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第六章 大正十五年上京の真実(テキスト形式)

2024-03-23 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第六章 大正十五年の上京の真実
 
 前章までの検証によって仮説「♣」はほぼ正しいと確信できたので、私は今後この仮説の反例が見つからないうちは、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♧
は歴史的事実であったとし、記号も「♣」から「♧」と改め、
  「♧」は賢治の真実である。
として今後話を進めてゆきたい。
 そして、この章以降からは賢治の真実「♧」を踏まえて、もう一度「宮澤賢治年譜」の幾つかを見直しながら私見を述べていきたい。

1 私見・大正15年12月2日の真実
 さて、これで「♧」は賢治の真実となったから、このことを受けて「新校本年譜」の大正15年12月2日は訂正されねばならないことになるし、昭和2年11月頃のある日のこととして追加されねばならないことが生ずる。
 12月2日についての証言
 既に、「宮澤賢治年譜」大正15年12月2日の記載内容すなわち「通説○現」の典拠は関登久也著『賢治随聞』所収の「沢里武治氏聞書」であることを先に明らかにした。そしてその中身は次のようなものである。
 (a) 「沢里武治氏聞書」
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった。また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
(傍線 〝   〟筆者)
<『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
 ところでこの「沢里武治氏聞書」を所収している『賢治随聞』の出版は昭和45年であるが、この「沢里武治氏聞書」とほぼ同じ内容の『宮澤賢治物語(49)、(50)』があり、それは昭和31年の『岩手日報』に連載されたものである。そして、その中身は以下のようなものである
 (b)『宮澤賢治物語(49)、(50)』
     宮澤賢治物語(49) セロ(一)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しており
ません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
 もう先生は農学校の教職もしりぞいて、根子村で羅須地人協会を設立し、農民の指導に力を注いでおられました。またご自身あらゆる学問の道に精進されておられました。
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられたいました。
 その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送りは私ひとりで、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒い腰かけの上に先生と二人ならび汽車を待っておりましたが、先生は
『風邪をひくといけないから、もう帰って下さい。おれは一人でいいんです』
 再三そう申されましたが、こん寒い夜に先生を見すてて先に帰るということは、何としてもしのびえないことです。また一方、先生と音楽のことなどについて、さまざま話し合うことは大へん楽しいことです。間もなく改札が始まったので、私も先生の後について、ホームへ出ました。
 乗車されると、先生は窓から顔を少し出して
『ご苦労でした。帰ったらあったまって休んで下さい』
 そして、しっかり勉強しろということを繰返し申されるのでした。
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
 また、この続きは翌日の『岩手日報』に連載されていて
   宮澤賢治物語(50) セロ(二)
 この上京中の手紙は大正十五年十二月十二日の日付になっておるものです。
 手紙の中にはセロのことは出てきておりませんが、後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
<昭和31年2月23日付『岩手日報』より>
(傍線 〝   〟いずれも筆者)
と続いている。
 こうして、(a)と(b)の傍線 〝   〟部を見比べてみれば両者の内容は同一であるし、これらの出版時期等を踏まえれば
