹介しているこの時の、賢治の母イチに対する賢治の丁寧すぎるほどの接遇の仕方は、たしかに流石賢治ならではのことである。また、二人は相変わらずこの時も熱く農事のことを語り合っていたであろうことが容易に推し量れる。
 ところでこの中の
「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」
に出てくるこの〝蓄音機〟に関連して次は触れてみたい。

9 「宮澤先生を追つて(四)」より
 では再び「宮澤先生を追つて」シリーズに戻って「宮澤先生を追つて(四)」を見てみよう。
 岩田屋に売った蓄音機
 その前半には、千葉恭が蓄音機を売りに行ったというエピソードは以前〝『イーハトーヴォ復刊5号』より〟でも触れたことがあるが、ここにも似た様なことが載っている。とはいえ、こちらのそれは前述のそれとは似ていても違うところがあり次の様になっている。
 蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れないか」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、どこに賣れとも言はれないのですが、兎に角どこかで買つて呉れるでせうと、町のやがら(筆者註:「家の構え」の意の方言)を見ながらブラリブラリしてゐるとふと思い浮かんだのが、先生は岩田屋から購めたので、若しかしたら岩田屋で買つて呉れるかも知れない……といふことでした。「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですな―それは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円を私の手にわたして呉れたのでした。私は驚いた様にしてしてゐましら主人は「……先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣れましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差し出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から歸つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。そしてベートーベンの名曲は夜の静かな室に聽くことが多くなつたのでした。…(略)…
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
 2つのエピソードについて
 さて、千葉恭が蓄音機を売りに行ったという2つの似た様なエピソード、どちらの場合も下根子桜時代に別宅に置いてあった蓄音機を売りに行ったというものである。
 しかしこの2つのエピソードは、
・『イーハトーヴォ復刊5号』の場合
 100~90円位で売つてくればよいと賢治は言った。十字屋では250円で買ってくれた。
・「宮澤先生を追つて(四)」の場合
 350円までなら売ってよいと賢治は言った。岩田屋で650円で買ってくれた。
ということだから、経緯は同じ様だが、金額といい売った店といい全く違う。したがって考えられることは、
(ア)金額と店はそれぞれ千葉恭の記憶違いで1回きり。
(イ)同じ様なことが2回あった。
のどちらかであろう。
 そこで参考にしようと思って『岩手年鑑』(昭和13年発行、岩手日報社)の広告を見ていたならば、その中の広告欄にコロムビア蓄音機が45円~55円とあった。もし大正末期もこの程度の値段ならば当時の賢治の月給は百円前後だったはずだから、一ヶ月の給料で優に買うことは出来たであろう。なお、賢治の蓄音機は250円あるいは650円で買い上げてくれたということだからおそらくその金額はそれぞれの蓄音機の販売価格と推定出来る。したがって賢治が持っていた蓄音機は相当高額であったに違いない。
 実際、そのことを示唆しているのが前述したような
「当時一寸その辺に見られない大きな機械」
という証言、また「賢治抄録」に登場する
「二階は八疊位の大きな室で、奥の方につくえと本が一杯あり、その脇に蓄音機が置いてあつた、この蓄音機も一般のものと違い大きな型のものであつた」
という証言である。売った蓄音機がこの蓄音機であれば相当高価なものであったことであろう。
 仮に250円の蓄音機の方だとしても月給の約2.5倍の、650円ならば優に6倍以上の額になる。また蓄音機とくれば当然それに伴うレコードが必需品である。佐藤隆房によれば
