みちのくの山野草

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第4章 千葉恭以外が語ることなど(テキスト形式)

2024-03-18 16:00:00 | 賢治と一緒に暮らした男
第4章 千葉恭以外が語ることなど

1 賢治が設計した3枚の〔施肥表A〕
 今まで少しく千葉恭のことを調べてきて知ったのが、彼自身が書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、彼と賢治との関係に言及している千葉恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)。千葉恭は賢治と少なくとも8ヶ月間余を下根子桜で一緒に暮らしているはずなのに、また二人の付き合いは大正13年~少なくとも昭和2年頃までの足掛け4年の長期間に亘っていると思われるのに、賢治が亡くなった際には電報をもらってさえいたようなのに、賢治の周りのだれ一人として千葉恭に関して言及した資料を残していない。もっと正確に言えば、一切そのような資料はいままで明らかになっていないと思うのである。
 あまりにもこれは不思議なことである、千葉恭が著した資料以外に客観的に賢治と千葉恭の関係を示す資料はなぜ何一つ存在しないのだろうか。賢治から千葉恭に宛てた書簡などもあったそうだが、それは昭和20年の久慈大火の際に焼失してまったと千葉恭は言っていたそうだからやむを得ないにしても…。絶対未だ公になってない資料が必ずあるに違いない、そう思っていた矢先にある資料が目に留まった。
 賢治の〔施肥表A〕の〔一一〕
 それは賢治の肥料設計を多少検証をしてみようと思って『校本宮澤賢治全集十二巻(下)』掲載の17枚の〔施肥表A〕を眺めていた時のことである。私は吃驚、そしてやった!と飛び上がってしまった。驚いたのは〔施肥表A〕の〔一一〕にである。その表の中には
   場処 真城村 町下
そして
   反別 8反0畝
という記載があったからである。
 あれっ〝真城〟といえば他でもない千葉恭の実家のある所だ。そして閃いた、この〝真城村町下〟とは彼の実家の田圃のあった場所ではなかろうかと。それは以前彼が実家には田圃が8反、畑が5反あると語っていたことを思い出したからである。早速確認してみると 「宮澤先生を追つて(二)」の中で千葉恭は
「鋤を空高く振り上げる力の心よさ!水田が八反歩、畑五反歩を耕作する小さな百姓だが何かしら大きな希望が見出した様な氣がされました」
と語っている。たしかに実家の田圃は8反であった。したがって千葉恭の実家では当時真城の〝町下〟というところに8反の田圃を持っていたという推論が出来そうだ。
 もしこの推論が正しければ、この施肥表は賢治が千葉恭に対して設計してやったものとなろう。とすれば、この施肥表は千葉恭以外の人物が残した賢治と千葉恭の関係を示す客観的な、そして私にとってはそれを初めて知った資料であると言える。私は居ても立ってもいられなくなり、早速千葉恭の三男F氏に電話をして
「長兄のBさんにお会い出来ないでしょうか」
とお願いしてみた。B氏は千葉恭の長男であり、実家の田圃について詳しく知っていると思ったから直接B氏をお訪ねして、当時〝町下〟に8反の田圃があったか否か、あればその場所を確認したかったからである。するとF氏は快くB氏の連絡先を教えて下さったので私は時を置かずB氏に電話をした。そしてB氏に事情を説明して、近々お訪ねしたいのですがとお願いしたところ快諾をいただきお邪魔出来ることになったのである。
 3枚の〔施肥表A〕
 思わぬ進展に嬉しくなった。おそらく賢治が千葉恭に設計してやったものであろうと思われる〔施肥表A〕〔一一〕の存在を知ることが出来たし、その件に関わって千葉恭の長男Bさんに会うことも出来ることとなった。その喜びに浸りつつ『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の続きの頁を捲っていったならばさらに確信が深まって行くのだった。というのは、この施肥表〔一一〕の他に同著には同〔一五〕と〔一六〕が載っておりそれぞれの〝場処〟は
 〔一五〕の場処は 真城村堤沢

