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第二章 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」 ㈠ 絶版回収事件

2023-12-15 12:00:00 | 『校本宮澤賢治全集』の杜撰









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  第二章 「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」
 やはりどうもおかしい。というのは、ここまでの考察によって、私からすれば筑摩書房らしからぬ杜撰な幾つかのことが昭和52年に起こっていた、ということに気付いたからだ。ちなみに、ここまでのことを振り返ってみれば以下のとおりだ。
⑴ 昭和52年出版の『校本宮澤賢治全集第十四巻』における、昭和2年7月19日の記載、
「昭和二年は非常な寒い気候が続いて、ひどい凶作であつた。そのときもあの君はやつて来られていろいろと話しまた調べて帰られた。」
は事実誤認である。つまり、裏付けさえ取っていない。
⑵   「関『随聞』二一五頁の記述」をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一  月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
といって、その典拠も明示せずに証言を実質的に改竄したのも同十四巻であり、昭和52年のことであった。
⑶ 筑摩書房が「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」であったと修辞し始めたのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。
⑷ そうとは言えそうもないのに「新発見」とかたって賢治書簡下書252c等を公表し、しかも推定は困難だがと言いながらも推定を繰り返した推定群を安易に公表したのもまた、昭和52年に同十四巻がであった。

  ㈠ 絶版回収事件
 よって、これだけのことが昭和52年にあったのだから、同年発行の『校本宮澤賢治全集第十四巻』はどうもおかしいと私は言わざるを得なくなってきた。そしてもしかすると、昭和52年頃の筑摩書房もまた少しおかしかったのでは、とも思われる。となれば、その頃の筑摩書房ではおそらく何かとんでもないことが起こっていたのではなかろうか、という不安さえもが私の脳裏をかすめた。
 そこで思い付いたのが、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という故事だ。危険を冒すとまでは言えないが、まずは虎穴に入ってみようと。すると、『筑摩書房』の社史を調べてみれば何かが分かるのではなかろうかと閃いた。筑摩書房の社史であるという『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)が入手できた。私は慌ただしく瞥見した。不安は的中した。
 一九七八(昭和五三)年に筑摩書房が「倒産」したとき…筆者略…
〈『筑摩書房 それからの四十年』(永江朗著、筑摩書房)85p~〉
とあり、昭和52年ではなかったがその翌年の53年に筑摩は「倒産」していたからだ。私の中で激震が走った。当時筑摩ではやはりとんでもないことが起こっていたのだ。そこで今度は落ち着いて同書を読み直してみた。すると、次のような、
 一九七〇年代の筑摩書房は、目先の現金ほしさに紙型新刊を乱発するなど、必ずしも「良心的出版社」とはいいがたい実態があったし、              〈同146p〉
とか、
 倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました。なかでも許しがたいのは「紙型再版」です。つまり、同じコンテンツの使い回し。紙型=印刷するときの元版を再利用して、あたかも新しい本であるかのように見せかけ、読者に売りつけようとしました。新世紀に入ると、食品偽装事件があちこちで発覚しましたが、紙型再版も似たようなものです。                   〈同348p~〉
という「思いもよらぬ」記述があったので私は愕然とした。一方で逆に、そういうことだったのかと腑に落ちた。
 それはもちろん、「「良心的出版社」とはいいがたい実態があった」とか、とりわけ、「倒産直前の筑摩書房は腐りきっていました」などということを、自社の社史に直截に書いてあったからだ。となれば逆に、もはやこれらのことは歴史的事実であったのだということになろう。しかも、昭和52年の筑摩書房はまさにその「倒産直前の筑摩書房」であり、しかも注意深く読めば、「腐っていました」ではなく「腐りきっていました」(傍点筆者)とある。そうか、昭和52年の筑摩書房は「腐りきって」いたのか、そこまでひどかったのか……私は言葉を失う。だから、先ほど掲げた⑴~⑷が起こっていたのか、と呆れながらも、理屈としては逆に成る程と納得も出来た。また一方で、これらの「思いもよらぬ」記述は筑摩ならではの厳しい自戒の念が書かしめたのだろうということも推察出来たので、気持ちは少し和らいだ。とはいえ、これ程までにひどかったのかと、ますます不安も募ってしまった。
