みちのくの山野草

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第3章 千葉恭の下根子桜寄寓(テキスト形式)

2024-03-18 14:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
第3章 千葉恭の下根子桜寄寓期間
 さて、千葉恭のあの「日」及び「期間」は今だもって確定出来ないでいる。いくつかのアプローチを試み、その結果いくつかの点が明らかになったとはいっても肝心のこのことには殆ど近付けないでいる。

1 千葉恭は松田甚次郎を直に見た
 残念ながらこの時点でこの「日」及び「期間」に関してほぼ確かなことは、大正15年7月25日前後千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅に寄寓していた、ということだけである。
 そこでもう一度千葉恭に関連して、その時点までに入手出来た資料(以前列挙した【千葉恭関連文献】のリストの全て)を読み直してみた。すると次のような事柄が書かれている2つの資料が目に留まった。その一つは 「宮澤先生を追つて(三)」であり、その中には次のようなことが書かれていた。
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
 そして二つ目は 「羅須地人協会時代の賢治」であり、こちらには次のようなことが述べられている。
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
 これらはいずれも松田甚次郎に関わるものであり、この最後の賢治から〝松田甚次郎も大きな声でどやされた〟とくれば昭和2年3月8日の訪問(後述する)のあのシーンが想起される。これでちょっとだけだが再び明かりがほのかに見えてきた。というのはこれらの資料から
〝千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅寄寓中に賢治を訪れた松田甚次郎本人を直に見ている。〟
ということが言えそうだからだ。こうなれば、松田甚次郎が大正15年4月~昭和2年3月の間(盛岡高等農林在学期間)のいつ頃何回ほど下根子桜に賢治を訪ねたかが判ればあの「日」及び「期間」をある程度推測出来そうな気がしてきた。

2 昭和2年3月8日の桜訪問
 さて松田甚次郎が宮澤賢治を訪ねたといえば直ぐに思い浮かぶのが昭和2年3月8日のことである。
 ベストセラー『土に叫ぶ』には
 その時のことを松田甚次郎は自著の、当時の大ベストセラーであった『土に叫ぶ』の巻頭で次のように述べている。
    一 恩師宮澤賢治先生
先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたつてゐる頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝいた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 したがって松田甚次郎は昭和2年3月に賢治の許を訪れているということが自身の著書から判る。
「校本年譜」には
 ではそれは3月の何日か。それについては「校本年譜」(筑摩書房)に
三月八日(火) 岩手日報の記事を見た盛岡高農、農学別科の学生松田甚次郎の訪問をうける。「松田甚次郎日記」は次の如く記す。
「忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ Reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   [?]pple
 2.30. for morioka 運送店
…(略)…
<『校本宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房)>
とあることから、昭和2年3月8日であることが分かる。
 したがってこれらの資料から、松田甚次郎は友人須田と二人で昭和2年3月8日(火)の午前には旱魃に見舞われて困窮していた赤石村を慰問し、同日の午後には下根子桜の賢治宅を訪れていたといえそうだ。
 松田甚次郎に対する〝先生の訓へ〟
 そして、この下根子桜訪問の際に賢治から諭された〝先生の訓へ〟がその後の松田甚次郎の生き方を決めた。そのあたりのことを松田甚次郎は自著『土に叫ぶ』で次のように語っている。
 赤石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓へこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。…(略)…
 真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
 そしてその後、松田甚次郎は賢治から言われたとおりほんとうに小作人(松田甚次郎の実家は豪農であったのに)となり、農村劇を幾度も上演し、黙ってそれらを十年間実践したというのである(因みにその実践報告書がベストセラー『土に叫ぶ』である)。このことに鑑みればなおさら、賢治の松田甚次郎に対する教訓の仕方は私にとっては正直意外であった。「そんなことでは私の同志ではない」という先に外堀を埋めてしまう賢治の論法、妥協を許さない強い姿勢は私が抱いていた賢治のイメージからはかけ離れていたからである。
 また、松田甚次郎が知っていたか否かは定かではないが、当時賢治は小作人になっていたわけでもないし、農村劇(農民劇)をやっていたわけでもないはず。なのにそれを他人に半ば強要していたとすれば賢治の教訓は当然アンフェアである。だから、私はあの賢治がまさかここまで言うか、とさえも思ってしまう。一方で、もしかすると賢治の教訓の仕方の真実はこれほどのものではなくて、賢治の言い方に対して松田甚次郎が自分の想いを織り込み過ぎて事実を多少粉飾した文章になっているのではなかろうかとも思ったりはするのではあるが…。
 千葉恭の受け止め方
 ところで、この時の賢治が松田甚次郎に訓示を垂れている様こそが、『イーハトーヴォ復刊2号』において千葉恭が
 〝松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。〟
と語っているシーンを彷彿とさせる。そこでもしかするとこの場面を目の当たりにして千葉恭は〝どやされた〟と言っているのではなかろうか、と私は直感した。