 〔一六〕の場処は 真城村中林下
となっていたからである。
 すなわちこれら3枚の〔施肥表A〕の〝場処〟はいずれも千葉恭の帰農先、実家のある真城村のものであった。さらに、これらの3枚の左上隅には
 〔一一〕の場合〝D〟
 〔一五〕  〃 〝E〟
 〔一六〕  〃 〝C〟
の記載がある。この『校本全集』に所収されている17枚の〔施肥表A〕のうちこれら3枚以外にはそんなアルファベットの記載はない。ということは、これら3枚はワンセットのものであり、同時期にまとめて賢治が設計した施肥表に違いないはず。それもC、D、Eの3枚があるということは少なくともA~Eの5枚はあったはずであろう。
 これだけの枚数を真城村の人たちが賢治に肥料設計をしてもらったのはなぜか、それはあの千葉恭が仲間を誘って組織した「研郷會」の会員の何人かが賢治に肥料設計を依頼したからでなかろうか、私にはそのそのように推理出来た。というのは、以前「宮澤先生を追つて(二)」で触れたように、千葉恭は帰農後もしばしば下根子桜を訪れて賢治から指導を受けていたということを次のように述べていたからである。
…農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
このような指導の一環として賢治からは施肥の指導も受けたことであろう。その具体的な一つの例がこれら3枚の施肥表であり、おそらくこれの3枚は千葉恭及び「研郷會」の他の会員分2枚を千葉恭が取りまとめて下根子桜に持参し、賢治に肥料設計を依頼したものに違いないと確信した。
 なお、これら17枚の施肥表のうちの何枚かにはそれぞれの提供者名のメモがあると同『校本全集』の〝校異〟にはただし書きがある。したがってこの3枚の施肥表にも同様提供者名の記載があればことは簡単に解決するはずなのだが、残念ながらこの3枚の施肥表にはその記載はなかった(おそらくこれらの施肥表の原版にはその提供者名のメモがあるのだと思うが、『校本全集』にはその氏名が記載されていないだけのことと思う。さもなければ貴重な資料の取り扱いのマナーに反するはずだからである。いつか機会があればこれらの原版を是非見せてもらいたいものである)。
 こうなれば、一刻も早く千葉恭の長男のB氏に会いたくなってきた。そして田圃の確認をし、千葉恭の実家の近くには
 〝町下〟だけでなく〝堤沢〟及び〝中林下〟
という地名もあるのかを確認したくなった。もしこれらの地名がその辺りにあれば、これらの〔施肥表A〕は百%賢治が千葉恭に頼まれて設計してやったものだろうと断言出来ると思ったからである。

2 千葉恭の長男に会う
 みちのく岩手に植田の緑が広がる6月のある日、私はわくわくしながら国道4号線を南下して水沢に向かった。千葉恭の長男B氏宅を訪れる約束の日がやってきたからである。果たして水沢の真城に〝町下〟という地名があり、その場所に当時千葉恭の実家が8反歩の田圃を有していたかどうかが明らかに出来る日だ。
 一度B氏宅が近づいたところで電話をして道順を訊ねると、道路の脇に立って待っているからという。優しい人柄に感謝。三男のF氏も父は優しい人だったと言っていたが、父恭の人柄を受け継いで長男のB氏も三男のF氏も優しいのだろう。
〔施肥表A〕〔一一〕は賢治の設計
 お蔭でB氏の自宅には迷わずたどり着けた。玄関に入るとB氏の夫人も現れて居間に招き入れられたので、ご夫妻からいろいろなお話をお聞き出来た。
 まず訊ねたことは例の田圃のことである。『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』掲載のあの3枚の〔施肥表A〕のコピーをお見せしながら、
「お父さんが真城のご自宅に戻って農業をしていた頃〝町下〟に8反の田圃があったでしょうか」
と訊ねると、嬉しいことに
「たしかに真城の実家の近くに〝町下〟という場所があり、そこに田圃がありました。その広さから言っても実家の田圃に間違いない」
という予想通りの回答であった。そして
「そもそも水沢の〝真城折居〟はかつては〝真城村町(まち)〟と呼ばれていて、〝折居〟は以前は〝町〟という呼称だった」
ということも教えてもらった。これで〔施肥表A〕の〔一一〕に記されていた
  場処 真城村 町下
  反別 8反0畝
