みちのくの山野草

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㈢ 賢治のためにも「総括見解」を

2024-06-25 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(2021年6月25日撮影、岩手)

 ㈢ 賢治のためにも「総括見解」を
 さて、「それは、矢幡洋氏の次のような指摘によってなおさらそう思えた」とはどういうことかというと、八幡氏は、あの「新発見の252c」等の一連の書簡下書群について、
 時折、高圧的な賢治が姿をみせる。…投稿者略…と露骨な命令口調で言う。
 露宛の下書き書簡群から伝わってくるものは、背筋がひんやりしてくるような冷酷さである。ここにおける、一点張りの拒否と無配慮とは、賢治の手紙の大半の折り目正しさと比べると、かつての嘉内宛のみずからをさらけ出した書簡群と共に、異様さにおいて際立っている。
〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)154p~〉
と論じていて、実は賢治には、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があるということなどを同氏は指摘していたのだ。そこで私は、このようなことを指摘している研究者を初めて知って、目を醒まさせられたからである。
 振り返ってみれば、以前から、これらの書簡下書群に基づけば賢治にはそのような性向があるかも知れないということに私は薄々気付いていた。だが、実はかなりのバイアスが私にはかかっていて、これらの書簡下書群に基づいて賢治に対してこのような厳しい見方を公にすることは許されないのだ、という自己規制が強く働いていたことを今にしてみれば思う。そしてこのバイアスは、女性に対しては厳しく、男性(賢治)に対しては甘く解釈するという男女差別がなさしめるそれでもあるということにも気付かせてもらった。心理学の専門家である矢幡氏の、この書簡下書群についての冷静で客観的なこの考察に私はぐうの音も出なかった。

 あれっ、そういえばこのような「冷酷さ」は、たしかあの「雨ニモマケズ手帳」に書かれた詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあるぞということを同時に気付いた。
【「雨ニモマケズ手帳」29p~30p】
   
【「雨ニモマケズ手帳」31p~32p】
   
             〈『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より>
 まず、これを実際文字に起こしてみると次のようになる。
10.24◎
   聖女のさまして
       われにちかづき
           づけるもの
   たくらみ
   悪念すべてならずとて
   いまわが像に
        釘うつとも

   純に弟子の礼とりて
   乞ひて弟子の礼とりて
              れる
   いま名の故
             足を
               もて

   わが墓に
   われに土をば送るとも
   あゝみそなはせ
   わがとり来しは
   わがとりこしやまひ
   やまひとつかれは
      死はさもあれや
   たゞひとすじの
       このみちなり
            なれや

             〈『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版雨ニモマケズ手帳)』(筑摩書房)より〉
 どうやら、昭和6年10月24日に、賢治は「雨ニモマケズ手帳」にこう書き記したのだ。これらのページからは、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところから賢治の葛藤や苛立ちが容易に窺える。
 なお、〔聖女のさましてちかづけるもの〕は、『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』においては以下のようになっている。
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞ひて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
   わがとり来しは
   たゞひとすじのみちなれや
             〈『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)36p~〉

 よって、書いては消し、消しては書きと何度も書き直しているところからは賢治の葛藤や苛立ちが窺える。また、内容的にも然りである。その人を「乞ひて弟子」となったと見下したり、「足をもて/われに土をば送るとも」というように被害妄想的なところもある。一方、自分のことは「たゞひとすじのみち」を歩んできたと高みに置いて、女性のことを当て擦っているところもあったりする。よって、この詩から浮き彫りになってくる賢治は、私の持っていた従前のイメージとは真逆である。まさに、佐藤勝治が「彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない」(『四次元50号』(宮沢賢治友の会)10p~)と表現しているとおりだ。
 さらに、「あゝみそなはせ」とあることからは逆に、賢治はこの相手の女性のことを以前はかなり評価していたということも言えそうだが、そのような女性に対して「悪念」という言葉を賢治が使おうとしたことを知ると、賢治の従来のイメージからはさらに遠ざかってゆく。まさに、矢幡氏が指摘しているような「冷酷さ」がこの〔聖女のさましてちかづけるもの〕にもあることを私は覚れたのである。ということから、賢治のこのような性向はもはや否定できない(この詩に関しては後の〝⑻ 「聖女のさまして近づけるもの」は露に非ず〟でもまた論ずる)。
 言い方を変えれば、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は、賢治に対しても取り返しの付かないことをしてしまったとも言える。というのは、有名人と雖も、当然賢治にもプライバシー権等があるはずだがその配慮も不十分なままに、同第十四巻が私的書簡下書群を安易に世間に晒してしまったことにより、賢治には従来のイメージとは正反対の、「背筋がひんやりしてくるような冷酷さ」があった、ということも実は公開されてしまったと言える。しかもこのことは、今となっては覆水盆に返らずだ。だから私は、この上、「恩を仇で返す」ような賢治であってはほしくない。
 何故ならば、巷間、露はとんでもない悪女だとされ続けているわけで、この実態が続くと、賢治が生前血縁以外の女性の中で最も世話になったのが露からであったというのに、結果的に、賢治は露に対して「恩を仇で返した」と歴史から裁かれかねないからだ。しかし、この悪女が濡れ衣であったならば、賢治は露に対して「恩を仇で返した」、と誹られることは避けられるし、しかもそれは濡れ衣であったということを私は実証できている(例えば、拙著『本統の賢治と本当の露』の「第二章」において)。だから私は、先に「はじめに」で述べたように
 せめて、なぜ「新発見の252c」と、はたまた、「判然としている」と断定できたのかという、我々読者が納得できるそれらの典拠を情報開示していただけないか、と。願わくば、『事故のてんまつ』の場合と同様に、「252c等の公表」についても「総括見解」を公にしていただけないか、と。
拙著『筑摩書房様へ公開質問状 「賢治年譜」等に異議あり』の第一章の「六おわりに」で私は、賢治と露のために筑摩書房にお願いした次第だ。

