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第五章 仮説の検証(Ⅱ)(テキスト形式)

2024-03-22 16:00:00 | 賢治昭和二年の上京
☆ 『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』(テキスト形式タイプ)
第五章 仮説の検証(Ⅱ)

 少し話がそれてしまった。再び元の道に戻ってまだ残っている証言等によって、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                 ……………♣
の検証等をしていきたい。
 ただしここからは仮説「♣」に対してだけでなくて、関連する事柄、例えば賢治の楽器演奏技能なども対象にしながら検証等をしてゆくこととしたい。

1 「文語詩篇ノート」
 それは、ちょっとスリリングな旅の再開でもある。この仮説を裏付けてくれる証言等が幸い今まで幾つかあったが、そのようなものが山ほどあったとしても、たった一つの反例があればこの仮説はあっけなく破綻してしまうからである。
 反例か「文語詩篇ノート」
 そのような意味で、この仮説の反例となる可能性の高いのが賢治自身のメモである。
 それは下図【Fig.3「文語詩篇ノート」三五、三六頁の写真】の三六頁の次のようなメモ
【Fig.3「文語詩篇ノート」三五、三六頁の写真】
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)539pより>

   八月、藤原ノ家ニオシカケ来ル
   十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式((ママ))   ……………①
である。そしてこの右側の三五頁を見ればその右上隅に
  「1927」
とメモされている。もちろんこの数値「1927」は1927(昭和2)
年のことを意味しているだろうから、このメモ①の意味しているところは
  昭和2年の11月に藤原嘉藤治は結婚式を挙げた。……②
と解釈できそうだ。
 もしそうであるとするならば仮説「♣」はちょっと危うくなる。なぜならば、この結婚式がもし仮に11月の半ば以降に行われていたとするならば、この結婚は賢治自身が強く勧めたといわれているようだから、藤原嘉藤治の結婚式の準備と当日の大役のために奔走・大活躍していておおわらわだったはずで、当然その頃賢治は岩手に居ることとなり、賢治が昭和2年の11月に上京して翌年の1月までの約3ヶ月間滞京していたということは時間的にやや無理が生じてくる虞があるからである。まあ、11月の上旬の挙行ならばぎりぎり問題なさそうではあるが。少し仮説「♣」の自信が揺らぎ、少し焦る。
 藤原嘉藤治の結婚式はいつか
 そこで、藤原嘉藤治がいつ結婚式を挙げたのかを別の資料でも確認してみよう。
(ア) まず「新校本年譜」では次のように
 昭和2年の中に
一一月 「文語詩篇」ノートに「十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」とメモ。
     <「新校本年譜」(筑摩書房)362pより>
とあるだけで新たに分かることは何も書かれておらず、昭和2年11月に藤原嘉藤治の結婚式を挙げたとも書かれていない。
(イ) 次は『年譜 宮澤賢治伝』ではどう書かれているかを見てみた。そこには、昭和2年のこととして次のように書かれていた。
 結婚式は北上川の川原でやろうという藤原説であったが、賢治はそれはあんまりといって盛岡の白藤慈秀の家で挙行することにした。
 九月である。費用は例の芳文堂のおやじから七十円ほど借りて藤原はモーニングを着た。賢治は父の羽織はかま紋付に扇子をもってあらわれ、花婿花嫁、親戚の坐る位置を決め式の万端を指図した。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)218pより>
 したがって堀尾青史は、藤原嘉藤治の結婚式は昭和2年9月であったと判断していることになる。挙式は11月でなかったし、もちろんあの「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に行われた訳でもなさそうだ。ちょっと安堵。
(ウ) そこで、念を押すために『セロを弾く 賢治と嘉藤治』でも確認してみよう。その略年譜には
 一九二八(昭和三)年
 三月(?) 宮沢賢治の仲人で小野キコと結婚。
<『セロを弾く賢治と嘉藤治』(佐藤泰平著、洋々社)234pより>
となっている。つまり、「昭和三年の三月に結婚したかな?」という意味の記載になっている。少なくとも昭和2年の11月には結婚式を挙げていないようだし、挙式が「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に行われた訳でもなさそうだ。かなり安堵。
 したがって、賢治のメモ①があるとはいうものの、実際には
・昭和2年の11月に藤原嘉藤治は結婚式を挙げていない。
