みちのくの山野草

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㈣ 杜撰が招いた冤罪

2023-12-14 17:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰

















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  ㈣ 杜撰が招いた冤罪
 では、今度は〈高瀬露悪女伝説〉に関して論じてみたい。というのは、宮澤賢治が生前、血縁以外の女性の中で最も世話になったのが高瀬露であるというのに、あろうことか、その露はとんでもない〈悪女〉にされていて、いわゆる〈高瀬露悪女伝説〉が全国に流布しているという実態があるからだ。しかし、少し調べてみただけでも露はとてもそうとは言えなさそうであることに私は気付く。だからもしかするとこの〈高瀬露悪女伝説〉は濡れ衣の可能性があり、もしそうであるとするならばそれは人権問題だから、他のこととは違ってそれが重視される今の時代は特に放っておくわけにはいかない。
 例えば、賢治の主治医だったとも言われている佐藤隆房は、
 櫻の地人協會の、會員といふ程ではないが準會員といふ所位に、内田康子(筆者註:高瀬露のこと)さんといふ、たゞ一人の女性がありました。…筆者略…
 來れば、どこの女性でもするやうに、その邊を掃除したり汚れ物を片付けたりしてくれるので、賢治さんも、これは便利と有難がつて、
「この頃は美しい會員が来て、いろいろ片付けてくれるのでとても助かるよ。」
と、集つてくる男の人達にいひました。        〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房、昭和17年)175p〉
と述べていて、これに基づけば、露は賢治にとっては〈悪女〉どころかその逆だからである。さらに、『新校本宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』によれば、
 この歌の原曲は…筆者略…「いづれのときかは」で、賢治が愛唱した讃美歌の一つである。宮沢清六の話では、この歌は賢治から教わったもの、賢治は高瀬露から教えられたとのこと。
〈『新校本 宮澤賢治全集第六巻詩Ⅴ校異篇』(筑摩書房)225p〉
ということだから、賢治は露から讃美歌を教わっていたということを、賢治の弟清六は証言していたことになる。また清六は、
 私とロシア人は二階へ上ってゆきました。
二階には先客がひとりおりました。その先客は、Tさん(筆者註:高瀬露のこと)という婦人の客でした。そこで四人で、レコードを聞きました。…筆者略…。レコードが終ると、Tさんがオルガンをひいて、ロシア人はハミングで讃美歌を歌いました。メロデーとオルガンがよく合うその不思議な調べを兄と私は、じっと聞いていました。 〈『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)236p〉
ということも証言している。よって、これらの証言等から、賢治は露からとても世話になっていたということや、当時、賢治と露はオープンで親しい関係にあった、ということが導かれる。
 しかも、露は一九二一年(一九歳の時)に洗礼を受け、遠野に嫁ぐまでの一一年間は花巻バプテスト教会に通い、結婚相手は神職であったのだが、夫が亡くなって後の一九五一年にカトリック遠野教会で洗礼を受け直し、「五〇年の長きにわたって信仰の生涯を歩み通した」クリスチャンであった(『宮沢賢治とクリスチャン 花巻編』(雜賀信行著、雜賀編集工房)143~147p)、という。
 従ってこれらのことに鑑みれば、露が〈悪女〉であるとは常識的には考えにくい。
 そこで私はまず、関連する論考等を探し廻ったのだが、この伝説に関して学究的に取り組んでいる賢治研究者の論考等はなかなか見つからなかった。そしてやっと見つかったのが、上田哲の「「宮沢賢治伝」の再検証㈡―〈悪女〉にされた高瀬露―」という論文だった(以降、「〈悪女〉にされた高瀬露」のことを〈悪女・高瀬露〉と表記する)。上田は、新たな証言や客観的資料等を発掘してこの〈悪女・高瀬露〉を再検証してみたところそれは冤罪的伝説であったということで、一九九六年に『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)上にそのことを発表したのが同論文である(この件に関する論文の嚆矢であり、しかもほぼ唯一のものだ。現在に至っても、このことに関する他の研究者の本格的な論考等は見つからない。なお、この論文は未完に終わっている)。
 さて、上田哲は同論文で、