 賢治さんはこのさゝやかな楽器店に目をつけ、時々來て大量にレコードを買ひます。月末の支拂いが百圓とか貳百圓とかまとまることも稀ではない。店の割合に高級な西洋音楽レコードをあまりに大量に賣るので、ポリドール會社の阿南という社長から「あのレコードは何れ方面に賣れて行くのか」と山幸商店に問合せがあつた程でありました。その時に、「あのレコードは農學校の宮澤先生に賣るのです」と囘答した處、ポリドール會社の社長から、賢治さんに丁寧な奉書に認めた感謝状が來たものです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>
ということであるから、もしこの証言が正しければ賢治の金銭感覚は庶民のそれとは全くかけ離れている。月給とほぼ同額、あるいはその2倍ものお金をレコード購入のためにも使うということになるからである。普通の人はそうしたくても出来ない。因みに、花巻農学校勤務時の賢治の最初の俸給(大正10年12月)は80円、大正14年の6月頃ならば105円であったという(『宮澤賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川嶋印刷)より)。その他にボーナスもあったであろうから、賢治の一年間の給料は1,000円前後はあったであろう。
 代金の使途
 さて、このエピソード本当のところは(ア)であったのかはたまた(イ)であったのだろうか。その真実を知りたくて関係すると思われる岩田呉服店等に訊いて廻ったのだが、今に至ってはその検証は困難だということを覚るしかなかった。とはいえその際、当時岩田屋や十字屋で蓄音機を売っていたということは確認出来たから、千葉恭が賢治に頼まれて蓄音機を売りに行ったということが少なくとも一回はあったであろうということは確信出来た。ただしその代金は生活苦解消のために使われたのかというとそうではなくて、大正15年12月の上京のための旅費であったと千葉恭は証言しているから、賢治はその蓄音機を売ったお金を懐にして大正15年12月2日、澤里武治一人に見送られながら花巻駅から7度目の上京をしたことになる。
 なお賢治は花巻に帰るとその蓄音機を買い戻したと千葉恭は言うが、滞京中の必要経費としてその際に父政次郎に「二百円」の無心をした賢治だから、花巻に戻る頃には所持金は殆ど無かったずで、しかも帰花した頃の賢治は心身ともに疲れ果てていたはず。そんな賢治だったが、花巻に戻ると前に売ったその蓄音機は買い戻したということになる。賢治はどこからそんな大金を用意したのだろうか。
 それから気になることがある。ここで千葉恭が述べていることが事実であるとすれば、賢治は生活が苦しくなったので彼に蓄音機を売ってきて欲しいと頼んでおきながら、実は蓄音機を売ったお金は12月の上京の際の旅費になったということが、である。幸い高く売れたので喜び勇んで下根子桜に帰って手渡そうとした代金をそのまま賢治が受け取ることはしなかったことに対して、「何だか恐ろしいかんじがしてしまひました」と千葉恭はその時の心情を吐露している。その挙げ句、頼んだ時の理由は実は口実であったことが後になって分かったから、一緒に生活して労苦を共にして来た千葉恭にすればそれはもどかしかったはず。蓄音機を売りに行った時期は雪の降る冬だから賢治と一緒の生活もかなり長くなっていた頃のはずなのに、賢治は千葉恭に悩みや心のうちを明かさずに売りにやらせたわけで、この時期に至っても二人はまだ打ち解けていなかったと思うからである。私は取り越し苦労をしているのだろうか。
 賢治の肥料設計
 さて、千葉恭の『宮澤先生を追つて(四) 』の後半部分には「肥料設計」と題して次のようなことが述べられている。
肥 料 設 計
 羅須地人協会の仕事も忙しかつたのでした。秋も過ぎ東北独特の冬が來て五、六尺の雪が積もつた花巻の町角のせまい土間を借りて、百姓相手に土壌の相談と肥料設計に、時には畫食も夕食も食はずに一日を過ごすこともありました。土間といつても間尺三尺奥行二間位のせまい処でした。そのせまい土間にビール箱を机にして、設計用紙と万年筆一本を頼りに、近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達を笑顔で迎え、仔細に質問しながら設計用紙に必要事項を満たしていくのでした。…(略)…農民達は作物に愛着を持ち収穫を充分に希つてゐますが、それについて研究するでもなく、たゞ泥まみれになつて働くばかりが、百姓だと云ふ観念を打破する一番早い策としては肥料、土壌、耕作に対して興味を持たせることであり、興味を持たせるには理論より先に、実際から見る判断であるからその方法をとることであると先生は考えられたのでせう。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究する様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。…(略)…
