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第二章 仮説を立てる(テキスト形式)

2024-03-21 14:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第二章 仮説を立てる

1 柳原昌悦の証言 
 そもそもの疑問の始まりは、『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』であった。同書はもちろん宮澤賢治の年譜(以降この年譜のことを「新校本年譜」と略記する)である。
 大正15年12月2日の通説
 「新校本年譜」において、大正15年12月2日については
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。        ………………○現
<「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
となっており、この註釈は次のようになっている。
*65 関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
<「新校本年譜」(筑摩書房)326p~より>
 私は、この註釈の仕方に驚きを禁じ得なかった。「…見られる」とか「…ことになっている」などという口跡が筑摩の『新校本宮澤賢治全集』にまさかあるなどとは考えたこともなかったからである。
 以前からの疑問
 ただし以前からこのことに関しては多少疑問を抱いていた。なぜならば、次の二つの間にある矛盾等が気に掛かっていたからだ。
 その一つは、『校本宮澤賢治全集第十四巻』所収の宮澤賢治の年譜(以降この年譜のことを「旧校本年譜」と略記する)の同日の記載事項、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
<註>「旧校本年譜」には「*65」に相当する註釈はない。
<『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)600pより>
であり、他のもう一つは『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」における澤里の次の証言
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(中略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。  
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
である。
 この二つの間にある矛盾等とは、まず第一に澤里の言うところの日付と「旧校本年譜」の日付とではおおよそ一年も違うことである。第二には、証言の中の「少なくとも三か月は滞在する」の部分が「同年譜」ではスッポリと抜け落ちていること。そして第三には、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」の部分に関してやはり「同年譜」では一切言及がなされていなかったことである。
 そしてこの二つを見比べてみて私は一抹の不安を抱いていた。それは、証言の一部は使い、一部は削除し、他の一部は無視するという証言の使い方がはたして如何なものなのだろうか、牽強付会であるという誹りを受けはしなかったのだろうかということを危惧したからである
 そこへもってきて、この「新校本年譜」の大正15年12月2日の註釈「*65」の仕方を新たに知って私はますます疑問が深まってしまったのであった。
 柳原昌悦本人の証言
 私が「ますます疑問が深まってしまった」大きな理由は実はも
う一つあった。「通説○現」の危うさを示唆するある証言を教わ
っていたからである。
 かつて私は、下根子桜で賢治と一緒に生活したことのある千葉恭なる人物のことを知りたくて実証的な宮澤賢治研究家菊池忠二氏を何度か訪ねていたが、その折同氏から「下根子桜時代」の賢治の上京に関して、
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。   ………………○柳
という証言を柳原昌悦本人から直接聞いている、ということを教わっていたからである。なお、この柳原の証言を菊池氏が聞いたのは、二人が同じ職場に勤めていた時であるという。
 さて、では柳原が言うところの「あの日」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば「通説○現」の
 セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
に対する日、すなわち大正15年12月2日であることは直ぐに判る。つまり、通説では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も澤里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚だった菊池氏に対して柳原が話したということになる。
 その後、菊池忠二氏から紹介していただいて同じく柳原と同僚だったT氏にもお会いすることができた。そしてT氏からも柳原の人となり等を教えもらって、柳原という人は極めて信頼に足る人だということをさらに私は確信できた。
 お聞きしたところによれば、T氏は仕事上のみならず、同氏の父と柳原が親しかったので公私ともにお世話になったと言う。そして、柳原は当時乗用車を持っていなかったがT氏はそれを持っていたので先輩柳原を乗せて賢治祭に出掛けたりするなど、私的な場面でも一緒に行動することが少なくなかったのだそうだ。そんな折に、柳原は控え目な性格なのだがたまに賢治のエピソード等をT氏に語ってくれたという。
