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第七章 「本年中セロ一週一頁」(テキスト形式)

2024-03-23 12:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第七章 「本年中セロ一週一頁」
この章では、「♧」は賢治の真実であったということにして、賢治のその後のチェロの学習は順調であったか等について考えてみたい。

1 賢治は日記を付けた
 さて年が改まって昭和2年、賢治は年頭に当たって一年の計を立てた。一般に賢治は日記を付けなかったといわれているようだが、少なくとも昭和2年には日記を付けていた。それはいわゆる「手帳断片A」が残っているから判る。
 賢治一年の計「本年中セロ一週一頁」
 「手帳断片A」の1頁目には『大正十六年日記』というタイトルが印刷されているが、もちろん前年末に改元されたから実質的には『昭和二年日記』ということになる。
 そしてその3頁、「1月1日(土)」の欄に賢治は
  国語及エスペラント
  音聲學
とペン書きしている。賢治はこの日に
  国語、エスペラント、音声学
などを学んだということであろう。
 一方の、MEMO欄の
  本年中セロ一週一頁
  オルガン一週一課
のペン書きの方は、昭和2年の年頭に当たって立てた賢治の「一年の計」と考えていいだろう。
 そして、この記載の仕方からは、
・この時点ではオルガンの練習よりはチェロの練習の方を優先させていたということ。
・とはいえ、「セロ一頁」に対して「オルガン一課」だからおそらくオルガンに比べてチェロの腕前は未熟であったであろうこと。
・「セロ一週一頁」の「一頁」とは大津から貰った『ウエルナーの教則本』に対するものかもしれないこと。
・そして、一般に賢治は日記を書かなかった人のようだが、この昭和2年だけは他の年と違って日記を書き始めたということになりそうだから、昭和2年に対する意気込みはかなり強かったであろうこと。
などが読み取れる。したがって、昭和2年の賢治の日記からは
◇昭和2年の賢治は年頭に一年の計「本年中セロ一週一頁」を立て、かなりの意気込みで「年内にチェロが上達すること」を目指していた。
ということが言えよう。
 賢治の「昭和二年日記」より
 実はこの『昭和二年日記』は6頁までしか残っておらず、残りの分の記載は以下のようなものである。
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪1月6日   klara m varma
1月7日 中館武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君     伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月9日 (記載なし)
1月10日 肥料設計
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408p~より>
 なお、ここに阿部孝の名前は出てこないから、少なくとも昭和2年元旦~10日の間には阿部孝は賢治の許を訪れていなかったであろうと判断できる(先に私が、『後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろう』と述べたが、これがその理由である)。
 1月5日の来訪者等
 では、1月5日の来訪者等について次に少し調べてみたい。
《伊藤熊蔵》
 まず伊藤熊蔵であるが、あの羅須地人協会員伊藤克己、篤己兄弟の父親である。この伊藤熊蔵なる人物は、賢治の「春と修羅・詩稿補遺」の中の次の詩
     憎むべき「隈」辨当を食ふ
   きらきら光る川に臨んで
   ひとリで辨当を食ってゐるのは
   まさしく あいつ「隈」である
   およそあすこの廃屋に
   おれがひとりで移ってから
   林の中から幽霊が出ると云ったり
   毎晩女が来るといったり
   町の方まで云ひふらした
   あの憎むべき「隈」である
   ところがやつは今日はすっかり負けてゐる
   第一 草に腰掛けて
   一生けん命食ってゐるとき
   まだ一ぺんも復讐されない
     …(中略)…
   川がきらきら光ってゐて
   下流では舟も鳴ってゐる
   熊は小さな卓のかたちの
   松の横ちょに座ってゐる
   ぢろっと一つこっちを見る
   それからじつにあわてたあわてた
   黄いろな箸を二本びっこにもってゐて
   四十度ぐらゐの角度にひろげ
   その一本で
   熊はもぐもぐ口中の飯を押してゐる
   おれはたしかにうしろを通る
      …(以下略)…
<『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)213p~より>
に登場するおそらく「隈」に違いない。
