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賢治に関連して新たにわかったこと

2024-03-05 16:00:00 | 常識でこそ見えてくる賢治





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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
   賢治に関連して新たにわかったこと
 約10年程をかけて今まで賢治に関する検証作業を続けてきた。このことを通じて、今まで「賢治研究」という観点からは公になっていなかったことで、多分私が?初めて公に指摘したり、明らかにしたりした主な項目は以下の通り。 

・賢治の甥である岩田純蔵が、「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」と証言している。
・「羅須地人協会時代」が「独居自炊」と譬えられるようになったのは『昭和文学全集14宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年)以降であり、奇しくも、高村光太郎の随筆集『獨居自炊』(昭和26年)を境にしている。
・賢治と一緒に暮らした千葉恭の出身地は真城村折居(現奥州市水沢区真城折居)。
・恭は大正15年6月22日付で穀物検査所花巻出張所を辞職、昭和7年3月31日に同宮守派出所に正式に復職。
・松田甚次郎は大正15年12月25日に下根子桜を訪れたとも言われているが、甚次郎の日記によればそれは嘘で、当日は旱魃罹災した赤石村を慰問している。
・甚次郎の日記によれば、甚次郎は昭和2年3月8日と同年8月8日の二回下根子桜の賢治の許を訪れている。
・大正15年紫波郡内の赤石村・不動村・志和村・古館村等は大旱魃罹災によって飢饉寸前の惨状にあること、この惨状を知って全国から陸続と救援の手が差し伸べられているということなどが連日のように新聞報道されていた。
・「ヒデリに不作なし」という言い伝えがあるが、大正15年の紫波郡内の大干魃による惨憺たるこの凶作から、「ヒデリでも不作あり」という事実を容易に知ることができる。
・和田文雄氏は、「ヒドリ」は南部藩では公用語として使われていて、「ヒドリ」は「日用取」と書かれていたと主張しているが、その典拠としている肝心の『南部藩百姓一揆の研究』にはそのようなことは書かれていない。
・菊池氏忠二氏は柳原昌悦本人から、「一般には澤里一人ということになっているが、あの時(大正15年12月の上京の折のこと)は俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども」という証言を直接聞いている。
・賢治が甚次郎に贈ったであろう『春と修羅』の外箱に、
       草刈
   寝いのに刈れと云ふのか/冷いのに刈れと云ふのか
という短い詩が手書きされている(甚次郎によればこれは賢治が詠んだ詩だという)。
・恭は甚次郎を下根子桜の別宅で直に見たと言っているが、それが事実ならば昭和2年3月8日のことである。
・恭は賢治から実家の田圃の「施肥表A」〔一一〕等を設計してもらった。
・恭はマンドリンを持っていたと、恭の長男・三男が証言している。
・N氏が直接平來作本人に取材した際に、來作は下根子桜のあの楽団でたまにマンドリンを弾いていたということ、恭も一緒にマンドリンを弾いたということを証言している。
・阿部晁の『家政日誌』からは「羅須地人協会時代」等の花巻の天気や気温を知ることができる。
・高瀬露の生家のあった場所は〔同心町の夜明け方〕に詠まれている「向ふの坂の下り口」(向小路の北端)だった。
・露が当時勤務していたのは旧寶閑小学校であり、現「山居公民館」の東側にあった。
・寶閑小学校勤務当時の露は、交通事情が悪かったので現『鍋倉ふれあい交流センター』の近くに下宿。それも、賄いがつかなかったので自炊だった。
・当時の鉛電鉄の時刻表等によれば、露の下宿から下根子桜の宮澤家別宅まで行くための往復所要時間は約4時間だった。
・森荘已池が「下根子桜」を訪ねた際に露とすれ違ったのは「通説では昭和2年の秋」となっているが、森本人はそんなことは言ってはおらず、『宮澤賢治追悼』『宮澤賢治研究』『宮澤賢治と三人の女性』『宮沢賢治の肖像』『宮沢賢治 ふれあいの人々』のいずれにおいても昭和2年以外の年としている。
・『宮澤賢治と三人の女性』の中で、森が露とすれ違ったのは「一九二八年の秋の日、私は下根子…」となっているが、同書で西暦が使われているのはこの個所だけで、その他の38個所は皆和暦である。
