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第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(テキスト形式)

2024-03-21 10:00:00 | 賢治昭和二年の上京
『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第一章 改竄された『宮澤賢治物語』

1 澤里武治の証言 
 関登久也には多くの著作があるが、その中の一つに澤里武治の証言が載っている『宮沢賢治物語』がある。
 学習研究社版『宮沢賢治物語』
 私が最初に同書を見たのはその学習研究社版(平成7年発行)であった。冷静で客観的な記述の仕方に著者関登久也の人柄を偲ばせていると感心しつつ読み進めていった。とりわけ、関登久也自身が直接見たり訊いたりしたことと、伝聞したこととは区別して書き分けている姿勢に好感が持てた。
 ところが、同著の中の「セロ……沢里武治氏から聞いた話」という節に至って私は途端に違和感を感じた。
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日の頃には、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、学習研究社、平成7年発行)
283pより>
 ここからは澤里武治のもどかしさが伝わってくる。そして歌を詠むし著作も多い関登久也が、はたして
  昭和二年には上京して花巻にはおりません。………○★
などというような書き方をするのだろうかと私は訝しく思った。なぜならば、この「○★」のような書き方ならば、賢治は昭和2年には上京していて花巻には居なかったということになり、それ以降の証言内容と全く辻褄が合わなくなってしまうからである。どうやらそのせいで私は違和感を感じたようだ。
 岩手日報社版『宮沢賢治物語』
 そこで、この学習研究社版『宮沢賢治物語』の原本となっている岩手日報社版『宮沢賢治物語』を実際に見てみる必要があると判断した。学習研究社版にする際にうっかり間違ってしまったという可能性もあるからである。しかし当時私は同書を所有していなかったので、「宮沢賢治イーハトーブ館」に行ってそれを見せて貰おうと閲覧を申し出たのだが、残念ながらその時同館は同書を所蔵していなかった。
 やがてこの同書を見てみることを私がすっかり忘れてしまいそうになっていた頃、たまたま奥州市水沢に所用があって車で出掛けた。ついでに、とある古書店に立ち寄ったところ何と本棚に、あの見てみたかった岩手日報社版『宮沢賢治物語』が並んでいるではないか。まるで買って下さいと訴えているかの如くに。しかし値段がちょっと高い。どうしようかと少し迷いつつも、いつもは内気な私なのだがそのときばかりは私の口は勝手に「少しサービスして下さい」と店主に言っていた。結果、少し負けてもらって手に入れた。
 早速車内に戻って同書の当該部分を探してみたところそれは同書の217p以降に載っていた。ところが、この岩手日報社版と学習研究社版との違いがはっきりしない。もうこうなると気になってしょうがない。所用をそそくさとやり終えて急いで花巻の自宅に戻った。
 わくわくしながらも、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせて両者を見比べてみたところ、漢字が仮名になったり、仮名が漢字になったりしているところはあるものの、その内容は一言一句違っていない。私の予想は完全に裏切られてしまった。ということは、やはり関登久也は「○★」のような書き方をしたのだと結論せざるを得ないと思った。訝しさを払拭できぬままに。
 それが最近、調べ物があって再びこの岩手日報社版『宮沢賢治物語』をひもといた際に、たまたま最後の「後がき」を見た。閃いた。そこには次のようなことがに書かれてあったからである。
 「宮沢賢治物語」は、岩手日報紙上に、昭和三十一年一月一日から同年六月三十日まで、百六十七回にわたつて連載された。歌人であり賢治の縁者である関登久也氏にとつて、この著作は、ながい間の懸案であつた。新聞に掲載されるや、はたして各方面から注目されるところとなつた。完結後、単行本にまとめる企画を進めていたのが、まことに突然、三十二年二月十五日、関氏は死去されたのである。
 不幸中の幸いとして、生前から関氏は、整理は古館勝一氏に依頼していたということを明らかにしていた。監修は賢治の令弟宮沢清六氏におねがいし序文は草野心平氏に書いていたゞいた。本のカバーは賢治の詩集『春と修羅』の装幀図案を再現したものである。
               (出版局・栗木幸次郎記)
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年