 というのは次のように考えられるからである。この詩は「隈」なる人物が「下ノ畑」付近で弁当を食べているシーンを詠んだ詩で、タイトル等では「隈」となっているが、詩の後半ではその人物にあたる名が「熊」になっている。すると、この下根子桜周辺に住んでいる人物で「熊」ならば、直ぐに思う浮かぶのは伊藤熊蔵だし、その他にはなさそうだ。だからおそらく、賢治の生原稿では「隈」は実は「熊」だったが、後刻出版する際に「熊」のままでは流石に憚られるので「熊」を「隈」に差し替えようとした。ところが、それが徹底されなかったために元々の「熊」がそのまま一部残ってしまったと推測できる。
 そこでもし私のこの推測が当たっているとしたならば、賢治は伊藤熊蔵を苦々しく思っている訳だが、当の伊藤熊蔵は律儀にも賢治のところへわざわざ年賀の挨拶に来たということになろう。このような近所の付き合いを大切にしている熊蔵の人柄を知ってしまえば、賢治から「憎むべき」等と形容されてこのように揶揄された詩に詠まれたのでは熊蔵も立つ瀬がなく、気の毒である。
《仝竹蔵》
 つまり伊藤竹蔵という名の人物になる訳だが、不詳である。
《中野新左久》
 往訪者の中野新左久とはもちろん当時の花巻農学校の校長のことである。
 『今日の賢治先生』によれば、
 中野新左久 明一九~昭四四。石川県出身。明四一盛岡高等農林学校卒業→青森県(教諭)・福島県(校長)で教鞭をとり、大一四畠山栄一郎校長と入れかわりに花巻農学校に着任。生真面目な人物で、校長室を作り職員との間に一線を設けた。はじめ賢治の教師ぶりを喜ばなかったという。
<『今日の賢治先生』(佐藤司著)576pより>
とある。一般に、前任畠山校長に比べて中野新左久校長の評価は、それぞれが豪放磊落と生真面目と単純に図式化されてしまっていて分が悪いような気がする。しかし冷静に考えればそれは我々の偏見かもしれない。その中野校長を、疾うの昔に農学校を辞してしまった賢治がわざわざ松の内に実際訪ねていることになる訳だから、賢治は中野新左久を少なくとも悪く思っていた訳ではなさそうだからである。
 1月7日の来訪者等
 では次は1月7日の来訪者についてである。
《中(館)舘武左衛門》
 この人物は盛岡中学の5年先輩である。どういう経緯で二人が付き合い始めたのかはわかりかねるが、後年、賢治はこの中舘を揶揄するような内容の書簡「241a」(昭和3?年7月30日付)を出している(『新校本宮澤賢治全集別巻(補遺篇)』(筑摩書房)27p)。さらには、昭和7年6月22日付書簡「422」では高瀬露がらみで中舘を見下しているような書き方をした辛辣な下書を残している(『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫))。これらの書簡からは、二人の人間関係がきわめて悪いことが読み取れる。
 そのような人物中舘が、その5年前の松の内にわざわざ賢治のところへ年賀の挨拶に来ていると解釈できるのだから、この頃の二人の間の人間関係は逆にきわめて良好であることが想像できる。この5年の間に賢治と中舘の間には一体何が起こっていたのであろうか。 
《田中縫次郎》
 『宮野目小史』という郷土史を見ると
 (宮野目地区は)このような水不足の不安を抱えての米作りに代わる作目を志向して、瀬川の最下流の上似内、下似内は、特に水源が乏しいことから、以前から取り組んでいた養蚕を積極的に推進し、活路を求めるため、養蚕技師、田中縫次郎氏(埼玉県)の献身的指導を得て、大きな成果を上げるなど苦心しながらも、農業を維持したのである。この当時の養蚕事業がこの地区で、それから昭和30年頃まで、一部の農家が継続して営まれていた。因みに田中氏の指導と農民の努力によって、大正3年収繭高3600㎏程度であったが、昭和7年には、約8200㎏と2倍以上に伸張した。この養蚕振興に尽力した田中氏を顕彰する「豊蚕之碑」が上似内八坂神社境内に建立されている。
<『宮野目小史』(花巻市宮野目地域振興協議会)20pより>
とあった。
 ということは、田中縫次郎なる人物はわざわざ埼玉からやって来てなおかつ宮野目のために多大の貢献をしていたのだ。そしてそのような田中が、昭和2年1月7日に下根子桜の賢治の許を訪ねていたことになる。
 またその立派な顕彰碑を見てみると、大正14年の8月時点でこの顕彰碑が建っていることが判るから、賢治が花巻農学校に奉職していた時点で田中縫次郎は既に地元の人達からとても崇敬されていたということも分かる。
 考えてみれば、花巻農学校の前身は郡立農蚕講習所であり、当時の生徒は蚕を飼い、桑の葉をせっせと採っていたであろうゆえ「クワッコ(桑ッコ)大学」とあだ名されていたようだから、農学校勤務時代から賢治と田中縫次郎は仕事上の往き来があったということなのであろう。
《照井謹二郎》
 花巻農学校での教え子。
《伊藤直見》
 現時点では不詳。
 1月10日「肥料設計」
 そして、いよいよ「肥料設計」を始めるぞという意気込みが『昭和2年日記(「手帳断片A」)』の1月10日のメモから読み取れる。この「肥料設計」は例の講義豫告表』
 一月十日(新暦)農業ニ必須ナ化學ノ基礎
 一月廿日(同上)土壌學要綱
 一月丗日(同上)植物生理要綱上部
 二月十日(同上)同上 下部
 二月廿日(同上)肥料學要綱 上部
 二月廿八日(同上)同上   下部
 三月中 エスペラント   地人藝術概論
   午前十時ヨリ午后三時マデ 時間厳守
資格ヲ問ワズ 参觀も歡迎 晝食御持參
