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第四章 賢治終焉前日の定説も杜撰(テキスト形式)

2024-03-06 14:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰
  第四章 賢治終焉前日の定説も杜撰
 ところで、終戦後、「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が「玄米三合」に改竄されて教科書に載ったという。

  ㈠ 賢治の聖人化
 具体的には、例えば国定教科書『中等国語一 ⑴』(昭和23年2月7日修正発行)には、「雨ニモマケズ」の「玄米四合」が下掲のように、「玄米三合」に改竄されて載っていた。
 このことに関しては、小倉豊文は次のようなことを述べている。
 ……(賢治は)農業・農民の方面から神格化が著しかった。これは賢治が農学校教師であり、農村の技術指導者であったが故ばかりではなく、前述したように当時の日本政府が満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。…筆者略…。日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。
〈『雪渡り 弘前・宮沢賢治研究会誌』(宮城一男編、弘前・宮沢賢治研究会)51p~〉
 さらに、小倉豊文は同じく「雨ニモマケズ」に関してこんなことも言っていた。
 この詩に対する敗戦後の今一つの問題は、戦時中に国民の「国策」協力に利用されたのと同様、占領下の義務教育改革による新学制の文部省編纂中学校用国語教科書に採用されたことであろう。内容が変わっても権力体制に奉仕するのが官僚の常であるとはいえ、この採用に当たって原文に「一日ニ玄米四合ト……」とある所の「四」を「三」と変改したのは失笑以上の何物でもなかった。主食配給一人一日二合五勺であったことを、既に当時を知らぬ人の多くなっている現在の為に書き添えておこう。
〈『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)149p〉
 結局、賢治は、そして「雨ニモマケズ」は、第二次世界大戦中も大戦後も、都合良く国に利用されたということになろう。しかも、戦後は賢治の詩が、あろうことか改竄までされてである。
 なお、このあたりの経緯については孫引きではあるが、石森延男は、
 戦後、わたしは、国定の国語教科書としては、最後のものを編集した。終戦前に使用していた国語教材とは、全く違った基準によってその資料を選ばなければならなかった。日本の少年少女たちの心に光りを与え、慰め、励まし、生活を見直すような教材を精選しなければならなかった。そこでわたしは、まずアンデルセンの作品を考えた。(中略)日本のものでは、賢治の作「どんぐりと山猫」を小学生に「雨にもまけず」を中学生のために、「農民芸術論」を高校生のために、それぞれかかげることにした。この三篇は、新しく国語を学ぶ子どもたちの伴侶にどうしても、したかったからである。       〈『修羅はよみがえった』(宮澤賢治記念会、ブッキング)92p~〉
と述べているという。つまり、石森はこのように弁解しているわけだが、だからといって賢治の作品をそのために改竄していたということを知ると、私は背筋がぞっとする。戦中も戦後も賢治を自分たちに都合よく利用した人たちがいたということを、私は思い知らされるからだ。
 そして周知のように、第二次世界大戦においては多くの文学者・芸術家・文化人等が戦争に協力したという。例えば高村光太郎もしかりで、大政翼賛会中央協力会議の委員や文学報国会詩部会長を務め、多くの戦争賛美の詩を書いたという。だから光太郎はそのことを悔い、昭和20年に花巻(太田村山口)に「自己流謫」したのだそうだ。
 その一方で谷川徹三は、昭和19年9月20日に東京女子大学であの「今日の心がまえ」という講演を行い、
 「雨ニモマケズ」の精神、この精神をもしわれわれが本当に身に附けることができたならば、これに越した今日の心がまえはないと私は思っています。今日の事態は、ともすると人を昂奮させます。しかし昂奮には今日への意味はないのであります。われわれは何か異常なことを一挙にしてなしたい、というような望みに今日ともすると駆られがちであります。しかし今の日本に真に必要なことは、われわれが先ず自分に最も手近な事を誠実に行うことであります。             〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)32p~〉
と語って、全く戦況の好転する見通しが立たないこの時期に、〝「雨ニモマケズ」の精神〟を身に付けるようにと谷川は聴衆に訴えたことになる。「雨ニモマケズ」を持ち出して、「自己犠牲」の精神や「滅私奉公」の精神を身に付けよと国民を鼓舞したと言えよう。となれば、谷川も光太郎と同じように悔いて「自己流謫」に相当することを戦後行ったのだろうか。そう思って、戦後の谷川のことを少し調べてみようと思った。
 すると、谷川徹三は戦後の国語教科書作成にかなり関わっていたことを、次のような論文で知った。
