みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第三章 通説を疑う(テキスト形式)

2024-03-04 18:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰
  第三章 通説を疑う
 さて、私は「はじめに」の末尾で、
 それからこの出版にはもう一つの理由がある。詳しくは後述するが、今から約半世紀以上も前にある方が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いた。当時まさにその賢治を最も尊敬していた私にはとてもショックなことだった。そのショックが、私にこの冊子を出版をさせたもう一つの大きな理由だ。
と述べ、「詳しくは後述するが」と前触れした。そのことについて以下に述べたい。

  ㈠ 賢治の甥の嘆き
 実はこの「ある方」とは私の恩師で、宮澤賢治の甥(妹シゲの長男)の岩田純蔵先生である。だから当然、「いろいろなことを知って」おられたであろう。そこでこの章では、一度一から出直すつもりで幾つかの通説等を見直すことによって、そのことを探ってみたい。
 今でも目をつぶれば、
   『はっぱかげだらざこまがせ』
と、子どもたちが一斉に囃し立てる映画のワンシーンが時に眼裏に浮かぶ。そう、それは小学生の頃に学校の講堂で皆と一緒に観た映画『風の又三郎』のそれだ。もちろん、宮澤賢治の『風の又三郎』の〝九月七日〟の中の、「発破かけだら、 雑魚撒かせ」に当たる。そこで、あの頃は私も純真だったななどと振り返っていると、
どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
というBGMが耳の奥に流れてきた。
 そして、その映画を観て程なくして、近所の遊び仲間と近くの小川へ出掛けて行って、持ち寄った山椒の葉っぱを摺って笊に入れてそれを川に流したことがあったということを思い出す。それは同じく、〝九月八日〟の「魚の毒もみにつかう山椒の粉」(『宮沢賢治』〈ちくま日本文学全集〉89p))を真似てであった。だから、この映画のシーンは当時の私たちの現実の世界と近似し、延いては、『風の又三郎』は私たちの日常と親和性が強かったので、賢治ワールドは私たち小学生にとっては殆ど違和感がなかった。賢治は身近な人だった。
 次に中学生になると、私たちの前で身振り手振りよろしく朗々と「原体剣舞連」、
   原体剣舞連
           (mental sketch modified)
      dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
   こんや異装のげん月のした
   鶏の黒尾を頭巾にかざり
   片刃の太刀をひらめかす
   原体村の舞手たちよ
   鴇いろのはるの樹液を
   アルペン農の辛酸に投げ
   生しののめの草いろの火を
   高原の風とひかりにさゝげ
   菩提樹皮と縄とをまとふ
   気圏の戦士わが朋たちよ
   青らみわたる顥気をふかみ
   楢と椈とのうれひをあつめ
   蛇紋山地に篝をかかげ
   ひのきの髪をうちゆすり
   まるめろの匂のそらに
   あたらしい星雲を燃せ
     …筆者略…
     Ho! Ho! Ho!
        むかし達谷の悪路王
        まつくらくらの二里の洞
        わたるは夢と黒夜神
        首は刻まれ漬けられ
   アンドロメダもかゞりにゆすれ
        青い仮面このこけおどし
        太刀を浴びてはいつぷかぷ
        夜風の底の蜘蛛おどり
        胃袋はいてぎつたぎた
     …筆者略…                  〈『校本宮澤賢治全集第二巻』(筑摩書房)105p~〉
を歌い上げる一人の友人がいた。その雄姿は今でもまざまざと蘇る。この友人は桑島正彦(声優で歌手でもあり、第19回イーハトーブ賞奨励賞受賞者でもある桑島法子の父)であり、現在活躍中の作品朗読者の朗読を聴くことも時にあるが、正彦のそれに誰もかなわないと私は思っている。おそらくその同級生の強い影響もあったからであろう、私はこの「原体剣舞連」が大好きだったし、賢治が好きになった。
 そして高校生になった私は、賢治のことも賢治の作品も共によくわかってもいないのに、次第に、賢治を最も尊敬するようになっていった。
 さて、私はなぜ当時賢治を最も尊敬するようになっていったのかということを今になって振り返ってみると、それは、賢治は貧しい農民のために己の命まで犠牲にして献身したという、いわば聖人・宮澤賢治像を私の中に育ませてもらったからのようだ。そしてどうしてそうなったのかというと、私が学校で先生から教わった国語の教科書がどのようなものであったかの記憶は定かではないが、国語の教科書等であの「雨ニモマケズ」等を教わったことが大きいと思う。今になって冷静になれば、賢治はあくまでも「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と言っていただけなのだが、当時、先生から「賢治はこのように自己犠牲を理想にし、実行したのだ。このような犠牲的精神をあなたたちも心掛け、賢治のように生きてみなさい」と諭され、その当時は素直だった私は、そうだよな、何も出来ないにしても、