はまさしく当時の千葉恭の実家の田圃のことであり、
〔施肥表A〕〔一一〕は千葉恭の実家の水田に対して宮澤賢治が設計した施肥表である。
と断言出来るだろう。
 また〝堤沢〟及び〝中林下〟という地名が〝町下〟の近くにあるということも判った。もっと正確に言うと〝堤ヶ沢〟及び〝中林下〟という地名が真城の町下の近くにあることが判った。おそらくこの〝堤ヶ沢〟は〝堤沢〟のことだろうから
  町下、堤沢、中林下
という地名のいずれもが当時の真城村の〝町〟の周辺に存在していたと判断していいだろう。よってこれら3枚の〔施肥表A〕のそれぞれに記された場処
   〔一一〕の〝町下〟
   〔一五〕の〝堤沢〟
   〔一六〕の〝中林下〟
が全て〝町〟周辺に実在していたと判断していいだろう。言い換えれば、
〝〔施肥表A〕の〔一一〕〔一五〕〔一六〕はいずれも千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の水田に対する施肥表である。〟
と言い切っていいだろう。
〝3枚の施肥表〟のある役割
 いままで千葉恭が残した幾つかの資料から一方的に賢治を見てきたが、これで初めて逆方向からも見ることが出来た。つまりいままでの流れの図式は
 ・千葉恭→賢治
というものであったが、これで
 ・賢治→千葉恭
という流れも初めて成立した。やっと両方向の流れが出来た。それゆえ、以前に立てた仮説○☆、すなわち
 千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月22日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。
に対してますます私は自信が深まってきた。
 なぜなら千葉恭の事に関して賢治本人は一切語っていないはずだし、賢治研究家C氏が伊藤忠一に千葉恭のことを訊こうとしたならば言下に「「そんな人は知らない」と言われてしまったそうだが、
☆『校本全集』の3枚の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は宮澤賢治が千葉恭に頼まれて設計したものであり、これらの3枚の施肥表は賢治と千葉恭の間に親交があったことを千葉恭以外の人物、それも賢治自身がはからずも雄弁に物語っている客観的な資料の一つである。
と言えると思うからである。偶然気付いたこれらの〝3枚の施肥表〟の存在と役割に私は感謝したのであった。
 千葉恭に関する長男夫妻の証言
 さて千葉恭の長男B氏の証言により懸案の〝町下〟の田圃の件は解決したが、これ以外にその際に教えてもらった千葉恭に関する証言は以下の通りである。
・戦後父は仕事の関係上実家には居られず、一方B氏は実家から学校に通ったので一緒に暮らすことは出来なかった。
・賢治に関して父が言っていたことは、羅須地人協会に居たことがあるとういうことぐらいであり、その他のことについては詳しく喋ることはなかった。
・「研郷會」のことはよく解らないが、村の青年達と運動会をやったということは言っていた。
・父が賢治に関連したことで断片的に喋っていたことは、
・.賢治は朝早く起きてお日様に向かってお経を上げていた。
・父はその間、杉の葉を燃やしてお湯を沸かしていた。
・賢治の実家によく使いに行った。
・賢治の母は父(千葉恭)に対しても礼儀正しかった。
・上司との折り合いが悪くて穀物検査所を辞めた。
・久慈勤務の時に大火に遭い、賢治に関する資料等は焼けてしまって、持ち出せたのはラジオ一台だけだった。
・母(恭の妻)が「賢治が亡くなった際に宮澤家から電報が来た」と言っていた。
・水沢第一高等学校で賢治に関して講演したことがあるようだ。
・賢治に関する数冊の図書(佐藤隆房著『宮澤賢治』など)を持っていた。
・マンドリンを持っていた。
・トマトがとても嫌いでった。
などである。
 そしてこのトマトのエピソードを受けてB氏夫人が次のように証言してくれた。
・美味しそうに盛り合わせてトマトを食卓に出してもどういう訳かお義父さん(千葉恭)は全然食べなかった。その理由が後で分かった、お義父さんが宮澤賢治と一緒に暮らしていた頃、他に食べるものがない時に朝から晩までトマトだけを食わされたことがあったからだった。