 露の〈悪女〉ぶりについては、戦前から多くの人々に興味的に受けとめられ確かな事実の如く流布し語り継がれてきた。多くの本や論考にも取上げられ周知のことなので詳しい記述は必要でないように思われるが、この話はかなり歪められて伝わっており、不思議なことに、多くの人は、これらの話を何らの検証もせず、高瀬側の言い分は聞かず一方的な情報のみを受け容れ、いわば欠席裁判的に彼女を悪女と断罪しているのである。
〈『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)89p〉
と述べているので私は、「なるほど」と呟く。さらに上田は同論文で、
 高瀬露と賢治のかかわりについて再検証の拙論を書くに当たってまず森荘已池『宮沢賢治と三人の女性』(一九四九年(昭和24)一月二五日 人文書房刊)を資料として使うことにする。…筆者略…一九四九年以降の高瀬露と賢治について述べた文篇はほとんどこの森の本を下敷にしており   〈同89p〉
とも述べていたので、私も実際当該の「文篇」を渉猟してみたところたしかにそのとおりだった。
 ところが、「下敷」になっているその『宮澤賢治と三人の女性』における露に関する記述内容には、信憑性が危ぶまれる箇所が少なくないことを知った。
 例えば、高瀬露が〈悪女〉であるとされた一つの原因となっているあの「ライスカレー事件」だが、『宮澤賢治と三人の女性』における同事件の記述には、拙著『本統の賢治と本当の露』の122pでも論じているように、「森の虚構や創作が含まれていそうだ」。そのことは私のみならず、佐藤通雅氏も「見聞や想像を駆使してつくりあげた創作であることは、すぐにもわかる」と指摘している(『宮澤賢治東北砕石工場技師論』(佐藤通雅著、洋々社)83p)ように、事実とは言い難いからだ。
 あるいはこんなことも知った。「旧校本年譜」では、森荘已池が一九二七年の秋の日に下根子を訪ね、その際道で高瀬露とすれ違ったということになっている(『校本全集第十四巻』622p)のだが、それは、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであつた。國道から田圃路に入つて行くと稻田のつきるところから …筆者略…              〈『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)74p〉
と森は書いているものの、
   「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
という論理で、「旧校本年譜」はこの訪問を一九二七年のことであると決めつけたということをだ。そこで私はこの安直な論理に唖然とする。それはまず、賢治が下根子の宮澤家別宅に住んでいたのは大正15年(一九二六年)もあるわけで、そうとは限らないからだ。そして石井洋二郎氏が「あらゆることを疑い」と言っているように、そもそもこの「下根子訪問」自体がなかったかも知れず、しかも「旧校本年譜」はその訪問があったということを確認したとは言い添えていない。そしてその懸念のとおり、私が検証したところ、森のこの「下根子訪問」は捏造であったことが明らかになった(詳しくは、拙著『本統の賢治と本当の露』の第二章の〝5.捏造だった森の「下根子桜訪問」〟をご覧いただきたい)。よって、
  ・「下敷」そのものもかなり不確かである。
ことが分かった。となれば、これと先ほどの、
  ・露が〈悪女〉であるとは常識的には考えにくい。
とを併せて判断しただけでも、
  〈悪女・高瀬露〉は濡れ衣の可能性がきわめて大である。
ということが導かれる。
 一方で上田も言及しているように、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説は戦前から一部の人たちに知られてはいた。しかし、その〈悪女〉の名が高瀬露であるということまでは殆ど知られていなかった。なぜなら、この〈悪女〉に関して著作を公にした森荘已池の『宮澤賢治と三人の女性』等も、儀府成一の『宮沢賢治 その愛と性』も、その女性の名前は明示しておらず、「彼女」「女の人」「Tさん」などという表現、あるいは仮(か)名(めい)の「内村康江」とかを用いているからだ。
 ところが、上田が同論文で、「この女性の本名が明らかにされたのは校本全集第十四巻……」と述べていることから示唆されるように、『校本全集第十四巻』上で突如、その〈悪女〉の名は「高瀬露」であると思わせるような、恣意的な公表がなされてしまった。具体的には次のようにである。
 昭和52年に出版された同巻は「補遺」において、
 新発見の書簡252c(その下書群をも含む)とかなり関連があるとみられるので、高瀬あてと推定し、新たに「252a」の番号を与える。                            〈『校本全集第十四巻』28p〉
と述べて、「新発見」の賢治書簡下書252c等を公表した。そして、