(a)の出典は(b)である。
ことが明らかである。一方で、既に「通説○現」の出典は(a)であるということがはっきりしているから、結局は
  「通説○現」の本来の出典は (b)である。
ということになる。
 12月2日に関わる修訂
 したがって、(b)すなわち『宮澤賢治物語(49)、(50)』を典拠としている以上は、次の現在の通説、
 大正一五年
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそってい
た。                ……………○現
は成り立たなくなるのではなかろうか。なぜならば、(b)はこの日のことについては何一つ語っていないからである。あくまでも(b)が証言していることは、昭和2年の11月頃の霙の降るある日のことである。なお、これは(a)の場合においても同様である。
 したがって、「宮澤賢治年譜」には次のような二つの修訂が必要ではなかろうか。
 まずその一つ目は、大正15年12月2日についてせいぜい言えることは、柳原の証言に基づいて
一二月二日(木) 上京する賢治を柳原も澤里も見送ったと見られる。
ということである。もちろんこの際に賢治はチェロを携え上京した訳ではないし、はたして霙が降っていたかどうかもわからないはずである。
 その二つ目は、「宮澤賢治年譜」には次の事項を新たに付け加えなければならないというものである。
 昭和二年のこととして
一一月頃 チェロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
 すなわち大正15年12月2日の「通説○現」に
  少なくとも三か月は滞在する
を付け加えた上で、昭和2年の11月頃の霙の降る日の出来事ととしてここに移動させなければならない。
 以上のような二つの修訂が必要なのではなかろうか。
2 私見・大正十五年の上京
 さて、では今度は大正15年の賢治の上京に関して再度見直しながら私見を述べゆきたい。
 大正15年12月の上京費用
 まず、賢治はどのようにしてこの時の上京・滞京費用を工面したかだが、私は次のような三つを考えている。
  ・蓄音器の売却代
  ・持寄競売売上金
  ・父からの援助
 それぞれについて少しく説明を付け加えれば、
《蓄音器の売却代》
 次のような千葉恭の2つの証言が残っている。
・蓄音機で思ひ出しましたが、雪の降つた冬の生活が苦しくなつて私に「この蓄音機を賣つて來て呉れ」と云はれました。その当時一寸その辺に見られない大きな機械で、花巻の岩田屋から買つた大切なものでありました。「これを賣らずに済む方法はないでせうか」と先生に申しましたら「いや金がない場合は農民もかくばかりでせう」と、言はれますので雪の降る寒い日、それを橇に積んで上町に出かけました。「三百五十円までなら賣つて差支ない。それ以上の場合はあなたに上げますから」と、言はれましたが、…(中略)…「蓄音機買つて呉れませんか」私は思ひきつてかう言ひますと、岩田屋の主人はぢつとそれを見てゐましたが「先生のものですなーそれは買ひませう」と言はれましたので蓄音機を橇から下ろして、店先に置いているうちに、主人は金を持つて出て來たのでした。「先に賣つた時は六百五十円だつたからこれだけあげませう」と、六百五十円私の手に渡して呉れたのでした。私は驚いた様にしてゐましたら主人は「…先生は大切なものを賣るのだから相当苦しんでおいでゞせう…持つて行って下さい」静かに言ひ聞かせるように言はれたのでした。私は高く賣つた嬉しさと、そして先生に少しでも多くの金を渡すことが出來ると思つて、先生の嬉しい顔を思ひ浮かべながら急いで歸りました。「先生高く賣つて來ましたよ」「いやどうもご苦労様!ありがたう」差出した金を受け取つて勘定をしてゐましたが、先生は三百五十円だけを残して「これはあなたにやりますから」と渡されましたが、私は先の嬉しさは急に消えて、何だか恐ろしいかんじがしてしまひました。一銭でも多くの金を先生に渡して喜んで貰ふつもりのが、淋しい氣持とむしろ申し訳ない氣にもなりました。私はそのまゝその足で直ぐ町まで行つて、岩田屋の主人に余分を渡して歸つて來ました。三百五十円の金は東京に音樂の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました。岩田屋の主人はその点は良く知つていたはずか、返す金を驚きもしないで受け取つてくれました。
 東京から帰つた先生は蓄音機を買ひ戻しました。
<『四次元9號』(宮澤賢治友の会)21pより>