8月発行)288pより>
 ということは、同書が上梓される前に関登久也は急逝してしまったので最後の方の段階では他の人が整理、編集して出版したということになろう。
 ならば、『岩手日報』に連載された本家本元の『宮沢賢治物語』そのものを確認する必要があることを悟った。もしかすると『岩手日報』紙上に載ったものは単行本のものと違っている可能性があると思ったからである。
 新聞連載版『宮沢賢治物語』
 私は居ても立っても居られなくなって、押っ取り刀で岩手県立図書館に出掛けた。県立図書館に着いた。早速『岩手日報』のマイクロフィルムを見せて貰った。
 もどかしさを感じながらマイクロフィルムを巻き上げてゆくと、たしかにその連載は昭和31年1月1日から始まっていて、当該の部分は同年2月22日付朝刊に『宮沢賢治物語(49)』として
【Fig.1『宮澤賢治物語(49)』「セロ(一)」】

<昭和31年2月22日付『岩手日報』)より抜粋>
載っていて(【Fig.1】参照)次のようなものだった。
  宮澤賢治物語(49)
  セロ(一)
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がします
が、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。その前年の十二月十二日のころには
『上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る』
 と、ありますから、確かこの方が本当でしょう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。
   …(中略)…
 その十一月のびしょびしょ霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
 よほどの決意もあって、協会を開かれたのでしょうから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。その時みぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持って、単身上京されたのです。
 セロは私が持って花巻駅までお見送りしました。見送り
【Fig.2 「セロ 沢里武治氏からきいた話」】

 <『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年
8月発行)217pより抜粋>
は私一人で、寂しいご出発でした。立たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車をまっておりました…(以下略)…   (傍点筆者)
<昭和31年2月22日付『岩手日報』)より>
 私はここで初めて腑に落ちた。「昭和二年には先生は上京しておりません」ならば澤里の証言内容は前後の辻褄が合うからだ。やはり物書きの関登久也が
  昭和二年には上京して花巻にはおりません。
というような書き方をする訳はなかったのだと安堵した。
 一方では、この澤里の証言が事実を述べているとするならばその意味するところは重大であり、他への影響もすこぶる甚大であり、今後これに関わっていろいろと調べなければならないということを私は決意した。

2 『宮澤賢治物語』の改竄
 そこで、新聞連載と単行本とを見比べてみることにした。
 決定的違い
 まずは、単行本の『宮沢賢治物語』(岩手日報社、昭和32年8月発行)の当該部分(【Fig.2】参照)を次に示す。
セロ  沢里武治氏からきいた話
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。その前年の十二月十二日のころには、
「上京、タイピスト学校において…(中略)…言語問題につき語る。」
と、ありますから、確かこの方が本当でしよう。人の記憶ほど不確かなものはありません。その上京の目的は年譜に書いてある通りかもしれませんが、私と先生の交渉は主にセロのことについてです。…(中略)…その十一月のびしよびしよ霙の(みぞれ)降る寒い日でした。
「沢里君、しばらくセロを持つて上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ。」
 よほどの決意もあつて、協会を開かれたのでしようから、上京を前にして今までにないほど実に一生懸命になられていました。そのみぞれの夜、先生はセロと身まわり品をつめこんだかばんを持つて、単身上京されたのです。
 セロは私が持つて、花巻駅までお見送りしました。見送りは私一人で、寂しいご出発でした。発たれる駅前の構内で寒いこしかけの上に先生と二人ならび汽車を待つておりました…(以下略)…     (傍点筆者)