 周知のように、この頃すでに賢治はそれまでのような旺盛な活動からは退却していったと言われているはず。この訪問日より1ヶ月強ほど前の昭和2年2月1日付岩手日報において
「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる」
と取材に答えていた賢治であるが、この日を境にしてそれまでのような活動は下火になっていったと聞く。その後農民劇だけは着々とその準備をしていたということも考えられるが、賢治はその後農民劇を上演したということは少なくともなかったはず。一方、豊沢町の賢治の実家は当時10町歩ほどの小作地を有していた大地主と聞くが、松田甚次郎とは異なり賢治自身は小作人になっていたわけでもない。
 そのような状況下に賢治があったということを、もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとすれば彼は承知していたはずだ。そうだとするならば、賢治の実態と松田甚次郎に垂れた〝先生の訓へ〟との間には乖離があるので違和感があると千葉恭は受け止めていたかも知れない。もともと千葉恭は冷静な考え方をするタイプだし批判的な見方も出来る人物のようだから、この受け止め方が千葉恭をして〝どやされた〟という表現をなさしめたのかも知れない。もしそのような違和感を持っていなければ例えば〝強く諭された〟というような表現をすると私は思うからである。
 推論の欠陥と修正
 ここまで推論して来て私はこの推論の仕方にやや欠陥があり、迷路に嵌りつつあることに気が付いた。この様に推論出来るのは、
〝もし千葉恭がこの頃も下根子桜の別宅に寄寓していたとす れば〟
という条件下で、であると思い込んでいたが、もう一度冷静に振り返って推論の仕方を修正する必要がありそうだ。
 そもそも私がなぜこのような考察をして来たかといえば、
〝千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜に賢治を訪ねて来た松田甚次郎を見ており、その時松田甚次郎が賢治からどやされた場面を目の当たりにしている。〟
という仮説を実は持っていたし、その検証をしたかったからであった。そしてこのことが検証出来れば自ずから
〝千葉恭は昭和2年3月8日頃も下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していた。〟
ということも言えそうだと思っていたからである。
 もちろん松田甚次郎が下根子桜の賢治の許を訪れていたのがこの一回だけであれば話しは簡単でこれで終わる。ところが、松田甚次郎はその他の日にも下根子桜の賢治の許を訪ねていてしかもその時賢治から〝どやされ〟ていたということがあれば、千葉恭が3月8日に下根子桜の宮澤家の別宅に寄寓していたということは保証出来なくなる。その他の日にも訪れていなおかつ〝どやされ〟たことがあれば昭和2年3月8日に千葉恭がその現場にいたという保証にはなり得ないからである。
 実際、松田甚次郎は『土に叫ぶ』ので出しで
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
と〝暇乞い〟に行ったと語っているのだから、この日(3月8日)よりも前にもそこを何度か訪れているということをこの表現は示唆しているような気もするし…。

3 松田甚次郎の桜訪問回数
 さてこうなれば、松田甚次郎が賢治の許を訪問したことは昭和2年3月8日以外にもあったのかなかったのか、あったとすればそれはいつだったのかということをまずは探る必要があると覚ったので、そのことを次に試みたい。
『宮澤賢治研究』より
 その関連で思い出すのはまず松田甚次郎著「宮澤先生と私」という次のような回想である。
 盛岡高等農林学校在学中、農村に関する書籍を随分と読破したのであるが、なかなか合点が行かなかった。が、或日岩手日報で先生の羅須地人協会の事が出て居つたのを読むで訪れることになつたのである。花巻町を離れたある松林の二階建ての御宅、門をたゝいたら直に先生は見えられて親しい弟子を迎ふる様ななつかしい面持ちで早速二階に通された。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて来る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光つて見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持参せられて、食事をすゝめられた。
 かくして私共は、慈父に久し振りで会ふた様な、恩師と相語る様にして下さつたあの抱擁力のありなさる初対面の先生にはすつかり極楽境に導かれてしまった。
 それから度々お訪ねする機を得たのであるが、先生はいつも笑つてにこにこして居られ、文化はありがたいものだ、此処に居てロシアの世界的なピアノの名曲を聴かれるとてロシアの名曲を聴かしてくだされたり、セロを御自ら奏して下さつたものである。…(略)…
 私が先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが、私が先生の教えを奉じて、最初に農民劇を演ずべくその脚本を持參して伺つたのであるが、非常に喜ばれて事細かく教示を賜り、特に篝火を加えて最高潮を明にして下さつたのである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書)>
 この回想を読んでみて気になったことが3点ある。その第一は、
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
の部分である。この時が松田甚次郎が賢治を下根子桜に訪ねた最初であり、その後何度か、それもしばしばそこを訪れたと受け取れる表現をしているからである。
 その第二は、
「先生を最後に訪ねたのは、昭和二年の八月であつたが」
のところである。つまり松田甚次郎が賢治の許を訪ねた最後は昭和2年の8月であったと言っている点である。
 その第三は、
「先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀になつたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて」
と述べている点である。