・また藤原嘉藤治は「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に挙式した訳でもない。
と結論してもよさそうだ。
 ということは①の意味は②ではなくて
「藤原嘉藤治の結婚式の式場を白藤に頼んだのは11月だった」という意味だったのかもしれない。あるいは、単なる賢治の勘違いだったのかもしれない。
 したがって以上の事柄から判断して、「文語詩篇ノート」三六頁のメモ「十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」は少なくとも仮
説「♣」の反例とはなり得ないだろうと判断できた。正直これでホッとした。
 当事者達の証言
 ところで、この結婚に関しては当の藤原嘉藤治と白藤慈秀を交えた「座談会・賢治素描」における二人の証言、及び『こぼれ話宮沢賢治』における白藤慈秀の証言がある。
 ちなみに前者においては次のようなことがなど語られている。
藤原 …私たちの席に出てきた女給を見て、私が何気なく、「この人は、ぼくの好きなタイプの女性だ」といいました。そしてら宮沢さんが、「好きなら結婚しろ、ここでハッキリ返事しろ」というのですね。…(中略)…「えがべ、もろうべ(よい、結婚しよう)」と返事をしました。宮沢さんは、たちまちのうちに、間もない日曜日に、弘前の彼女の家までいってくれました。話は、とんとんまとまってしまいました。…(中略)…
白藤 はじめ宮沢さんは、青天井の下の川原で結婚式をやろうなどといっていましたが、たぶんお父さんやお母さんにとめられたのでしょうか、盛岡の私のところで式をあげました。式の万端、花婿花嫁、親戚の者などの坐る位置や扇の果てまで、宮沢さんが、さいはいをふって、ちゃんと滞りなくすませました。
藤原 …白藤さんの家は、そのころ盛岡の油町という町にありましたが、そこで式をあげました。盛岡駅でも汽車の中でも、宮沢さんは知人がおりますと、この人は藤原君の新夫人です。こんごよろしくと、紹介しましたし、桜の住宅の近くでも、こんど結婚しましたからよろしくと、紹介して歩きました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)65p~より>
 そして後者においては次のようなことが述べられている。
 宮沢さんは、この女性キコさんの実家をたずねて青森県まで行った。そして両親に会って、キコさんの結婚問題を話した。藤原先生のことについて話し、この先生とキコさんとの結婚について両人は既にその意志があるから、ご承諾してくれませんかと話しかけた。両親はやや考えていたが遂に諒解を得たので、花巻に帰り、両親に承諾を得たことを話した。キコさんは青森の実家に帰り、嫁入りの支度を整えて花巻に帰って来た。
<『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョーコム)37pより>
 これらの証言等からは、藤原嘉藤治の結婚に関しては賢治が大部骨を折ったことはほぼ間違いなかろうし、その具体的な中身も複数の証言があってなおかつ矛盾はしていないようだから、賢治が媒酌人を努めたことなどを始めとして基本的にはこのとおりであったであろう。
 『いわて人国記91』より
 一方、昭和51年に読売新聞社盛岡支局が出版した『啄木 賢治 光太郎』だが、これは前年の、昭和50年4月1日から一年間にわたって『読売新聞・岩手版』に連載された『いわて人国記』シリーズを元に一冊の単行本にしたものであるという。
 その際に、例えばそのシリーズ中の『いわて人国記91』(昭和50年9月30日付)は採用されなかった。その『いわて人国記91』の中に藤原嘉藤治の結婚に関する次のよう記述がある。
 彼の結婚は、もっぱら賢治の奔走によるものだった。前述の白藤慈秀の回想によれば、藤原から、花巻のある喫茶店で働いた一女性の気持ちを打ちあけられた賢治は、彼女の実家がある青森まで行き、両親の承諾を得たうえで式場を盛岡の白藤の家に決め、さらに当日は媒酌人の役まで務めたという。しかし、この結婚の経緯にしても、藤原は「多くの人が語っている以上に複雑な事実がある」と話す。
 「すばらしい賢治」
 「ただ、それらは現に関係者が生きている以上、公表できる筋合いのものではないんです。たとえ公表しても、自分が文章で書かなければ、ニュアンスが違ってしまう。第一、賢治は複雑な多面体の存在であって、結局のところ、だれもその真の姿が語れるはずがない。よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」
<昭和50年9月30日付『岩手日報』より>
 よって、この藤原嘉藤治の「ただ、それらは現に関係者が生きている以上、公表できる筋合いのものではないんです」という独白(?)からは、巷間伝わっていることが真実であるとは言い切れなさそうだということが分かる。また同時に、その裏にはいろいろ複雑な事情がありそうだということも、である。
 まさしく「よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」と賢治を激賞している藤原嘉藤治とすれば、彼は文圃堂版や十字屋書店版『宮澤賢治全集』の編纂等にも携わっている訳だからいろいろなことを知っているが故に、「多くの人が語っている以上に複雑な事実がある」 と取材した読売新聞社の記者に話したということかもしれない。