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
をして、せめて「雨や風などに負けずに」生きていこう、などと自分勝手に解釈していた。
 そしてなにより、賢治終焉前日の、
 かれが死の前日、見知らぬ農夫が肥料のことで尋ねてきたとき、病状を知っている家人は気が気でなかったが、かれは病床を起き出て階下の玄関に客を迎えた。そして、一時間もきちんとすわってていねいに教えていたということである。         〈『中等新国語 文学編 二上』(坪内松三編、光村図書出版、昭和26年)109p〉
というようなエピソードは私たちが習った教科書にも載っていたはずで、「すげぇ!、賢治は貧しい農民のために己の命まで犠牲にして尽くした凄い人だったのだ」と私はとても感動したおぼろげな記憶がある。
 こうして、私が最も尊敬する人物はいつしか聖人・賢治になっていった。
 さて、岩手大学の学生になった頃の私はどうであったか。
 同級生の中には、授業をサボって花巻を訪ね、下根子桜やイギリス海岸に行ってきたなどという賢治好きの輩もいたが、私は現地を訪ねることもせず、賢治の作品を読み込むこともせずに、はたまた学生運動華やかなりし時代だったがそこまでのめり込むこともなくのほほんと暮らしていた。せいぜい賢治に関して知ったことは、賢治が昭和3年に下根子桜から撤退したのは、「八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母の元に病臥」という通説ぐらいなものだった。そこで私はますます、「賢治は貧しい農民のために己の健康まで犠牲にして献身した」のだと確信するようになっていった。
 そして3年生の頃になると、就職を気にし始めていたせいもあってか、尊敬する人物は誰ですかと問われると、「破滅的で微分的な啄木と違って、積分的で求道的な生き方をし、貧しい農民たちのために己の命さえも犠牲にして献身しようとした天才詩人で童話作家の賢治です」などと粋がって答えていた記憶がある。
 ところが問題は、4年生になってとてもショックなことに出遭ったことだった。それは私が所属を希望した講座に新任の教授が赴任してきたのだが、同教授は私たちを前にしてある時、あの「賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった」という意味のことを嘆いたのだ。私は大ショックだった。それは、その頃私が最も尊敬していた人物は他でもない、まさに賢治だったからということだけでなく、実は新任の教授は岩田純蔵氏であり、賢治の甥(賢治の妹シゲの長男)だったからなおのことであった。甥であったならば、確かに「いろいろなことを知っている」はずだ、と。そして、そうか、巷間言われている賢治と本当の賢治とでは違うところが少なからずあるのかと、私の賢治像は大きくぐらついてしまったのだった。
 とはいえ、その後の学生時代にも、卒業して仕事に従事している間にもそのようなことを検証するための時間的余裕が私にはなかった。それが十数年前に定年となり、私はそのための時間をやっと持てるようになって賢治のことを調べ続けることができた。すると、常識的に考えればおかしいと思われるところが、特に「羅須地人協会時代」を中心にして幾つか見つかった。そこでそれらの検証作業等をしてみた結果、やはり皆ほぼおかしかった(そうか、これらのことなどが、恩師が嘆いていたことの具体例だった蓋然性が高そうだと直感した)。
 その主な事柄は、カテゴリーとしては「杜撰」ということで、既に〝第一章〟において、
  ⑴ 「サムサノナツハオロオロアルキ」もなかった賢治 については、㈠ あらゆることを疑い  で、
  ⑵ 羅須地人協会時代の上京についてのあやかし   については、㈡ 一次情報に立ち返って で、
  ⑶ 羅須地人協会時代は「独居自炊」とは言い切れない については、㈢ 自分の頭と足で検証  で、
  ⑷ 〈悪女・高瀬露〉はとんでもない濡れ衣である   については、㈣ 杜撰が招いた冤罪   で、
それぞれ述べてみたところである。

  ㈡ 真偽を自分の目で確認
 ではここからは「杜撰」というわけではないが、以下、どうもこれらに関する通説等には危うさが感じられるもの4項目、⑸~⑻を、石井洋二郎氏のあの警鐘、「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」の重要さを身に沁みて知ったので、ここではそのことに留意しながら以下に述べてみたい。

 ではまずは、
  ⑸ 「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」賢治
についてである。