 そしてこの第三の証言の中の〝十一時半〟という時刻から、松田甚次郎が最初に賢治の許を訪ねた際には午前中からそこを訪れていたということになろう。すると、最初の訪問日は昭和2年の3月8日ではなさそうだ。なぜなら『土に叫ぶ』からは、千葉恭は3月8日の午前中は赤石村を慰問して午後に下根子桜を訪れたと読み取れるので、同日の午前中にはまだ甚次郎は花巻に着いていなかったことになるからである。
『宮澤賢治』(佐藤隆房著)より
 さて、では千葉恭が賢治を下根子桜に最初に訪れたのはいつだったのであろうか。そこで次に思い出したのが『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)である。その中には「八二 師とその弟子」という節があり、次のようなことがあたかもその光景を見ているかのように綴られている。
 大正十五年(昭和元年)十二月二十五日、冬の東北は天も地も凍結れ、道はいてつき、弱い日が木立に梳られて落ち、路上の粉雪が小さい玉となって静かな風に揺り動かされています。
 花巻郊外のこの冬の田舎道を、制服制帽に黒マントを着た高等農林の生徒が辿って行きます。生徒の名前は松田君、「岩手日報」紙上で「宮沢賢治氏が羅須地人協会を開設し、農村の指導に当たる」という記事を見て、将来よき指導者として仰ぎ得る人のように思われたので、訪ねて行くところです。
<『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和26年版)>
 「やった!これで分かったぞその日が」と私はほくそ笑んだ。松田甚次郎が初めて賢治を下根子桜に訪れた日は大正15年12月25日だったんだ。
 しかしその喜びも束の間、待てよ何かおかしいぞという気がしてきた。たしかその頃賢治は滞京中ではなかったのか、花巻には居なかったのではないかと。
 ならばその頃の賢治の行動を「新校本年譜」で確認してみよう。12月中に関しては次のような内容になっていた。
 12月1日 定期の集りが開催されたと見られる。
 12月2日 花巻駅より、澤里武治と柳原昌悦<*>に見送られながらセロを持って上京。
 12月3日 着京し神田錦町上州屋に下宿。
 12月12日 東京国際倶楽部の集会出席等。
 12月15日 政次郎に書簡にて「二百円」の送金を依頼。
12月20日    〃    重ねて「二百円」の送金を依頼。
12月23日    〃    29日に帰郷すると知らす。
<『新校本 宮澤賢治全集 第十六巻(下)』(筑摩書房)>
ここには12月29日に帰郷したとはっきりは書いていないが、それまでは滞京中であると思われる。恐れていたとおりだ。はたして、事実はどっちだったんだろうか…。参ったな、どうすればいいのだろう。途方にくれそうになった時にふと思い出したのが『新庄ふるさと歴史センター』であった。
<*> このことに関しては前述したことがあるように
「澤里武治一人に見送られながら花巻駅から7度目の上京をした」
とばかり思っていたが、その後あるとき、実証的宮澤賢治研究家のC氏から
「そのとき花巻駅に見送りに行ったのは澤里武治だけでなく柳原昌悦も行っていたのです」
と教えてもらった。というのは、かつてC氏が柳原昌悦本人から直接取材した際に、柳原は
「一般には一人ということになっているが、俺も澤里さんと一緒に行ったのです」
と証言していた、とC氏は私に語ってくれたのである。何にも書かれていていないことだけれども、と。となればもしかすると、賢治が「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と語ったことを柳原も聞いていたかもしれない。

4 松田甚次郎の古里訪問
 どうして私はふと『新庄ふるさと歴史センター』を思い出したのだろうか。それは過去に一度そこを訪れた時のあるものが私をそうさせたに違いない。
 松田甚次郎の足跡を訪ねて
 かつて松田甚次郎の古里新庄市鳥越を訪ねたことがある。それは松田甚次郎生誕百周年の2009年のことであった。昭和2年3月8日に賢治を訪ねて「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治から諭されて実際そのとおりに実践、いわば「賢治精神」を忠実に実践したであろう松田甚次郎のことを以前からもっと知りたいと思っていたし、節目の年だから何かしら記念行事等の催し等が行われているのではなかろうかとも思ったからである。
 初めて乗る山形新幹線、たぶん『松田甚次郎記念館』などが創られるなどという動きもあるのではなかろかと車中で勝手な想像をしながら思いに耽っていたならば、思いの外早くその終点新庄駅に着いた。何はともあれ早速鳥越にタクシーを走らせ、松田甚次郎の足跡のいくつかを辿ってみた。具体的には鳥越八幡宮、そこの境内にある土舞台、最上共働村塾跡、如法寺、隣保記念館跡地、生家、墓地等を歩き廻って当時に想いを馳せてみた。
 ところが、生誕百周年の年ではあったのだがとりたててそのようなことを記念する催しも、また記念館を建てるというような動きもともにないように感じた。そのような形跡も情報も得られなかったからである。賢治の生誕百周年の際の賑々しさに比べてこの静けさは歴史の必然なのだろうかと一抹の寂しさを感じてしまった。
 思うに、大ベストセラー松田甚次郎著『土に叫ぶ』や松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』は、それまでは地方に埋もれていた存在であった賢治の名を全国に知らしめるために多大の貢献をしたはず。なのに昨今、松田甚次郎の名は殆ど忘れ去られつつあるという寂しさを感じながら、次に訪れたのが新庄市立図書館と『新庄ふるさと歴史センター』である。
 まず先に図書館を訪れた。そこには松田甚次郎に関する資料が纏めて置かれているコーナーがあり、いくつかの資料が閲覧出来た。その中には見てみたかった資料等も幾つかあり、特に、斎藤たきちの「賢治の心で山形の地を生きて」という資料は興味深かいものであった。次に訪れた『歴史センター』は、その2階が『新庄市民俗資料館』になっていてそのフロアーに「郷土人物館」というコーナーがあり、松田甚次郎に関する展示もいくつかあった。ガラスケースの中には松田甚次郎の日誌(もちろん閲覧は出来なかった)の展示もあって興味深かったのだが、正直言って思ったよりその展示資料の量・内容ともにあまり豊富でなかった。松田甚次郎は戦意昂揚に協力したと見なされてあまり評価されていないせいなのだろうか。そのあたりのことをセンター長に訊いてみると、松田甚次郎の農村改善運動等には功罪両面がありその評価は未だ定まっていないからであろうということであった。
