みちのくの山野草

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警察からの圧力と賢治の対処

2024-05-15 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《コマクサ》(平成27年7月7日、岩手山)

 さて、特高等のすさまじい「アカ狩り」によって、昭和3年夏8月頃に賢治と親交のあった八重樫賢師は北海道は函館に、賢治のことをよく知っている小館長右ェ門は同年8月に小樽に<*1>それぞれ追われたというし、そういえば賢治の母校盛岡中学の英語教師・平井直衛が同じく「アカ狩り」でその地位を追われたのもその年の8月だった<*2>。よって、この年の10月に行われる「陸軍大演習(陸軍特別大演習)」を前にしてその8月頃にはとりわけすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていたであろうことが容易に想像できる。

 これらのことに関しては、例えば、名須川溢男はこう述べていたことを私は知った。
 ……労農党や啄木会で活動していた一人、佐藤好文も昭和三年秋の陸軍大演習の取締りには〝要視察人〟の危険人物とみられて、盛岡警察署から旅費を支給され、〝県外追放〟を受けて、関西方面に旅行し姿をくらまさねばならなかった、と語っていた(一九七七年八月三十日聴取、於盛岡市立図書館)。そのような弾圧の例もあり、あらゆる硬軟とりまぜた追放・弾圧であったといえよう。
            〈『岩手の歴史と風土――岩手史学研究80号記念特集』(岩手史学会)494p〉
 たしかにそうであったのだろう、昭和3年には「硬軟とりまぜた追放・弾圧」が連続して起こっていたのだ。しかも岩手では、岩手県で初めて行われる「陸軍特別大演習」を前にして特高が設置され、凄まじい「アカ狩り」の嵐が吹き荒れたからだ。のみならず、「旅費を支給され、〝県外追放〟」という懐柔策を私は知って、妙に納得した。それはもう既に、八重樫賢師も小館長右ェ門もそのような特高の策に嵌められたのであろうことは私も直感していたが、そのような策に佐藤好文も嵌められたのか、と。

 そもそも、この「大演習」の初日は10月6日であり、それは花巻日居城野での「御野立」であったから、花巻における「アカ狩り」旋風はなおさらのことであったであろう。そのせいでもあろうか、賢治と親交の深かった梅野建造自身は昭和3年の12月半ば頃まで花巻警察署留置所に45日ほど拘留されたという。しかも梅野は、同年に賢治は「2回ほど花巻の警察に」取調べを受けたということも証言していた
 となれば、この凄まじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた際に、賢治に特高からの圧力が何もなかったということはもはやあり得ないし、それなりの圧力があったであろうことは想像に難くない。それは、賢治が実家に戻った時期がまさに昭和3年のその8月であったことが示唆してくれるからでもある。

 とはいえそれは、井上ひさしが『イーハトーボの劇列車』の中で花巻警察署伊藤儀一郎をして言わしめている、次のような科白と似たものであったということが考えられるのではなかろうか。
 あんたがただの水呑百姓の倅なら、労働農民党の事務所の保証人というだけでとうの昔に捕まっていましたぜ。…(筆者略)…だが、町会議員、学務委員、そしてこの十一月三日明治節には町政の功労者として高松宮殿下から表彰されなすった宮沢政次郎さんの御長男ともなればそうはいかん。宮沢さんは、御自身でも何度も署へ足を運ばれて、署長と……。
               <『イーハトーボの劇列車』(井上ひさし著、新潮文庫)133p>
 たしかに伊藤の「科白」のとおりであり、父の政次郎は花巻の名士で実力者の一人だった。しかも、この「陸軍大演習」の最初の演習が行われたのは花巻においてであり、10月6日には花巻の日居城野で「御野立」が行われたのだが、その前々日の4日付『岩手日報』には、
 大演習南軍の主力部隊、第三旅團長中川金藏少将の統率の將校以下二千四百名は三日午後三時五分着下り臨時軍用列車で來花…(中略)…第三旅團長中川金藏少將は花巻川口町宮澤善治宅に宿泊した。
という記事があり、第三旅団長が賢治の母の実家「宮善」に泊まっていたというのだ。ということであれば、花巻警察署は「宮澤マキ」や賢治の父政次郎にはそれなりの配慮もしたであろうことは十分にあり得る。

