みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第三章 通説を疑う(テキスト形式)承前

2024-03-05 14:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰
****************************  前回の〝第三章 通説を疑う(テキスト形式)〟の続きである ***************************
 では今度は、
  ⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい
についてである。つまり、賢治が昭和3年8月10日に実家へ戻った件についてである。
 このことについては、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治年譜」〉
が通説だと私は認識していたが、『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気を調べてみたならば、次頁の《表4 昭和3年6月~8月の花巻の天気》のようになるし、さらには賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この「通説」を否定するものが多かったので、これもおかしいということに気付いた。ちなみに、この《表4》の天気一覧からは、「風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪」をひくというような「風雨」が8月10日以前にあったとは考えられない。
 一方、賢治が教え子の澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
……やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすが〳〵しくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし、「すっかりすが〳〵しくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと言われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ根子へ戻って以前のような営為を再開したい」と伝えたはずだ。
 ところが実際はそうではなくて、「演習」が終るころまではそこに戻らないと澤里に伝えていたことになるから、常識的に考えてこれもまたおかしいことだということに私は気付く。同時に、賢治が実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気のせいではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも言えそうだ。
 ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…筆者略…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。                   〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~〉
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの昭和3年10月に岩手で行われた「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらもチェックされる今では到底考えられない時代であった。   〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
 また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)ということだし、上田仲雄の論文「岩手無産運動史」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)所収)や名須川溢男の論文「宮沢賢治について」(同所収)等によれば、この大演習を前にして行われた無産運動家の大検束によって、その労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。つまり、両名はこの時の凄まじい「アカ狩り」に遭っていたと言える。その挙げ句、八重樫は北海道は函館へ昭和3年8月頃に、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は同じく小樽へ、やはり同年8月にそれぞれ追われたという。
 しかも高杉一郎によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(『極光のかげに』(高杉一郎著、岩波文庫)47p~)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも端的に窺える。そこへもってきて、あの浅沼稲次郎でさえもが、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)29p~)ことを偶然知った私は、次のような、
〈仮説❷〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
 そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。また、この大演習の初日10月6日には花巻日居城野で御野立があったわけだが、この際、10月3日に南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将が賢治の母の実家「宮善」宅にやって来て宿泊したという(昭和3年10月4日付『岩手日報』)ことだから、然るべき筋からの配慮が父政次郎に対してもあったであろう。そしてもちろん、この仮説の反例は一つも見つかっていないから検証がなされたということになる。
 よって今後この反例が見つからない限り、昭和3年8月に賢治が実家に戻った主たる理由は体調が悪かったからということよりは、本当のところは、「陸軍大演習」を前にして行われた凄まじい「アカ狩り」への対処のためだったとなるし、賢治は病気ということにして実家にて「おとなしく謹慎していた」というのが「下根子桜」撤退の真相だったとなる。これでまた一つ、隠されていた真実が明らかになったと言える。
 なお、この節〝⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい〟に関しては、東北大学名誉教授大内秀明氏より次のような、
 ところで賢治の「真実」ですが、『賢治と一緒に暮らした男』の第一作に続き、今回はサブタイトル「賢治昭和二年の上京」に関しての『羅須地人協会の真実』でした。と同時にブログでは、「昭和三年賢治自宅謹慎」についての「真実」を、同じような仮説を立てての綿密な実証の手法で明らかにされています。この手法は、幾何学の証明を見るように鮮やかな証明です。実を言いますと、「昭和二年の上京」よりも、「昭和三年賢治自宅謹慎」の方が、現在の問題関心からすると、より強く興味を惹かれるテーマです。このテーマに関しても、すでにブログで「結論」を出されていますし…筆者略…鈴木さんの問題の提起は、「澤里武治宛の宮沢賢治書簡」(昭和三年九月二三日付)の文章にあります。「お手紙ありがたく拝見しました。八月十日から丁度四十日の間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にもはいり、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたままで、七月畑に出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。演習がおわるころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかかります。休み中二度お訪ね下すったそうでまことに済みません」ここに出てくる演習について、その意味を探って行きます。以下、簡単に紹介させて貰いましょう。

 「賢治年譜」によると、昭和三年八月のこととして、心身の疲労にも拘らず、気候不順による稲作の不作を心配、風雨の中を奔走し、風邪から肋膜炎、そして「帰宅して父母のもとに病臥す」となっている。しかし、当時の賢治の健康状態、気象状況、稲作の作況など、綿密な検証により、「賢治年譜」は必ずしも「真実」を伝えるものではなく、事実に必ずしも忠実ではない。とくに「賢治の療養状態は、たいした発熱があったわけでもないから療養の傍菊造りなどをして秋を過ごしていた。」
 では、なぜ賢治が自宅の父母の元で療養したのか?