   本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが、             〈同34p〉
と断定し、この「断定」を基にして、従前からその存在が知られていた宛名不明の書簡下書と合わせて約23通を「昭和4年と推定される〔日付不明 高瀬露あて〕書簡下書」として一括りにして公表したのだ。
 ところが、これら一連の書簡下書群の最もベースとなる書簡下書252cについて、同巻は「本文としたものは、内容的に高瀬あてであることが判然としているが」と断定してはいるものの、その典拠を何ら明記していない。ここでもまた杜撰なのだ。その裏付けがあるということも、検証した結果だということもまた付言していない。従って、「内容的に高瀬あてであることが判然としているが」といくら述べられていても、「内容的に」というような漠とした表現では、読者にとっては「客観的に見て判然としていない」ことだけがせいぜい判然としているだけだ。
 にもかかわらず同巻はさらに推定を重ね、しかも一般人である「高瀬露」の実名を顕わに用いて、「推定は困難であるが」と前置きしておきながらも、「この頃の高瀬との書簡の往復をたどると、次のようにでもなろうか(傍点筆者)」などというような投げやりで、はしなくも、いい加減だという印象を与えるような表現を用いて、「困難」なはずのものにも拘わらず、
⑴、高瀬より来信(高瀬が法華を信仰していること、賢治に会いたいこと、を伝える)         
⑵、本書簡(252a)(法華信仰の貫徹を望むとともに、病気で会えないといい、「一人一人について特別な愛といふやうなものは持ちませんし持ちたくもありません。」として、愛を断念するようほのめかす。ただし、「すっかり治って物もはき〳〵云へるやうになりましたらお目にかゝります。」とも書く)
⑶、高瀬より来信(南部という人の紹介で、高瀬に結婚の話がもちあがっていること、高瀬としてはその相手は必ずしも望ましくないことを述べ、暗に賢治に対する想いが断ちきれないこと、望まぬ相手と結婚するよりは独身でいたいことをも告げる)…筆者略…
⑸、賢治より発信(下書も現存せず。いろいろの理由をあげて、賢治自身が「やくざな者」で高瀬と結婚するには不適格であるとして、求愛を拒む)  
などと、スキャンダラスな表現も用いながら推定した。さらに続けて、⑹、⑺という「推定」も書き連ね、結局延延と推定を繰り返した推定群⑴~⑺を同巻で公表した(『校本全集第十四巻』28p~)。それにしても、筑摩書房ともあろう出版社が、「次のようにでもなろうか」というレベルのものを文字にして公表するなどということは私にはまったく考えられないことである。
 しかも、これらの「推定群⑴~⑺」は、クリスチャンであった高瀬露が信仰を変えて法華信者になってまでして賢治に想いを寄せ、一方賢治はそれを拒むという内容になっている。それ故、この「推定群⑴~⑺」を読んだ人たちは、そこまでもして賢治に取り入ろうとした露はきわめて好ましからざる女性であったという印象を持つであろうことは容易に想像できるので、これらの「推定群」を文字にして公表することは筑摩書房ほどの出版社であれば、きわめて慎重になるはずだ。信仰に関わるし、人権が絡むからであり、世間からの信頼が厚い良心的出版社だからなおのことである。
 それはもちろん、このような「推定群」をそのような出版社が活字にすれば世の常で、出版時点ではあくまでも推定であったはずの〔昭和4年露宛賢治書簡下書〕がいつのまにか断定調の「昭和4年露宛賢治書簡下書」に変身したり、はては「下書」の文言がどこかへ吹っ飛んでしまって「昭和4年露宛賢治書簡」となったりしてしまう虞もあるからである。そして同様に、「推定群⑴~⑺」の内容も、延いては、「露は賢治にとってきわめて好ましからざる女性であった」ということまでもが独り歩きしてしまうこともまた、である。
 そして実際、この〝「新発見」の賢治書簡下書252c群及び「推定群⑴~⑺」の公表〟(以後、この公表のことを〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟と略記する)後、それまでは一部にしか知られていなかった、賢治にまつわる無名の〈悪女伝説〉が、濡れ衣の可能性が高いのにもかかわらず実名を用いた〈悪女・高瀬露〉に変身して、一気に全国に流布してしまったということを否定出来ない。ちょうど先に紹介した、
 賢治の年譜としては最も信頼性が高いとされる『校本』の年譜に記されたことで、それを「説」ではなく「事実」として受け取った人も少なくなかったであろう。 
という危惧と同様で、「高瀬露」の名前が登場するこれらの「推定」が『校本全集第十四巻』に公表されたことで、「推定」を「事実」として受け取った人も少なくなかったであろうことに依って、賢治の周辺に〈悪女〉がいたという風説の〈無名の悪女伝説〉が、〈高瀬露悪女伝説〉に変身して一気に全国に広まっていったという蓋然性が高い。