 そこで満を持していた私はT氏に訊ねた。「下根子桜時代」の賢治の上京について、「実はあのとき俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのだ」ということを柳沢からお聞きなったことはございませんか、と。
 するとT氏は即座に「そんなことは聞いておりません」と返事した。ちょっとがっかりしたが、いや違う、これはまたこれで意味を持つのだと言うことに気付いた。
 柳原の証言の持つ意味
 というのは、柳原は先の証言「○柳」を誰彼の区別なく自慢げ
に吹聴していた訳ではなかった、ということをこのことから私は知ることができるからである。では、なぜ柳原はT氏には話さずに菊池氏だけには話したのかということについては、職場の同僚でありしかも熱心な賢治研究家でもある菊池氏に敬意を表し、かつ絆(ほだ)されて正直に話したということで説明が付く。
 このような思慮深い柳原のことだから、もしこの証言を出版物等において公にすれば「通説○現」は大きな矛盾を抱えてしまうということに当然気付いていたであろうから、先の証言「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。
 もしそんなことをすれば同級生の澤里の面目を潰すことになり、ひいては恩師賢治にも迷惑が掛かることになるかも知れぬということを柳原は危惧していたのだと私は推測する。柳原は、澤里とともに賢治から特に目を掛けられ可愛がられていたことを知っていたはずだからなおさらだったと思う。
 実際、賢治が澤里と柳原に特に目を掛け、可愛がっていたことは次の二つの事柄からも容易に窺える。その一つ目は、「文語詩篇ノート」の大正14年四月のメモとして
   四月 柳原、高橋組入学
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)537pより>
という記載があることからである。賢治はこの二人をこの年度の入学生の代表だと認識していたことが判る。
 その二つ目は、賢治から澤里武治に宛てた書簡「243」であり、その手紙の末尾に賢治は
   柳原君へも別に書きます。
<『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)15pより>
と書き添えていることからである。
 これらの二つの事柄から、賢治はとりわけ柳原と澤里に目を掛けていたということだけでなく、後者の添え書きからは澤里自身も、そして同じように柳原自身もことのほか賢治からは可愛がられ信頼されていたということをともに敏感に感じ取っていたであろうことも、また容易に汲み取れる。
 さらには、柳原の場合は例の「賢治からの最後の手紙」をもらったのは自分であるということも知っていたはずだから一入であったであろう。それゆえ、先にも述べたように柳原は証言
「○柳」を公にすることを憚っていたに違いない。しかし、実は
柳原がそのようなことを憚る必要は全くなかったのであり、その訳はこの拙書を読んでいってもらえれば納得していただけると思っている。また、そのことを訴えたいが為の本書でもある。
 驚きの註釈「*67」
 そんな柳原の証言を菊池忠二氏から教わった矢先に知った「新校本年譜」の註釈「*65」であったので、私は大変驚いたのであるが、同頁の註釈「*67」を見て、またまた驚いてしまった。その註釈には次のように
*67 セロを持ち上京する賢治を見送った高橋(のち沢里)の記憶の他に、柳原昌悦も同様の記憶をもっており、昭和二年にもう一度セロを習いに上京したことがあったかとも考えられるが、断定できない。
      <「新校本年譜」(筑摩書房)327pより>
と記述されていたからである。
 先の澤里の証言の方は理由も明らかにせずに日にちは変えて別の日と断定しているのに、柳原のこのような証言については「断定できない」という。これでは断定の仕方に公平さが欠けているのではなかろうか。
 そしてそもそも、「柳原昌悦も同様の記憶をもっており」と記述していながらその出典は明らかにしていない。ちょっと思わせぶりだと言われないだろうか。
 新校本全集十五巻校異篇の註釈
 実は、この「*67」の末尾には次の一言、
  本全集一五巻校異篇一二三頁*5参照
が続いている。
 そこで、もしかすると柳原の「記憶」の出典等がそれこそそこに明記されているのではなかろうかと期待しつつ、指定の頁を見ると次のようなことが記されていた。
それは本来は 宮澤政次郎宛書簡「221」の中の「新交響楽協会」ついての註釈であり、例の「三日間のチェロの特訓」に関連するものであった。
*5 新交響楽協会……新交響楽団。大正十四年三月に山田耕筰・近衛秀麿らによって結成された日本交響楽協会は、十五年九月早くも分裂し、十月五日近衛は新交響楽団を結成。練習所は東京コンサーヴァトリー。大津散浪(三郎の筆名)「私の生徒 宮沢賢治~三日間セロを教えた話~」(「音楽之友」昭和二十七年一月号)によれば、賢治はこの上京時、同楽団のチェリスト大津三郎に頼んで江原郡調布村字嶺の大津宅に通い、三日間早朝二時間のチェロのレッスンを受けた。ただしこれは、大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。さらに沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつのに対し、柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』
(筑摩書房)123pより>
 ということで、実質的には先の「*67」の内容と似たり寄ったりでなおかつ出典も明らかにされていなかったので、私はちょっと肩すかしを食ってしまった感じがした。