<『宮沢賢治の世界展』(原子郎総監修、朝日新聞社)145pより>
の中の1月10日分の予定とも符合している。よって、これらのこと等からは昭和2年1月頃の賢治の旺盛な実践活動がありありと見えてくる。どう見たってこの時期の賢治が病気であったとは思えない。
 したがって『宮澤賢治物語(50)』における証言
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
はこの時期(大正末~昭和2年1月)には全くそぐわないことが判る。
 「三ヵ月」は当て嵌められない
 とまれ、ここまで調べてきて言えることは、昭和2年1月上旬の賢治はチェロの練習などに熱心だったばかりでなく、来訪者もあったり、中野新左久を訪ねたりと元気で忙しくしていたであろうということである。また、1月10日以降の講義に意欲をみなぎらせていたことも同時に解る。
 念のため、「大正15年12月の上京前後~昭和2年11月頃の上京前」の間の賢治の営為について以下に確認しておきたい。今までの考察と「新校本年譜」等を基にして次のようなものになるであろうと私は認識している。
【表7 大正15年11月22日~昭和2年11月1日の宮澤賢治】
 大正15年
11月22日 この日付案内状を伊藤忠一方へ持参。配布依頼
11月29日 「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」など講義
12月1日 羅須地人協会定期集会。持寄競賣を行う。
12月2日 澤里武治、柳原昌悦に見送られて上京。なおこ     の時チェロは持参していない。
12月3日 着京、神田錦町上州屋に下宿
12月15日 父に二百円を無心
12月下旬 最高級のチェロ一式購入
12月 末 大津三郎から三日間のチェロの特訓を受ける。
12月30日 帰花
 昭和2年
1月1日 「本年中セロ一週一頁」という一年の計を立てる。国語及エスペラント 音聲學
1月2日   varma
1月3日   varma
1月4日   varma
1月5日 伊藤熊蔵氏仝竹蔵氏等来訪 中野新左久氏往訪
1月6日   klara m varma
1月7日 中舘武左エ門氏 田中縫次郎氏 照井謹二郎君     伊藤直見君来訪
1月8日   venta kaj varma
1月10日〔講義案内〕による羅須地人協会講義 農業ニ必     須ナ化学ノ基礎
1月20日 羅須地人協会講義 土壌学要綱
1月30日 羅須地人協会講義 植物生理学要綱
2月1日『岩手日報』に「農村文化の創造に努む」の記事
       直後に楽団解散
2月10日 羅須地人協会講義 植物生理要綱 下部
2月19日 寶閑小学校において八木先生と一緒に講話
2月20日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 上部
2月27日 この日付「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書を作
     成、発送。
2月28日 羅須地人協会講義 肥料学要綱 下部
3月4日 湯口村の高橋末治の日記によれば、組内の人6     人、地人協会へ入会。
3月8日 松田甚次郎来訪。
3月20日 羅須地人協会講義 「エスペラント」「地人芸術概     論」
4月4日 「羅須地人協会農芸化学協習」の案内状を出す。
4月10日 「羅須地人協会農芸化学協習」として「昭和二年度
     第一小集」を開催。
7月18日 盛岡測候所へ。
8月8日 松田甚次郎はるばる稲船村(現新庄市)鳥越から来訪。
11月1日 菊花品評会審査員
 こうしてみるとなおさらに、「昭和2年1月~4月上旬」の間の羅須地人協会にける賢治の熱心な活動振りが見えてくる。したがって前頁で挙げた証言、
 先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
の中の「三ヵ月」を、このような賢治の大正末~昭和の初めに当て嵌めることはまずほぼ無理なのではなかろうか、ということになろう。
 端的に言えば、
 大正15年12月2日の「現通説」が、もし『宮澤賢治物語(49)、(50)』や「澤里武治氏聞書」における澤里武治の証言を典拠にしているとするならばそれは適切な使われ方はしていない。
ということであり、これらの証言が正しく使われるとすればそれは少なくとも「大正末~昭和2年1月」に対してではなく、それよりは「昭和2年11月頃~昭和3年1月頃」のことであるとし
た方が遙かに合理的であり、典拠を忠実に生かしていると思うのである。

2 チェロの学習 
 さて、昭和2年の「一年の計」として
  本年中セロ一週一頁
  オルガン一週一課
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
を立てた賢治ではあったが、その後はたしてチェロの学習は順風満帆であったのであろうかということを少しく考えてみたい。
 「チェロ学習ノート」
 横田庄一郎氏は賢治の「チェロ学習ノート」に関して次のように述べている。