 ① 葛西まり子「国語教科書の中の「宮沢賢治」│「伝記教材」を視点として│」
 ② 久保田 治助・木村 陽子「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」
 ③ 茅野 政徳「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」
 例えば、この〝①〟においては、「1 昭和二十年代~昭和五十二年」という項で、谷川が当時の教科書作成に関わった事例として次のようなことを挙げていた。
 学校図書の『中学校国語二上新版』(昭和二十九年)と『中学校国語二上』(昭和三十五年)で掲載された谷川徹三による「宮沢賢治」という教材がある。…筆者略…
 (昭和三十五年版の)本文前半における生涯の簡単な紹介の後、後半では「なくなる二―三日前のようすは、家の人たちによって伝えられていますが、これは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っています。」として、死の前日に尋ねてきた村人の肥料相談にまつわるエピソードが中心に紹介されている。
 その夜七時ごろ、見知らぬ村人がたずねてきました。肥料のことでききたいことがあるというのです。家族は賢治の容態を知っているのでこまりましたが、とにかくとりつぎました。すると、賢治は、そういう人なら、どうしても会わなければならないと言って起きあがり、衣服を改めて、客に会いました。客は、賢治がそんなに重態だとは知らず、ゆっくり話しこみました。それを、賢治は、きちんとすわったまま、ていねいに聞き、一つ一つ指導してやったのです。家族は、気が気でありませんが、どうすることもできません。一時間ほどして、やっと客が帰ると、賢治はぐったりととこにつきました。
〈『慶応義塾大学学術情報リポジトリ 2005」所収〉
 よって、この論文に従えば、谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していたと感じた。すると思い出すことは、谷川はあの講演「今日の心がまえ」でも、
 父親にそういう風に言ったその夕方七時頃、近くの村の人が一人、賢治を訪ねて来ました。肥料のことでお聞きしたいことがあると言うのであります。重態の病人でありますから家人は躊躇しましたが、とにかく、その旨を賢治に伝えますと、そういう人ならどうしても会わなければならないと、直ぐ床から起きて、着物を着かえて玄関に出て、そうとは知らぬ村の人のゆっくりした話を、少しも厭な顔をしないで聞いて、そうして肥料の設計に就いてのくわしい指示を与えてかえした。───▲
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)16p~〉
と同じようなことを聴衆に語っていたことをだ。よって、谷川は「今日の心がまえ」において戦意昂揚を訴えった際に語ったこの〝▲〟とほぼ同じことを、戦後の教科書にも載せていたということになるから、光太郎のようには戦争協力を悔いてはいなかったようだ。逆に、賢治を戦意昂揚に使えたという経験から、戦後でも賢治は使えると思ったのだろうか。それとも、それは自己弁護だったのだろうか。
 次に私は、論文〝③ 「戦後小学校国語検定教科書における宮沢賢治の伝記教材の変遷」〟によって、戦後宮澤賢治の教材が多用され続けてきたということも知った。
 そして、この「多用」については、論文〝② 「第二次世界大戦後の国語教科書における〈宮沢賢治〉像―理想的人間像の変容―」〟に掲載されている、「「雨ニモマケズ」関連テクストの採択率」の表からも端的に示唆された。
 また、この茅野氏の同論文には、賢治伝記教材の一覧表が載っていて、
 昭和20~30年代に掲載された伝記教材(古谷綱武の「伝記を読みましょう」や谷川徹三の「宮沢賢治」等)を分析すると、聖人・賢人・善意の人としての賢治像が強調されていることがわかる。
と述べていた。このことは、それぞれの執筆者からも示唆される。それは、谷川徹三とその谷川に師事した古谷綱武だからである。そして谷川だが、あの講演「今日の心がまえ」の始めの方で「雨ニモマケズ」を朗読し、「この詩を私は、明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩であると思っています」とか「宮沢賢治の文学が賢者の文学としての性格を顕著に持っておる」と褒めちぎったことも周知のとおりである。
 さらに、茅野氏は「4-2 学校図書「宮沢賢治」」という項で谷川執筆の教材「宮沢賢治」について、次のように論を、
 「ただの詩人ではありませんでした。」と、詩人以外の面を打ち出すことを読者に知らせる。その上で、「実行の人」という側面を提出し、聖人・賢人としての賢治像を描く。…筆者略…「賢治の死を、ブドリの死にたとえることはできないでしょうか」と、賢治の生き方を「ブドリ」と重ね合わせるのが執筆者である谷川の賢治観であり、その後長らく影響を残す。作家としての賢治よりも聖人としての賢治を描くため、「かれの創作が、美しいばかりでなく、何か特別に人の心を動かすものをもっているのも、かれの生活態度がその作品に現れているからです。」や、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治の人がらを、もっともよくもの語っております。」として、訪ねてきた農民に「一つ一つ指導してや」る姿を描き、後半は「ねてもさめても、農民たちのことを考えていた、賢治の精神を表す童話」として「グスコーブドリの伝記」を載せる。…筆者略…
