みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第1章 文献等から探る千葉恭(テキスト形式) 承前

2024-03-18 08:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
10 伊藤整と岡本弥太の伝える「面会謝絶」
 そもそも、千葉恭なる人物に私が興味を持ち出したのは例の大正15年7月25日の「面会謝絶」の使者が千葉恭だったということを知ってからである。
 この「面会謝絶」に関しては、千葉恭が盛岡に出向いて行ってそこに講演に来ていた白鳥省吾に断ったことになっているわけだが、実は白鳥省吾は花巻の下根子桜に賢治を訪ねたのだが玄関先で面会を断られてしまったという説もあるという。
 もし後者の説が正しいとすれば私のスタート地点がぐらつくのであまり好ましいものではない。そこでこの真偽の程を確かめたくて少しく調べてみた。
『私の賢治散歩』より
 菊池忠二氏の『私の賢治散歩』の中の「あるゴシップ」は次のように始まっている。
伊藤整の青春時代を描いた自伝的小説、『若い詩人の肖像』の一節には、宮沢賢治にふれて、次のようなエピソードを述べた箇所がある。
「民衆(詩)派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。」
<『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)>
と。もちろんこの〝某〟とは白鳥省吾のことであり、そのゴシップとは例の
「賢治は一旦白鳥省吾と犬田卯の下根子桜訪問を許諾しておきながら、その約束の前日に断った」
の事であることは論を待たない。
 伊藤整の場合
 そこで、この伊藤整の『若い詩人の肖像』を見てみると、同著の中に「七 詩人たちとの出会い」という章があり次のようなことなどが書かれていた。
 大正末期の三四年間、『日本詩人』に集まった自由詩派や民衆詩派を中心とする詩人たちが、新潮社という一流出版社から出たこの雑誌を舞台にして、活躍した。その結果三木露風と北原白秋という大正初期の唯美主義や、その後に続く芸術至上主義的な日夏耿之介、堀口大学、西条八十等が詩壇の片隅に立ち退いた恰好になった。それだけでなく、『日本詩人』はその次の時代の詩人に対して門戸を開放する仕方が足りなかった。吉田一穂、佐藤一英等の唯美派の新人も目立たなかったし、平戸廉吉、萩原恭次郎、草野心平、岡本潤、高橋新吉等のアナーキストやダダイスト系の新人たちもよい発表場所がなかった。その感情は、民衆詩派の代表的な一詩人で『日本詩人』の中心になっていた某が、大正十三年に出た宮沢賢治の詩集『春と修羅』を読んで驚き、岩手県に行ったとき宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした。そのゴシップがいかにも痛快だという調子で宮沢吉次の編集していた『詩壇消息』にこの頃書かれていた。私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた。
 そのような詩壇の若手の不満の気持ちが大正の末年には、爆発的に盛り上がりかけていたのである。『日本詩人』がつぶれたことは、理想もエネルギーも失った詩話会同人の砦の崩壊を意味し、ちょうど尾崎紅葉の死による硯友社の崩壊の時に、田山花袋や国木田独歩や島崎藤村が感じたような、我等の時来たるという意識が、若い詩人たちの間にみなぎったのだった。『日本詩人』はつぶれたが、その主な同人たちは、自分のグループ雑誌を持っていた。白鳥省吾は『地上楽園』を、川路柳虹は『炬火』を、佐藤惣之助は『詩の家』を、そして最後には、民衆派詩的作風から逃れ去って俳句的静寂の詩境に移った百田宗治が『椎の木』を作った。昭和初年になるとともに、文壇の新流派である新感覚派やプロレタリア文学が地位を得たことの反映として、未来派、ダダイスム、超現実派という新風をもたらした詩人たちが、詩壇の入り口に押し寄せていたのである。
 それはその時代の直前に死んだ平戸廉吉であり、また宮沢賢治であり、荻原恭次郎であり、岡本潤であり、大手拓次であり、草野心平であり…(略)…