 さらに同書には、「初めての絶版回収事件」という項もあった。これもまたとんでもないことだと直ぐ分かった。表現の自由が尊重される今の時代、「絶版回収」ということは滅多にないはずだからである。そして、これが「腐りきって」いた事例なのかと直感した。それは、この事件もまた、昭和52年に、まさにその「倒産直前」に起こっていたということになるからである。ちなみに、同項には次のようなことが述べられていた。
 一九七七(昭和五二)年、筑摩書房にとって初めての絶版回収事件が起きる。臼井吉見の長編小説『事故のてんまつ』である。この小説は『展望』の一九七七年五月号(四月刊)に掲載され、五月末に単行本として刊行された。
 作品は、川端康成の自殺を題材にしたモデル小説である。川端康成は一九六八(昭和四三)年に日本人初のノーベル文学賞を受賞したが、七二(昭和四七)年に自殺した。…筆者略…『事故のてんまつ』では、その動機についての臼井の考察が展開されている。
 しかし、小説の発表直後に、川端康成の遺族から刊行停止が求められ、東京地方裁判所に出版差し止めの仮処分申請が出された。筑摩書房は遺族側と話し合い、『事故のてんまつ』の絶版を決めた。取次や書店に残っている本は回収し、在庫は廃棄処分とした。これを受けて遺族側は申請を取り下げた。
 この件には、ふたつの問題点があった。ひとつは、故人のプライバシー権に関する問題であり、出版差し止め要求で全面に出たのはこれだった。もうひとつは、部落差別に関わる問題だった。 〈同109p~〉
 さて、昭和52年に「絶版回収」されたのであれば、それから40年以上も経ってしまった今、『事故のてんまつ』の入手は困難かなと思った。実際、それが載った『展望』の昭和52年5月号は入手出来なかった。ところが、単行本の方は容易に入手出来た。そして実際に同書を読んでみたならば、故人のプライバシー権や名誉毀損、そして差別問題に対する臼井の認識の不足が読み取れたので、これでは川端康成の遺族も憤りを感じたであろうことは私にも想像出来た。しかしこの内容であれば、遺族から出版差し止めの仮処分申請が出されるということまでは……と多少違和感もあった。
 そこで、改めて同書を読み直してみたならば、臼井はその「あとがき」の中で、
 本にするに当たっては、いたらなかった点に、朱筆を加えた。このことが、作品をいっそうひきしめることにもなると考えたからである。 〈『事故のてんまつ』(臼井吉見著、筑摩書房)204p〉
と述べていた。ということは、『展望』掲載版を単行本化する際に、臼井が大幅に書き変えた箇所があったに違いないと推測出来た。
 そのことを確認したかったので関連図書等を探してみたならば、〝「事故のてんまつ」――『展望』五月号と単行本の異同一覧〟という「疏明(そめい)資料」(『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)107p~)が見つかったので、「朱筆を加えた」箇所等が詳らかになった。ちなみに、それらは15項目ほどあり、これらが「いたらなかった点」であると臼井が認識していた事項ということになるのだろう。そしてそれらの中でも際立っていたのが、単行本においては完全削除されたという、『展望』5月号には載っていた野間宏と安岡章太郎の対談に関する次の部分である。
 野間 ……解放運動が水平社以来の中で、どういう成果を生んできたかというと、現在差別はなくなったと考える人が出るほど大きい成果を生んでいる。
 しかし、差別はきびしくあって、差別語さえ使わなければいいというところにとどまっている。だから、就職の差別も、いぜんとしてある。
…(以下の部分は、川端康成の名誉等に関わることも書かれているから、筆者略)…
 安岡 おかしいね。
対談のなりゆきから察すると、先生が部落とつながりがあるとしか思えない。どう読みかえしても、そうとしか、とりようがない。対談者の間に、暗黙のうち、その了解が通じているらしい話しぶりだ。
〈『証言「事故のてんまつ」』(武田勝彦+永澤吉晃編、講談社)110p~〉
 というのは、この「削除部分」の内容を読んだだけでも、臼井が故人となった川端の名誉を毀損し、差別を助長しているということが私にも分かったからだ。となれば、『展望』に掲載された改稿以前の『事故のてんまつ』を読んだ川端家の遺族が不快感を抱いたのはなおさらのことであったであろう。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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