・金がなくなり、賢治に言いつかつて蓄音器を十字屋(花巻)に売りに出かけたこともあつた。賢治は〝百円か九十円位で売つてくればよい。それ以上に売つて来たら、それは君に上げよう〟と言うのであつたが、十字屋では二百五十円に買つてくれ、私は金をそのまま賢治の前に出した。賢治はそれから九十円だけとり、あとは約束だからと言つて私に寄こした。それは先生がとられた額のあらかた倍もの金額だつたし、頂くわけには勿論行かず、そのまま十字屋に帰し(<ママ>)て来た。蓄音器は実に立派なもので、オルガン位の大きさがあったでしよう。今で言えば電蓄位の大きさのものだった。
<『イーハトーヴォ復刊5』(宮沢賢治の会)11pより>
である。
 はたして、賢治が自分の蓄音器を千葉恭に売りに行かせたことが2回あったのか、それとも千葉恭の記憶違いなのか現時点では明らかになっていないが、少なくともどちらかの1回はあったと判断してほぼ間違いなかろう。
 そして、賢治がこの蓄音器の売却代を上京・滞京費用の一部にしたであろうことはこの中の「三百五十円の金は東京に音楽の勉強に行く旅費であつたことがあとで判りました」という千葉恭の証言からほぼ事実であろうことが判る。
《持寄競売売上金》
 この「持寄競売」については協会の会員高橋光一の次のような証言がある。
・「東京さ行ぐ足(旅費)をこさえなけりゃ…。」などと云って、本だのレコードだのほかの物もせりにかけるのですが、せりがはずんで金額がのぼると「じゃ、じゃ、そったに競るな!」なんて止めさせてしまうのですから、ひょんたな(變な)「おせり」だったのです。
<飛田三郎著「肥料設計と羅須地人協会(聞書)」(『宮澤賢治研究 宮澤賢治全集別巻』、筑摩書房、284p~)より>
そして同じく会員の伊藤克己の次のような証言もある。
・また或日は物々交換會のやうな持寄競賣をやつた事がある。その時の司會者は菊池信一さんであの人にしては珍しく燥いで、皆を笑はしたものである。主として先生が多く出して色彩の濃い繪葉書や浮世繪、本、草花の種子が多かつたやうである。
<伊藤克己著「先生と私達―羅須地人協会時代―」(『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)、396p)より>
 ところで、どうして私が「持寄競売」売上金を賢治は上京費用の一部にしたと判断したのかというと、上京10日前の11月22日に賢治が「これを近隣の皆さんに上げて下さい」(「地人協會の思出(一)」(『イーハトーヴォ第六號』(宮沢賢治の會)3pより))と言って伊藤忠一に配布を頼んだ案内状の中にこの「持寄競売」に関して具体的に書かれているからである。
 さらには、このような「持寄競売」を他日にも行ったという証言は残っていないから、この周知を図った「持寄競売」には何等かの特殊な狙いがあったと考えられる。なおかつ何と賢治は「持寄競売」を行った翌日に即上京しているからである。となればそこに狙いがあったんだということになるのではなかろうか。
《父からの援助》
 次のような、父政次郎宛書簡の中にある
220〔大正15年12月4日〕
…小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
222〔同年12月15日〕
…図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰ってはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。
…今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。
<いずれも『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
というような父に対する賢治の報告や懇願を踏まえれば、この上京に際して賢治は事前に父に相談しているし、父から小林六太郎との商売(香水や粉石鹸)の打ち合わせを頼まれていたであろうことが分かるので、相応の額の援助を父から受けていると考えられる。また、上京後に父に無心した二百円は最高級のチェロ購入代金ということもあり得る。
 なお、花巻農學校の退職金五百二十円(詳細は後述)を懐にして上京したということも考えられるが、それだけのお金があれば蓄音器などは売らなかっただろうから、この退職金はこの上京の際にはまだ県からは貰っていなかったであろうと判断できる。
 「賢治年譜」大正15年12月2日
 さて先にも主張したように、「宮澤賢治年譜」の大正15年12月2日の私見は