・昨今、伊藤七雄・ちゑ兄妹が花巻を訪れた時期は「昭和3年の春」という説が独り歩きし始めているがそれはおそらく間違いで、昭和2年の秋10月であることが、清六の証言とちゑ本人の書簡から判断できる。奇しくもそれは、ちょうど露が下根子桜訪問を遠慮し出した昭和2年夏の直後のことになる。
・昭和3年9月23日付澤里武治宛書簡(243)中の、「演習が終るころはまた根子へ戻って…」の「演習」とは同年10月に行われた「陸軍大演習」のことである。
・昭和3年10月の「陸軍大演習」の際に第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていた。
・「ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった」という証言があり、この「鍛冶町のけんじ」とは八重樫賢師と判断できる。
・賢師に関してはその他に、
*昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館に奔った。
*函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
*花巻農学校の傍で生徒みたいなこともしていた。
*頭も良くて、人間的にも立派だった。
*賢治の使い走りのようなことをさせられていた。
*昭和3年当時、賢師の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを賢師の隣人が言っていた。
などという証言がある。
・『岩手日報』に連載された関登久也の「宮澤賢治物語(49)セロ(一)」における澤里の証言が、それが単行本化された際(昭和32年頃、つまり父政次郎が亡くなった頃)に著者以外の何者かによって改竄がなされた。
・同じ昭和32年頃を境にして、かつての「宮澤賢治年譜」におしなべてあった、
*昭和2年:九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
*昭和3年:一月 この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
という記述が年譜から突如消え去ってしまった。
・高瀬露が次女に対して「〔昭和7年に〕賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある」と言っていたと、その次女が露の教え子の妹に話している。
・高瀬露の上郷小学校の勤務形態は
  昭和7年3月31日 上郷高等尋常高等小学校訓導
  昭和8年3月31日 休職
  昭和9年3月31日 復職
  昭和9年3月31日 達曽部尋常高等小学校訓導
であり、露の上郷小学校勤務は昭和8年~9年の2年間だが、昭和8年度は休職しているし、昭和9年度には復職しているが同日に達曽部小学校に異動しているから、実質的な勤務は一年間だけだった。おのずから分校勤務もないと判断できる。
・平成15年に発見されたという関徳弥の『昭和五年 短歌日記』には露に関する記述があるが、その日付欄の「曜日」が何者かによって消されている。
・関登久也の「澤里武治氏聞書」や「女人」の生原稿等が日本現代詩歌文学館に所蔵されている。
・賢治宛来簡が現在も存在している。
・澤里武治が晩年に書いた〝(その二)「恩師宮沢賢治との師弟関係について」〟には、
 大正十五年十一月末日 上京の先生のためにセロを負い、出発を花巻駅頭に唯一人見送りたり
と書かれていて、ここでも武治はその月を相変わらず「十一月」としていて、巷間言われている「12月」とはしていなかった。
・同じく武治自筆の一枚〝(その三)「附記」〟には、
 先生の歿後その名声彌々高く 歌人関徳弥氏(歌集寒峡の著者)の来訪を受けて 先生について語り写真と書簡を貸し与えたのは昭和十八年と記憶しているが 昭和三十一年二月 岩手日報紙上で氏の「宮沢賢治物語」が掲載され その中で大正十五年十二月十二日付上京中の先生からお手紙があったことを知り得たのであったが 今手許には無い。
と書かれているから、実は「大正十五年十二月十二日付武治宛賢治書簡」があったのだが、これが関登久也に貸した際に戻ってこなかったということになる。もしこの書簡が再発見されれば、大正15年12月2日の上京の真相がわかるかもしれない。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813

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