 そんな折、私は豊田穣が『浅沼稲次郎 人間機関車』において次のようなことを紹介していることを知った。
 大正12年9月1日に発生した関東大震災の2、3日後のこと、農民運動社に泊まっていた浅沼稲次郎は夜中の一時過ぎに兵隊によって揺り起こされ、戸山ヶ原騎兵連隊の営倉にぶち込まれ、次に市ヶ谷監獄に入れられたという。そして約一ヶ月後保釈された浅沼は早稲田警察の特高から、
「本来ならば引きつづき当署で留置すべきところであるが、神妙にして郷里で謹慎していれば大目に見よう。もし、また出てきたら検束する」
といわれ、さすがの人間機関車も、それ以上悪名高い特高でリンチに耐える自信もなく、孤影悄然として三宅島にかえった。大正十二年十月のことである。
            <『浅沼稲次郎 人間機関車』(豊田穣、岳陽書房)113p>
これは浅沼自身が著した「私の履歴書」に基づいて豊田が述べたもののようであり、実際にその「私の履歴書」を見てみると、
 (早稲田警察の特高から)『田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する』と言い渡された。こうして私はしょんぼり故郷三宅島へ帰った。
            <『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎、日本図書センター)30p >
ということである。そこで私は、あの人間機関車でさえもそういう辛い選択をせねばならなかったことがあったのかと同情すると共に、その浅沼の判断を責めることもまた酷なことだと思った。そしてなにより、
    特高は当時、危険分子と目した人物に対して「自宅謹慎か検束か」という取引策も用いていた。
ということはほぼ確実であり、この取引策によって万やむを得ず筋金入りの大闘士でさえも「自宅謹慎」を選択せざるを得なかった実例があったということを知ることができた。

 一方で、先にも引用したのだが、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、…(投稿者略)…。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~>
ということであり、当時その弾圧の激しさに抗しきれずに清算主義に傾く活動家も少なくなかったということも私は知っていた。

 そこで閃いたのが、
 花巻警察署から、検束などはしないからその代わり、この10月に行われる「陸軍大演習」では花巻でも天皇の「御野立」が行われるので、それが終わるまではどうか実家で静かにしていてほしいと懇願され、それに従って賢治は自宅謹慎した。
という可能性を否定できないということだった。
 言い換えれば、次のような、
〈仮説:昭和3年8月に賢治が実家に戻った最大の理由は体調が悪かったからということよりは、「陸軍大演習」を前にして行われていた特高等によるすさまじい弾圧「アカ狩り」に対処するためだったのであり、賢治は重病であるということにして実家にて謹慎していた。……○*〉
が定立できることに気付いた。
 そして、たしかに今まで考察してきた事柄を振り返ってみれば、
・当時、「陸軍大演習」を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われた。
・賢治は当時、労農党稗和支部の「強力なシンパ」以上の存在だった。
・賢治は川村尚三や八重樫賢師と接触があった。
・当初の賢治の病状はそれほど重病であったとは言えない。
ということを明らかにできているからこれらは皆この〈仮説○*〉を裏付けてくれる。
 その一方で、この仮説の反例となるのではなかろうかと思われる、かつての昭和3年の「賢治年譜」の、
 八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
という記述についてだが、先に、
   当時の気象データ等に基づけば、「氣候不順に依る稲作の不良」も「風雨の中を徹宵東奔西走」するような「風雨」も共になかった。
ということを明らかにできているので、この年譜の記述にはあやかしな点が多くてとても反例たり得ない。
 また、現時点ではその他にこの仮説の反例となり得るものは見つかっていないはずだし、前述したように、
 昭和3年夏8月頃八重樫は北海道は函館に、小館は8月に小樽へ、平井も8月に盛中教師の職を追われるというすさまじい「アカ狩り」旋風が岩手に吹き荒れていた。
ということなどを併せて考えれば、先の〈仮説○*〉が検証されそうなので、なかなか筋のいい仮説だと私は自信が持てた。

 そこで、この件に関して拙ブログ『みちのくの山野草』において、『昭和3年賢治自宅謹慎』というテーマでかつて投稿し、〝 「昭和3年賢治自宅謹慎」の結論(最終回)〟等において報告をしたのだった。

<*1:投稿者註> 上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」の中で、
    労農協議会に属していて最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
             <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と述べている。
<*2:投稿者註> 金田一京助、平井直衛、金田一他人、荒木田家寿は皆兄弟であるが、その荒木田家寿が、
『種蒔く人』を初めて盛岡に持ち込んだのが、この直衛なんです。思想的には特にアカというのではなかったが、昭和三年、陸軍演習を前にして〝アカ狩り〟で盛中をクビになってしまった。
           <『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)37p >
と兄の直衛が盛岡中学の英語教師をクビになった事情を説明しているし、『白堊同窓会名簿』を見てみれば、「平井直衛 T12.3~S3.8 英語」となっていることから、盛岡中学を辞めさせられた時期が昭和3年の8月であることが確認できる。

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    来る6月9日(日)、下掲のような「五感で楽しむ光太郎ライフ」を開催しますのでご案内いたします。 

    2024年6月9日(日) 10:30 ▶ 13:30
    なはん プラザ COMZホール
    主催 太田地区振興会
    共催 高村光太郎連翹忌運営委員会 
       やつかのもり LCC 
    参加費 1500円(税込)

           締め切り 5月27日(月)
           先着100名様
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