 賢治はチェロの学習ノートを残している。一九二四(大正十三)年末から翌年夏にかけて順次刊行されたアルス『西洋音楽講座』(全十六巻)の、第四巻から第六巻に掲載されたヴィオロン・セロ科を写していたのである。ノートの紙片は宮沢賢治記念館に展示されており、インクで書かれ、二つ折にた紙は未記入も含めて四十頁に及んでいた。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)23p~より>
 したがって、どうやら賢治の「チェロ学習ノート」は「四十頁」分あったようだ。この「頁数」は後程の考察に役立つと思うので心に留めておきたい。
 そして横田氏は次のことも前掲書で教えてくれている。
…賢治の学習ノートにはここに付けられたイラストを筆写している。イラストだけではない。楽譜はもちろんのこと、写真までもイラストにして描いている。
 平井保三のセロ講座は『西洋音楽講座』第四巻に序記、楽器に関しての考証、物理的技術論、弦について、第五巻に右手について、第六巻に右手について(承前)、左手について、造らるゝ音について、という具合に構成されている。
<『前掲書33p~より>
ということは『ヴィオロン・セロ科』のイラストや写真も含めて賢治はこのノートに書き写したということになろう。 また、この講座『ヴィオロン・セロ科』は極めて長丁場であろうことも窺えるが、この『ヴィオロン・セロ科』については序記から始まって最後まで全てが『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』の550p~589pに転載されているのでその中身を見てみればなおさらそのことがわかる。
 そこで私は、賢治はチェロの学習が長続きできて、そこそこ上達したのだろうかとついつい心配したくなる。一般にチェロをマスターするということは極めて難しいことだと言われているようだからなおさらに。
 ところで、横田氏は同書において「本年中セロ一週一頁」の
 「一頁」とは大津から貰ったウエルナー教則本の一頁のことだと見ていいだろう。
 <前掲書68pより>
と判断している。私も一旦そう思ったのだが、しかし待てよ…、突如別な考えが頭をもたげた。そもそもこの「学習ノート」はいつ頃賢治によって書き写されたものだろうかという疑問がまず湧いたからだ。そして、もしかするとこの「一頁」とは「ウエルナー教則本の一頁」のことではなくて『ヴィオロン・セロ科』の「一頁」のことであり、
◇この「チェロ学習ノート」は昭和2年の1月から賢治が『ヴィオロン・セロ科』を書き写してできたものである。
                  ………①
という可能性もあるのではなかろうかということを思い付いたのである。
 つまり、一年の計「本年中セロ一週一頁」とは、この『ヴィオロン・セロ科』を一週一頁ずつ書き写すことであったのではなかろうか、そう思い付いたのであった。そしてその結果出来上がったのが「チェロ学習ノート」であったのだと。
 そこで、横田氏はこのことについてどう論考していたかをもう一度『チェロと宮沢賢治』で読み直したところ、
 『校本宮沢賢治全集』の解説では、このノートの字体は書簡などから大正十四年から昭和二年ごろのものとほぼ一致する、としている。『西洋音楽講座』第四巻でヴィオロン・セロ科が始まったのは一九二五(大正十四)年なので、これを購読したか、見た時期にもよるが、この年から学習が始まったとも見ることができる。翌一九二六年に賢治はチェロを買っているのだから、学習は先行していたのだろうか。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)35p~より>
と論考していて、その年次については限定していないようだ。
 そして続けて横田氏は
 また、『校本全集』が賢治のチェロ学習ノートの目に付く特色として…
と著しているので、実際に『校本全集』の当該箇所を見てみると、御園生京子氏がこの「学習ノート」の特色について次のような見立てをしていた。
(1) 初歩において肝要な右手に関する記述を殊に丹念に筆写しており、その部分についてはかなり考えながら消化しようとしている。これは誰か(恐らく大津)に、右手がさしあたり全てを決することを叩きこまれたためとみられる。
(2) その他、楽器が手もとにあり、既に少なくとも一度は教師の手ほどきを受けたことがある、とみられる点が多い。
(3) 一方、「音の変化」の項以下などは筆写の丹念さが減ずるばかりでなく、十分な理解を伴っていないことが、記述や楽譜の筆写ミスに現れている。
<『校本宮澤賢治全集第十二(下)巻』(筑摩書房)596p~より>
 『ヴィオロン・セロ科』の可能性
 すると、まず(1)よりこの「学習ノート」は昭和2年1月から書き写されたと考えてもよさそうである。なぜなら、賢治は前年末にたしかに大津から「三日間のチェロの特訓」を受けているからである。
 具体的には、以前「(b)、(c)、(d)については後程考察のために使いたい」と前触れしておいたように、大津三郎は「第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階」と証言していて、両日とも「ボーイング」(大津三郎の「三日でセロを覺えようとした人」より)の指導を受けていることになるから、「右手がさしあたり全てを決することを叩きこまれた」ことは十分にあり得る。