 さて、生前全国的にはほぼ無名だった宮澤賢治及びその作品を初めて全国規模で世に知らしめた最大の功労者と言えば、今では殆ど忘れ去られてしまっている松田甚次郎だ。まさに「賢治精神」を実践したとも言える彼は、その実践報告書を『土に叫ぶ』と題して昭和13年に出版すると一躍大ベストセラーに、それに続いて翌年に松田甚次郎編『宮澤賢治名作選』を出版すると、これまたロングセラーになった事が切っ掛けとなってであった。その『土に叫ぶ』の巻頭「恩師宮澤賢治先生」を甚次郎は次のように書き出している。
 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して歸鄕する喜びにひたつてゐる頃、每日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てゝゐた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買ひ込んで、この村を見舞つた。道々會ふ子供に與へていつた。その日の午後、御禮と御暇乞ひに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。               〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)1p〉
 そこで私は思った、この旱魃による被害はさぞかし相当深刻なものであったであろうと。早速、大正15年の旱害に関する新聞報道を実際に調べてみた。するとやはり、この年の『岩手日報』には早い時点から旱魃に関する報道が目立っていて、そして12月に入ると、赤石村を始めとする紫波郡の旱魃による惨状がますます明らかとなり、例えば12月15日付『岩手日報』には、
 赤石村民に同情集まる 東京の小學生からやさしい寄附
本年未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方の農民は日を經るに隨ひ生活のどん底におちいつてゐるがその後各地方からぞくぞく同情あつまり世の情に罹災者はいづれも感淚してゐる數日前東京淺草區森下町濟美小學校高等二年生高井政五郎(一四)君から河村赤石小學校長宛一通の書面が到達した文面に依ると
わたし達のお友だちが今年お米が取れぬのでこまってゐることをお母から聞きました、わたし達の學校で今度修學旅行をするのでしたがわたしは行けなかったので、お小使の内から僅か三円だけお送り致します、不幸な人々のため、少しでも爲になつたらわたしの幸福です
と涙ぐましいほど眞心をこめた手紙だった。
というような記事があった。そして連日のように、地元からはもちろんのこと、他県等からも「未曾有の旱害に遭遇した紫波郡赤石村地方」へ陸続と救援の手が差し伸べられているという報道があった。ちなみに、大正15年12月22日付『岩手日報』には「米の御飯をくはぬ赤石の小學生/大根めしをとる哀れな人たち」という見出しの記事も載っていたから、甚次郎が(本人の『大正15年の日記』によれば、赤石村慰問日は)同年12月25日に赤石村を慰問したのはおそらくこの新聞報道を見たからに違いない。
 さらに、この旱害の惨状等は年が明けて昭和2年になってからも連日のように報道されていて、例えば同年1月9日付『岩手日報』には、トップ一面をほぼ使っての大旱害報道があり、その惨状が如実に伝わるものであった。しかもそれは、紫波郡の赤石村だけにとどまらず、同郡の不動村、志和村等も同様であることが分かるものだった。
 ではこの時、稗貫郡ではどうだったのだろうか。例えば大正15年10月27日付『岩手日報』は、
 (花巻)稗和両郡下本年度のかん害反別は可成り広範囲にわたる模樣
ということを報じていたから、賢治は稗貫郡下の旱害による稲作農家の被害の深刻さもよく分かっていたはずだ。よって、巷間伝えられているような賢治であったならばこんな時には上京などせずに故郷花巻に居て、地元稗貫郡内のみならず、未曾有の旱害罹災で多くの農家が苦悶している隣の紫波郡内の農民救援のためなどに、それこそ「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、徹宵東奔西走の日々を送っていたであろうことが当然考えられる。しかしながら少し調べてみただけでも実際はそうではなかったことが直ぐ判る。なぜならば、12月中はほぼまるまる賢治は滞京していたからだ。しかも、上京以前も賢治はこの時の「ヒデリ」にあまり関心は示していなかったようだが、上京中もそのことをあまり気に掛けていなかったということが、当時の書簡等から示唆されるからだ。よって、大正15年の賢治はどうも「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えなさそうだと推測される。
 では肝心の、大正15年の岩手県産米の実際の作柄はどうだったのだろうか。そこで、『岩手県災異年表』(昭和13年)から、不作と凶作年の場合の稗貫郡及びその周辺郡の、当該年の前後五カ年の米の反当収量に対する偏差量を拾って表にしてみると、下掲のような《表3 当時の米の反当収量》となった。よって同表より、赤石村の属する紫波郡の大正15年の旱害は相当深刻なものだったということが改めて判るし、稗貫郡でも確かに米の出来が悪かったということもまた同様に判る。当時の平均反当収量は二石弱であったからだ。