<若い詩人の肖像』(伊藤整著、新潮社文庫)>
というわけで、伊藤整はこのゴシップを知って
「私は宮沢賢治を立派だと思い、自分の顔が赤らむのを感じた」
と心のうちを正直に吐露していたのであった。とはいえ
「その感情は、…某が…宮沢を尋ねたところ、宮沢は面会謝絶を喰らわした」
と伊藤は言っていることになると思うのだが、はたして〝その感情〟がそうなさしめたとは私には思えないが。
 また伊藤の文章は、白鳥は花巻で面会を謝絶されたのか、はたまた盛岡に代理の者が来てそこで断られたのかを明らかにしてはいない。
 広がっていたゴシップ
 ところで伊藤整がこのゴシップを知ったのはいつ頃だったのだろうか。本人は同著で
「『詩壇消息』にこの頃書かれていた」
と述べているし、そのことに関して菊池忠二氏は前著において
「伊藤氏が宮沢吉次編集の『詩壇消息』を読んだのは、昭和二年四月頃のことであったといわれる」
と述べている。
 ということは、この時点(昭和2年4月)でこのゴシップはある程度広く知れ渡っていたことであろう。当時一世を風靡していた民衆詩派詩人の大御所白鳥省吾が当時はまだ殆ど名も知られていなかった賢治に面会を謝絶されたということで、一部の人達はこのゴシップを面白おかしく吹聴していたに違いない。
 そもそも、約束の前日、それも人を使わされてそれを反故にされるということは一般には愉快なことではない。まして白鳥とすれば、「この年(大正15年)には詩誌「地上楽園」を創刊。民衆詩派の展望の中でも、ようやく「民衆詩」が定着し」(『白鳥省吾の詩と生涯』(築館町発行)より)た頃でもあるから、かなりプライドを汚されたと思ったに違いない。
 岡本弥太の場合
 一方この「面会謝絶」の件に関しては、実は白鳥省吾は下根子桜の賢治の許を直接訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もある。それは『宮沢賢治という現象』の中の第3部第2章の中の「詩集『春と修羅』の同時代的受容」に載っていて、岡本弥太の「随想 宮沢賢治」で次のように述べられているという。
 …さる俗情界に有名である東京の詩人二三人が講演旅行の途次、肺患に呻吟する花巻町の詩人を訪ねたら、玄関で断られてしまつたといふ、うそらしいまことの話をある仙台の詩人が書いてきた。
宮沢氏からみると凡ては――(あらゆる透明な幽霊の複合体)くらいにしかみへなかつたであらふ。私は間の抜けた旅行鞄の詩人たちの顔を考へてふきだしてしまつた。つねの詩人なら抱へあげるべき筈のところをすつぱりとやつてのける人は矢張り(春と修羅)の著者であらう。
<『宮沢賢治という現象』(鈴木健司著、蒼丘書林)>
この2、3人とは白鳥省吾と犬田卯のことに違いなく、こちらのゴシップの場合には花巻へ賢治を訪ねて来た両人が玄関先で面会を謝絶されたということになる。
 ところでこの「随想 宮沢賢治」はいつ書かれたものだろうか。鈴木健司氏によれば、賢治没後の直ぐ後、昭和8年11月発行の『熔樹林』第2輯にこれは載っているという。この「面会謝絶」より大分時は経っているとはいえ、岡本弥太は土佐の詩人だから、このゴシップは花巻から遠路はるばる高知県まで広まって行ったということになる。
 白鳥省吾記念館訪問
 さてこれらの真偽のほどが気になった私は、宮城県の築館町(現栗原市)にある白鳥省吾記念館を訪れたことがある。そしてそこの学芸員の方に
「大正15年7月25日に千葉恭という人物が、翌日白鳥省吾が宮澤賢治宅を訪問するという約束をしていたのだがそれを断りに行ったと言われています。一方白鳥省吾は花巻の賢治の許を訪ねたが玄関先で面会を断られたという説もあると聞いております。本当のところはどうなんでしょうか、教えていただきたいのですが」
とお願いしたのだが、残念ながらそのようなことに関しては分からないということであった。たしかにこの件は白鳥省吾にとってはあまり好ましいことではないはずで、いままでもそのことが真正面から取り上げられることがなかったに違いないと察して、記念館を後にした。
 白鳥省吾の詩
 なお、築館町では『白鳥省吾の詩と生涯』という本を入手出来たのでその中に載っている彼の詩を何篇か挙げてみたい。