 次に(2)に関しては、賢治は前年末に最高級のチェロ一式を購入済みであると先に判断できたし、大津から「三日間のチェロの特訓」も受けているのでこれは前頁①の、明けて「昭和2年の1月から」とも対応できる。
 なお、「既に少なくとも一度は教師の手ほどきを受けたことがある」の部分は、「1926年(大正15年・昭和元年)末に初めて教師の手ほどきを受けた」となるのかもしれない。そして(3)は先の①を否定するものではない。
 したがって、以上の(1)~(3)の三つから、①はそれほど無茶な推理でもなさそうだ。なお(3)に関わることだが〟「音の変化」の項〝とは平井の『ヴィオロン・セロ科』のどの辺りだろうかということが気になったので見てみると、それは『ヴィオロン・セロ科』の殆ど最後の方の〟項〝であった。ということは、賢治はこの『ヴィオロン・セロ科』を最後まで読み通し、筆写もしたと考えてよさそうだ。
 こうしてみると、
◇賢治は昭和2年の1月から、『ヴィオロン・セロ科』を使って「一週一頁」ずつ最後まで筆写しながらチェロを学んでいった。
という可能性が少なからずある。
 『ウエルナーの教則本』の可能性
 となれば、同じようなことが『ウエルナーの教則本』に対しても可能かどうかを調べる必要がある。
 その『ウエルナーの教則本』だが、それと全く同じものかどうかはしかとわからないが、基本的には酷似しているであろう『ウエルナーチェロ教則本』(企画編集室編著、東京楽譜出版社)を手に入れた。
 さてその中身である。まず同書の1p~10pには
 チェロの調弦、同名称、同持ち方、指の位置、弓の持ち方弾き方、各種記号等
が載っている。そして11pから本格的な練習が始まり、そこからは最終頁までがすべて楽譜から成り立っている。ちなみにその最初の頁は
 【11p  開放弦の練習、手くび首の練習】
になっていて、その一部分は上段が学習者、下段が教授者となっている楽譜もある。
 さて、はたして賢治はこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつ独習でマスターしていったのだろうか。たしかに、賢治は大正15年(昭和元年)末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受けた際、ボーイングについては少なくとも指導を既に受けていた訳だし、この頁なら開放弦の練習だからチェロ初心者でも何とかなりそうだ。
 しかし、次の頁を捲ると
 【12p~13p 第一の位置 各指の位置】
となっていて、実質的な練習が始まったばかりの2頁目だというのにもう「指の位置」とあるから、早速左手の練習ということになるのではなかろうか。したがって、もし賢治がこの教則本を用いて「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのであれば、賢治がかなり苦労したであろうことは想像に難くない。
 そして次は
 【14p~15p 第一の位置】
となっていて、この頁の楽譜はすべて上段(学習者)と下段(教授者)とに分かれている。
 これに関連しては、藤原嘉藤治が井上敏夫との対談で次のようなことを後年語っている。
井上 どんな練習をしたんですか。
藤原 その当時はチェロの教科書があまりなかったので、バイオリンの教則本、ホーマンのⅠを使って、弟子は上の方のメロディーを弾き、先生が下の方を弾くんですが、それを二人でやりました。
井上 どちらが下の方をやったのですか。
藤原 僕が下をやりました。低音ですからね、弾いていると腹の底からグーグー響いてきて、それが愉快でした。宮沢君は、チェロはほんの初歩でした。
<『宮沢賢治第5号』(洋々社)24pより>
 この対談は昭和48年10月に行われたものであるから、時に藤原嘉藤治77歳であり、ここで語られていることはかなり昔の話になるので中には記憶のずれ等もあるかもしれない。
 とはいえ、少なくとも賢治と嘉藤治は二人でチェロの練習をしたことがあるということは間違いなかろう。当然チェロに関しては初歩であった賢治が上段を弾き、既にチェロをやっていた嘉藤治が下段を弾いたこともこの証言どおりだろう。
 そこで、賢治が常にこのようにして嘉藤治から指導を受けられたのであればそうでもなかったかもしれないが、嘉藤治は花巻高等女学校の教師だからそれは叶わなかったであろうから、もし『ウエルナーの教則本』を用いて賢治がチェロの独習をしていたとすればかなり難渋したであろう。
 やはり『ヴィオロン・セロ科』では
 ところで、『ウエルナーの教則本』の最終頁は76pであった。ということは、同教則本には練習用のページ数だけでも
  76-11+1=66頁
あり、もし「セロ一週一頁」の割合で真面目に練習すると
  66×7=462日
すなわち
  1年と97日
を要することになる。とても一年内には終わりそうにない。