と。そういえば
 米のない時は〝トマトでも食べましよう〟と言つて、畑からとつて来たトマトを五つ六つ食べて腹のたしにしたこともあつた。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
とか、
 開墾した畑に植えたトマトが大きい赤い實になつた時は先生は本當に嬉しかつたのでせう。大きな聲で私を呼んで「どうですこのトマトおいしさうだね」「今日はこのトマトを腹一杯食べませう」と言はれ其晩二人はトマトを腹一杯食べました。しかし私はあまりトマトが好きなかつたのでしたが、先生と一緒に知らず識らずのうちに食べてしまひました。翌日何んとなくお腹の中がへんでした。
<『四次元7号』(宮澤賢治友の会)>
と語っている千葉恭であれば気の毒であり、さもありなんと思ってしまった。その他にも夫人は
・お義父さんは宮澤賢治の豊沢町の実家は立派だったよと言っていた。
・お義父さんは羅須地人協会に7~8ヶ月くらい居たんでしょう。
ということも教えてくれた。
 特に有り難かったのがこの最後の証言である。私が寄寓期間を訊く前に夫人の方から話してくれたことであり、おそらく千葉恭が夫人にそう教えていたであろうことゆえ信憑性も高かろうと思った。
 もちろん千葉恭本人が
 賢治は当時菜食について研究しておられ、まことに粗食であつた。私が煮炊きをし約半年生活をともにした。一番困ったのは、毎日々々その日食うだけの米を町に買いにやらされたことだった。
<『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の会)>
と語っているせいか、千葉恭の下根子桜の寄寓期間は『半年説』が主流であるようだ。しかしB氏夫人に対してはそうではなくて〝7~8ヶ月くらい〟であったと千葉恭は喋っていたのであろう。するとこの証言は『半年説』ではなくて、以前私が立てた仮説○☆の傍証となるのではなかろうか、と思えたから有り難かったのである。
〝町下〟の田圃跡地を訪ねる 
 千葉恭の長男夫妻からいろいろなお話を聞くことが出来て私には多くの収穫があった。お二人にひたすら感謝するばかりであった。お蔭で懸案事項の一つは解決したし、他にもいくつかのことが解決出来そうになって来たと思えたからだ。
 なのに、私は厚かましくもさらにB氏にお願いした、「お父さん(千葉恭)の墓所を教えてくれませんか」と。するとB氏は案内するからと言うのでついて行くと「まずは食事しましょう」と言ってレストランの前で車を駐めた。するとそこには三男のF氏も来ていて合流、千葉恭の長男B氏と三男F氏と私の3人で一緒に食事、挙げ句私はすっかり御馳走になったしまったのだった。
 その後千葉恭の墓に案内してもらってお線香を上げさせてもらい、さらには千葉恭の実家の田圃がかつてあった〝町下〟の田圃跡地へ案内してもらった。残念ながら、〝町下〟に着いてすぐに分かったことだが、一帯はバイパス(現国道)が通っていてかつての〝町下〟の面影はもうなかったことだ。B氏は、千葉家の田圃はいまはもう存在しないがと言って、当時の千葉家の〝町下〟の田圃があった辺りを指さして示してくれた。
 B氏の語るところによると、当時国道(現在の旧国道)沿いには家並みが連なっていたという。その家並みが続いていたところがかつての地名で言えば〝町(まち)〟だったという。その一帯を眺めてみると、その家並みの東側(現在の国道周辺)はその場所よりは地形的に一段低くなっていることが直ぐに見てとれるから、〝町〟の下側という意味でその一帯が〝町下〟と呼ばれたであろうことが容易に想像出来た。そして、約80年ほど前ならば眼の前には水田が拡がっており、賢治の指導を受けた〔施肥表A〕に基づいて肥料を散布している千葉恭の姿をそこに思い浮かべてみた。その施肥による成果は如何ほどだったのであろうかとも。そして〝町下〟の田圃跡地を実際眺めていると以前に立てた仮説○☆に結構自信が深まっていくのだった。
 最後に、B氏に案内してもらって千葉恭の実家の建物を外から見せてもらった。実家は〝町下〟の田圃跡地の近くにあった。いまその建物には誰も住んでいないということであったが、屋
エンジュ