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
 ここでは「羅須地人協会の仕事も…」という書き出しで始まっているから、ここに書かれている肥料設計の内容や仕方についてはおそらく千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた頃のものであろう。それも、その肥料設計は冬に行われていたというものだから大正15年か昭和元年(6日間しかない)あるいは昭和2年の冬に行われた肥料設計のことを書いているのであろう。
 そしてこの千葉恭の回想からは、肥料設計に懸ける賢治の熱意は凄まじいものであったことが容易に想像出来る。昼食どころかさらに夕食までも摂らずに肥料設計に勤しんでいたということを千葉恭は証言しているからだ。また、〝近郷の村々から朝から押しかけて來る百姓達〟とあることからこの肥料設計は近隣の多くの農民から頼りにされていたことも知れる。
(ア) 「いちの川」
 さてここに出て来た「花巻の町角のせまい土間」とはどこの土間だったのだろうか。そういえば、以前にも触れたことだが『イーハトーヴォ復刊2号』の中に
「最初蓄音機屋の一間を借りておつたが一週間して〝いちの  川〟というところの土間を借りて勉強しておりました」
という証言があったことを思い出した。もしかするとこの〝いちの川〟というところの土間がここでいう「花巻の町角のせまい土間」のことではなかろうか。そして、そもそもこの「花巻の町角のせまい土間」を借りて開かれた肥料相談所はどの辺に開設されたのだろうか。
 これに関連したことを佐藤隆房は『宮澤賢治』の中で言っていたはず。調べてみるとそれは次のようなものであった。
 肥料屋は、自分の肥料の賣れ行きばかりを目論んでゐるのですから、どんな所へでもその肥料を使用すれば米が出來るやうに宣傳します。それを聞く百姓は、土質などにはとんとおかまひなしに、何でも高價な肥料を澤山入れゝば米が出來るものと考へて、大豆粕や過燐酸などを無設計に入れてをります。…(略)…
 その無智な有様を見て、非常に氣の毒と思ひ、何とかこれを救濟しようと思つた賢治さんは、羅須地人協會開設と同時に、花巻町(上町)石鳥谷町、その他縣内數箇所に肥料の無料設計所を設けました。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>
 ということは、佐藤隆房の証言によれば肥料相談所の一つは花巻の上町のどこかに開設されたということになる。そこでもし〝いちの川〟が花巻の上町にあったということが判ればその可能性が高くなるだろうと考えて探してみたならば、たしかに上町に〝いちの川(市野川)〟があったことを確認出来た。したがって、肥料相談所の一つは上町の〝いちの川〟に開設されたのではなかろうかと考えられる。
 話はちょっと横道にそれてしまうが、気になるのでもう少しこの肥料相談所に付いて調べてみたい。
(イ) 「額縁屋」
 ところで、賢治は〝その他縣内數箇所〟に肥料相談所を開設したと佐藤隆房はここで述べている。昔の人の言う〝数ヶ所〟とは〝5~6ヶ所〟のことを意味したはずだから、前述の花巻上町のそれと、よく知られている石鳥谷町の計2ヶ所の他にもあと3~4ヶ所の肥料相談所を賢治は開設していたということになる。
 そこで他の関連図書等も漁ってみると、伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協會時代―」の中で
 春になつて先生は町の下町と云ふ處の今の額縁屋の間口一間ばかりの所を借りて農事相談所を開いた。誰でも事(ママ)由に入れて、無料で相談に應じてくれたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
と語っていた。
 ならばということで下町に〝額縁屋〟があったかどうかを探してみたならば、たしかに下町に〝額縁屋〟があったという場所があった。したがって、ここも当時開設された肥料相談所の一つであったのであろう。
(ウ) 「三新」
 また、佐藤成氏は『宮沢賢治―地人への道―』で
 国道筋の目抜きの場所、つまり商店街、賢治の家に曲がろうとする角、現在岩手銀行花巻支店の向角に「三新」という小間物屋があった。その頃店の一隅にこの肥料相談所を開設して無料で相談に応じていた。また旧郡役所の北側、土木事務所のあったところ、その中に卓球台が一台おかれてあった。ここにも開設した。さらには隣接の石鳥谷、日詰、太田村等にも設けてカーキー色の作業服で終始出入りし活躍した。
<『宮沢賢治―地人への道―』(佐藤成著)>