 一方『ヴィオロン・セロ科』の方であれば、それがもし『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』(筑摩書房)に「資料」として載っているとおりのものだったとするならばそれは40頁分ある。また、この『ヴィオロン・セロ科』を賢治が筆写した「チェロ学習ノート」となる訳だが、先ほど心に留めておきたいと言ったようにこのノートの「頁数」も「四十頁」であった。この二つの頁数が一致していることは、やはり用いたのは『ヴィオロン・セロ科』の方なのかもしれないと思わせる。
 もし、「セロ一週一頁」用としてこちらを用いていれば
  40×7日=280日
となるなので、数字上からは「本年中セロ一週一頁」は達成できそうだ。また、瞥見した限りにおいても『ウエルナーチェロ教則本』と比較して『ヴィオロン・セロ科』の方が達成しやすそうな気がする(まあ所詮私の素人判断ではあるが)。
 こうやってここまで調べて来てみた結果、賢治が「セロ一週一頁」ずつマスターしようとしたのはどうやら大津三郎から貰った『ウエルナーの教則本』ではなくて『ヴィオロン・セロ科』の方だったのではなかろうか、と私は判断したくなってきた。
 もしこちらの『ヴィオロン・セロ科』の方を用いていたとすれば、例の一年の計「本年中セロ一週一頁」の具体的な中身は、この『ヴィオロン・セロ科』を一週一頁ずつ筆写しながら学習していくというものであったとなろうし、その結果出来上がったのがもちろん「チェロ学習ノート」であったということになろう。
 『ヴィオロン・セロ科』の借覧先
 さて、『校本宮澤賢治全集第十二巻(下)』によれば、件の「チェロ学習ノート」は賢治の筆跡から判断して大正14年~昭和2年頃のものだという。それではその際に賢治はその原本(『西洋音楽講座』所収の平井保三著『ヴィオロン・セロ科』)をどこから借覧したかというと、それは国会図書館でもないし、藤原嘉藤治や澤里でもないともいう(『校本宮澤賢治全集第十二巻下)』(筑摩書房)598pより)。
 では一体どこからそれを賢治は借りたのだろうかであるが、もしかすると町内の木村兄弟の家から借覧したのではなかろうかと私は直感した。木村家は資産家であったようだし、芸術にも造詣が深かったと聞くからである。
 当時の木村家については、高橋文彦(松田十刻)氏によれば父木村寿は花巻市坂本町の開業医で、子供は全部で七人だという。長男の圭一も医師であり、またアイヌ語研究家でもあったという(「賢治を慕った女性たち」(『宮沢賢治第5号』(洋々社)所収)112pより)。この圭一は藤原嘉藤治や妹らとレコード鑑賞やコンサート活動を続ける(『拡がりゆく賢治宇宙』(宮沢賢治イーハトーブ館)94pより)ということで賢治とは親交があったようだし、『啄木 賢治 光太郎』によれば圭一は当時花巻にあったカルテットのメンバーであり「のち岩手医大の教授になったセロの木村圭一」とある(『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞盛岡支局)156p)。圭一はチェロも弾いたようである。
 一方、『西洋音楽講座』の中身はどのような内容であったかというと、横田氏の前掲書(28p)によれば
  音楽通論、楽典、和声学、音楽史、ピアノ科、声楽科等
ということだから、木村兄弟の中の特に木村杲子であれば、上野音楽学校(東京芸術大学前身)に入学して声楽とピアノを専攻しているということだし、杲子は藤原嘉藤治の教え子でピアノのレッスンなども嘉藤治から受けている(『宮沢賢治5号』(洋々社)114pより)という。
 したがって木村家では『西洋音楽講座』を購読していた可能性が大であり、圭一あるいは嘉藤治のルートでそのことを知った賢治がそれを借りた可能性があるのではなかろうか。かなり想像を逞しくした話ではあるが。
 順調な滑り出し
 さて、昭和2年の賢治は「一年の計」の一つとして「本年中セロ一週一頁」を立て、「チェロ練習ノート」を作りながら、チェロをマスターしていこうという気合いに溢れていたといえる。
 それも、チェロの独習のみならず、例の毎週火曜日に行われていたという近所の若者達からなる楽団の練習も続けられ、そして、これもまた計画的に行われたであろうと思われるのが例の講義である。
 ちなみに「新校本年譜」によれば、
1月10日 〔講義案内〕による羅須地人協会講義が行われ    たと見られる。午前一〇時より午後三時まで。
1月20日 羅須地人協会講義。参会者に「土壌要務一覧」の    プリントを配布し、図解を示ししつつ土壌学要綱を講じる。
1月30日 羅須地人協会講義。「植物生理学要綱」上部。午前一〇時より午後三時まで。
<「新校本年譜」(筑摩書房)より>
とあり、〔講義案内〕どおりに実施したようだ。
 また、賢治のチェロはまだまだ習いたてだから楽団でチェロを弾きこなすことができなかったことは自明だろうが、井上ひさしによれば『楽器練習会で最初に取り上げた曲は「太湖船」だったという証言がある』(『ちくま日本文学全集 宮沢賢治』(筑摩書房)460p)ということだから、この曲だけは賢治もチェロを弾きながら若者達と一緒に合奏を楽しんだことであろう。
 ちなみに、横田庄一郎氏によればこの「太湖船」という曲はチェロの開放弦だけで弾けてしまう曲(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)35pより)であるというし、板谷栄城氏も『賢治小景』において次のように言っているからである。、