 「陸軍特別大演習」を前にして行われた官憲の厳しい「アカ狩り」から逃れるためであり、賢治は病気であるということにして、実家に戻って自宅謹慎、蟄居していた。
 「例えばそのことは、
  ・当時、「陸軍特別大演習」を前にして、凄まじい「アカ狩り」が行われた。
  ・賢治は当時、労農党稗和支部の有力なシンパであった。
  ・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
  ・当時の気象データに基づけば、「風の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」はなかった。
  ・当時の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。」

 以上が、「不都合な真実」に対する本当の「真実」です。ここでも羅須地人協会と賢治の活動の真実に基づく実像を明らかにする上で、大変貴重な検証が行われたと評価したいと思います。
〈『宮沢賢治の「羅須地人協会」 賢治とモリスの館十周年を迎えて』(仙台・羅須地人協会、大内秀明)31p~〉
という評を頂いている。私としては、身に余る評価を頂きすぎて恐縮するばかりだが、私の主張は案外荒唐無稽なものでもなかったのだということをお陰様で知って、安堵した。これもまた、石井氏のあの警鐘、「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること」に従ったので叶ったのだと、自己満足できた。
 ただし、大内氏は続けて、
 昭和三年といえば、有名な三・一五事件の大弾圧があった年だし、さらに盛岡や花巻でも天皇の行幸啓による「陸軍特別大演習」が続き、官憲が東北から根こそぎ危険分子を洗い出そうとしていた。そうした中で、賢治自身もそうでしょうし、それ以上に宮沢家や地元の周囲の人々もまた累が及ばぬように警戒するのは当然でしょう。事実、賢治と交友のあった上記の川村、八重樫の両名は犠牲になった。「嘘も方便」で、病気を理由に大弾圧の嵐の通り過ぎるのを、身を潜めて待つのも立派な生き方だと思います。               〈同33p〉
と論じておられたので私ははっとした。これまでは、正直この時の賢治の対処の仕方は清算主義的傾向があるので違和感を抱いていたのだが、大内氏の仰るとおりだということに私は初めて気付かされ、今に生きる私が当時の賢治の対処についてとやかく言えるものではないと、己の狭量さを恥じ、慢心するものではないと己に言い聞かせた。

 では最後に、
  ⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず
についてである。
 第二章の〝㈢ 賢治のためにも「総括見解」を〟において〔聖女のさましてちかづけるもの〕を私は取り上げ、
  (このことに関しては後の〝⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず〟でまた論ずる)
と前触れした。以下は、そのことについてである。
 かつて、次の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を最初に見た時、私はとても信じられなかったのだが、賢治は何と、
  10・24◎
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
   わがとり来しは
   たゞひとすじのみちなれや       〈『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』〉
という詩を『雨ニモマケズ手帳』に書いていた。まさかあの賢治が怒りに任せ、相手を見下すような文言も書き連ねて詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕を書いていたとはと、私はしばし呆然としていた記憶がある。この詩は、私の言語感覚からすれば単なる「当て擦り」であり、私がそれまで抱いていた賢治像とは全く逆の行為に映ったからだ(しかし今となっては、確かに賢治は修羅の如くなることもあったのだと私は自分自身をある程度納得させてはいるのだが)。しかも、その日付は昭和6年10月24日付だから、その10日後の11月3日に賢治はその手帳に「雨ニモマケズ」を書いていたことになる。両極端とも言えるこの短期間の間の賢治の精神的振幅の大きさに私は愕然とした。そこで、皆さんはこの詩を読んでどう感ずるのだろうか、そう思って少しく調べてみた。
 すると、佐藤勝治は「賢治二題」において、この詩に対して、
 彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。これがわれわれに奇異な感を与えるのである。…筆者略…T女は『いまわが像に釘うつ』とまで極言され憎まれている。
かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで、なぜこのようにも彼の心を乱したのであろうか。
〈『四次元50号』(宮沢賢治友の会)10p~〉
と述べていた。やはり勝治も同じような認識をしていたようで、「賢治の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」とまで言い切っていた。そして、賢治が心を乱したのは誰に対してかというと、勝治は〝T女〟に対してと述べていた。しかも勝治は、その女性に関して、「かの女と交際しなくなつた何年かあとの病床にまで」とか、「私の知っているT家の人々は」ということも述べていたから、
   「聖女のさましてちかづけるもの」=T女=高瀬露(小笠原露) ───②
ということになる。なぜならば、このような女性の候補者として周知のように露がいるわけだが、イニシャルがTである賢治周辺のこのような女性としては露以外に見つからないから、勝治はこの等式〝②〟が成り立つと決めつけていたことはまず間違いないからだ。
 そしてこのような決めつけ方は、勝治独りのみならず、小倉豊文も〔聖女のさましてちかづけるもの〕について、
 この詩を讀むと、すぐ私にはある一人の女性のことが想い出される。
 大正十五年四月、花巻郊外の櫻で自耕自炊の獨居生活をはじめた賢治は…筆者略…農業技術の講話をしたりしはじめた。その頃、協會員の一人の紹介で、花巻の西の方の村で小學校教師をしている若い一人の女性が賢治の家に出入するようになつた。彼女はその勤めている學校で賢治が農業の指導講話をした時に、はじめて彼を見たのである。當時田舎には珍しいクリスチャンであつたと言う彼女であるから…筆者略…
〈『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社、昭和27年)101p~〉
というように、この詩はクリスチャンで小学校教師のこと、つまり露のことを詠んでいると実質的に断定していたことが分かる。
 また境忠一も、
(賢治は)昭和六年九月東京で発熱した折の「手帳」に、「十月廿四日」として、クリスチャンであった彼女にきびしい批評を下している。
  聖女のさましてちかづけるもの
     …筆者略…
  たゞひとすじのみちなれや         〈『評伝・宮澤賢治』(境忠一著、桜楓社、昭43)316p~〉
と述べていた。そして以下に続く境の記述から、境も佐藤勝治や小倉同様に、賢治は露のことをモデルにして〔聖女のさましてちかづけるもの〕を詠んでいる、と断定していたことが容易に判る。そこで私も、この三人の様な見方が通説であると思っていた。
 しかしはたしてそうなのだろうかという疑問もまた一方ではあった。なぜなら、佐藤、小倉、境の三人は皆、
 露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だから「聖女のさましてちかづけるもの」とは露のことだ。
という論理に拠っているようにしか私には見えないし、この論理はもちろんおかしい。もし仮に、「露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ」としても、このことから言えることは、あくまでも
   高瀬露は「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルである可能性がある。
ということに過ぎない。当然、そのようなモデルが他にいるとすれば、前々頁の〝②〟の等号が成り立つという保証はもちろんなくなってしまう。そして実際、そのようなモデルが露以外にもいる。
 それは伊藤ちゑである。ただし、それは何故かということを論ずる前に、まずは、ちゑとはそもそもどのような人物だったのかということを以下に簡単に述べたい。
 巷間、伊藤ちゑという人は、賢治が結婚したかった女性と言われている人である。しかし意外なことに、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著)の中には次のようなことが述べられていて、ちゑと賢治とを結びつけようとする記事を書こうとする著者森荘已池に対して、ちゑは、
 今後一切書かぬと指切りしてくださいませ。早速六巻の私に関する記事、拔いて頂き度くふしてふして御願ひ申し上げます。
という哀願や、
 ちゑこを無理にあの人に結びつけて活字になさる事は、深い罪惡とさへ申し上げたい。
〈それぞれ、『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)158p、164p〉
というように、強い口調の非難を森宛書簡の中に書いている、という。
 しかもそれだけではなく、未だあまり広く世に知られてはいないのだが、同時代の「ある年」の10月29日付藤原嘉藤治宛ちゑ書簡中にも、