と展開し、同氏は最後に、
 詩人、作家としての賢治の業績や価値は二の次であり、聖人としての賢治像を子どもに与えようとしているのである。
と断じていたことも知った。そこで、やはり谷川は「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのだと私は改めて確信した。
 そして私はふと立ち止まった。谷川は具体的にはどのようにして「聖人としての賢治像を子どもに与えようと」していたのか、いまひとつ見えてこなかったからだ。それは、「雨ニモマケズ」の詩や「グスコーブドリの伝記」では、小学生の子どもたちに「聖人としての賢治像」を育むことは容易(たやす)いことではないと私には思えたからだ。
 そしてその時思い出したのが、先ほどの私の直感「谷川はあの賢治終焉前日の面談を戦後になってからもとても重視していた」である。それと、茅野氏の論文中にあった、「なくなる2ー3日前のようすは、賢治のひとがらを、もっともよくもの語っております。」というこの面談についての記述もだ。
 そこで一度前に戻ってみた。すると、谷川があの講演「今日の心がまえ」で語った前々頁の〝▲〟であれば、「賢治は農民のために自分の命まで犠牲にして尽くした立派な人だった」ということは小学生でも読み取ることが出来て、やがて、聖人・賢治像を育むようになるであろうと気付いた。ちょうどかつての私がそうであったように。
 ただしこの際にひっかかったのが、この講演において、谷川ははしなくも、
 その最後の時の様子を序でにもう少しくわしくお話しして置きましょう。
 これは佐藤隆房という賢治の主治医であった人が、賢治の家の人から聞いたところを記しているものによっているのでありますが、二十日に愈々容態が悪くなった。
〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)15p~〉
と述べていたことだ。つまり、その典拠は、〈賢治の家の人→佐藤隆房→隆房の記述〉というルートの伝聞に拠っているのであり、谷川はその出来事を目の当たりにしていたわけでもなければ、実証的な裏付けがあるというものでもないことを知ることが出来た。逆に言えば、典拠が確かなのだろうかという不安が私には生じた。

  ㈡ 菊池忠二氏の疑問
 それにしても、この面談に対して疑問を呈している人は、私が今まで賢治周辺を渉猟してみた限りでは、菊池忠二氏しかいない。そう言う私もまたしかりで、このような面談があったのだということを学校で教わったことなどにより、賢治は貧しい農民のために己の命まで犠牲にして尽くした聖人だとかつての私は素直に信じてきた。そして、そのことを象徴するのが私にとっては、まさに「旧校本年譜」や『新校本年譜』の次の記載、
九月二〇日(水) 前夜の冷気がきつかったか、呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎とのことである。…筆者略…
 夜七時ころ、農家の人が肥料のことで相談にきた。どこの人か家の者にはわからなかったが、とにかく来客の旨を通じると、「そういう用ならばぜひあわなくては」といい、衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた。家人はみないらいらし、早く切りあげればよいのにと焦ったがなかなか話は終らず、政次郎は憤りの色をあらわし、イチははらはらして落ちつかなかった。話はおよそ一時間ばかりのことであったが何時間にも思われるほど長く感じられ、その人が帰るといそいで賢治を二階へ抱えあげた。───★                〈『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)714p~〉
つまり、昭和8年9月20日、賢治終焉前日の定説であった。
 とはいえ、この「定説★」(以後、この9月20日、つまり賢治終焉前日の記載〝★〟のことをこう表記する)は賢治の終焉に直接関わることであり、他のこととは違う。畏れ多くて私如きが軽々しく触れるべきものではないと、これまでの私は特別扱いをしてきた。
 しかしここでもまた、あの石井洋二郎氏の警鐘が鳴った。「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」という警鐘がである。
 私は覚悟した。特別扱いはもう止めようと。そして、その菊池忠二氏の著書、『私の賢治散歩 下巻』を本棚から取り出した。すると同書では、この件に関して菊池氏は次のような疑問を投げかけていた。
      前夜の面談