  『太湖船』唯一の曲 楽譜は自筆
 羅須地人協会時代の賢治はオーケストラを作ることを夢見て、集まってくる青年たちと練習しました。
 しかし、バイオリンの初心者用『ホーマン』という教科書さえ手にはおえません。
 ですからレパートリーはただ一つ、『太湖船』だけでした。
  …(中略)…
 ところで賢治自筆のガリ版刷りの『太湖船』楽譜がのこっていますが、それはハ長調で書かれています。
 となると低音部はCとGだけでも何とかなりますので、チェロの開放弦だけで弾けますから、賢治の腕をもってしても何とかなったと思われます。
<『賢治小景』(板谷栄城著、熊谷印刷出版部)32p~より>
 したがって、昭和2年は順調に滑り出して何もかもが賢治の思ったとおりに回り出した……
3 『岩手日報』の報道
 …かに見えた下根子桜の賢治の昭和2年1月だったのだが。
 昭和2年2月1日付『岩手日報』
 同年2月1日付『岩手日報』(新聞の題字の下の日付だけは1月31日となっている)の次のような新聞報道
 農村文化の創造に努む
    花巻の青年有志が
     地人協會を組織し
      自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化に對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協會員は家族團らんの生活を續け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協會員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三囘づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協會の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
<昭和2年2月1日付『 岩手日報』より>
でそれは一変したといわれているようだ。
 なぜならば、賢治が「同志」を募って「青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織し」たということが公になってしまったとなれば、当時のことであるから当然治安当局からマークされることは必至であり、この新聞記事は賢治をかなり動揺させたはずである。実際賢治はこの新聞報道によって楽団のメンバーに迷惑がかかることを虞れてこの集まりを解散し、集会も不定期になったと一般には言われているようだ。
 「現通説」を少し疑う
 しかし私は多少違う見方を最近はしている。たしかに楽団の方は即刻解散したと見られるが、少なくとも集会はしばらくはそれまで通りであったと思えるからである。実際、先の【表7大正15年11月22日~昭和2年11月1日の宮澤賢治】を見て貰えればお分かりのように、集会の方は〔講義案内〕どおりに行われた上に、さらにはその後も、少なくとも昭和2年4月まではそれまでのような集会や講義活動等が続けられていたようだからである。
 そこで私はまた次のような思考実験を試みたい。
 この昭和2年2月1日付『岩手日報』の報道が切っ掛けとなって、賢治やそこに集う若者達の活動内容が公となったがために、周りの人々からは「隣の郡内の赤石村・不動村・志和村等々が大干魃のために飢饉一歩手前のような惨状にあるというのに、賢治は近所の若者達を集めて何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはないだろうに」と顰蹙を買った。
 多くの若者達がこの惨状を見兼ねて何とかせねばと奮い立ち、義捐活動のためにあちこち駆けずり回っているというのに、三十を越した大の大人が十五、六の近所の若者達を集めて夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘でギーコギーコと聞くに堪えない音を立てながら音楽活動をやっているとは一体何事か。そんなことをしている金と暇があるならば隣村のために少しは支援活動でもしろ、と非難を浴び始めた。
 そして、そもそも新聞報道の内容と下根子桜で賢治達がやっている内容とはかなりずれがあるじゃないか、と周りから批判され始めた。そこで、これはまずいことになったと察知した賢治は焦って即刻楽団活動を止めてしまった。
 もちろんメンバーに迷惑がかかることも賢治は虞れたが、それ以上に自分に対する周りからの鋭い眼差しに耐えられなかったのである。
思考実験終了
 もちろんこれはあくまでも思考実験であり、それが歴史的事実だということを主張しているものではない。とはいえ、この新聞報道によって賢治が焦ったことは即刻講義や集会を止めてしまうことではなかった。それよりはまず、突如顕わに非難され始めた楽団活動を即刻止めることであったという可能性は少なくとも否定できないであろう。
 そして実際に楽団は解散した。だからおそらく、この昭和2年2月頃を境としてその後の賢治の音楽活動は独り賢治だけが行うものか、その他にはせいぜいたまに藤原嘉藤治と一緒に行うチェロの練習だけになったに違いない。