と記述している。そこで、「三新」があったと思われる場所近くのガソリンスタンドの従業員から訊いてみると、たしかにかつて〝三新〟がそこにあったということを教えてもらった。そしてその場所は、『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)の中の「大正期の花巻地図」の中にある〝賢治の肥料相談所〟と地理的に一致しているから、「三新」の場所はこの〝賢治の肥料相談所〟だろうと思われる。また、賢治の教え子清水武雄の次のような証言
 ガソリンスタンドの場所に机一つと椅子二つ置いて、「植物病院」という看板を掛け、百姓たちの農事相談や肥料設計に応じていて。学校劇『植物医師』を実地に先生が再現しているような気がした。
<『賢治の時代』(増子義久著、岩波書店)>
があるが、この「植物病院」とは「三新」に開設した肥料設計相談所でなかろうかと私は直感した。
(エ) 「石鳥谷肥料相談所」
 この石鳥谷肥料相談所については、石鳥谷好地塚根に行けばその跡地にはその案内板が立ててあり、数ヶ所設けられた肥料相談所の中では一番審らかになっているようで次のように案内されている。
   石鳥谷肥料相談所跡
 昭和三年三月十五目から一週間、ここで宮沢賢治先生による肥料相談所が開設されました。これは、賢治先生の愛弟子であった菊池信一氏の努力と、当時の柳原一郎町長や照井源三郎氏の協力によって実現したものでした。
 当時の相談所の面影は写真でしかわかりませんが、菊池信一氏は、「石鳥谷肥料相談所の思い出」の一文に、その模様を次のように表しています。
 『店には八畳敷と土間が提供され、荒作りの大きな卓子(テーブル)と大鉢が二・三個あり、囲りの壁には三色で無造作に描かれた肥料と水稲の図が十数枚貼られ、かぜにガワガワゆらいでいた。毎朝七時半の列車で石鳥谷駅におり立った賢治先生は、羅紗の鳥打帽子に茶羅紗の洋服をまとわれていた。そして、ゴムのだるま靴を履かれ、鞄を抱えた左肩を斜めに上げて右腕を大きく振って来られた。
 相談所にはすでに十人も待って居り、農民達は皆外に出て先生を迎えた。
 毎朝午前八時より午後四時まで休む暇もなく続けざまに肥料設計をされたが、煙草を喫わない先生は一々ていねいにお辞儀をされながら用紙を取り出して順番を譲り合っている農民に対応された。
「石鳥谷の人達はみんな質がいい」先生はいつか云われた。そして又「河西の人達は一帯に土地が痩せていて農作には尠しも油断がならないのです。こうした一面からも因襲的に村の人達の性質が培われるのでせう」と。九時十時とすすむにつれ、人が増えて来た。仕事を分担して僕は土地の景況と前年度の栽培状況を調査。先生はその後をうけて今年度の施用肥料の施用肥料の設計をやられた。
 大馬力で三十枚ほども整理し、お昼飯をしたのは一時すぎだ。午後は「稲作と肥料」に関する講演であった。
 その年は天候不順であったが、設計に当たっては陸羽一三二号種を極力勧められた。これにより秋は二割方増収であった。」
 この肥料相談所と周りの情景を 詩「三月」として賢治先生は残されています。
<『石鳥谷肥料相談所跡』案内板>
 この石鳥谷肥料相談所は愛弟子菊池信一の出身地で開設されており、この案内にあるとおり菊池がその開設に尽力したことであろう。ここの相談所には沢山の人が押し寄せ、その人たちに対して熱心に肥料相談にのり、肥料設計する賢治の精力的な活動ぶりが目に見えるようだ。
(オ) 肥料相談所の数
 以上のことから、宮澤賢治が開いた肥料設計所の場所あるいはその場所の候補地は
 ・いちの川
 ・額縁屋
 ・三新
 ・旧郡役所傍土木事務所
 ・石鳥谷
 ・蓄音機屋
 ・日詰
 ・太田村
となろうから、佐藤隆房の言うとおり県内(というよりは郡内)に賢治が開いた肥料設計所は数ヶ所あったということであろう。
『宮澤先生を追つて』シリーズの中断
 というわけで、私としては賢治が開設した肥料相談所の跡地を巡ってみてある程度賢治の行った肥料設計のイメージは掴めたし、さらに千葉恭の語るこの「肥料設計」からは設計所の開設の趣旨を知り、肥料設計の仕方を垣間見ることが出来た。そしてさらに詳しく知りたいという気持ちがあったのだが、その望みは残念ながら潰えてしまった。
 というのは、千葉恭はこのシリーズの続きを『四次元』の14号、16号にそれぞれ「宮澤賢治先生を追つて(五)羅須地人協會と肥料設計」、「宮澤賢治先生を追つて(六)羅須地人協會と肥料設計(2)」と題して載せているが、そこに書かれているのは稗貫郡地帯の地質と土性のことだけであり、副題の〝羅須地人協會と肥料設計〟に相当する内容の部分はほぼ見当たらないからである。しかも、「宮澤賢治先生を追つて(六)」は〝(つゞく)〟で終わっていてこの続きは以降の『四次元』には連載されておらず、このシリーズ『宮澤先生を追ひて』は中断してしまったからである。なぜそうなったのだろか。

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