 二人の教え子の「記憶」
 それはそれとしても、新たに驚いてしまったことが二つそこにはあった。そのまず第一は
 沢里武治が大正十五年十二月の上京時に一人で賢治を見送った記憶をもつ
の部分にである。
 一体この「記憶」の出典は何なんだろうか。私の管見故か、そのような証言や資料は聞いたことも見たこともない。私が知る限りにおいては
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がするが、その十一月の霙の降る寒い日に、「澤里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ」と言い残して上京する賢治を澤里一人が見送った。
というような内容の「記憶」しか澤里武治は持ち合わせていなかったと思っていた。
 その第二は、註釈「*5」の次の部分
 柳原昌悦もチェロを携えた賢治の上京を送った記憶を別にもっている。
にである。一体この柳原の場合の「記憶」の出典は何なんだろうか。澤里の場合と同様私は見たことも聞いたこともない。
 先にも触れたように、このことに関して私が知っている柳原の証言は、菊池忠二氏が直接柳原本人から訊いたという
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれ
ていていないことだけれども。  ………………○柳
という証言しか知らない。もちろんこの証言においては、見送る際に賢治はチェロを携えいたなどとは言っていないことにも注意せねばならない。その他にも、見送った際に賢治がチェロを携えていたなどという他の柳原の証言も私は知らない。
 願わくば、典拠を明らかにせず、しかも一般読者にはそれに対応するような典拠を探し出せない、先のような表記は避けていただきたかった。もし事情があってその時点では典拠を読者に明らかにできないというのであれば、その時点では活字にしないでいただきたかった。
 また、『旧校本全集』で「昭和二年にもう一度あったとも考えられるが」と問題提起をして、なおかつ「断定できない」と断り書きをしている以上、当然関係者はそのことを次回への大きな課題だと認識していなかった訳はなかろう。
 また、
  書簡篇『旧校本全集十三巻』の発行は昭和49年
  年譜篇『旧校本全集十四巻』の発行は昭和52年
 『新校本第十五巻書簡校異篇』の発行は平成7年
  『新校本第十六巻(下)年譜篇』の発行は平成13年
であり、
  柳原昌悦(明治42年~平成元年2月12日没)
  澤里武治(明治43年~平成2年8月14日没)
なので時間的にはかなりの余裕があったはずだから、『旧校本全集』発行~『新校本全集』発行の間に調べようとすればかなりの程度のことを澤里や柳原本人からも聞き出せたと思う。
 ところが現実は、この『新校本全集第十五巻書簡校異篇』の註釈「*5」は、『旧校本全集第十三巻』の註釈と番号まで含めてまったく同じものであり、一言一句変わっていない。何も進展していなかったのである。何も進展がなかったということは、為すべきことが為されていないことの証左であるということにはならないだろうか。残念である。
 まあ、澤里からの聞き取りに関しては関登久也が既に行って「澤里武治氏聞書」という形で公にしているから措くとしても、一方の柳原の先の「記憶」については極めて重要な意味合いを持つ訳だから、柳原本人からしっかりと聞き取ってその真相を『新校本全集』では読者に明らかにしてほしかった。
 活字が真実とは限らない
 さて私という人間はあまりにも単純で、活字になっているものは動かすことのできない正真正銘の真実であるとつい思い込んでしまって、そのまま受け入れてしまいがちであった。
 しかし、著名な何人かの賢治関連の著作の中にさえもそうではないものがあることを知ったし、賢治の詩の中にも(詩だから当たり前のことではあるのだが)虚構があるということも知った。したがって、私は賢治にまつわる「真実」といえどもそれは検証されたものでなければ賢治の伝記に関しては資料とはならないということを学んだ。活字となっているからといってそれが真実とは限らない、と。
 そして一方では、その証言が「何を言ってるか」だけではなくてそれ以上に「誰が言ってるのか」という点にも心しなければならないということも学んだ。賢治に関することや賢治周辺の人物を知っている人の何人かから、賢治周辺の人々が語っていることをそのまま鵜呑みにすることは危険だぞとアドバイスされたからだ。遅まきながらやっと、
  「何を言ってるか」ではなくて「誰が言ってるか」
ということもその証言の信憑性を左右する鍵になるのだということが分かってきた。その人の人柄なども併せて判断せねばならぬのだと。
 澤里の人柄
 では、澤里武治の人柄はどうであったであろうか。澤里武治の長男裕氏からは、
 近しい人に対しては別として、父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。一方、家庭内では興が乗ると賢治の真似をし、身振り手振りよろしく賢治の声色を真似て詩を詠ったものだったが。
という人物であったということを私は教わった。澤里武治は賢治に畏敬の念を抱き、かつ心酔していたことが解る。賢治が有名になっていくにつれて、それまでは賢治に関して黙していたのだが次第に社会的に多弁になっていったというような人が居たかもしれないが、澤里は少なくともそのようなタイプの人物ではなかったであろうと判断できる。
 また、澤里武治は
 昭6徴兵検査で第二乙種。9月賢治が来訪した際、途中の遠野駅まで迎えに出て、そこから車中で「風野又三郎」の「どっとどどどう」の歌の作曲を命ぜられた。苦心したがついに成らず、花巻の家へ訪ねてその旨を報告した折の賢治の落胆に反省し、専攻科へ入った。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)729pより>