敷内に聳える槐の大木が往時を偲ばせてくれた。なお、この実家には以前三男F氏宅を訪れた日の帰途一度私は立ち寄っていたのであるが、その際には近所の方に訊ねて知ったものであった。ところがこの日はそれとは違って、千葉恭の2人ご子息と一緒にその実家を目の当たりに眺めることが出来たわけで、改めて次のようなことを強く感じた。
 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも少なくとも8ヶ月余ほどの長期間にわたって生活したと思われる唯一の人物であるはず。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった「下根子桜時代」だが実はその3分の1弱の期間は「独居」ではなかったようだ。千葉恭は賢治と長期間寝食を共にしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた貴重な存在であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する重要人物なのだということを世間に知らせなけらばならない、と。
 帰農した千葉恭と賢治の関係
 さてこれら3枚の〔施肥表A〕の中にはいずれにも「昭和三年度施肥表」と記されている項目がある。この〝昭和三年度〟にも私は注目させられる。千葉恭が帰農してからの賢治との関係を示唆してくれる思うからである。
 この項目があるということは、これら3枚の施肥表はいずれも昭和3年度用に設計された施肥表であるということだから、早ければ昭和2年の初冬、遅くとも昭和3年の春の間に賢治が肥料設計したと推測出来る。なぜなら賢治は主に農閑期に肥料設計書を作成したと伝えられているから、昭和3年度用のものであればこの期間に設計されたものだと考えられるからだ。
 一方千葉恭は、真城の実家に戻って帰農した後もしばしば下根子桜を訪ねて賢治の指導を受けていたと言っている。例えば
 農業に従事する一方時々先生をお訪ねしては農業経済・土壌・肥料等の問題を教わって歸るのでした。    
とか
 私が百姓をしているのを非常に喜んでお目にかゝつた度に、施肥の方法はどうであつたか?とか、またどういうふうにやつたか?寒さにはどういふ處置をとつたか、庭の花卉は咲いたか?そして花の手入れはどうしているかとか、夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、また農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです。歸つて來るとそれを同志の靑年達に授けて実行に移して行くのでした。そして研郷會の集りにはみんなにも聞かせ、その後成績を發表し合ひ、また私は先生に報告するといつた方法をとり、私と先生と農民は完全につなぎをもつてゐたのです。
<共に『四次元5号』(宮澤賢治友の会)>
と。
 さてここで、賢治は千葉恭に「施肥の方法はどうであつたか?」と訊いているわけだが、これは賢治が千葉恭の実家の田圃に対して設計した〔施肥表A〕に基づいて千葉恭が行った施肥の方法はどうであったかという意味であろう。あるいはまた、帰農した彼は地元で32名の同志と一緒に「研郷會」を組織したわけだが、この施肥表3枚のうち千葉恭の実家の分以外の2枚は、この会の同志の誰かの田圃(堤沢や中林下)に対して千葉恭が賢治に依頼して設計して貰ったものであり、その施肥表に基づいて行った施肥の方法はどうであったかという意味で捉えてもほぼ間違いなかろう。そして「夜の更けゆくのも忘れて語り合ひ、農作物の耕作に就いては種々のご教示をいたゞいて家に歸つたものです」と言っているから、深夜まで二人は農作物の耕作などについて熱心に話し合ったに違いなく、その日は下根子に泊まってしまったかも知れない。そういうことがしばしばあり、寄寓を止めはしたけれど帰農後も二人の親交は続いていたということであろう。
 すなわち、真城村の田圃に対して賢治が設計したこれら3枚の昭和3年度の〔施肥表A〕の存在は、千葉恭が下根子桜を去ってからの賢治と彼との関係をも示唆してくれていると言える。千葉恭はおそらく昭和2年の春に真城村の実家に戻って帰農。とはいえ、その後もしばしば下根子桜に賢治を訪れて農業経済・土壌・肥料等の問題を教わり、それを持ち帰っては「研郷會」の同志に伝達講習を行い、それに基づいた農業を実践してその成果を皆で検討し合い、その結果を再び賢治に報告するという繰り返しで賢治から指導を受けていたし、それはおそらく昭和3年の春頃までは少なくとも続いていたと考えてもよかろう。