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年
8月発行)217p~より>
瞥見して妙である。
 そこで落ち着いてもう一度両者を見比べてみると、一箇所だけ全く違っている箇所があった。それは、
 単行本の『宮澤賢治物語』の場合における
 ・昭和二年には上京して花巻にはおりません。…………①
 新聞連載の『宮澤賢治物語』の場合における
 ・昭和二年には先生は上京しておりません。 …………②
の部分であった。この両者の違いは字数としてはたった一字だが、意味としては全く逆であり、決定的な違いである。①ならば上京していることになるし、②ならば賢治は上京していないということになるからである。もちろん新聞連載の方の②は関登久也存命中のものであり、この②の方が本来の澤里武治の証言であることが判る。
 ということは、連載『宮澤賢治物語』を単行本『宮澤賢治物語』として出版する際に、
・関登久也以外の人物がたまたま間違えた。
ということが起こったか、あるいは
 ・関登久也以外の人物がわざとある意図の下に書き変えた。
という行為があったと考えられる。
 行われていた改竄
 さて、では実際にはどちらの方が起こっていたのか。私は、後者の方が起こっていたと見た。なぜならば、他の箇所は基本的には違っていないのにもかかわらず唯一この箇所だけが違っていて、なおかつ①と②とでは全く逆の意味になってしまうからである。それも重要な意味を持っている一文だからである。
 したがって、やはりここは改竄が行われていたと判断できる。そしてまた、こうまでもして改竄せねばならなかった理由は何なのか、ということを想像しただけで私はちょっと戦慄を覚えてしまった。それにしてもこの書き変えが意図的なものであったとするならば、その巧妙さに私はただただ呆れるばかりだった。
 一体、澤里はこのような改竄が為されたことを知ってどのように思っただろうか。ついつい私は澤里武治の気持ちを忖度してみたくなる。おそらく澤里は、
 どう考えたって昭和2年の11月頃の霙の降るある日、チェロを持って上京する賢治を花巻駅でただ一人見送った。そしてそのように関登久也の取材において証言した。ところがどういう訳か②の部分が①のように書き変えられ、あげく、いつの間にか「宮澤賢治年譜」ではそれは大正15年の12月2日のことであるとされてしまった。
と悲嘆に暮れてたのではなかろうか。もちろん控え目な性格の澤里のはずだからそんなことはないとは思うが、もしかすると牽強付会なことだと実は苦々しく思っていたかもしれない。
 またこのような思いに駆られているのは著者としての関登久也も同様であろう。まして、もし改竄されていたとなればなおさらにである。さぞかし、天国の澤里と関の二人は複雑な想いと遣る瀬無さを抱きながら互いに慰め合っていることであろう。
 賢治の場合にもあるまさか
 とまれ、関登久也が最初『岩手日報』に掲載した『宮澤賢治物語』の中身と、その後それらをまとめて出版した単行本の『宮澤賢治物語』の中身との間には、関登久也のあずかり知らぬところで決定的な違いが生じていたということである。何者かが改竄していた。そしてそれゆえに、澤里の本来の証言内容は全く逆な内容となって巷間流布してしまったということになる。
 私とすればこれは極めてショックなことだった。今まで少しく宮澤賢治のことを調べてみた中でこれほどショックだったことはない。これとやや似たことはかつて幾度か目の当たりにしきた。しかし、それらは著者の筆がついつい勢いで滑ったり、検証を徹底できなかったりしたからであり、まだそれらを許容できる心の余裕が私にはあった。ところが今回の場合は、あろうことか他人の著作を公の媒体上で改竄していたからである。
 そこで私が今後肝に銘じなければならないと悟ったことは、賢治関連の図書等に載っている「証言」等を扱う際も慎重であらねばならないときもあるのだということである。そんなことは当たり前のことだと嗤われそうだが、まさか賢治に関する図書等においてそのようなことがあるなどということは私には思いも寄らなかった。そのまさかが、それも改竄というまさかが賢治関連のことでも現実に起こっていたのである。
 「澤里武治氏聞書」の初出
 ところで、この「澤里武治氏聞書」の初出はいつどこでだったのだろうか。
 調べてみるとそれは昭和23年2月発行の『續 宮澤賢治素描』でであった。そしてその「序」は次のようになっている。
 宮澤賢治逝いて十四年目の初冬に、因縁あつて私は眞日本社より續宮澤賢治素描を刊行することとなつた。前著素描は、一度東京の書店より出版したもので、即ち再刊であるが、續の方は悉く新しい原稿に依るものである。續に於ては、私は多くの門弟知己から、生前の賢治との交渉顛末を聽取し、それ成可くその儘文章にした。果たしてこの私の採録が正しいかどうか、書き上げた上に、一度その物語りの人達の眼を通しては頂いたが、それでも多少の不安がないでもない。