   小作人の子
小作人の善作の子が
あばら家で泣いてゐるのが通りから一目で見える
爐のほとりの板敷一間は
彼等の臺所であり寝室であり
土間にはいつぱいの馬鈴薯が轉げて居る
彼等の唯一の財産のやうに。
    …(略)…
けれども善作夫婦は働いても働いても抜けきれぬ貧乏
その夫婦ものゝ生んだ子供は
がらんとしたあばら家でわいわい泣いている。
「樂園の途上」

    地 主
まつぴるま
小作人の平助は
厩で馬の糧切りだ
大きな押切りの音が
ザックン、ザックン。

ふところ手の地主が
ひよつくらやつて來た
中ぶとりの顔がほろ醉きげんだ
平助は見て見ぬふりをした。

平助の嚊は縹緻よし
地主はないない可愛がる
今日も障子の破れ目から
地主の來たのを覗いてみたが……。

平助は默つて
厩で馬の糧切りだ
大きな押切りの音が
ザックン、ザックン。

やがて地主は歸つて行く
平助は見て見ぬふりした。
平助の嚊は囲炉裏ばたで
鬢のほつれをかきあげた。
    …(略)…
「共生の旗」

   美しい國
見渡す限り田と畑と
その中を輝き流れる大河と
遠く起伏する山脈と
晴れやかの靑空と
爽やかの微風と
それらの中に立つて
人生がどうして不幸であると思へよう。
    …(略)…
おお美しい山河は
あり餘るものを生産しながら
人間を少しも幸福にしてゐないやうに見える、
されば凡ての人が樂しく勞働し生活に歡喜を感ずるようにと
ロバアト・オウエンは『協和共力の村』を計畫した、
ウイリアム・モリスは『理想鄕』を描いた。
    …(略)…
「共生の旗」

   耕地を失ふ日
明治三十五年の飢饉にひき続いて
三十七八年の日露戦争が来た
御国のために命を惜むなと
一家の働き手の壮丁がみんな招集された

いとどさへ貧しい家々は
或る金持から少しばかりの金を借りた、
満州の野で若者等は家を思ひながら死んだ
貧しい家に一片の戦死の報が届いた、 
国を挙げて戦つてゐる時、小農の嘆く時
地主のふところは益々肥るばかり
返せない少しばかりの金が
驚くべき金高となつて小農の耕地を奪つた。