一二月二日(木) 上京する賢治を柳原も澤里も見送ったと見られる。
であり、その際に賢治はチェロを持たずに上京したとすることの方が合理的である。
一般には、この日に賢治はチェロを持って上京したということになっているのが「現通説」であるが、この件に関しては訂正が必要であろう。それは、何も澤里がそう言っていないからという理由だけではない。
 仮に、「新校本年譜」大正15年12月2日の記載において、
   セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
であるとするならば、この上京の大きな目的の一つに「チェロの学習」があったということになるはずである。
 ところが、この滞京中に賢治が政次郎に宛てた書簡「222」は先にその一部を引用したが、その全文は次のとおりであり、
  大正十五年
222 〔十二月十五日〕宮澤政次郎あて 封書
 《表》岩手県花巻川口町 宮沢政次郎様
 《裏》東京ニテ 賢治拝 〔(封印〕〆
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
図書館の調べものもあちこちの個人授業も訪問もみなその積りで日程を組み間代授業料回数券などみなさうなって居りましていま帰ってはみな半端で大へんな損でありますから今年だけはどうか最初の予定の通りお許しをねがひます。それでもずゐぶん焦って習ってゐるのであります。毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校数寄屋橋の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。一時間も無効にしては居りません。音楽まで余計な苦労をするとお考へではありませうがこれが文学殊に詩や童話劇の詞の根底になるものでありまして、どうしても要るのであります。もうお叱りを受けなくてもどうしてこんなに一生けん命やらなければならないのかとじつに情なくさへ思ひます。
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればまたわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。けれどもいくらわたくしでも今日の時代に恒産のなく定収のないことがどんなに辛くひどいことか、むしろ巨きな不徳であるやうのことは一日一日身にしみて判って参りますから、いつまでもうちにご迷惑をかけたりあとあとまで累を清六や誰かに及ぼしたりするやうなことは決していたしません。わたくしは決して意思が弱いのではありません。あまり生活の他の一面に強い意思を用ひてゐる関係から斯ういふ方にまで力が及ばないのであります。そしてみなさまのご心配になるのはじつにこのわたくしのいちばんすきまのある弱い部分についてばかりなのですから考へるとじっさいぐるぐるして居ても立ってもゐられなくさへなります。どうか農具でも何でもよろしうございますからわたくしにも余力を用ひて多少の定収を得られるやう清六にでも手伝ふやうにできるならばお計ひをねがひます。それはまづ今月末までにでもご相談くださればできなくても仕方ありません。まづは。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
となっている。
 これで明らかなように、タイプライター、オルガン、エスペラントのそれぞれの学習についての報告はあるものの、チェロの学習に関しての報告は一切出てこないだけでなく、セロの「セ」の字さえも出てこないことが判る。そしてそれは、この滞京中に賢治が出した他の書簡の中でも同様であってチェロに関しての記載は一切ない。
 これらの書簡を基に素直に考えれば、この時の上京に際しては初めのうちはチェロのことなど賢治の眼中に全くなかったと考えられる(以上が、先に私が「何も澤里がそう言っていないからという理由だけではない」と述べたがそのことへのさらなる回答でもある)。
 それにもかかわらず、「新校本年譜」が大正15年12月2日について
  一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
と、「セロ」を記載するこだわりを持つのは何故なのだろうか。私が調べた限りではここに「セロ」を書き入れる根拠は何ら見つからない。理由もわからない。
 ところで、佐藤泰平氏は『宮澤賢治の音楽』において、宮澤清六から聞いたこととして、
 兄がいつ、どのようにして、どの店からセロを買ったのか、全く知らなかったとのことである。
