みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい

2024-06-29 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

  ⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい
 では今度は、賢治が昭和3年8月10日に実家へ戻った件についてである。
 このことについては、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治年譜」〉
ということだから、これが通説だと私は認識してい。ところが、『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気を調べてみたならば、下掲の《表4 昭和3年6月~8月の花巻の天気》

のようになるし、さらには賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この「通説」を否定するものが多かった<*1>ので、これもまたおかしいということに気付いた。

 ちなみに、この《表4》の天気一覧からは、「風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪」をひくというような「風雨」が8月10日以前にあったとは考えられない。
 一方、賢治が教え子の澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
……やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。

〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし、「すっかりすがすがすがしくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと言われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ根子へ戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたはずだ。
 ところが実際はそうではなくて、「演習」が終るころまではそこに戻らないと澤里に伝えていたことになるから、常識的に考えてこれもまたおかしいことだということに私は気付く。同時に、賢治が実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気のせいではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも言えそうだ。

 ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…投稿者略…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。 
〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~〉
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの昭和3年10月に岩手で行われた「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらもチェックされる今では到底考えられない時代であった。〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)ということだし、上田仲雄の論文「岩手無産運動史」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)所収)や名須川溢男の論文「宮沢賢治について」(同所収)等によれば、この大演習を前にして行われた無産運動家の大検束によって、その労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。つまり、両名はこの時の凄まじい「アカ狩り」に遭っていたと言える。その挙げ句、八重樫は北海道は函館へ昭和3年8月頃に、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は同じく小樽へ、やはり同年8月にそれぞれ追われたという。
 また、名須川 溢男によれば、
 昭和三年は、大弾圧の受難の年であった。国内は社会運動の弾圧が、三・一五事件から労農党等三団体解散命令の四・一〇事件へ、そして岩手県では秋一〇月の陸軍大演習と天皇行幸にかかわる社会運動の取締り弾圧と続いたのであった。
 …(投稿者略)…労農党や啄木会で活動していた一人、佐藤好文も昭和三年秋の陸軍大演習の取締りには〝要視察人〟の危険人物とみられて、盛岡警察署から旅費を支給され、〝県外追放〟を受けて、関西方面に旅行し姿をくらまさねばならなかった、と語っていた(一九七七年八月三十日聴取、於盛岡市立図書館)。そのような弾圧の例もあり、あらゆる硬軟とりまぜた追放・弾圧であったといえよう。
〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)494p〉
ということで、佐藤好文も〝県外追放〟を受けたという。

 しかも高杉一郎によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(『極光のかげに』(高杉一郎著、岩波文庫)47p~)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも端的に窺える。そこへもってきて、あの浅沼稲次郎でさえもが、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)29p~)ことを偶然知った私は、次のような、
〈仮説❷〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。また、この大演習の初日10月6日には花巻日居城野で御野立があったわけだが、この際、10月3日に南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将が賢治の母の実家「宮善」宅にやって来て宿泊したという(昭和3年10月4日付『岩手日報』)ことだから、然るべき筋からの配慮が父政次郎に対してもあったであろう。そしてもちろん、この仮説の反例は一つも見つかっていないから検証がなされたということになる。
 よって今後この反例が見つからない限り、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからということよりは、本当のところは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。これでまた一つ、隠されていた真実が明らかになったと言える。

 なお、この節〝⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい〟に関しては、東北大学名誉教授大内秀明氏より次のような、
 ところで賢治の「真実」ですが、『賢治と一緒に暮らした男』の第一作に続き、今回はサブタイトル「賢治昭和二年の上京」に関しての『羅須地人協会の真実』でした。と同時にブログでは、「昭和三年賢治自宅謹慎」についての「真実」を、同じような仮説を立てての綿密な実証の手法で明らかにされています。この手法は、幾何学の証明を見るように鮮やかな証明です。実を言いますと、「昭和二年の上京」よりも、「昭和三年賢治自宅謹慎」の方が、現在の問題関心からすると、より強く興味を惹かれるテーマです。このテーマに関しても、すでにブログで「結論」を出されていますし…中略…鈴木さんの問題の提起は、「澤里武治宛の宮沢賢治書簡」(昭和三年九月二三日付)の文章にあります。「お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にもはいり、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑に出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習がおわるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。休み中二度お訪ね下すったそうでまことに済みません」ここに出てくる演習について、その意味を探って行きます。以下、簡単に紹介させて貰いましょう。

 「賢治年譜」によると、昭和三年八月のこととして、心身の疲労にも拘らず、気候不順による稲作の不作を心配、風雨の中を奔走し、風邪から肋膜炎、そして「帰宅して父母のもとに病臥す」となっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により、「賢治年譜」は必ずしも「真実」を伝えるものではなく、事実に必ずしも忠実ではない。とくに「賢治の療養状態は、たいした発熱があったわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」
 では、なぜ賢治が自宅の父母の元で療養したのか?
 「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであり、賢治は病気であるということにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
 「例えばそのことは、
  ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして、凄まじい「アカ狩り」が行われた。
  ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
  ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
  ・当時の気象データに基づけば、「風の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
  ・当時の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。」

 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」です。ここでも羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。

    〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』(仙台・羅須地人協会、大内秀明)31p~〉

という評を頂いている。私としては、身に余る評価を頂きすぎて恐縮するばかりだが、私の主張は案外荒唐無稽なものでもなかったのだということをお陰様で知って、安堵した。これもまた、石井氏のあの警鐘、「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること」に従ったので叶ったのだと、自己満足できた。
 ただし、大内氏は続けて、
 昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が東北から根こそぎ危険分子を洗い出そとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐の通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。〈同33p〉
と論じておられたので私ははっとした。これまでは、正直この時の賢治の対処の仕方は清算主義的傾向があるので違和感を抱いていたのだが、大内氏の仰るとおりだということに私は初めて気付かされ、今に生きる私が当時の賢治の対処についてとやかく言えるものではないと、己の狭量さを恥じ、慢心するものではないと己に言い聞かせた。

<*1:投稿者註> 例えば、賢治の主治医だったとも言われている佐藤隆房は、『宮澤賢治』(昭和17年9月8日発行版)の中の「八七 發病」で、 
 賢治さんは…(投稿者略)…昭和三年の夏の或る日、腹の空いてゐるところへひどい夕立に降り込められ、へとへとになつてやつと孤家に歸り着いたことがあります。これが賢治さんから健康を奪ひ去つた直接の原因となりました。
 不加減になつた賢治さんは、その八月父母の家に歸つて、療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしました。今まで家人のいふことを聽かないでそれがもとで、病氣になつて歸つて來たといふので、いくらか遠慮に思つてゐたらしいのです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年9月8日発行)195p~>
とか、あるいは、
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが……<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年3月1日発行版)269p~>
と述べているからだ。
 一方で、菊池忠二氏は次のようなことを述べている。
 私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
 「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の工合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37p 〉
 つまり伊藤忠一の証言によれば、少なくとも伊藤の目からはその時の賢治の病状はそれほど極端に悪化していたとは見えなかった、と言えそうだ。しかも、菊池氏はこの日のことについては宮澤清六自身からも直接訊いており、
 初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)46p 〉
と述べている。したがって、賢治が実家に帰った時はそれほど重篤であったわけでもなかったということを弟の清六も証言しているということになるのではなかろうか。

 続きへ
前へ 
 〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 物見山(6/20、木本残り) | トップ | 物見山(6/20、山並など) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

菲才でも賢治研究は出来る」カテゴリの最新記事