 そこで、「下根子桜」に移り住んだ最初の年のこの大旱害に際して賢治はどのように対応し、どんな救援活動をしたのだろうかと思って、「旧校本年譜」や『新校本年譜』等を始めとして他の賢治関連資料も渉猟してみたのだが、そのことを示すものを私は何一つ見つけられなかった。逆に見つかったのは、羅須地人協会員でもあった伊藤克己の次のような証言だった。
 その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた。近村の篤農家や、農學校を卒業して實際家で農業をやつてゐる眞面目な人々などが、木炭を擔いできたり、餅を背負つてきたりしてお互先生に迷惑をかけまいとして、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間ではあつたが、そこで農民講座が開講されたのである。…筆者略…
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。…筆者略…そして集りも不定期になつた。それは或日の岩手日報の三面の中段に寫眞入りで宮澤賢治が地方の靑年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時は思想問題はやかましかつたのである。             
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)395p~〉
 ところで、伊藤が語るところの「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」とは、何年のいつ頃のことだろうか。まずは、「悲しい日がきてゐた」というその日とは昭和2年2月1日であることが知られているから、「樂しい集り」が行われたのは昭和2年の2月1日後はあり得ない。となれば、「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」というところの「冬」とは、まずは大正15年12月頃~昭和2年1月末の間となろう。ところが、大正15年12月中の賢治はほぼ滞京していたわけだから、伊藤が「その頃の冬は樂しい集りの日が多かつた」という期間は結局、実質的には昭和2年1月の約1カ月間のこととなってしまいそうだ。
 従って、トップ一面を使って隣の紫波郡一帯の大旱害の惨状が大々的に報道されていた昭和2年1月に、賢治と羅須地人協会員は協会の建物の中でしばしば「樂しい集りの日」を持ってはいたが、彼等がこの大旱害の惨状について話し合ったり、救援活動に出掛けて行ったりしていたとはどうも考えられない。それは協会員等の誰一人としてそのようなことに関した証言等を残していないからだ。つまり、大正15年の「ヒデリ」による、とりわけ隣の紫波郡内の赤石村等の未曾有の大旱害に対して、県内のみならずあちこちから陸続と救援の手が差し伸べられていたのに、賢治自身も協会員も救援活動をしたとは言えない。だから、大正15年の賢治が「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない、という思いもよらぬ判断をせざるを得なくなった(そして、同時に驚くことは、そもそも、この赤石村等の大旱害に関して論じている賢治研究者を誰一人として私には見つけられないことだ)。
 ところで、岩手県がヒデリの夏だった年は大正15年だけではなく、昭和3年8月25日付『岩手日報』に「四十日以上打ち續く日照り」という記事があるように、昭和3年の盛岡一帯はもそうであったという。また、同年の夏の花巻一帯でも約40日間ほども雨が一切降らなかったと言われていて、そのことは『阿部晁の家政日誌』の、
・昭和3年7月5日:本日ヨリ暫ク天気快晴
・同年9月18日:七月十八日以来六十日有二日間殆ンド雨ラシキ雨フラズ土用後温度却ッテ下ラズ
今朝初メテノ雨今度ハ晴レ相モナシ
という記述等によって裏付けられる。
 だから、これだけ雨が降らなけば水稲が心配だと思う人もあるかも知れないが、この時期のそれであれば。それどころか逆に、この地方の俚諺「日照りに不作なし」ということで農民はひとまず安堵し、稔りの秋を楽しみにしていたと言えよう。
 実際、昭和4年1月23日付『岩手日報』によれば、
   昭和3年岩手県米実収高
   反当収量は1.970石 前年比3.3%増収
ということだから、昭和3年の夏の岩手県は確かにヒデリではあったのだが、同年の県米の作柄は「やや良」であったということになる。となれば、稗貫郡も少なくともその程度であったと推断できるので、昭和3年の場合、稲作の心配や米の出来を心配して賢治が「ヒデリノトキニ涙ヲ流」す必然性はまずなかったということになろう。
 しかも、昭和3年の田植時に賢治は何をしていたのかというと、周知のように、
六月七日(木)  水産物調査、浮世絵展鑑賞、伊豆大島行きの目的をもって花巻駅発。仙台にて「東北産業博覧会」見学。東北大学見学、古本屋で浮世絵を漁る。書簡(235)。
六月八日(金)  早朝水戸着。偕楽園見学。夕方東京着、上州屋に宿泊。書簡(236)。
六月一〇日(日) <高架線>
六月一二日(火) 書簡(237)。この日大島へ出発、 伊藤七雄宅訪問?