<『宮沢賢治の音楽』(佐藤泰平著、筑摩書房)215p~より>
と述べている。あわせて、佐藤氏は続けて
 もちろん父親も。それゆえに上京時にセロを持参し、レッスンを受けたことなど当然知らなかった。賢治がセロを持っていることを父親が知ったのは、賢治が病気になって実家に帰った以後だったそうである。
<『宮澤賢治の音楽』(佐藤泰平著、筑摩書房)215p~より>
という父政次郎の証言も同書で紹介しているので、ますます「セロ」を記載する「宮澤賢治年譜」のこのこだわりが理解できなくなる。誰一人として、大正15年12月2日にチェロを持って花巻駅から賢治が旅立ったなどとは言っていないだけでなく、清六も政次郎も賢治のチェロに関しては殆ど知らないと語っているのに、なぜ無理矢理
  一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。
(傍点筆者)
として「セロを持ち」にこだわっているのだろうか、不思議でならない。私達の知り得ない何等かの事情でもそこにはあったのだろうか。

3 私見・「二百円」の無心とチェロ
 さて、ここからは、書簡「221」、「222」等を基にして以下のような新たな思考実験を試みたい。
 オルガンからチェロへ
 まずは、大正15年年12月12日付政次郎宛の書簡「221」の中で
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と賢治はしたためていることから、
・大正15年の上京の大きな目的の一つはオルガン演奏の弱点克服のための指導を受けること。
があったことが分かる。さらには、
・その指導を受けるために賢治は新交響楽協会へ行った。
・そして先生の前で教本の十六頁分、オルガンを弾いてみせた。
・先生は「全部それでいゝ」といってひどくほめてくれた。
・そこで賢治は「もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです」と父に伝えた。
ということも書かれている。
 しかし、当然ここで二つの疑問が生ずる。それは第一に
 はたして先生は本当に賢治のオルガンの演奏技能をひどく誉めたのだろうか。
という疑問であり、第二には
 賢治自身も自分のオルガン演奏技能が先生からひどく誉められたと真実思ったのだろうか。
という疑問である。そしてそれぞれに対する答は次のようなものになるのではなかろうか。
 まず前者についてだが、以前に触れた藤原嘉藤治の評価
 賢治のオルガンの演奏技能について「まったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした」と証言している。
に従わざるを得ないことになったので、
◇新交響楽協会のプロの先生の前で実演してみせた賢治のオルガン演奏だが、それを聴いた先生はあまりにも未熟すぎる賢治のその演奏に対して言葉がみつからず、賢治が書簡にしたためたように、「全部それでいゝ」としか言えなかった。
が事の真相だったであろう。
 そして後者については、
◇賢治自身はこう書簡にしたためてはいるものの、賢い賢治のことだから、自分のオルガンの腕前がプロの目からどれほどの評価をされたのかは瞬時に覚らざるを得なかった。もちろん賢治がこのときばかりは極めつけの鈍感力を発揮したという可能性も否定しきれないが、あれだけクラシックが好きだった賢治がその時の先生の表情や言い方からして自分の技能の未熟さを覚らない訳がない。プロの先生の前でオルガンを演奏してみせた賢治ではあったが決定的なダメージを受け、自信喪失、オルガンの才能が実は自分にはないのだとこの時賢治は見切った。
というところが真相だったのではなかろうか。
 考えてみれば、大正15年という年は、賢治の地元岩手では旱魃の被害が甚大で特に隣の紫波郡の赤石村、不動村、志和村等
は飢饉一歩手前の惨状に追い込まれていたので、連日その報道が新聞紙上を賑わしていた。そしてそれを救わんとして多くの人々が陸続として義捐活動に駆けつけたりしていること等もまた連日のように報道されていた。
 そのようなさなか、一人賢治は悲惨な状況下にある地元を離れて大金を使って上京している手前
 十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
と父政次郎には言わざるを得なかった。しかしそう言ってはみたものの賢治は惨めな気持ちにおそわれ、内心忸怩たる思いであったであろう。