 言い換えれば、
☆賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの少なくとも4年余りの間の親交があり、わけても大正15年の6月末~少なくとも昭和2年3月の初め頃までは下根子桜の宮澤家の別宅で一緒に暮らしていたという程の深交があった。
と言っていいだろう。
 現時点での認識
 そこでやはり私は不思議に思う。これだけの深い交わりが賢治との間にありながらどうして千葉恭のことは審らかにされていないのだろうかと。例えば、どうして『宮沢賢治語彙辞典』の項目に「千葉恭」はないのだろうか。はたして賢治研究にとって千葉恭はそれほど重要な人物ではないのだろうか。
 因みに、『新校本宮澤賢治全集)』には賢治が下根子桜で使っていて、その後森荘已池が譲り受けた書棚の写真さえも載っている(『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』)というのに、私の管見のせいかも知れないが千葉恭の写っている写真は一葉も載っていない。はたして
     書棚>千葉恭
という不等式は正しいのだろうか。
 それはさておき、千葉恭の長男B氏宅訪問により重要な懸案事項の一つが解決したし、いくつかのことも新たに解った。その結果現時点では
(ア)『校本宮澤賢治全集』の〔施肥表A〕〔一一〕〔一五〕〔一六〕は千葉恭に頼まれて宮澤賢治が設計した真城村の田圃に対する施肥表であると断言出来そうである。
(イ) 仮説○☆、すなわち〝千葉恭が賢治と一緒に暮らし始めたのは大正15年6月23日頃からであり、その後少なくとも昭和2年3月8日までの8ヶ月間余を2人は下根子桜の別宅で一緒に暮らをしていた。〟という仮説は検証に耐えうるかも知れない。
(ウ) 賢治と千葉恭の間には、大正13年11月12日(水)に穀物検査所で出会ってから昭和3年の春頃までの少なくとも4年余りの間の長期間に亘って親交が続いていたと言えそうだ。
(エ) 千葉恭は賢治と下根子桜で一緒に、それも少なくとも8ヶ月余ほどの長期間にわたって生活したと思われる唯一の人物であるはず。昨今「独居自炊」と言われるようになってしまった賢治の「下根子桜時代」だが、実はその3分の1弱の期間は「独居」ではなかったと言えそうだ。千葉恭は賢治と長期間一緒に暮らしていたのだから、身近にいて賢治の総体をつぶさに見知っていた人物であり、賢治の「下根子桜時代」の評価を左右する程の重要な存在なのだということを世間に知らせなけらばならない。
と私は認識している。

3 研究家千葉恭
たまたま『四次元123号』(昭和36年2月、宮澤賢治研究会)を見ていたならば、その中に菊池忠二氏の「賢治の地質調査(1)岩手県稗貫郡地質及土性調査報告書」がシリーズ物の1回目として載っていた。
 「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」の内容
 そしてそれは次のように始まっていた。
 編集者の言葉――本文は賢治が稗貫稗貫郡の委嘱を受け、
関豊太郎博士を首班に助教授神野幾馬、小泉多三郎と共に実地踏査した際の報告書である。この調査図は五六年前元の郡役所の倉庫から発見されたものを、当時の稗貫地方事務所長に乞うて保存してゐる。今回計らずも菊池氏が岩手大学でそれを発見され、賢治の分担した部分を抜粋して送っていたゞいたものである。これに図表を参照されたなら完璧なものであることを信ずる。菊池氏の御厚意に深く感謝の意を現するものである。
 第一章 地形及地質
  第一節 地形の大要
本部ノ地勢ハ北上平地ヲ中央トシ其以東ハ東部丘陵及東部山地ニ区分シ其西部ニ於テハ西部丘陵及西部山地ニ区別ス、東部山地ハ北上山地ノ一部ニ属シ西部山地ハ陸羽ノ境界ヲ南北ニ走レル中央分水嶺ノ余波ニ属ス。
(一)東部山地