 又、御願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の條り 大島に私をお訪ね下さいましたやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうにいんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます
   〈この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏    の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある〉
というように、ちゑは嘉藤治に対しても似た様な懇願をしていた。
 それから、平成26年9月25日に伊藤ちゑの生家を訪れた筆者(鈴木守)はその際に、当主から、「あの頃私の家では、ちゑと賢治の結婚に皆反対していた」というようなことも教わった。
 従ってこれらのことからは、ちゑは賢治と結びつけられることを頑なに拒絶していたということが否定できない。賢治が結婚したかったちゑと言われているというのに何故だったのだろうか。常識的に考えてかなりおかしなことだ。
 一方で、ちゑという人は人間的にとても素晴らしい人であったようだ。それは、『光ほのかなれど―二葉保育園と徳永恕』(上笙一郎・山崎朋子著、教養文庫)や『二葉保育園八十五年史』(二葉保育園)等によれば以下のようなことが分かるからだ。
 当時、四谷鮫河橋には野口幽香と森島美根が設立した『二葉保育園』が、新宿旭町には徳永恕が活躍した『同分園』がそれぞれあり、同園は寄附金を募ったりしながら、それらを基にしてスラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動、セツルメントをしていたという。
 ところが大正12年、あの関東大震災によって旭町の『分園』は焼失、鮫河橋の『本園』は火災を免れたものの大破損の被害を蒙ったという。そのような大変な状況下にあった再建未だしの『二葉保育園』に、大正13年9月から保母として勤務し始めた一人の岩手出身の女性がいた。他ならぬ伊藤ちゑその人である。ちなみに同『八十五年史』によれば、ちゑは少なくとも大正13年9月~大正15年及び昭和3年~4年の間勤めていたことが判る。おそらく、この在職期間の空白は兄七雄の看病のために伊豆大島に行っていた期間と考えられる。
ということが分かるからだ。
 また、萩原昌好氏の『宮沢賢治「修羅」への旅』によれば、
  『島之新聞』の昭和5年9月26日付記事の中には、
 あはれな老人へ毎月五円づつ恵む若き女性――伊藤千枝子
〈『宮沢賢治「修羅」への旅』(萩原昌好著、朝文社)317p〉
という見出しの記事があり、兄の看病のために同島に滞在していた伊藤ちゑは、隣家の気の毒な老婆に何くれと世話を焼き、後に東京に戻って『二葉保育園』に復職してからもその老婆に毎月5円もの仕送りをし続けていたという内容の報道があったという。
からだ。
 何と素晴らしい人物ではなかろうか、伊藤ちゑという人は。このような『二葉保育園』でスラム街の子女のための慈善の保育活動に我が身をなげうち、あるいはまた何の繋がりもない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたという優しい心の持ち主だったということになるからだ。
 なお、平成28年10月22日にその『二葉保育園』を私も実際に訪ねてみたところ、
   基本的には当時の本園の保母はクリスチャンでしたから、伊藤ちゑもそうだったと思います。
ということを同園の責任者のお一人がを教えてくれた。従って、当時のちゑはクリスチャンであったか、あるいはそうでなかったとしても、『二葉保育園』に勤めてスラム街の貧しい子女のためにストイックで献身的な生き方をしていた「聖女(ここでは、清純で高潔な女性の意)の如き人」であったと言える。そして、賢治はそのちゑと「見合い」をしたわけだから、ちゑが「聖女」のように見えていたであろうこともほぼ間違いなかろう。
 よって、
「聖女のさまし」た女性のモデルとして賢治周辺に露がいたが、ちゑもいたのである。
ということを納得してもらえたと思う。延いては先の、
 露はクリスチャンだ、クリスチャンは聖女だ、だからこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露のことをモデルとして詠んでいる。
という断定は安直であるということもこれで納得してもらえたはずだ。とまれ、露一人だけがそのモデルの候補だったわけではなく、ちゑもその候補の一人だったということがこれで明らかになった。
 ところで当の賢治は昭和6年頃自身の結婚についてどのように考えていたのだろうか。それは、森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』の中の章、〝Ⅱ 昭和六年七月七日の日記〟から窺える。森荘已池は、昭和6年7月7日の出来事として、次のようなことをそこで述べているからだ。