 これが1回目の新庄訪問であった。
 2度目の新庄訪問
 さて前述したように、大正15年12月25日はたして松田甚次郎は賢治の許を訪れていたのかいなかったのかということが分からなくなっていた時に思い出したのがこの『新庄ふるさと歴史センター』であった。それはそこに松田甚次郎の日誌が陳列されてあったということを思い出したからである。彼の日記を見ることが出来ればいずれであるかが判るではないかと。
 しかし問題はその日誌を見ることが出来るか否かだ。学者でも研究者でもない私が松田甚次郎の日誌を閲覧出来るはずはないよなと思いつつ、厚かましくも駄目元で同センターに問い合わせてみる。
「宜しければ松田甚次郎の大正15年と昭和2年の日誌を見せていただけないでしょうか」
と。するとなんと受話器から
「宜しいですよ。それではこちらにお越しになる前にその日をお知らせ下さい。準備しておきますので」
という返事が聞こえてきた。嬉しさのあまり私はあやうく「やったっ!」と叫ぶところだった。
 ということですぐさま訪ねたのが2度目の新庄訪問で、それは2月の末であった。新庄に近付くにつれて車窓からの眺めに驚きが増していった、あまりの積雪の多さに。岩手の積雪も少なくはないが、新庄の雪の多さは桁違いだった。新庄駅に下り立ってみると3月間近だというのに積雪が私の背丈よりも高かったからだ。この時期でかくの如くであるなら、真冬とか昭和初頭の頃ならばここの積雪の多さは推して知るべしだ。それだけでも松田甚次郎の実践は凄かったに違いないと直感した。松田甚次郎は農閑期の冬、農民を啓蒙する講演のために猛吹雪の中を幾度も駆けずり回ったと『土に叫ぶ』でたしか語っていたはずだからである。雪の回廊の中、そんなことを思い出しながら『新庄ふるさと歴史センター』に向かった。
 そこへ着いたのはまだ昼時だった。恐縮しながら、
「松田甚次郎の日誌を見せてもらいたくてやって参りました者です」
と受付の方に告げると、なんとわざわざセンター長が自宅から駆けつけて来て、大正15年と昭和2年の松田甚次郎の日誌を見せてくれた。いの一番に開いて見たのはもちろん大正15年12月25日の頁である。

5 『松田甚次郎日記』より
 幸いにも見ることが出来た松田甚次郎の二冊の日誌。それらはいままで私が抱えていた2つの懸案事項を一気に解決させてくれた。
 大正15年12月25日の日記
 その一つは、松田甚次郎の大正15年12月25日の日記には次のようなことなどが書かれていたからである。
    …
  9.50 for 日詰 下車 役場行
  赤石村長ト面会訪問 被害状況
  及策枝国庫、縣等ヲ終ッテ
  国道ヲ沿ヒテ南日詰行 小供ニ煎餅ノ
  分配、二戸訪問慰聞 12.17
  for moriork ? ヒテ宿ヘ
  後中央入浴 図書館行 施肥 no?t
  at room play 7.5 sleep
  赤石村行ノ訪問ニ戸?戸のソノ実談の
  聞キ難キ想惨メナルモノデアリマシタ.
  人情トシテ又一農民トシテ吾々ノ進ミ
  タルモノナリ決シテ?ノタメナラザル?
  明ナルベシ 12.17 の二乗ラントテ
  余リニ走リタルノ結果足ノ環節がイタクテ
  困ツタモノデシタ
  快晴  赤石村行 大行天皇崩御
<『大正15年 松田甚次郎日記』>
 したがってこの日記に従うならば、松田甚次郎はこの日(12月25日)は花巻にではなくて日詰に行き、大旱魃によって飢饉一歩手前のような惨状にあった赤石村を慰問していたことになる。南部せんべいを一杯買ひ込んで国道を南下しながらそれを子供等に配って歩いたのだろう。そして、盛岡に帰る際に12:17分の汽車に間に合うようにと走りに走ったので足が痛かったというようなことも記している。したがって慰問後は直接盛岡に帰ったことになり、赤石村慰問後の午後に花巻へ足を延ばしていた訳ではない。因みにこの日に購入した切符は日詰までのものであって、花巻までのものではなかったことも確認出来た。その日記帳には金銭出納も事細かに書かれていたからである。
 というわけで、一般には他人の著書よりは本人がしたためた日記の中味の方が遥かに信憑性が高いだろうから、松田甚次郎本人のこの日の日記から
〝松田甚次郎の赤石村慰問は一般に3月8日の午前と思われているようだが慰問したのは大正15年12月25日であるし、この12月25日に甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねてはいない。〟
と結論していいであろう。つまり
(ア)松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れていない。佐藤隆房著『宮澤賢治』には同日そこを訪れたと書いてあるが、それはフィクションである。
(イ)松田甚次郎は大正15年12月25日に赤石村を訪れて慰問しているが、自身の著書『土に叫ぶ』では昭和2年3月8日に赤石村を訪れたかのように受け止められるような書き方をしている。しかしそれはこの日のことの記憶違いであろう。
ということではなかろうか。
 やった!これで今までのもやもやの一つが霽れた、と私は心の内で抃舞した。新庄は遠かったけれど真実には近づけた。心から『新庄ふるさと歴史センター』とセンター長に感謝した。
 それにしても佐藤隆房は大正15年12月25日に松田甚次郎は下根子を訪れたと、それも恰も見ているかの如くその様を生き生きと「書いた」のはなぜなのだろうか。明らかな虚偽がそこにはあるが、さりとて全く無関係な日かというとそうでもなく、大正15年12月25日は旱魃で困窮しているであろうことに心を痛めて松田甚次郎が赤石村を慰問した日ではある。しかし『土に叫ぶ』など一連の松田甚次郎の著書を読んでもそれらからは慰問した日が「大正15年12月25日」であるということを知る由はないはず。なのに、わざわざこの日「大正15年12月25日」を松田甚次郎が初めて下根子桜に賢治を訪問した日として佐藤隆房は「特定」してでっち上げたのか、その偶然性が気になる。
 また松田甚次郎自身も、どうして『土に叫ぶ』で
「或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々会ふ子供に与へていつた。その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
と、自身の日記とは矛盾するような書き方をしたのであろうか。もしかすると松田甚次郎の場合は当日12月25日は大正天皇が亡くなった日だからそのことに遠慮をして書き換えたのだろうか。