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に、一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…筆者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
 この年九月十九日の夜は、当時の花巻祭りの最終日であり、宮沢賢治は御旅屋から鳥谷ヶ崎神社の本殿にかえる神輿を、ぜひ拝みたいというたっての希望で、店先にたってそれを見送ったといわれている。…筆者略…
 翌二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。…筆者略…
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…筆者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…筆者略…それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問に、わかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方は、ハラハラしながら早く終わってくれるのを、祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して、一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…筆者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである。             〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~〉
 確かにそのとおりであり、岩手におけるこの年の水稲は反収2.22石(『都道府県農業基礎統計』(加用信文監修、農林統計協会))の大豊作だったので、「次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ」った。
 だから引っかかる。「定説★」とこの菊池忠二氏の疑問とを読み比べていると違和感を感じてだ。
 ところがその違和感を軽くしてくれる本が最近出版された。『改訂版 小学生のための 宮沢賢治』(巽聖歌著、畠山貞子編、録繙堂出版、令和5年4月1日)という本である。
 同書には、賢治終焉前々日の面談のことが次のように紹介されていた。
  十三、賢治のりんじゅう
 花巻の、鳥谷崎神社のおまつりは、毎年、九月十九日です。
 昭和八年(一九三三年)のこの日、賢治は、ちょうど気分がよかったので、店にでて、ミコシの通るのを見ていました。
 この二・三年 、岩手県地方は、ひどい不作(お米がとれない)で、みんなが、こまっていましたが、この年は、どうやら、豊作(たくさんとれる)です。それで、おまつりも、しぜん、にぎやかでした。賢治も、なんとなしに、明るい気持ちで、そのおまつりを、見ていたのです。
 すると、そこへ、ひょっこりと、賢治の知っている人が、通りかかり、
「や、先生。たいへん、おわるいと聞いていましたが、大分、顔色がよくなりましたね。」
と言って、家に入ってきました。
 この人も、賢治のおしえをうけて、まじめな百姓のしかたを、けんきゅうをしている人でした。
 わるい気持ちではなかったのでしょう。しごとに、ねっしんな人だったので、ついに、晩まで、いろいろと、話しこんでいました。
 そのとき、家の人たちは、
「あんなに話しこんで、からだに、さわらなければいいが―。」
と、しんぱいしていたそうです。
〈『改訂版 小学生のための 宮沢賢治』(巽聖歌著、畠山貞子編、録繙堂出版)91p~〉
〈令和5年5月29日に、編者の畠山貞子氏に筆者が伺ったところ、この「十三、賢治のりんじゅう」については、子どもたちに読みやすく説明を付け加えたところはあるが、その内容は初版本のものと基本的には同じとのことであった。〉
 まず、この面談についての菊池忠二氏の記述と「校本年譜」の「定説★」とを比べてみると、前者にはないが、後者にはある、「どこの人か家の者にはわからなかったが」などの記述がとても気になる。「呼吸が苦しくなり、容態は急変した。花巻病院より来診があり、急性肺炎」の賢治が、なんと「どこの人かわからなかった」農民に対して、「衣服を改めて二階からおりていった。玄関の板の間に正座し、その人のまわりくどい話をていねいに聞いていた」ということは、普通、常識的にはあり得ないからだ。相談の申し出の断り方はいくらでもあっただろうに、そのかけらさえも「定説★」からは窺えない。一方で「定説★」の内容が事実であったならば、花巻地方の農民は愚鈍だと侮っているようなものであり、もしこれが嘘であればこの「賢治年譜は」彼等を愚弄していることになる。
 だから私は、この巽聖歌の記述の仕方に接すると、ほっとする。このような相談者と賢治であればそれは十分にあり得た面談だと領会出来るからだ。そしてまた、その農民は「賢治のおしえをうけて、まじめな百姓のしかたを、けんきゅうをしている人」であり、「しごとに、ねっしんな人だった」というからだ。おのずから、「わるい気持ちではなかったのでしょう。しごとに、ねっしんな人だったので、ついに、晩まで、いろいろと、話こんでいました」ということもまた、素直に納得できる。そして何より、「定説★」とは違って、相談に来たこの農民のことを巽は侮っていないし、それどころか逆に、評価しているからだ。そこで、この三つについて表にまとめてみたところ、後掲のの《表5 宮澤賢治終焉前々日、前日の面談》のようになった。