六月一三日(水) <三原三部>
六月一四日(木) <三原三部> 東京へ戻る。
六月一五日(金) <浮世絵展覧会印象> メモ「図書館、浮展、新演」。 
六月一六日(土) 書簡(238)。メモ「図書館、浮展、築地」「図、浮、P」。  
六月一七日(日) メモ「図書館」「築」。
六月一八日(月) メモ「図書館」「新、」。
六月一九日(火) <神田の夜> メモ「農商ム省」「新、」。
六月二〇日(水) メモ「農商ム省」「市、」。
六月二一日(木) メモ「図書館、浮展」「図、浮、本、明」。
六月二四日(日) 帰花。      〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)〉
ということである。よってこの年譜に従うと、この時期のヒデリに対して、
・大正15年の時とは違って、今年はしっかりと田植はできるのだろうか。
・田植はしたものの今年は雨がしっかりと降ってくれるだろうか、はたまた、用水は確保できるだろうか。
などということを賢治が真剣に心配していた、とはどうも言い切れない。なにしろ、農繁期のその時期に賢治は故郷にはしばらくいなかったからである。
 それでは賢治がしばしの滞京を終えて帰花した直後はどうであったろうか。私は賢治のことだから、2週間以上も農繁期の故郷を留守にしていたのでその長期の不在を悔い、帰花すると直ぐに、
    〔澱った光の澱の底〕
   澱った光の澱の底
   夜ひるのあの騒音のなかから
   わたくしはいますきとほってうすらつめたく
   シトリンの天と浅黄の山と
   青々つづく稲の氈
   わが岩手県へ帰って来た
…筆者略…
   眠りのたらぬこの二週間
   瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来たが
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
   ぬるんでコロイダルな稲田の水に手をあらひ
   しかもつめたい秋の分子をふくんだ風に
   稲葉といっしょに夕方の汗を吹かせながら
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう    〈『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)283p~〉
と〔澱った光の澱の底〕に詠んだのだと私は推測し、帰花後の賢治はさぞかし稲作指導に意気込んでいたであろうとばかり思っていた。
 ところが、伊藤七雄に宛てたというこの年の〔七月初め〕伊藤七雄あて書簡(240)下書㈡に、
 …こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)〉
ということが書かれているということを知った。吃驚した。もしそうであったとするならば、この下書の「しばらく」とか「やっと」という表現からしても、賢治が帰花直後の24日や25日にこの〔澱った光の澱の底〕を詠んだということはなかったと言えそうだ。このような「勢い」を帰花直後の賢治は持ち合わせていなかったであろうと判断できたからだ。この書簡のこれらの表現からは、帰花後の数日は何もせぬままに賢治は「ぼんやり」と過ごしていたという蓋然性が高い。しかも同『第十五巻・本文篇』によれば、7月3日付書簡(239)に、「約束の村をまはる方は却って七月下旬乃至八月中旬すっかり稲の形が定まってからのことにして」としたためていることから、約束でさえも後回しにしていることが知れるので、7月初め頃もまだ賢治のやる気はあまり起きていなかったと言えそうだから、賢治は「しばらくぼんやりして居りました」ということがこのことからも裏付けられそうだ。
 それはまた、前掲の詩において、賢治は、
   さああしたからわたくしは
   あの古い麦わらの帽子をかぶり
   黄いろな木綿の寛衣をつけて
   南は二子の沖積地から
   飯豊 太田 湯口 宮の目
   湯本と好地 八幡 矢沢とまはって行かう
        …筆者略…
   みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう
と詠んではいるものの、「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって行かう」ということであれば、ざっと見積もってみても、賢治にとってはかなり無茶な行程となってしまうことからも裏付けられそうだ。
 ちなみに、この行程を当時の『巖手縣全圖』(大正7年、東京雄文館藏版)を用いて、地図上で巡回地点間の直線距離を測ってみると、おおよそ、 
「下根子桜」→8㎞→二子→6㎞→飯豊→6㎞→太田→4㎞→湯口→8㎞→宮野目→6㎞→湯本→
8㎞→好地→2㎞→八幡→8㎞→矢沢→7㎞→「下根子桜」
   全行程最短距離=(8+6+6+4+8+6+8+2+8+7)㎞=63㎞
となる。では、この全行程を賢治ならば何時間ほどで廻り切れるだろうか。賢治は健脚だったと言われているようだから仮に1時間に5㎞歩けるとしても、
    最短歩行時間=63÷5=12.6時間
となり、歩くだけでも半日以上はかかる(賢治は自転車には乗らなかったし乗れなかったと聞くから、歩くしかなかったはず)だろう。しかも、その上に、稲作指導のための時間を加味すればとても「みんなのところをつぎつぎあしたはまはって」しまえそうにはない。
 まして、前掲の詩〔澱った光の澱の底〕において次のように、
   眠りのたらぬこの二週間/瘠せて青ざめて眼ばかりひかって帰って来た
と詠んでいる賢治には、このような行程を一日で廻り切るのはちょっと無理であろうこともほぼ自明である。だからこの〔澱った光の澱の底〕はあくまでも詩であり、賢治がその通りに行動したと安易に還元はできない。その通りにはもともと行動することがまずできなかったであろうということである。
 さて、賢治が昭和3年のヒデリを心配して「涙ヲ流シ」たということはあり得るかということでここまで考察してきた。たしかに、この年の夏は稗貫郡でもヒデリが続き、約40日以上もそれが続いていたのだが、賢治は農繁期である6月にも拘わらず、上京・滞京していてしばらく故郷を留守にしていたことや、帰花後は体調不良でしばらくぼんやりしていたこと、そして8月10日以降は実家に戻って病臥していたことなどからして、昭和3年の夏のヒデリやそれによる農民の苦労を、賢治がそれほど気に掛けたり心配したりして奮闘していたとはとても考えにくい。よって、昭和3年の場合も、賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えそうにない。
つまり、大正15年のヒデリの場合と同様な賢治がそこに居たということになり、結局のところ、
   「羅須地人協会時代」の賢治は「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」たとは言えない。
と結論せざるを得ないことを知った。

 ところで、賢治に関わる人でまさに「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、それが因で間もなく逝った人物がいる。
あの松田甚次郞その人である。
 安藤玉治によれば、
 昭和十八年の夏、最上地方はまれにみる大干魃であった。
 七月六日には平年よりは二週間も早く梅雨が明け、連日晴れの日が続いた。畑は土ぼこりが舞い、水田はひび割れが目だつようになっていった。
 松田は七月九日、同志や村民と一緒に近くの山、八森山に雨乞い祈願に登ったのである。
〈『「賢治精神」の実践│松田甚次郎の共働村塾│』(安藤玉治著、農文協)212p~〉
 そしてこの雨乞いに一緒に行った吉野善太郎は、次のように語っているということを安藤は紹介していた。
 ||これでは神に祈願の外なしと、衆議一致、早速常会長に申し出た所、常会長も承知下されまして、翌日午前七時、新田橋に集合、青壮年希望者は新田川上流の最高峰八森権現へ、老年女子は山伏滝に祈願することになり、松田氏は弁当をとりに自宅まで参りましたので、自分たちより一足おくれ、いよいよ八森のふもとにつきました時には、松田氏は後方隊に加わり、進むうちに道に迷い、非常に困難をいたした由、目的地についた時には、一時間ほどおくれて居りました。                               〈同〉
 ということだ。さらに、吉野の証言を要約すれば、