 いずれこれらのことに鑑みて言えることは、活字をそのまま事実であると鵜呑みにしてはいけない、検証せねばならぬということなのだろう。私はつい、出版されているものを読むとそれが真実であると受け止めがちな傾向がある。しかし以前述べた宮澤賢治研究家E氏の〝千葉恭は盛町出身〟といい、今度の佐藤隆房の〝大正15年12月25日〟の件といい、この松田甚次郎の〝昭和2年3月8日〟の件といい、活字になってはいたがいずれも真実そのものではなかった。真実を掴むためにはやはり検証が必要だし、大切なのだということをいまさらながらに思い知らされたのである。
 とはいえ、やっとこれで一つの懸案事項は解決出来てそれまでの大きな胸のつかえがおりた。ただし松田甚次郎のこれらの日誌を元にして確認しなければならないことがもう一つある。それがその時新庄を訪ねた最大の目的であったゆえに。
 二つ目の懸案事項
 さてこの時の新庄行の最大の目的は次のようなもう一つの懸案事項を解決することであった。それはいままでずっと解明出来ずにいた、松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日を解明することであった。もっと正確にいうと松田甚次郎が盛岡高等農林入学後、甚次郎が下根子桜に初めて賢治を訪ねたのはいつで、その後いつ何回ほどそこを訪ねていたのかを知ることが最大の目的であった。
 そこで、『新庄ふるさと歴史センター』で見せてもらった大正15年及び昭和2年の松田甚次郎の日誌を、前者については3月末から、後者については8月末までしらみつぶしに調べてみた。それも単に日記だけでなくてその日誌に付いていた現金出納帳も目を皿にして付き合わせてみた上でである。その結果分かったことは
〝松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたと記してあった日は昭和2年3月8日と同年8月8日の両日だけであった。〟
ということであった。
そしてこの両日の日記の中味はそれぞれ次のようなものであった。

 昭和2年3月8日の日記
 昭和2年3月8日、つまり初めて松田甚次郎が賢治の許を訪れた日の日記には
 忘ルルナ今日ノ日ヨ、Rising sun ト共ニ
 reading
 9. for mr 須田 花巻町
 11.5,0 桜の宮澤賢治氏面会
 1. 戯、其他農村芸術ニツキ、
 2. 生活 其他 処世上
   unpple
 2.30. for morioka 運送店
stobu 定盛先生行
 nignt 斎藤君
 今日の喜ビヲ吾の幸福トスル 宮沢君の
 誠心ヲ吾人ハ心カラ取入ルノヲ得タ.
 実ニカクアルベキ然ルベキナルカ
 吾ハ従ツテ与スベキニ血ヲ以ツテ盡力スル
 実現ニ致ルベキハ然ルベキナリ
 おゝお郷里の方々!地学会、農藝会
 此の中心ニ吾々のなすヲ見よ.
 現代の農村生活ヲ活カスノダ
 晴 関西大地震 花巻行
と記されていた。

 昭和2年8月8日の日記
 一方2度目で、それが最後の訪問になった昭和2年8月8日の日記は
  …
 農村青年ノ今後 彼モ力ナル
 ベキヲ与フレバマタ現在モ?大シ
 メルノミナレバトテカヤ
 花巻 宮沢先生行.
 AM レコード
 PM 水涸ノ組立
 4.45 花巻 for
 先生ハ快クお会シテ呉レル
 与ヘラレタ 実ニ、我師・我友人
 知己之ハ余リニ馬鹿者ヨ
 横黒線ノ夕ノ山川ノ夏ハ清シ!
 花巻宮沢先生へ  歸宅
というものであった。
 甚次郎が賢治を訪ねた日の確定
 いよいよ結論へと進もう。『松田甚次郎日記』に書かれていることに基づけば
☆松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない。
またこのことと、松田甚次郎は昭和2年に高等農林を卒業しているということから
☆松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治を訪ねたのは〝たった1回だけ〟であった。
と結論して間違いなかろう。なんとこれで二つ目の懸案事項が解決出来てしまった。
 なお、松田甚次郎自身は『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)の「宮澤先生と私」の中で
「初対面の先生にはすっかり極楽境に導かれてしまった。それから度々お訪ねする機を得たのである」
とか、『土に叫ぶ』ので出しで
「その日の午後、御礼と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した」
とか、かなりの回数そこを訪問しているかのような書き方をいるが、それはおそらく彼の思い違いか、あるいは思わず筆が滑ったかのどちらかであろう。
〝たった1回だけ〟の持つ意味
 松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねた回数と日が確定した。それも望ましい形での確定だったから私はその幸運に感謝し安堵した。それはこの事実そのものが分かったこともあるが、それ以上にこの〝たった1回だけ〟であったことにであった。そして、この〝たった1回だけ〟であったことは二つの意味で私を驚かせる。
 その一つの意味はもちろん、この〝たった1回だけ〟が松田甚次郎のその後の人生を決めたことにである。初めて会った賢治に如何に松田甚次郎は魅惑され、信服し、一方賢治は松田甚次郎を心酔させたかということであろう。そういえばこの時期賢治は頗る精神が高揚していた時期であったはず<*>だから、おそらく松田甚次郎は賢治に圧倒され、カリスマ性を感じたに違いない。ただしこちらの意味の方はその時の新庄行においてはそれほど重要なことではなく、もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだったが、そのことについては後ほど述べたい。
<*> この直前に次のようなことがあった、あるいはあったと思われることから推測出来る。
・昭和2年3月4日に下根子桜で集まりを開き交換会や競売等も行っていたと見られる。
・昭和2年3月4日〝地人學会〟創立の協議がなされて発足、少なくとも当日6名の加入があった。
・一〇〇四 〔今日は一日あかるくにぎやかな雪降りです〕一九二七、三、四、を詠む。
 とまれこの2度目の新庄行の最大の目的、〝いつ何回ほど松田甚次郎は下根子桜に賢治を訪ねていたかということを探る〟という目的は達成出来た。また、そのことにより千葉恭の下根子桜寄寓期間に関しても大きな情報を得ることが出来た。再び新庄まで来た甲斐があった。それも偏に『新庄ふるさと歴史センター』及びセンター長のお蔭であると感謝しながら新幹線に飛び乗った。