 もちろん、概観しただけで、〝⑵「校本年譜」〟と巽聖歌の〝⑶〟とでは違いが大きいことが直ぐ分かる。それは、面談の日にちが前者では9月20日、後者では9月19日とそれぞれなっていて、根本的に違っているからだ。

  ㈢ 賢治終焉前日の定説までもが杜撰だった
 そこで、これはならじと、今度は、他の人たちはこの面談についてどう書き残しているかを調べ、一覧表にしてみた。それが後掲の、【宮澤賢治終焉前々日、前日の面談一覧#1~#4】である。そして、これらの一覧を見比べてみれば、どう考えても、これらからあの「定説★」がすんなりと導けるわけがないことが直ぐ判る。
 それはもちろん、この一覧の⑴~⒇(ただし、「校本年譜」の⒃と⒆は除く)については、
面談が9月19日のものは6件(巽聖歌のものも加えれば7件)
面談が9月20日のものは10件
であることだけからしても明らかだ。日にちが二通りあり、ほぼ半々に分かれているからだ。それは、「校本年譜」の昭和8年9月20日の現在の「定説★」の典拠はどれであり、なぜあのように断定出来たのか、ということでもある。
 言い方を換えれば、「校本年譜」は実証的な裏付けをしっかり取ったり、検証したりしたのかと私は言いたい。誤解を恐れずに言わせてもらえば、典拠などが不確かでいい加減、杜撰の典型ではありませんかとも言いたい。
 さて、こうしてこの一覧を作り終えてやはり思いを致すべきことは、石井洋二郎氏のあの警鐘にだ、と改めて思い知らされる。それは、最後の〝⒇『ワルトラワラ第二十二号』(松田司郎編、ワルトラワラの会)〟だけが唯一、訪問者の氏名がはっきりしているが、これ以外のものはいずれも氏名は明らかにされていない。それどころ
か、佐藤隆房は「姓名も分らぬ農村の人」と書き、「校本年譜」までもが、「どこの人か家の者にはわからなかった」
と記載している。これでは、とりわけ「校本年譜」は「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること」という基本を蔑ろにしている、と言われても致し方がなかろう。逆に言えば、「定説★」のような面談自体がそもそも本当にあったのかということでもある。それは、最後に挙げた〝(参考)〟のような「賢治訪問謝絶」があったということを知ったならば、なおさらにそう思う。昭和7年の晩秋に、賢治に会いたいので訪問したいという恩師・関豊太郎からの問合せがあったのだが、「健康が優れないから逢つて下さらない方が」と言って宮澤家は謝絶していたということだからだ。もはやこうなると、先の(本書92p)菊池忠二氏の、
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるほどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。
という疑問はますます膨らみ、こんな面談ってあり得んだろうに、という非難の声までもが聞こえてきそうだ。
 畢竟するに、第一章では筑摩書房らしからぬ幾つかの杜撰な点を論じたが、その中には「新発見の」とかたって公表した賢治書簡下書によって賢治が傷つけられてしまったことさえもあったというのに、その上に、その際には論じなかった賢治終焉前日の「定説★」までもがかなり杜撰な扱いをされていたことをこの第四章で知り、ある意味これまた賢治の尊厳を傷つけていると私には思えてならず、極めて残念だ。これまで、賢治に関して常識的に考えておかしいところはほぼ皆おかしいということを痛感してきたが、賢治終焉に関わることまでがかくの如く杜撰に扱われているので、「おかしいこと」のとどめを私は刺された思いだからだ。
 そしてここに至って、賢治の甥でもあり私の恩師でもある岩田純蔵先生のあの嘆き、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
が、重要なヒントをくれる。何故あのような杜撰な事が為されたのかというその訳についてだ。それは、周りが賢治をあまりにも「聖人・君子化」しようとしたがために、その無理がたたってあのような幾つかの杜撰なことが為されたのではなかろうか、と。そしてまた、恩師が知っているその「いろいろなこと」の中に、その杜撰なことも含まれていたのではなかろうか。例えばその典型として、普通常識的にはあり得ない終焉前日の「定説★」がである。なぜなら、甥であれば賢治終焉の際に身近にいて、その様子を見聞きしていたであろうからだ、
 だから今までは、「恩師の嘆き」とばかり思っていたのだが実はそれだけではなくて、恩師は科学者だから、事実を弄んでいる人たちに対しての「恩師の抗議」でもあったのではなかろうか、とも私には思えてきた。

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