 どんぶりもきれいに食べてしまうと、カバンから二、三円(ママ)の本を出す。和とぢの本だ。
「あなたは清濁あわせのむ人だからお目にかけましよう。」
 と宮沢さんいう。みるとそれは「春本」だつた。春信に似て居るけれど、春信ではないと思う――というと、目が高いとほめられた。
 …筆者略…そして次のようにいつた。
「ハバロツク・エリスの性の本なども英文で読めば、植物や動物や化学などの原書と感じはちつとも違わないのです。それを日本文にすれば、ひどく挑撥的になつて、伏字にしなければならなくなりますね」
 こんな風にいつてから、またつづけた。
「禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです。」
 自分はまた、ずいぶん大きな問題を話しだしたものと思う。少なくとも、百八十度どころの廻轉ではない。天と地とが、ひつくりかえると同じことぢやないか。
「何か大きないいことがあるという。功利的な考へからやつたのですが、まるつきりムダでした。」
 そういつてから、しばらくして又いつた。
「昔聖人君子も五十歳になるとさとりがひらけるといつたそうですが、五十にもなれば自然に陽道がとじるのがあたりまえですよ。みな僞善に過ぎませんよ。」
 私はそのはげしい言い方に少し呆れる。
「草や木や自然を書くようにエロのことを書きたい。」
という。
「いいでしようね。」
と私は答えた。
「いい材料はたくさんありますよ。」
と宮沢さんいう。         〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房、昭和24年)107p~〉
というやりとりを紹介しているから、もしこの内容が事実であったとすれば、どうやらこの頃の賢治はかつてとはすっかり様変わりしてしまっていたようだ。
 そして前掲書によれば、昭和6年7月7日に森荘已池を前にして賢治は、
  「私は(伊藤ちゑと)結婚するかもしれません――」                       〈同104p〉
とほのめかし、
 「(ちゑが)自分のところにくるなら、心中のかくごでこなければなりませんからね」         〈同106p〉
とも言っていたという。そしてその一方で、前頁にあるように、
 禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです 
と悔いていたということだから、この頃の賢治は独身主義を棄て、ちゑと結婚しようと思っていたという蓋然性が高い。よって、賢治は独身主義だったと巷間言われているようだがこの当時の賢治はどうもそうとは言い切れなさそうだ。
 そしてそれは、佐藤隆房も昭和6年のこととして『宮澤賢治』の中で同様なことを、
 賢治さんは、突然今まで話したこともないやうなことを申します。
「實は結婚問題がまた起きましてね、相手といふのは、僕が病氣になる前、大島に行つた時、その嶋で肺を病んでゐる兄を看病してゐた、今年は二七、八になる人なんですよ。」
 釣り込まれて三木君はきゝました。
「どういふ生活をして來た人なんですか。」
「何でも女學校を出てから幼稚園の保姆か何かやつてゐたといふことです。遺産が一萬圓とか何千圓とかあるといつてゐますが、僕もいくら落ぶれても、金持ちは少し迷惑ですね。」
「いくら落ぶれてもは一寸をかしいですが、貴方の金持嫌ひはよく判つてゐます。やうやくこれまで落ちぶれたんだから、といふ方が當るんぢやないんですか。」
「ですが、ずうつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐたといはれると、心を打たれますよ。」
「なかなかの貞女ですね。」
「俺の所へくるのなら心中の覺悟で來なければね。俺といふ身體がいつ亡びるか判らないし、その女(ひと)にしてからが、いつ病氣が出るか知れたものではないですよ。ハヽヽ。」
〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)213p~〉
と記述していることからも裏付けられる(もちろんこの「三木」とは森荘已池のことであり、ちなみに昭和26年の同改訂版では「森」になっている)。
 では、一方のちゑは賢治との結婚について当時どのように考えていたのだろうか。まずは、前掲(本書75p)の10月29日付藤原嘉藤治宛ちゑ書簡により、昭和3年6月の大島訪問以前の秋に、おそらく昭和2年の秋に花巻で賢治とちゑの「見合い」があったと判断できる。そして、実はこのことについて後にちゑは、『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』というような直截な表現を用いて深沢紅子に話していたという。