 そして、この度のこの考察を通じて、先に私は
 露は「濡れ衣を着せられた」というよりは冤罪だという考え方に変わりつつある。〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布させてしまったことは濡れ衣を着せるよりももっと罪深いことであり、これは犯罪なのだと。杜撰が招いた冤罪であると。
と述べたが、この、『事故のてんまつ』の絶版回収事件を知り、その思いはますます強くなった。それは、この事件と〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟の構図が酷似していることが分かったからだ。
 となれば、この〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟についてもあの絶版回収事件と同じように、筑摩書房は総括をし、その見解を公にすべきだと私は思う。言い換えれば、『校本宮澤賢治全集第十四巻』において〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟をしたことは、結果的に高瀬露をそうとは言えないのに〈悪女〉にし、〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布さてしまったと言えるし、それに当時「腐りきってい」た筑摩書房が直接関与していたのだから、それは冤罪であると私は主張する。しかも、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は賢治をも貶めてしまったからなおさらにである。
 そしてそもそも、このような実態はあまりにも理不尽なことかも知れないということに普通は気付くはずだから、それを等閑視してきたのは一出版社のみの責任ではなく、私たちにも少なからずある。だから今、「あなた方も等閑視してきました。とりわけこれは他ならぬ重大な人権問題です。研究者としての矜持は一体どこへ行ったのですか」、と賢治から厳しく問われているのかも知れない。
 一方、同社史を見てみると、『事故のてんまつ』の担当編集者原田奈翁雄は、
 今回の経験を通じて、私どもは言論・表現・出版の自由を守ることの意味の深さをあらためて痛感すると同時に、その自由を守るためには、強い自恃と厳しい自戒の一層深く求められることを学び得たと考えております。…筆者略…原稿を目の前にしてそのような編集者の作業こそ、実は作家にとってもなくてはならぬ協力なのである。私の原稿の読み方は、その点において大いに欠けるものであり、いたらぬものであったというほかない。〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩選書)112p~〉
と述べており、原田は己と自社を厳しく総括した。そして、筑摩書房は『事故のてんまつ』の総括見解を公にして詫び、『事故のてんまつ』を絶版回収とした。そして原田は退社したと聞く。なお、同社史は、
    幸いにして倒産した。倒産したから一から出直すことができた。〈同349p〉
とも断定していた。それ故に、原田奈翁雄といい筑摩書房といい、共にその「強い自恃と厳しい自戒」がよく分かるし、私は敬意を表す。
 というわけで、〝『事故のてんまつ』絶版回収事件〟と〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟は同じような構図があったのだから、もし原田奈翁雄が『校本宮澤賢治全集第十四巻』の担当編集者であれば、同『第十四巻』の絶版回収まではさておき、少なくとも同巻の総括見解をまとめ、公にして謝罪し、一から出直したことであろう。しかし現実は、『校本宮澤賢治全集第十四巻』における問題箇所は基本的には何ら変わることもなく『新校本年譜』や『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』にそのまま残っている。そこで私は、『新校本年譜』が、「……改めることになっている」というまるで他人事かの如き表現を用いてるのは、『新校本年譜』の担当者が、『旧校本全集第十四巻』の編集担当者に対して遠慮があって、おかしいとは言えなかったということの裏返しかなどと穿った見方までしてしまう。
 ついては、願わくば、本章の最初にも掲げた〝⑴~⑷〟、

⑴ 昭和52年出版の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、昭和2年7月19日の記載、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
は事実誤認である。つまり、裏付けさえ取っていない。
⑵   「関『随聞』二一五頁の記述」をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一  月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
といって、その典拠も明示せずに証言を実質的に改竄したのも同十四巻であり、昭和52年のことであった。
⑶ 筑摩書房が「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと修辞し始めたのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。
⑷ そうとは言えそうもないのに「新発見」のとかたって賢治書簡下書252c等を公表し、しかも推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を安易に公表したのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。

のそれぞれについての「総括見解」を公にし、併せて、一度「一から出直す」ことを筑摩書房にお願いしたい。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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