磁石が鉄片を吸ひ寄せるやうに
実に見事に一人の人間に多くの土地が集まつた、
     …(略)…
詩集「樂園の途上」
<『白鳥省吾の詩とその生涯』(築館町発行)>
というようなものなどがある。
 これらの詩からは、白鳥省吾の依って立つところは賢治のそれと結構似ている部分もあると感じたし、一方でもし賢治がこのような白鳥の詩を読んだとすれば何かしら身につまされていたのではなかろうかということも推察された。私が賢治の立場ならたしかにこの詩を読んだ時点で白鳥に会いたくなくなるかもしれない。
 心平と白鳥の鞘当て
 実はこのゴシップ「面会謝絶」に関しては〝白鳥省吾と草野心平との鞘当てがあった〟と噂では聞いていたが、そのことを論じている論文「研究ノート 宮沢賢治の同時代評価 平澤信一」があることをその後に知った。そこには次のようなことも書かれていた。
 …ここで言及されている「詩壇消息」の記事自体は未だ確認されていない。とはいえ、同時期に発刊された渡辺渡編輯の詩誌「太平洋詩人」の昭和二年三月号と四月号には、草野心平と白鳥省吾の次のようなやりとりがあって、当時の様子を窺い知ることができる。
<宮沢賢治は銅鑼に於ける不可思議な鉱脈である。会つたこともないし、未来どんな風に進展してゆくか、予想さへつかない。岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり、そんな事を考へても一寸グロテスクだ。曾て白鳥省吾氏が会いたい由を告げた時、私にはそんな余裕がないといつてはねかへしたそうだ。それを人づてに聞いたとき、私は内心万歳を叫んだ。詩集「春と修羅」はドラ社で取つぎます。>――草野心平「二月六日」
<太平洋詩人三月号に草野君が「私が宮沢賢治君に逢ひたいと言つてはねつけられた」といふやうな記事を書いて愛想を述べてゐましたが、私は宮沢君とは詩集受取の簡単な礼状以外嘗て文通した覚えもなく逢ひたいとか誰にか言伝てを頼んだこともありません。私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません。草野君が間接のゴシップで「万歳」を叫ぶとも、それは当人の勝手ではあるが、その事実は無根であることだけは明らかにして置きます。>――白鳥省吾「草野心平君に」
   <『宮沢賢治Annual Vol.10』(宮沢賢治学会イーハトーブセンター)より>
 さてこのときの「面会謝絶」の真相だが、それはおそらく千葉恭の証言どおりだと私は思っているが、それが事の真相だとしても、白鳥がこのように反論したくなるのは無理からぬことだと思う。それは、残念ながら賢治の断り方はマナーに反するからであり、ゴシップを基にして公器(詩誌「太平洋詩人」)においてその当事者を揶揄した草野心平は品性に欠けるからである。
 まして、当時の日本詩壇を代表する〝民衆派詩人〟白鳥省吾は、まだあまり世に知られていない賢治を早い段階から高く評価していた<*>ようだから、その賢治から一旦約束していた面会を突如拒否されたとなれば白鳥が怒り心頭に発していたということは充分あり得ることだと私は思う。したがってかくの如く白鳥が反論し、もしかすると嘯いたとしても私はあながち彼を一方的には責められないような気がする。言い方を換えれば、「私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません」と白鳥は白を切ったということではなかろうか、と私は推測する。
<*>「新校本年譜」(筑摩書房)の大正15年9月1日の注釈に次のようなことが書かれている。
 詩雑誌「詩神」九月号のアンケートにおいて、白鳥は「最近「狂舞の轍」といふ詩集を出した信州諏訪の木川新太郎君は詩壇の感化なしに水際だって鮮やかなのは、嘗て岩手の宮沢賢治君が「春と修羅」を出したのと好一対である」と言及している。
 心平の抱く未だ見ぬ賢治像
 なお、この「研究ノート」をの中味を見て私がちょっと吃驚したのは前述のような鞘当てにだけではなくて、草野心平が宮澤賢治に対して抱いていた認識
(1) 岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり
に対してであり、白鳥省吾の語る
(2) 宮沢君とは詩集受取の簡単な礼状以外嘗て文通した覚えもなく
に対してである。
 前者(1)からは、これが当時草野心平が抱いていた賢治像であったということを知ることが出来る。たしかに賢治が
 ・お経を誦んだり
 ・レコードをかけたり
 ・木登りしたり
していたことは事実であったはずだ。つまり