のだそうだ。真面目で律儀な人物であったということが窺える。
 あるいはまた、『賢治小景』の著者板谷栄城氏は澤里の人柄を偲ばせてくれる次のようなエピソードを紹介していた。
 NHK仙台の「賢治ファンタジー」というテレビ番組のために、遠野の料亭で賢治の教え子沢里武治氏を取材したときのことです。
 南部遠野家の重臣の末えいで、古武士の風格がある沢里氏は背筋をピンと伸ばし、「私にとって賢治先生は神様です!不肖の弟子の私に、神様を語る資格はありません!」と言ったきり口をつぐんでしまいます。
<『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)148pより>
 このことを知って、澤里武治は如何に賢治のことを崇敬していたかということが納得できたし、同時に、一方で断固とした信念と気骨の持ち主であるということも分かった。
 したがって、以上のような澤里の人柄からすれば、「大正15年12月2日に上京する賢治をひとり見送」った日のことを「どう考えても昭和2年11月ころのみぞれの降る日」と敢えて偽るよなうな人とは到底思えない。やはり澤里としては、「どう考えても昭和2年11月頃のみぞれの降る日」に賢治をひとり花巻駅で見送ったとしか思えなかったのではなかろうか。

2 仮説の定立
 さてこれで、澤里も柳原もともに信頼に足る人物だということを私は確信した。したがって二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人間とは思えない。 
 二人の証言と「現通説」
さて、賢治の最愛の教え子の一人澤里武治の次の証言
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見
送りしたのは私一人でした。     ……………○随
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
があり、もう一人の最愛の教え子柳原昌悦の次の証言
 一般には澤里一人ということになっているが、あのときは俺も澤里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていていないことだけれども。    ……………○柳
がある。
 一方で、このことに関する「現通説」はもちろん「新校本年譜」
大正15年12月2日にあるように
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見
送る。               ……………○現
<「新校本年譜」(筑摩書房)325pより>
ということになっている。となると、矛盾を抱えたように見え
るこれら「○随」「○柳」「○現」の関係はどのように解釈すればい
いのだろうか。
 このことに関して私は次のように解釈している。
 そのためにまず確認しておきたいことは、
◇澤里も柳原もともに信頼に足る人物だと確信できるから、二人とも賢治に関することをわざわざ偽るような人間とは思えない。
ということである。したがって、「○随」も「○柳」もともに事実を
正直に語っていると判断できる。
 すると「○柳」から、あの日に澤里と柳原は一緒に上京する賢
治を見送った、ということが導ける。そして柳原が言うところ
の「あの日」とは「○現」の日付「大正15年12月2日」に他ならない。
 したがって、
◇大正15年12月2日、澤里と柳原は上京する賢治を一緒に見送った。           ……………①
ということになるが、これは歴史的事実と考えられる。一方
「○随」より、
◇昭和2年11月頃の霙の降るある日、上京する賢治を澤里はひとり見送った。       ……………②
も同様に歴史的事実と考えられる。もちろんこう解釈すれば、澤里の証言と柳原の証言の間に何ら矛盾は生じないし、この解釈はかなり素直な解釈でもある。
 ところがこう解釈すると、「通説○現」との間には矛盾が起こ
るではないかと指摘する人があるかもしれないが、それはない。ここで誤解してはならないことは、何も澤里は霙の降る大正15年12月2日に賢治をひとり見送ったと証言している訳ではないからである。また澤里は大正15年12月2日に賢治を見送っていない、とももちろん言っていなのである。したがって、ここは柳原の言うとおりであるとして一向に構わず、何ら矛盾は生じないことになる。
 一方では、「新校本年譜」は「理由」も明示せずに「通説○現」の
日を
 ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を大正一五年のことと改めることになっている。
と宣言している。だから矛盾の根元はそこにあると私は言わざるを得ないし、「宮澤賢治年譜」担当者におかれましては是非ともその「理由」を我々読者に対して明示して欲しかったし、これからでもいいからそうして欲しいものである。
 がしかし、その「理由」を現時点では知る術もない私とすれば、その宣言の妥当性も理解できないがゆえに①と②はともに真実
のはずであり、まずは
  宮澤賢治は昭和2年の11月頃に上京した。
と結論せざるを得ないのである。
 仮説「♣」定立
 そこで、私は澤里の証言「○随」等に基づいて次のような仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。               ………………♣
を定立したい。
そして、今後はその検証をしばし試みたい。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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