 なお、現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。ちなみに、この『私ヘ××コ詩人と見合いしたのよ』については、私は二人の人から違うルートで聞いている(そのうちの一人は佐藤紅歌の血縁者で平成26年1月3日に、もう一人は関東の宮澤賢治研究者である(ただしその時期はそれ以前なのだがそれが何時だったかは失念した)。
 このちゑのきつい一言をたまたま知ることができた私は当初、ちゑは「新しい女」だったと仄聞していただけに流石大胆な女性だなと面喰らったものだが、それは、前述したような当時のちゑのストイックで献身的な生き方をそれまでの私が少しも知らなかったことによる誤解だった。
 そして昭和3年6月に賢治は大島を訪れてちゑと再会したわけだが、ちゑは賢治の「今」を見抜いてしまった可能性が否定出来ない。というのは、兄の伊藤七雄は労農党の活動家だったから、賢治が農繁期の花巻を離れたのはあの「アカ狩り」から逃れるためであったと見られていた可能性もある。となれば、スラム街の貧しい子女のために慈善の保育活動をしていたちゑからすればなおさらに、当時の賢治にはかつてのような輝きは失われてしまったと見えたことが十分に考えられる。だから、ちゑは森荘已池宛書簡において、その再会の時は、
   ――あの人の白い足ばかりみていて、あと何もお話しませんでした。――
〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)145p〉
と書いていたのではなかろうか。
 そしてその後、いくら森が賢治とちゑを結びつけようとしても頑なにそれを拒絶したのはちゑの矜恃だったのだ、とも解釈できる。つまるところ、当時のちゑは賢治との結婚をやはり拒絶していたと言えそうだ。
 さてこれで、〔聖女のさましてちかづけるもの〕のモデルとしては、露のみならず「聖女のさまし」た女性として別にちゑがいることがわかった。そしてその一方で、賢治周縁の女性でしかもクリスチャンかそれに近い女性は他にいないから、結局のところ、
 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルとして考えられる人物は高瀬露か伊藤ちゑの二人であり、この二人しかいない。
ということを肯んじてもらえるはずだ。では、一体この二人の中でどちらが当て嵌まるのかを次に考えてみたいのだが、結論を先に言ってしまえば、
 「聖女のさましてちかづけるもの」のモデルは限りなくちゑである。
となる。なぜならばそれは以下のような理由からだ。
 これまでのことを簡単に振り返って見れば、
・賢治は昭和6年の7月頃伊藤ちゑとならば結婚してもいいと思っていたが、そのちゑは賢治と結婚することを拒絶していたという蓋然性がかなり高い。
・それに対して高瀬露の方だが、賢治は昭和2年の途中から露を拒絶し始めていたということだし、しかも昭和3年8月に「下根子桜」から撤退して実家にて病臥するようになったので露との関係は自然消滅したと一般に言われている。
から、
  ・ちゑ:賢治が森の前で、ちゑと「結婚するかもしれません」とほのめかしたという、その約2カ月半後に、
  ・露:「レプラ」と詐病したりして賢治の方から拒絶したと云われている露に対して、その約4年後に、
どちらの女性に対して、例の「このようななまなましい憤怒の文字」を連ねた〔聖女のさましてちかづけるもの〕という詩を当て擦って詠むのかというと、それは
   ちゑ ≫ 露  (「A≫B」とは「AはBより非常に大きい」という意味)
となる、つまり、ほぼ間違いなくちゑに対してであるとなることは自明だろう。とりわけ、ちゑは賢治との結婚を拒絶していたと判断できるからなおさらにだ。いやそうではないと言う人もあるかも知れないが、もしそうだとすれば〔聖女のさましてちかづけるもの〕は露に対して当て擦った詩となるから、賢治は異常に執念深くて腑甲斐無い男だということになるし、賢治が大変世話になった露に対していわば「恩を仇で返す」ということになるから、流石にそれはなかろう。
 従って、この昭和6年10月に詠んだ〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、同年7月頃、ちゑとならば結婚してもいいと思っていたという賢治がちゑからそれを拒絶され、自分の思い込みに過ぎなかったということを思い知らされた末の憤怒の詩だったと判断するのが極めて自然であろう。つまり、「聖女のさまして近づけるもの」とは露のことではなくてちゑのことである、という蓋然性が極めて高いということであり、それ故に、〔聖女のさまして近づけるもの〕のモデルは限りなくちゑである、と言える。
 よっておのずから、次の
   〈仮説❸〉「聖女のさましてちかづけるもの」は少なくとも露に非ず。