6 賢治から松田甚次郎がどやされた日
 では、私にとっては「もう一つの〝たった1回だけ〟の持つ意味の方が重要な意味を持っていたのだが」について述べてみたい。
 そもそもなぜ私はここまで松田甚次郎の下根子桜の訪問回数とその日がいつかを調べてきたのかというと、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と千葉恭の目からは見えた日がいつかを確定したかったからだ。
 千葉恭は賢治から〝どやされた〟甚次郎を見ていた
 以前述べたことでもあるが千葉恭は、「宮澤先生を追つて(三)」において
 詩人と云ふので思ひ出しましたが、山形の松田さんを私がとうとう知らずじまひでした。その后有名になつてから「あの時來た優しさうな靑年が松田さんであつたのかしら」と、思ひ出されるものがありました。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
と、また「羅須地人協会時代の賢治」において
 一旦弟子入りしたということになると賢治はほんとうに指導という立場であつた。鍛冶屋の気持ちで指導を受けました。これは自分の考えや気持ちを社会の人々に植え付けていきたい、世の中を良くしていきたいと考えていたからと思われます。そんな関係から自分も徹底的にいじめられた。
 松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
と証言しているので、千葉恭は下根子桜の宮澤家別宅寄寓中に賢治を訪れた松田甚次郎本人を、それも賢治から〝どやされ〟ていると千葉恭には見えた松田甚次郎本人の姿を目の当たりにしていたに違いないと考えていた。
〝どやされた〟のは賢治を訪ねた日
 当然のことながら、松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟のは賢治の許を訪ねた日でしかあり得ない。それは『松田甚次郎日記』を調べた結果、
〝松田甚次郎が下根子桜に賢治を訪ねたのは昭和2年3月8日と同年8月8日の2回だけであり、その2回しかない〟
ということが判明したから、この両日のどちらかでしかあり得ない。
 さてこの両日のそれぞれについて、昭和2年3月8日の訪問に関しては
 先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。
とか 
 黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
ということを述べている。一方、昭和2年8月8日の訪問に関しては
 それから一ヶ月間余暇をぬすんで、初体験の水掛と村の夜の事を脚本として書いて見た。そして倶楽部員の訂正を仰いで、ほゞ筋が出来たが、何だか脚本として物足りなくて仕様がないので困つてしまつた。「かういふ時こそ宮澤先生を訪ねて教えを受くべきだ」と、僅かの金を持つて先生の許に走つた。先生は喜んで迎へて下さつて、色々とおさとしを受け、その題も『水涸れ』と命名して頂き、最高潮の処には篝火を加へて下さつた。この時こそ、私と先生の最後の別離の一日であつたのだ。余りに有り難い一日であつた。やがて『水涸れ』の脚本が出来上がり、毎夜練習の日々が続いた。
<共に『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)>
と述べている。
 このそれぞれの訪問日に関する松田甚次郎の証言を基に〝どやされた〟日について次に考えてみたい。
 賢治から〝どやされた〟日の確定
 前述の松田甚次郎の証言から、賢治から松田甚次郎が〝どやされた〟のはどちらの日がふさわしいかというともちろん後者はあり得ず、前者3月8日であろう。昭和2年2月1日付岩手日報の記事で
「目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、…」
と報道されはしたのだが、賢治自身はその後農民劇の準備を進めていった気配はない。一方の、8月8日に下根子桜を訪れた松田甚次郎の方は着々と農村(民)劇の準備をしており、脚本さえ出来上がりつつある。8月8日に訪れた松田甚次郎が賢治から褒められることはあっても〝どやされる〟筋合いにはなかったはず。よって、
「そんなことでは私の同志ではない。…地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。…小作人たれ 農村劇をやれ」と、力強く言はれた」
のは3月8日の方でしかあり得ないはずだからである。そしてこの時の賢治の諭し方は他人から見れば〝どやされた〟と見えないこともなかろう。
 もちろん、この〝どやされた〟日は松田甚次郎が盛岡高等農林在学中であろうことは私も以前からほぼ確信していた。しかもそれはあの昭和2年3月8日の日のことであろうと。しかし一抹の不安があった。というのは松田甚次郎は高等農林に在学中にかなりの回数下根子桜に賢治を訪ねていたと受け止められるような表現をしている資料が、以前触れたように2つほどあったからである。そこで、松田甚次郎が〝どやされた〟と千葉恭が受け止めたような場面を他の日に千葉恭は目の当たりにしていたかも知れない、という一抹の不安があった。もしそのようなことがあれば〝どやされた〟日はあの昭和2年3月8日とは言い切れなくなってしまうからである。
 しかし今回の新庄行で『松田甚次郎日記』を見ることが出来たので、松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に賢治を訪ねたのはたった1回だけであったということが分かった。この〝たった1回だけ〟であったということは、彼が学生時代にかなりの回数そこを訪ねたわけではなくてたった一度しか訪ねていないということを担保する重要な役割を持つ。
 したがって、千葉恭の目から松田甚次郎が賢治から〝どやされた〟と見えた日は昭和2年3月8日でしかあり得ないことになる。これが〝たった1回だけ〟の持つもう一つの重要な意味であり、役割である。
 現時点での判断
 というわけで、現時点での私の判断は
 千葉恭は昭和2年3月8日に下根子桜を訪ねてきた松田甚次郎本人を直に見ている。そして賢治から松田甚次郎が「小作人たれ 農村劇をやれ」と〝訓へ〟られている場面を千葉恭は〝どやされた〟と受け止めていた。