 松田甚次郎の証言
 さて、楽団を解散してしまった賢治のその後のチェロの練習はどうであったのであろうか。
 松田甚次郎が「宮澤先生と私」の中で、昭和2年に訪れた下根子桜のことを次のように追想している。
 明るい日射の二階、床の間にぎつしり並むでる書籍、そこに立てられて居るセロ等がたまらない波を立てゝ私共の心に打ち寄せて來る。東の窓からは遠く流れてる北上川が光つて見えてる。ガラスを透して射し込む陽光はオゾンが見える様に透徹して明るいのである。
 先生は色々な四方山の話をしたりオルガンを奏してくれたり自作の詩を御讀にみな(<ママ>)つたりして農民劇の御話しや村の人々のお話し等を親しくなされてから十一時半頃に二階を下りられて、しばらく上がつて來られなかつたが、十二時一寸過ぎに、野菜スープの料理を持參せられて、食事をすゝめられた。…(以下略)…
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店版、昭和14年発行)424p~より>
 実は、松田甚次郎は賢治の許を生涯2回訪れていて、この追想の前掲部分(追想の前半部分)は初めて訪れた昭和2年3月8日についてのことである。この部分からは、そのときチェロは2階に置いてあったこと、その際に賢治はオルガンを弾いたがチェロは弾かなかったことが導かれる。
 一方、これに続く後半部分はここでは割愛するが、二度目で最後の訪問となった同年8月8日の訪問の際のことについて記されており、そこにはこの時に賢治は甚次郎にチェロを弾いて見せたということも記されている。
  なお、この追想において松田甚次郎は「度々お訪ねする機を得たのであるが」と記してはいるのだが、彼自身の日記を見てみれば実はこの2回しかなかったことが判る。
 川村尚三の証言
 では、その他に同様の証言はないだろうか。調べてみたならば、次のような川村尚三の証言があった。
夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、昼食時だったので中に入ったら私にゴマせんべいをだした。賢治は米飯を食べている。『これ、あめたので酢をかけてるんだ』といったのが印象に残っている。口ぐせのように、『俺には実力がないが、お前たちは思った通り進め、何とかタスけてやるから』と言うのだった。その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば『今度は俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて一くぎりした夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起こらない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町を回った。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~より>
 もしこの川村の証言が真実を述べているとすれば、昭和2年の夏から秋にかけて賢治と川村は交換授業を行い、疲れたときにはレコード鑑賞をしたり賢治がチェロを奏でたりした、ということになる。
 現時点での判断
 では上記二人以外の人達の下根子桜時代のチェロに関する証言はあるのだろうか。
 まずは、当時の賢治の裏も表も一番よく知っていると思われる千葉恭だが、賢治のチェロについては何一つ証言していない。千葉恭はほぼ間違いなく大正15年6月末から下根子桜で賢治と一緒に暮らし始め、その後少なくとも半年は一緒に暮らしているはずだから、同年末までは一緒に暮らしていることになる。 したがって、二人が一緒に暮らしていた頃はまだチェロを手に入れていなかったという可能性が大である。とはいえ、千葉恭はそこを去って実家のある真城村に戻ってからもしばしば下根子桜を訪ねていると言っているから、チェロを見ていないことはないと思われる。ところが、千葉恭は当時の「下根子桜時代」の追想を幾つか著しているにもかかわらず、音楽関係については蓄音器のこと以外にはチェロのことも含めて全く触れていない。
 次に、羅須地人協会員の若者達である。彼らも賢治のチェロに関しての幾つかの証言をしているが、その証言の時期などが不詳だったり、疑問点があったりするのでこれらの人達のチェロに関する証言は現時点では検証のためには使いにくい。
 以上、ここまで少しく考えて来てみての私の結論は、
◇楽団を解散はしたものの、少なくとも昭和2年の秋頃までの賢治はチェロの学習をあの「一年の計」に則って一生懸命続けていたであろうと思われる。
 しかしその努力もむなしく、賢治のチェロの腕前は一向に上がらなかった。
である。
 残念ながら、「本年中セロ一週一頁」は順風満帆とは行かなかったようである。

 続きへ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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