〝岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが、お経を誦んだり、レコードをかけたり、木登りしたり〟
の4項目のうち、とりあえず最初の項目を除いて、いずれも事実と違えているところはないと思う。とすれば、残った最初の項目
 ・岩手県で共産村をやつてゐるんだ
もほぼ事実(賢治が心平宛の書簡でそう語っていたという意味での)であったと推論をせざるを得ない…論理的には。
 まあでもこれは、実際には賢治に一度も会つたことのない草野心平のことだから単なる思い込みかも知れない。とはいえ、賢治と心平は手紙のやり取りはかなりしていたはずだから、そしてそれが心平が〝人間賢治〟を知るほぼ唯一の手段であっただろうから、一概に全て思い込みとも決め付けられない様な気もする。
 もしかすると、件のゴシップが面白おかしく全国に流布していったのと同様、〝賢治は岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだ〟という風評も当時詩人の間には広がっていたということなのかも知れない。
 とまれ、少なくとも心平自身は賢治のことを
〝岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが…(略)…一寸グロテスクだ。〟
と認識していたということは、心に留めておかねばならぬと思った。
 賢治と白鳥の間柄
 次に後者(2)に関してである。ここで白鳥が少なくとも否定していないこととして
 〝詩集受取の簡単な礼状〟
があるから
〝白鳥の許には「春と修羅」が送り届けられ、白鳥はその礼状を賢治に出した。〟
ということはほぼ歴史的事実であったであろう。そしてそれも、この「春と修羅」を誰が白鳥に送ったかというとそれは賢治ではなくて森荘已池であったに違いないと直感した。なぜならば、森は次のようなことをかつて語っていたからである。
 私が「岩手詩人協会」をつくったとき、賢治は機関誌の「貌」の刊行費にと「春と修羅」「注文の多い料理店」を三十冊ずつくれた。私はそれをどうすれば売れるのかを知らない中学生だった。賢治は「会員の皆様に買ってもらって『貌』の印刷費にすればいいでしょう」と、言ってくれたのだが―。…(略)…
 私は上京するとき、「春と修羅」を売って「貌」の印刷費を作ろうと東京に運んだ。
 だが、ケチネ氏が売り払った大量?の「春と修羅」が二十銭、三十銭で神田や本郷、新宿などの夜店の古本屋に、二、三ずつ出回っていたので、驚いてみな寄贈してしまった。いずれ当時の有名無名の詩人たちに贈ったものと思うが、名簿もないので全く不明である。
<『ふれあいの人々』(森荘已池著、熊谷出版)より>
 おそらくこの〝当時の有名無名の詩人たちに贈ったもの〟の中の一人が当時の有名詩人白鳥省吾であったに違いない。
 ならばどうして白鳥は賢治のところへ礼状を出すことが出来たのだろうか。それはおそらく「春と修羅」の奥付に賢治の住所が書いてあったからだと思ったのだが、その奥付に賢治の住所はなかった。さてこうなるとどうやって白鳥は賢治のところに礼状を送ったのだろうかということが問題となる。まさか、賢治自身が白鳥の許へ「春と修羅」を送っていた?
 現時点での判断
 賢治自身も白鳥省吾自身もそれぞれ面会を謝絶し、されたということを書き残しているわけではないようだからこの「面会謝絶」の真相が千葉恭の言っている通りかどうかは今の時点では私にはしかと判らない。そして、断られたのが花巻でであったのか盛岡でであったのかも定かでない。
 がしかし、それから一年も経ずして伊藤整にこのゴシップが伝わっていたということ、あるいは賢治が亡くなった直後には遠く高知県にまでそれが広がっていたということは、このうわさ話は日本のあちこちに広まっていたということを意味するのであろう。よって、宮澤賢治が白鳥に「面会謝絶」を喰らわしたということはほぼ間違いなく歴史的事実なのであろう。
 ただしその際に〝白鳥省吾は玄関先で面会を断られた〟という説もあるがそれはあくまでもゴシップであるし、白鳥が賢治に対して「私自身としても特に逢ひたい思つたこともありません」と主張しているのは、前述したような訳で白鳥が白を切ったということが十分あり得る。一方で千葉恭はこの件に関して詳述しているから、それを否定するほどの説得力は伊藤整の孫引き、岡本弥太の随想、白鳥省吾の反論のいずれにもないと感ずる。したがって、千葉恭の語っていることの方がその実相だったに違いないと私は判断した。そして、私は少しほっとした。

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