 頂上では松田甚次郎の合図で宮城遙拝をし、皇軍の武運長久を祈願、そして雨乞い祈願をしたという。ただしそのときには甚次郎に特別変わったことはなかったようだ。ところが、先に下山した人達が麓で休んでいても甚次郎はなかなか下りてこなかったので心配になって迎えに戻ると、甚次郎は耳が痛んで歩くことが出来ないために遅れていたことが分かった。かなり疲労困憊していたようだったという。
 結局、甚次郎は家に帰ると疲労で倒れてしまい、中耳炎を再発し、新庄の病院に入院することになってしまった。                                      〈同213p~〉
ということで、この雨乞いの無理が切っ掛けで甚次郎は昭和18年に病に伏すことになってしまったという。
 今の時代、「ヒデリノトキ」に「雨乞い」なんて非科学的だと嗤われるかも知れないが、それはその時に「ナミダヲナガ」すこととさほどの差はないのだから逆に、「サフイフモノニ/ワタシハナリタイ」と願った賢治と、実際にいわば「ナミダヲナガシ」たと言える甚次郎との間の差は大きい。もちろん、そう願うことも大事だが、そう思ったならば実際にそれを実行することの方が大事だというのが、私の場合の基準だからだ。どうやら、「昭和十八年の夏、最上地方はまれにみる大干魃であった」というが、ちょうど「大正15年の紫波郡地方はまれにみる大干魃であった」のだから、この時に紫波郡を慰問して子どもたちに南部煎餅を配って廻ったという山形県人の甚次郎と、そのような支援をその時に何一つしていなかった岩手県人の賢治であったことも私は知っているので、二人の間の差は残念ながら大きい。
 さて、「雨乞い祈願」の無理が祟って病に伏すことになってしまったという甚次郞だが、倒れてから一週間が過ぎた日付の、病床の甚次郞が花巻の宮澤清六に宛てた手紙の内容は、
 あれから熱が三十九度五分を前後して毎日苦しい病床、道場の生活も何も考えず、読まず、見ず、遂今日迄九日がすぎました。もう何も欲しくない。平熱が欲しいだけであると謂いつづけて参りました。けれども昨日の午後二時より夕立があり、一時間、この乾き切った地上に慈雨が豊かに降りそそいでくれました。田にも畑にも山にもみな四〇日ぶりのこの慈雨、音と光りとにじっとして感謝をささげたのでした。
 今朝は少し熱が下がり、机に向かって熱で疲労した指の関節部分の運動をして居ります。本日までに出さねばならない「時局情報」八月号の原稿五枚を、この熱の静かな時間に書こうと思って居ります、
 見前の吉田六太郎先生は毎日激励のハガキを下さいますが、この熱で一寸も動けないのです。では失礼します。
 宮澤清六様                                            松田甚次郎  
〈同218p~〉
というものであったと、安藤玉治は紹介している。
 この手紙からは、病に倒れてしまった甚次郎の重篤さが目に見えるようだが、一方ではそのような中にあっても、雨乞いの甲斐あって慈雨が降ったことを、雷鳴と稲妻の中で喜んでいる甚次郎の素直な人間性と自然に対する畏敬の念が窺える。
 しかし、慈雨は降っても相変わらず甚次郎の高熱は続き、あげく心臓内膜炎を併発してしまい、8月4日の午前9時に甚次郎はついに帰らぬ人となったという。「雨乞い祈願」から一カ月も経たずに、しかもなんと享年35歳のあっけない最期になった、ということなども安藤は前掲書の中で述べていた。
 そこで私は、
   松田甚次郞こそ、まさに「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」、そして逝った。
と言えるな、と呟く。そして次に、
 そっか、だから松田甚次郞は賢治にとっては大恩人なのに、逆に次第に無視され、ついに忘れ去られていったのか、千葉恭の場合と同じように。
と、ついついまた穿った見方をしてしまった。

                 〈続く〉
 続きへ
前へ 
『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』の目次〟へ。
渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 《表4『作物別最適pH領域一... | トップ | 《図表1 「昭和2年稻作期間... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『校本宮澤賢治全集』の杜撰」カテゴリの最新記事