というものである。またこのことにより、千葉恭はその現場にいたということになるから、
☆千葉恭は昭和2年3月8日頃までは少なくとも下根子桜で賢治と一緒に暮らしていたということが充分に考えられる。
である。なお、この3月8日前後だけたまたま千葉恭は下根子桜櫻の別宅に泊まっていたとも考えられる。それゆえ、現時点では〝ということが充分に考えられる〟としてある。このことに関しては今後注意深く扱い、さらなる検証を試みたい。
 さあすると、残された次の大きな課題は何か。それは、いつ頃から千葉恭は賢治と一緒に暮らし始めたのか、その時期を明らかにすることだ。そしてその時期は彼が穀物検査所を辞めた時期とほぼ重なるだろうから、役所をいつ辞めたかを探ることにもなろう。

7 千葉恭の辞職・復職日等判明
 それにしてもどうしてなのだろうか、「新校本年譜」等をも含め、どんな本を見ても千葉恭が下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らしていた時期や期間は今だもってはっきりと記されていないようだ。それはそもそもこの期間や時期に関して賢治自身は一言も、そして千葉恭自身ははっきりと言っていないせいもあるのだろう。
千葉恭の言っていること
 ただし振り返ってみれば、千葉恭自身は次のようなことは言っている。
(ア)そのうちに賢治は何を思つたか知りませんが、学校を辞めて櫻の家に入ることになり自炊生活を始めるようになりました。次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました。このことに関しては後程お話しいたすつもりですが、二人での生活は実に惨めなものでありました。
 その後先生から『君はほんとうに農民として生活せよ』と言われ、家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり、今日そのままに同じ仕事をいたしております。
<『イーハトーヴォ復刊2号』(宮澤賢治の会)>
(イ) (下根子桜では)賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
(ウ) 先生との親交も一ヶ年にして一応終止符をうたねばならないことになりました。昭和四年の夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました。私は役人はだめだ!自然と親しみ働く農業に限ると心に決めて家に歸つたのです。
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
 ここまでのことからの推定 
 例えば前掲の(ア)で千葉恭が
「次第に一人では自炊生活が困難になって来たのでしょう。私のところに『君もこないか』という誘いが参り、それから一緒に自炊生活を始めるようになりました」
と語っていることとか、千葉恭の三男F氏が
「父は上司とのトラブルが生じて穀物検査所を辞めたようだが、実家に戻るにしても田圃はそれほどあるわけでもないし、賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
と私に語ってくれたことなどから、千葉恭はある時穀物検査所勤めに見切りをつけ、下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めたのであろうと私は推理していた。言い換えれば、彼が穀物検査所を辞めた時期と下根子桜の別宅で賢治と一緒に暮らし始めた時期とはほぼ重なるであろうと考えてきた。それゆえ当面の最大の懸案事項は千葉恭はいつ穀物検査所を辞めたのかということであった。
 さりとて前掲の(ウ)によれば、千葉恭は〝昭和四年に〟役所(穀物検査所)を辞めて帰農したことになるがそれを鵜呑みにすることは出来ない。
 なぜならこの(ア)によれば
「家に帰って九年間百姓をしましたが体の関係から勤まらず、再び役所勤めをするようになり」
ということだが、千葉恭が遅くとも昭和8年には復職していることは『岩手年鑑』の「県職員等の職員名簿」の記載で確認出来るから、もし昭和4年に辞めて昭和8年に復職したとなれば帰農期間は昭和4年~8年の5年間以内となり〝九年間百姓をしました〟とはかなり差が生じるからである。
 一方、大正15年7月25日の朝起きがけに千葉恭は賢治に頼まれて白鳥省吾との面会を断りに行っているから、この時期には彼はもう穀物検査所を辞めていて賢治と一緒に暮らしていたと考えるのが妥当である。そしてこの時点から起算すれば昭和8年までの間が約8年間となり、それを「九年間百姓しました」と言っていることは許容範囲であろう(昭和元年も1年と数えれば「9年間」はあり得る)。
 なお、一般に千葉恭は賢治と約半年一緒に暮らしたと言われているようだが、それはこの(イ)が拠り所になっているのだろう。
 と、長々綴ってはみたものの、肝心の千葉恭がいつ穀物検査所を辞めていつ復職したのかというそれらの日をはっきりと確定出来ないままにここに至ってしまった。
 辞職・復職日確定
 ところがある切っ掛けであるルートから、千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた日、そして正式に復職した日等があっけなく判明した。それはそれぞれ
☆大正15年6月22日 穀物検査所花巻出張所辞職
☆昭和7年3月31日  〃  宮守派出所に正式に復職
というものであった。
 今まで躍起になって探し廻ってきた日、千葉恭が穀物検査所を辞めた日がやっとのことで確定した。これで当面の最大の懸案事項が解決した。私はこのあるルートとその担当者にひたすら感謝した。これで、より自信を持って千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めた時期等を推定出来そうな気がして来た。
 千葉恭の「下根子桜寄寓期間」の仮説
 一般にお役所の人事の発令の期日は〝きり〟の良いところ、月初めとか月末が多いはずである。なのに千葉恭が一旦役所を辞めた日は中途半端な22日であることから、これは上司との折り合いが悪くなって突如辞表を出したと解釈出来る本人の話
「夏上役との問題もあり、それに脚氣に罹つて精神的にクサクサしてとうとう役所を去ることになりました」
と符合する。となれば、急に思い立っての辞職ということだろうから、千葉恭の三男F氏の言うとおり
「父(千葉恭)は賢治のところへ転がり込んで居候したようだ」