 実際、二〇〇七年(平成19年)に出版されたある本では、
 感情をむき出しにし、おせっかいと言えるほど積極的に賢治を求めた高瀬露について、賢治研究者や伝記作者たちは手きびしい言及を多く残している。失恋後は賢治の悪口を言って回ったひどい女、ひとり相撲の恋愛を認識できなかったバカ女、感情をあらわにし過ぎた異常者、勘違いおせっかい女……。
とか、はたまた、二〇一〇年(平成22年)に出版された別の本でも、
 無邪気なまでに熱情が解放されていた。露は賢治がまだ床の中にいる早朝にもやってきた。夜分にも来た。一日に何度も来ることがあった。露の行動は今風にいえば、ややストーカー性を帯びてきたといってもよい。
というようにである。
 一方で、「旧校本年譜」の担当者である堀尾青史は、
 今回は高瀬露さん宛ての手紙が出ました。ご当人が生きていられた間はご迷惑がかかるかもしれないということもありましたが、もう亡くなられたのでね。   〈『國文學 宮沢賢治2月号』(學燈社、昭和53年)177p〉
と境忠一との対談で語っていたし、天沢退二郞氏も、
 高瀬露あての252a、252b、252cの三通および252cの下書とみられるもの十五点は、校本全集第十四巻で初めて活字化された。これは、高瀬の存命中その私的事情を慮って公表を憚られていたものである。
〈『新修 宮沢賢治全集 第十六巻』(筑摩書房)415p〉
と述べていたから、この二人は共に、高瀬露が亡くなったので公表したと言っているようなものだ。よって、「新発見」の書簡252cとは言い難いことを知った私は、〝「新発見」の書簡下書252c等の公表〟によって露は結果的に濡れ衣を着せられたと言わざるを得ないと今まで考えていた(が、それも間違いだと気付いた。今回のここまでの考察によって事態はもっと深刻だったのだと、考え方を変えつつあるからだ)。
 それにしても、なぜ『校本全集第十四巻』は、「新発見」とは言い難いのに「新発見の書簡252c」とセンセーショナルな表現をし、さらに、「推定は困難であるが」と言いながらも、その推定を延々と繰り返した「推定群⑴~⑺」を公表したのか。良心的で硬派の出版社だと思っていた筑摩書房が、なぜこのような杜撰(典拠などが不確かで、いい加減)だと見えてしまうようなことをしてしまったのかと、私は釈然としなかった。そしてこのようなことに依って、結果的に〈悪女・高瀬露〉という濡れ衣を着せられてしまったのだと私には思えてならない。しかも、森義真氏も次のようなことを講演会で話して下さったから、私はこれはやはり濡れ衣であるということをさらに確信したのであった。
 というのは、森氏は、令和2年3月20日に矢巾町国民保養センターにおいて行った『賢治をめぐる女性たち―高瀬露について―』という講演会において、
 そうしたところに、上田さんが発表した。しかし、世間・世の中ではやっぱり〈悪女〉説がすぐ覆るわけではなくて、今でもまだそういう〈悪女〉伝説を信じている人が多くいるんじゃないのかなと。しかしそこにまた石を投げて〈悪女〉ではないと波紋を広げようとしているのが鈴木守さんで、この『宮澤賢治と高瀬露』という冊子と、『本統の賢治と本当の露』という本を読んでいただければ、鈴木さんの主張もはっきりと〈悪女〉ではないということです。はっきり申し上げてそうです。
とか、
 時間がまいりましたので結論を言います。冒頭に申し上げましたように、「高瀬露=〈悪女〉」というこれは本当に濡れ衣だと私は言いたい。それについては上田哲さんがまず問題提起をし、それを踏まえて鈴木守さんが主張している。それに私は大いに賛同します、ということです。
〈『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(露草協会編、ツーワンライフ出版)8p~〉
と話して下さったからだ。
 そして、この度のこの考察を通じて私は、露は「濡れ衣を着せられた」というよりは冤罪だという考え方に変わりつつある。〈高瀬露悪女伝説〉を全国に流布させてしまったことは濡れ衣を着せるよりももっと罪深いことであり、これは犯罪なのだと。杜撰が招いた冤罪であると。では何故そのような冤罪が起こったのかというと、その大きな原因は、その当時の筑摩書房が「腐りきっていた」からだということを、なんと、筑摩書房の社史が私に示唆してくれた。だから逆に、ある意味、筑摩書房は自恃と自戒がある、矜恃があると知って安堵もした。
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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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