本郡東部ノ北境ハ早池峰(一九一三米)ヲ東端トシ次第ニ低降シツゝ西走シ権現山(八二八米)ニ達スル山脈連互シ、東境乃至東南境ニハ薬師岳(一六四五米)ヲ最高点トシ海抜千米以上ニ達スル数多ノ高峰ヲ有スル山脈南西ニ走ル…(略)…
<『四次元123号』(宮澤賢治研究会)>
 私はここまで読んでみて「あれっ」と思った、この内容はまさしく千葉恭が『四次元14号』で書いている内容と殆ど同じではなかろうか、と思ったからだ。

「宮澤先生を追つて(五)」と比べる
 そこで、久し振りに『四次元14号』の中の千葉恭著「宮澤先生を追つて(五)」を見返してみた。次のようなことが書かれている。
 先生の肥料設計を語る前に、先生が調査した岩手縣稗貫郡地帯の地質及土性について書かねばならないと思ひます。稗貫の地勢は北上平地を中央として、其以東は東部丘陵及東部山地に区分し、其西部に於ては西部丘陵地帯及西部山地を区別し東部山地は北上山脈の一部に属し、西部山地は陸羽の境界を南北に走る中央分水嶺の余波に属してゐます。東部の北境に早池峰(一九一三米)を東端とし次第に低降しつゝ西走し、権現山(八二八米)に達する山脈連互し、東境及東南境には薬師岳(一六四五米)を最高点として、海抜千米以上に達する数多の高峰を有する山脈が南西に走つてゐます。…(略)…
<『四次元14号』(宮澤賢治友の会)>
よって後者は、千葉恭が前者をカタカナ書きからひらが書きに直し、併せて多少平易に書き直しているというものだった。
 ただ者じゃない千葉恭
 千葉恭は次のようなことも語っていた。
 (賢治の肥料設計の)結果をまとめることは私の義務と考えておりますが、私の能力のなさに未だにまとめることが出来ません。「四次元」の農民読者からも肥料の設計の結果を聞きたいという切望があるのですが、そんなわけで今私は結果の蒐集に懸命に奔走しており、その結果を一生のうちにみんなにしらしめなければならないと考えております。
<『イーハトーヴォ復刊2号』、宮澤賢治の会)>
 以前に触れたように千葉恭は「先生と知り合つた時から先生を知る資料を與へられたのでしたが、火災により全部焼失してしまひました」ということだったから、昭和20年の久慈大火で千葉恭が賢治からもらった資料は灰になってしまったはずだ。
 したがって千葉恭が持っていたとすれば賢治のこの「報告書」は、その後苦労して入手したものかも知れない。あるいは、真城の実家に戻って帰農した際に「研郷會」なるものを仲間と組織した訳だが、その運営に役立てるために何等かの方法で入手していたこの「報告書」は実家に置いてあったので焼失を免れたということなのかも知れない。
 いずれ、おそらく千葉恭はこの「報告書」あるいはその写しを当時所有していて、この「報告書」の内容を自分なりに深く研究しながら「研郷会」などにおいて農業に生かしていたに違いない。かつての同僚千葉G氏も「恭さんは研究好きだった」と証言していることもあるがゆえに。
 とまれ『四次元123号』「を読んでみても、千葉恭はやはりただ者ではない、そう感じたのである。

4 〝「水稲肥料設計」の様式〟について
 千葉恭が持っていたとも思われる資料「巖手縣稗貫郡地質及土性調査報告書」であるが、同様千葉恭が持っていたと思われる資料に「水稲肥料設計」がある。それは「宮澤賢治先生を追つて(四)」に載せている次頁のような様式
  〝「水稲肥料設計」の様式〟
であり、千葉恭は次のように説明を付している。
 羅須地人協会はその意味の開設であり、肥料設計は具体化された方法であつたのでした。土壌改良により一ヵ年以内に今迄反当二石の収穫のものが、目に見えて三石位穫れるとすれば、たとえ無智な百姓であつても興味を持ち、進んで研究もする様になるだらうと信じられたからでした。先生の無料設計をしていくことになつたのも、このやうなことが考えられての結果だつたのです。肥料設計書の様式は次のやうな、先生独特のものであります。
<『四次元9号』(宮澤賢治友の会)>
と。
 さて、この様式の中には
  「大正   年度耕種要綱」
という項目があるから、おそらくこの〝「水稲肥料設計」の様式〟は大正末期に用いたタイプなのだろう。
 なおこの〝「水稲肥料設計」の様式〟だが、『新校本宮澤賢治全集』(筑摩書房)には未だ掲載されていない<*>のではなかろうか。一般に〝羅須地人協会〟と明記されている資料は多くないと思うが、この〝「水稲肥料設計」の様式〟にはそれが明記されているのに、である。気になる。