 父には内緒で密かに下根子桜で独習してきたオルガンであったがそれほど腕前は上達していなかった。そして、「先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」と書簡で嘯いてはみたものの、先生が「ひどくほめてくれた」訳でないことは賢治自身が一番良く知っていた。こうやってまで取り繕って父に報告している自分があまりにも哀れで惨め。このままじゃまずい、これからどうしようと思い巡らした。
 そしてそこは天才賢治の面目躍如、天才は決断も早くて果敢であるが、一方では諦めるのも早い。オルガンが下手なのは自分にはその適性がないだけ、今後はオルガンはぼちぼちにして別な楽器を新たに学ぼう。では、自分に適性がある別の楽器は何だろうかと賢治は考えた。そこで思い付いた、そうか自分には嘉藤治もやっているチェロがもしかすると合っているかもしれない、いや合っているはずだ。嘉藤治ができるなら俺にやれないはずはない。これからはチェロだ! と。
 「二百円」の無心
決断も早くてせっかちな天才賢治、そう思い付いたら矢も楯もたまらずチェロが欲しくなった。さりとて、ヴァイオリンなどと違って前述したようにチェロは高価すぎる。まして賢治は欲しいとなれば最高級品を手に入れたがるのが常である。
 実際、横田庄一郎氏の『チェロと宮澤賢治』(音楽之友社、57p~)によれば、賢治が購入したチェロ一式の値段は一八〇円(チェロ箱も入れれば二三〇~二四〇円)もしたようだ。なおこの価格は、藤原嘉藤治が「で、そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました」と証言している(『宮沢賢治第5号』(洋々社22p)の「思い出対談」より)こととも符合する。いずれにしても相当高額であり、賢治はどうやってこのセロを購ったのだろうか。
 そもそも、この滞京期間中の賢治には収入のあてなどは一切なく、しかも多額の支出(滞京費や授業料)を要したはずだからこのような高額のセロ一式を手に入れることができたとは到底考えられない。一体全体そんな高額の費用をどうやって調達できたというのだろうか…やはりあれしかない。あの書簡で無心した「二百円」の他にない。
 その書簡の一つは、政次郎宛書簡「222」〔(1926年)十二月十五日〕
今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。申しあげればわたくしの弱点が見えすいて情けなくお怒りになるとも思ひますが第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして修繕にやるうちどうせあとで要るし廉いと思って新らしいのを買ってしまったりふだん着もまたその通りせなかゞあちこちほころびて新らしいのを買ひました。授業料も一流の先生たちを頼んだので殊に一人で習ふので決して廉くはありませんでしたし布団を借りるよりは得と思って毛布を二枚買ったり心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買ってしまひおまけに芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。どうか今年だけでも小林様に二百円おあづけをねがひます。
であり、もう一つが次の同じく父宛の書簡「223」〔十二月二十日前後)
次に重ねて厚かましくは候へ共費用の件小林氏御出花の節何卒二百円御恵送奉願度過日小林氏に参り候際御葉書趣承候儘金九十円御立替願候
<ともに『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
である。
 したがって、賢治は15日付書簡「222」で一度「二百円の無心」をし、その約5日後の書簡「223」において重ねてその無心をしていることになる訳だからこの大金「二百円」はどうしても欲しかった、この時期にこそ是非欲しかったものと考えられる。
 しかも後者の書簡からは、その「二百円」が届かぬうちに賢治は小林六太郎に九十円を立て替えてもらったことも判る。もしかするとその「九十円」とは、この「二百円」で買いたかった品物の頭金だったということも考えられる。せっかちな性格の賢治のことなれば、何しろ賢治はそれがいち早く手に入れたかったのかもしれない。
 何か変である
 こんなことを考えながら書簡「222」を読み直していたら、次の部分何か少し変である。
 毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰ってタイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会とまはって教はり午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