というのが実情だったとも十分考えられる(ただし千葉恭自身は『君もこないか』という誘いが参り」とは言っているのだが)。よって、千葉恭は大正15年6月22日に穀物検査所花巻出張所を辞め、その直後から下根子桜の宮澤家の別宅で一緒に暮らし始めたと考えて良さそうだ。
 一方、松田甚次郎が盛岡高等農林在学中に下根子桜に賢治をを訪ねたのは昭和2年3月8日の一度しかないことが確認出来ている。かつ、以前触れたように千葉恭は「松田甚次郎も大きな声でどやされたものであつた」と証言しているから、これが事実であるとするならば彼は下根子桜で〝どやされて〟いる松田甚次郎を直に見ていることになる。
 よって、松田甚次郎が賢治の許を訪れた3月8日頃に千葉恭は下根子桜の別宅に寄寓していたという可能性が大となるから、彼はこの頃(昭和2年3月8日前後)もまだ賢治と一緒に暮らしていたということが十分に考えられる。
 すると前掲の(イ)の「約半年生活をともにした」の約半年間は、実は6月末から明けて翌年の3月までの8ヶ月間余はあると見ても良さそうである。なおこのことは7月25日に千葉恭が賢治の代わりに白鳥省吾に断りに行ったこととももちろん矛盾しない。
 そこで今まで述べてきた事柄から、「下根子桜寄寓期間」について次のような
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らしていた。……○☆
という仮説を立てることにしたい。

8 下根子桜寄寓期間の一つの解釈
 なぜなのだろうかと思っていたことの一つにその期間の長さの違いがある。もちろんそれは千葉恭が賢治と一緒に暮らした期間についての、である。
 期間の長さの違い
 千葉恭自身は『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)において
「私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった」
と言っているわけで
 その期間は約半年………①
であると考えられる。一方、私としては今までの調査結果から前述のような仮説○☆を立てている。というわけで私は
 その寄寓期間は少なくとも8ヶ月間余………②
と見積もっている。ただし、一方は〝約半年〟で他方は〝少なくとも8ヶ月間余〟という期間の長さの違いをどう考えればいいのかと当然私は悩まざるを得ない。
 寄寓期間の一つの解釈の仕方
 ここで思い出したのが以前紹介した「宮澤先生を追つて(三)」における証言
先生が大櫻にをられた頃に私は二、三日泊まっては家に歸り、また家を手傅ってはまた出かけるという風に、頻りとこの羅須地人協會を訪ねたものです。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
である。つまり、千葉恭が下根子桜の別宅に寄寓していた期間の寄寓の仕方は、長期間連続して寝食を共にしていたわけではなく、下根子桜の別宅に二、三日泊まっては千葉恭の実家に戻って家の仕事を手伝い、また泊まりに来るという繰り返しであったということになる。
 とすれば、千葉恭が〝約半年〟と言っている意味は延べ寄寓日数が約180日ほど(=約半年)という意味でのそれであり、一方の〝少なくとも8ヶ月間余〟とは寄寓開始から寄寓解消までの時間的な隔たりが〝少なくとも8ヶ月間余〟あるという意味の寄寓期間だから、これらの二つの一見異なる寄寓期間は矛盾をせず、こう解釈すれば整合性がとれることになる。あわせて、これは一つの解釈の仕方であるがこの千葉恭の証言によればそれはそれほど真実から遠い訳でもなさそうだ。
 現時点での認識
 このように下根子桜の寄寓期間は二通りの解釈が可能だから、このような解釈の仕方をすれば①と②の間には何ら矛盾も生じない。よって私は、前掲の仮説○☆
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。
はこの期間の長さの違いにも耐え得るものなので、自信を失う必要はないと認識した。

9 昭和8年の千葉恭の勤務先
 以前触れたように、『岩手年鑑』(岩手日報社)によれば、昭和8年の千葉恭の勤務場所は二戸郡福岡出張所(9月末時点)である。一方、これも以前触れたことだが千葉恭の三男F氏から
「昭和8年当時父は宮守で勤めていて、賢治が亡くなった時に電報もらったのだが弔問に行けなかったと言っていた」
ということを教えてもらっていた。
 しかしこれでは両者は辻褄が合わない。両者が共に正しければ千葉恭は宮守出張所にも勤めながら福岡出張所にも勤めていたことになる。ところが宮守と二戸郡の福岡間は直線距離でさえも約百㎞はある。当時もそして今でさえも列車通勤はほぼ無理だろうし、自家用車でさえも通勤はほぼ無理な距離であり、まして自家用車通勤など考えられない昭和8年当時に両方の出張所を兼務は出来るはずはない。一体昭和8年の彼はどんなふうにして勤務していたのだろうか、という疑問があった。
 それがこの度あるルートを通じて千葉恭が穀物検査所を一旦辞めた年月日、そして正式に復職した年月日等がやっと判明した訳だが、併せて、穀物検査所を辞めた後も時々臨時ではあるが穀物検査所で働いていたことも判った。例えば
 ・昭和3年1月24日~3月31日 藤根派出所臨時採用
のように。ということは、農繁期は実家で農業に従事しながら「研郷會」を拠り所として地元の農業の改善と発展のために活動し、農閑期には元の役所で臨時職員として働いていたということになろう。さらに嬉しいことに、千葉恭は昭和7年3月31日付けで正式に穀物検査所(宮守派出所)に復職した後、
 ・昭和8年7月31日~二戸郡福岡出張所勤務
 ・昭和8年8月24日~宮守派出所勤務
という人事異動があったということも今回同時に判明した。これで昭和8年の千葉恭の勤務先に関する疑問がすっきりと解決した。たしかに昭和8年に千葉恭は福岡で勤めたこともあるが、賢治が亡くなった同年9月には彼は宮守で勤めていたのだ。三男F氏の証言のとおり賢治が亡くなった時は宮守勤務だったのだ。これで辻褄があった。
 嬉しいことに、図らずもあるルートから千葉恭の職歴の一部を百%の保証付きで教えてもらったわけだが、教えてくれた方にはいくら感謝しても感謝しきれない。もちろん、私はある切っ掛けでそれが達成出来たことで今までの長い間の胸のつかえがあっけなく下りてしまった。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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