が定立できることに気付くし、反例の存在も限りなくゼロだ。しかし、それでもやはりそれはちゑではなくて露だと主張したい方がいるのであれば、それを主張する前にちゑがそのモデルでないということをまず実証せねばならない(さもないと、いわば排中律に反するようなことになるからだ)。だが、その実証は今のところ為されていないので、この〈仮説❸〉の反例は実質的に存在していないと言えるから、現時点では限定付きの「真実」となる。言い換えれば、高瀬露をモデルにしているとは言い切れない一篇の詩〔聖女のさまして近づけるもの〕を元にして、露を〈悪女〉にすることができないのは当然のことだ。
 私はここで自問せねばならない。それは天沢退二郎氏が『新編 宮沢賢治賢治詩集』(新潮文庫)の415pで、
   一見リアルな、生活体験に発想したとみえる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、
と戒めていることをだ。このことは意識しているつもりでも案外忘れがちだ。かつての私などは特に賢治に関する場合にはそうだった。しかし、賢治作品と雖も安易に還元できないのであって、当該の詩を元にして事実を論じたいというのであれば、まずは裏付けを取ったり、検証したりしてからの話であることは当然のことだ。もちろんそれは、作品と事実の間には非可逆性があるからだ。
 ところが、それらの当然なすべきことを手抜きするとどんなまずいことが起こるのか。それを教えてくれるのがこの詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕だ。裏付けも取らず検証もせず、しかも人権意識が希薄な場合、還元さえも飛び越えて自分勝手に解釈してそれを「事実」だと決めつけ、結果、人を傷つけてしまった、と。詳しくは拙著『本統の賢治と本当の露』の〝第二章 本当の高瀬露〟をご覧になっていただきたいのだが、もう少し具体的に述べると、この〔聖女のさましてちかづけるもの〕というたった一篇の詩によって、賢治をあれこれと助けてくれた一人の女性をとんでもない〈悪女〉と決めつけて濡れ衣を着せてしまった、と。しかも、そうされる客観的根拠は全くないというのにも拘わらずである。そこで私は恐れる。この何よりも人権が重視される今の時代になっても賢治周辺では人権意識があまりにも薄いのではないか、というような誹りを受けかねないことをだ。
 なお、最後に声を大にして次のことを改めて言っておきたい。それはこの詩のモデルが伊藤ちゑであったとしても、ちゑという人はスラム街の貧しい子女のために献身するなどのストイックな生き方をし、あるいは、身寄りのない憐れな老婆に薄給から毎月送金していたというようなとても優しい心の持ち主でもあり、清純で高潔なまるで「聖女」のような人であり、しかも実践活動家であり、崇敬すべき人物であった、ということを(さらなる詳細は、拙論「聖女の如き高瀬露」(上田哲との共著『宮澤賢治と高瀬露』所収)も参照されたい)。
  ㈢ 読者の皆様がご自身でも検証を
 以上、ここまで主に、次のような杜撰だと思われることやどうも危ういと思われる事柄、
  ⑴ 「サムサノナツハオロオロアルキ」もなかった賢治
  ⑵ 羅須地人協会時代の上京についてのあやかし
  ⑶ 羅須地人協会時代は「独居自炊」とは言い切れない
  ⑷ 〈悪女・高瀬露〉は冤罪である
  ⑸ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
  ⑹ 稲の最適土壌は中性でもアルカリ性でもない
  ⑺ 下根子桜からの撤退は凄まじい「アカ狩り」のせい
  ⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず
について、いわば「賢治神話」の検証等をしてきたが、どうやらこれらについては一度一から出直して考えてみる必要があるということを納得していただけたものと思っている。そして、私の恩師の岩田純蔵教授が、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いた「いろいろなこと」の幾つかにこれらは当たるかも知れないと私は少しく自信を持つことが出来たし、安堵もしている。さて、皆様は如何お感じになったでしょうか。
 なお、私としてはこれらの事柄については幾つかの拙著において何度か公にしていることであり、しかも、本書の「はじめに」で掲げたような《『筑摩書房』宛のお願い文書》を正式に、当時の株式会社筑摩書房代表者 喜入 冬子 様にお届けしているから、筑摩書房もそれは十分に承知のはずだ。がしかし、筑摩書房へのお願いは全く通じなかったようで、直接的な反応は残念ながら何一つない。
 つきましては、もう筑摩書房には頼れませんので、読者の方々におかれましてはこれらのことをどうかご自身でも検証していただきたい。そして、私の考え方が間違っていればそのことをどうかご指摘賜りたい。

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