 そこでこの書簡「222」の記載に基づいて、上京中の賢治の一日の行動パターンを地図上で確認してみたいと思ったので、【宮澤賢治の東京における足跡】(『賢治地理』、小沢俊郎編、學藝書林133p)を参照しながら辿ってみると、
 上州屋(賢治の下宿先)→図書館(上野図書館、日比谷図書館)に午後2時迄→タイピスト学校(YMCA)→交響楽協会(塚本ビル)→午後5時頃に丸ビル旭光社(エスペラント)→上州屋(賢治の下宿先)
となる。なお、もしこの時賢治が大津宅にチェロを習いに行っていたとすれば、朝いの一番に大田区千鳥町(大津三郎宅)まで出掛けて行って朝6時半~8時半迄特訓を受けていたことになる。
 それにしても、このパターンだと図書館にいる時間が一番長く、そこを午後2時に出て午後5時に丸ビルに行くとするとその間は3時間。その間の3時間が移動時間を含めてタイプライターとオルガンの練習時間となることになる。これじゃそれぞれの練習にそれほどの時間を割けないなと思いつつ、あることに気付いた。
 12/12付書簡「221」では「十日はそちらで一ヶ年の努力に相当した効果」を「エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…」で得たというようなことを書いていたから、
  :エスペラントとタイプライターとオルガンと図書館と…
並んでいるのに、どうして
 12/15付書簡「222」の方では、
  :図書館…タイピスト学校、数寄屋橋側の交響楽協会…エスペラント…
となっているんだろうかということにである。
 つまり、書簡「221」でも「222」でも図書館、タイプライター、エスペラントのことは顕わに書いているのに、なぜオルガンに関しては前者にはあるのに後者には書いていないのだろうか、ということに気付いたである。
 ははあ、このことが「何か変」と感じた理由かもしれない。そしてもしかすると、この表現の仕方こそが賢治の心境の変化を暗示しているのではなかろうかと直感した。この手紙をしたためている頃には当初の目的の一つ。
  大正15年の上京の大きな目的の一つはオルガン演奏の弱点克服のための指導を受けること。
は既に賢治の頭の中からは消え去っていたのだ、と。もはや心は新たな楽器へと移っていたのだと私は受けとめた。とはいえ、多少のためらいが賢治自身にはあったので「数寄屋橋側の交響楽協会」とだけは書き添えてぼやかしておいたのかもしれない。
 賢治の方便?
 そして、変なことはもう一つある。まずは、先に挙げた「二百円」を無心した政次郎宛12/15付書簡「222」の中の次の
第一に靴が来る途中から泥がはいってゐまして…(中略)…芝居もいくつか見ましたしたうたうやっぱり最初お願ひしたくらゐかゝるやうになりました。
という部分を読んでみての私の率直な感想は、いつもの賢治とは違っていてくどくどと言い訳がましいことである。
 そもそも、この書簡「222」は上京してから滞京も半ばが過ぎた12月15日のものである。書簡の内容からは下宿代も授業料も既に払ったと判断できるのに、向後さらに二百円もの大金をこの賢治の「言い訳がましい」出費のために本当に必要としたというのであろうか。
 そう言えば、阿部末吉(阿部晁の息子)が言ってたことを思い出した。それは読売新聞社盛岡支局の取材を受けて阿部が記者に語った次のようなエピソードである。
「当時の盛中では、一学期ごとに寄宿舎の部屋替えをしていたので、いつだったか、私も賢治さんと同じ部屋になったことがあった。ある日、彼が私にいたずらっぽい笑いを浮かべながらこんなことを言うんです。小遣い銭に困った時、町の共同便所を壊してしまったので弁償しなければならないとおやじに言ってやったら金を送って来た―。普通の生徒なら、本を買う金がないと言うところなんです。茶目ッ気のあった賢治さんはいつもこんな調子でね―」
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)74pより>
阿部末吉は盛岡中学の一級先輩だが、そこの寄宿舎自彊寮で同室になった際のことを証言していることになる。
 まあ、「茶目ッ気」とも見られないこともないが、少なくとも盛岡中学時代にはこのような「嘘」をついて父親からお金をせしめた「実績」が賢治にはあるようだし、一級先輩の阿部から「賢治さんはいつもこんな調子でね―」と言われているくらいだか、この滞京中の「二百円の無心」の言い訳はもしかすると盛中生のときの経験が生きているかもしれない。