 昭和廿一年十月卅日  
岩手花巻にて
        關登久也 (傍点筆者)
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)3pより>
 したがって、澤里が関登久也から「聽取」を受けたのはいつであったかは定かではないにしても、少なくとも昭和21年10月30日以前であることはこれで判った。賢治が亡くなって14年も経っていなかった時のことになる。
 そしてその「聽取」が『續 宮澤賢治素描』に「澤里武治氏聞書」として所収され、中身は次のようなものであった。
   澤里武治氏聞書
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
 「澤里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。」さう言つてセロを持ち單身上京なさいました。その時花巻驛までセロを持つて御見送りしたのは私一人でした。…(中略)…滞京中の先生はそれはそれは私達の想像以上の勉強をなさいました。最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。そして先生は三ヶ月間のさういふはげしい、はげしい勉強に遂に御病氣になられ歸郷なさいました。
<『續 宮澤賢治素描』(關登久也著、眞日本社)60p~より>
 したがって、チェロを持って上京する賢治を澤里がひとり見送った時から20年も経ってない頃の、澤里35歳以前の血気盛んな歳頃の「聽取」であったということになる。
 となれば、とりわけ賢治から可愛がられ、かつ賢治を尊崇していた花巻農学生時代の澤里に対して賢治が、
 澤沢里君、セロを持つて上京して來る、今度は俺も眞劍だ、少なくとも三ヶ月は滞京する、とにかく俺はやる、君もヴアイオリンを勉強してゐて呉れ。
と悲壮な決意を語り、
 最初のうちは殆ど弓を彈くこと、一本の糸をはじく時二本の糸にかからぬやう、指は直角にもつてゆく練習、さういふことだけに日々を過ごされたといふことであります。
という賢治の述懐を聞いたであろう愛弟子澤里が、霙の中チェロを持って上京する賢治をひとり見送った年次のことを間違うことはあまりなかろう。
 そしてそもそも、その時期「昭和二年の十一月ころ」の記憶に自信がなければ、愛弟子である澤里は「どう考えても」等というような言い回しはしないであろう。まして、虚偽の証言をするなどということはまず無かろう。
 「澤里証言」の経年変化
 ところで、関登久也が澤里から「聽取」した「チェロを持って上京する賢治を澤里ひとりが見送った」件に関する証言は、次のような関登久也の幾つかの著書に載っている。年代順にそれを並べるとその変化が垣間見られる。
(1)『續 宮澤賢治素描』(眞日本社、昭和23年2月)
 確か昭和二年十一月頃だつたと思ひます。當時先生は農學校の教職を退き、根子村に於て農民の指導に全力を盡し、御自身としても凡ゆる學問の道に非常に精勵されて居られました。その十一月のびしよびしよ霙の降る寒い日でした。
(2)『宮沢賢治物語(49)』(『岩手日報』連載、昭和31年2月22日)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がします
が、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には先生は上京しておりません。 (傍点筆者)
(3)『宮沢賢治物語』(単行本、岩手日報社、昭和32年8月)
 どう考えても昭和二年十一月ころのような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。 (傍点筆者)
(4)『賢治随聞』(角川書店、昭和45年2月)
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
(5)『新装版 宮沢賢治物語』(学習研究社、平成7年12月)
 どう考えても昭和二年十一月頃のような気がしますが、宮沢賢治年譜を見ると、昭和二年には上京して花巻にはおりません。   (傍点筆者)
 では、初出が『續 宮澤賢治素描』であったことを踏まえた上で、次は二人の最愛の教え子達の証言等に話を移そう。

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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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