<*>佐藤成著『宮沢賢治―地人への道』には載っている。
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5 千葉恭楽団ではマンドリン担当
 千葉恭と賢治の関係を客観的に示す資料は少なく、今までのところでは3枚の施肥表が唯一のものであったが、もう一つそれらしきものがある。
 まずは大正15年の初夏の頃についての証言を取り挙げたい。それは伊藤克己著「先生と私達―羅須地人協会時代―」の中にある次のようなものである。
 私達は毎週火曜日の夜集つて練習を續けたのである。林の中の一軒家で崖の上にある先生の家の周圍には松や杉や栗の木やいろいろの雑木が生へて時々夜鳥が羽ばたいていたり窓にあたつたりして吾々を驚かしたものである。
 第一ヴァイオリンは私で、第二ヴァイオリンは淸さんと慶吾さんでフリユートは忠一さんクラリネツトは與藏さん、先生はオルガンとセロをやりながら教へてくれたのである。
 私達樂團のメンバーはこれだけだつたのである。練習に疲れると皆んな膝を突合はせて地質學や肥料の話しをしたり劇の話しをしたりラスキンの話をしたりした。夏はトマトを食べる日が多く、冬は藁で作つたつまごを履いて大豆を煎つて食べたりした。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)>
ということは伊藤克己の言に従えばこの楽団のメンバーは
   第一ヴァイオリン・伊藤克己
   第二ヴァイオリン・伊藤淸、高橋慶吾
   フリユート・伊藤忠一
   クラリネツト・伊藤與藏
   オルガンとセロ・宮澤賢治
ということが分かる。
 一方、この楽団のメンバーに関して『拡がりゆく賢治宇宙』の中では次のように書かれている。
楽団のメンバーは
  第1ヴァイオリン 伊藤克己
  第2ヴァイオリン 伊藤清
  第2ヴァイオリン 高橋慶吾
  フルート     伊藤忠一
  クラリネツト   伊藤與藏
  オルガン、セロ  宮澤賢治
 時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです。
<『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)>
という記載があった。
 私はこの記載を知って「したり」とほくそ笑んだ。そこには断定的表現は避けているが
「時に、マンドリン・平来作、千葉恭、木琴・渡辺要一が加わることがあったようです」
と〝千葉恭〟の名前があったからだ。
 実はこのことがあったので、私は以前千葉恭の三男F氏に「お父さんはマンドリンを持っていませんでしたか」と訊ねていたのであった。そしてその回答は「はい持っていましたよ」というものであった。一方、長男B氏からはそのマンドリンに関する面白いエピソードまで教えてもらった。
 したがって、これらの証言からは『拡がりゆく賢治宇宙』の
 〝マンドリン・平来作、千葉恭〟
の記載はほぼ間違いなかろうと、つまり
☆実は千葉恭は下根子桜で結成された楽団の仲間の一員であり、マンドリンを担当していた。
と確信している。 
 そして翻って、以前私が次のように
(千葉恭が)「書き残している賢治関連の資料は少なからず存在しているのに、彼と賢治との関係に言及している千葉恭以外の賢治周辺の人物が書き残している資料はなさそうだということである(私の管見のせいかもしれぬが)」
と言及したことを恥じた。たしかに私は管見だった。千葉恭と賢治の関係を示す資料があの3枚の〔施肥表A〕以外にもまだ実在しそうだからである。もちろんこの資料が存在するであろうということ自体はとても嬉しいことではある。
 なお、不思議なことにこの件に関して「新校本年譜」では
「しかし音楽をやる者はマンドリン平来作、木琴渡辺要一がおり」
と断定的表現に変わっているとともに、「千葉恭」の名前のだけが抜け落ちている。どちらが正しいのか今のところ私には分からないが、必死になってこれらの出典を探している。

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