 一方で、なにしろ当時(大正末期~昭和初期)の人々にとって「月収百円」は憧れ(それこそ賢治が花巻農学校に勤めていた頃の月収が百円前後だから賢治はかなり高給取りだったと言えよう)であり、賢治はその2倍もの金額「二百円」をこれらのためにはたして必要としたというのだろうか。どう考えてもこの「言い訳がましい」理由にそれほどの額のお金は必要としないはずだから賢治の大金「二百円」の無心は説得力に欠けている。羅須地人協会時代の賢治は菩薩となって恵まれない農民を救おうしていたとばかり思っていた私にすれば、この「言い訳もどき」は変なことのもう一つであった。
 またその頃、古里岩手では連日のように紫波郡等の大旱魃の惨状を地元の新聞『岩手日報』は報道しているのだが、そのことを知らぬ賢治ではなかったはず。その賢治があれやこれやと新しいものを本当に買い揃えたりしていたのだろうか。もしそうであったとしたならば、賢治は全く社会性も金銭感覚も、憐憫の情も良心の呵責も乏しいと言わざるを得ない。
 だからおそらくこの「言い訳もどき」は賢治が大金の「二百円」を無心するための方便だったのではなかろうかと私は推理する。
 「二百円」の使途
 とすると、この当時の憧れの「月収百円」のその2倍もの大金「二百円」を急に欲しくなったのは、実は高額な他の品物を賢治は欲しくなったからだ、と考えるのが自然ではなかろうか。
 思い返せば、書簡「222」(12/15)の3日前の書簡「221」(12/12)では、前掲したように
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
としたためているのだから、このときの上京の目的は先生の前で教本を「十六頁たうたう弾」くことではなく、自分のオルガン演奏の「悪い処を直して貰ふ」のが目的だったのだから、次の段階はその指導を受けることであったはずである。
 ところが、先生の前でオルガン演奏をして「ひどくほめらた」賢治は書簡「221」(12/12)では大金「二百円」の無心をしていないのに、そのたった3日後の書簡「222」(12/15)で大金「二百円」を突如無心をしているのだから、この3日間に心境の変化があったであろうことは容易に想像がつく。あるいはもしかすると、書簡「221」は同「222」のための始めから伏線であったのかもしれな。
 そこで私は、プロの先生の前で行ったオルガン演奏が切っ掛けとなって賢治はオルガンの上達の方はほどほどにすることとして、今後は新たにチェロを学ぶことにしようと心変わりした、とやはり判断したい。そして思い立ったならば直ぐ欲しくなるのが賢治の性向であり、チェロが欲しくなって矢も盾もたまらなくなったのではなかろうか。それは、ちょうどこの大金「二百円」が、賢治が購入した最高級の鈴木バイオリン社製チェロ一式に要する金額とほぼ同じ額であることが暗示しているような気もする。
 やはり、この大金「二百円」の使途は最高級チェロ一式購入のためのであった。
思考実験終了
 では思考実験はもうこの辺りで止めて、再び元に戻って証言や資料等に基づいて考察していきたい。

‡‡‡‡‡‡‡<補足>‡‡‡‡‡‡‡‡‡
私はこのことについて『金の星社』へ直接問い合わせた。すると次のような回答をいただいた。
 残念ながら、宮澤賢治の投稿掲載については有りませんでした。当時の投稿原稿については保管がありませんので、確認ができません。また、宮澤姓の掲載・岩手からの掲載についても有りませんでした。
と。そして、
 当時童謡童話雑誌の隆盛期でもあり、「金の星・金の船」ではなく、「赤い鳥」「おとぎの世界」「こども雑誌」「童話」など他の雑誌への投稿掲載であったのではないかと推測されます。
というアドバイスもいただけた。
 したがって、少なくとも賢治の投稿が雑誌『金の星』に掲載されたということはなかったということになる。一方で、賢治が同誌に投稿したかどうかは確定できないから、この「店に手傳つてゐた一少年」が間違って覚えていたのか、あるいは賢治が「今度はいいだらう。今度はいいだらう」と屡々投稿し、一・二度掲載されたこともあつた、とその少年に語ったのかもしれない。
 それにしても、ご多忙であろうところを私の厚かましいお願いに迅速にご対応、ご回答をして下さった『金の星社』にはとても感激した。厚く御礼申し上げます。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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