 一方で、この『いわて人国記91』には次のようなこと
 藤原はいま「宮沢賢治との出会い」と題した回想記を執筆を準備している。改めて事実関係を調査しなおし「賢治と同時代に生きたわたしの責任において」また「遺書」のつもりで、すべてを書き残しておきたいのだという。
<昭和50年9月30日付『岩手日報』より>
も載っていたが、残念なことにこの回想記「宮沢賢治との出会い」が世に出ることはなかったようだ。もしかすると、藤原嘉藤治の没後、奥さんがその遺品を整理する際に焼却してしまったあの中にそれはあったのだろうか。
 いずれ、現在行方不明中と思われる藤原嘉藤治の何冊かの日記や同じく藤治著の『我が年譜』が見つかれば、もう少し「複雑な事実」が明らかになるかもしれないが、現時点で言えることは藤原の結婚に関する「事実」は巷間伝わっているものとは大部異なっている可能性があるということだろう。
2 楽器演奏技能の真実
 少し前から私は、宮澤賢治のオルガンやチェロの演奏技能の本当の実力を知りたいものだと切実に思うようになっていた。かつての私は賢治は相当の実力があったであろうとばかり思っていたのだが、どうやらそういう訳でもなさそうだということに気づき始めていたからだ。
 チェロの腕前に関する証言
 そんな折、『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)を読んでいたならば、著者の横田氏は次のようなことなどをそこに著していた。
(1) そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。
 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンとのばして、「それは、なかなかなものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてはどうでしたか、と板谷さんが問いかけたのに対しては、「いや、それはちょっと無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里はひそめて打ち明けた。「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)112pより>
そして
(2) 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
 親友の藤原嘉藤治にいわせると、賢治はチェロのほかにオルガンもやっていたのだが、「しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりもまだ初歩の段階という感じでした」(『宮沢賢治』第五号の思い出対談、一九八五年)ということになる。
<前掲書116pより>
あるいはまた、
(3) 立教女学院短期大学教授の佐藤泰平さんは、賢治が仲人をした嘉藤治夫人キコさんから、生前こんな話を聞いた。「二人で一緒にチェロを弾いたこともあったですよ。二人共、下手だったね。べーべー、ブーブーって、馬の屁みたいな音だして。あのセロの音は好きでなかったね。私はヴァイオリンの音の方が好きだったから」(『宮沢賢治ハンドブック』)。
<前掲書120pより>
と。そして、同書ではこれに引き続いて阿部孝の語るところの「ぎいん、ぎいん」のエピソード(後述する)を紹介している。
 事実として受け止めれば
 ここまで同書を読み進めて、私は納得せねばならぬのだと覚悟した。今までは、賢治はチェロも、ましてオルガンは相当の腕前であったのであろうとばかり思っていたのだが、実はそうではなかったのだという証言がこれだけあることを知って正直落胆した。しかし、これだけの同じ様な評価をしている証言があるのならば、このような証言の方がその真相であり、それに目を背けてはいけないのだと覚悟した。この著者横田氏自身もチェロの独習経験があるということだからなおさらに。
 そしてもちろん、いみじくも横田氏が続けて同書で語っているように
 いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>
のだから、むやみにやたらに落胆してばかりいる必要もなかろうとも私は思った。
 実際、『宮沢賢治の音楽』や『セロを弾く賢治と嘉藤治』を著している佐藤泰平氏も次のように語っているからである。
■賢治の音楽的能力はどの程度だったのでしょう。
 技術的な面では、歌は得意でも、オルガンやチェロで曲を弾くのは苦手だったと思います。しかし、楽譜通り引くことよりも、音で想像したり、思索したりするほうを大事にしていたようです。音楽の鑑賞力、洞察力といった感覚は抜群で、自作の劇の演出(音楽の指導も含めて)もするなど、総合的な意味での音楽的能力が非常に優れた人でした。
<『宮沢賢治1985第5号』(洋々社4pより)>
 それよりは、この程度が賢治のオルガンのそしてチェロの腕前だったのであり、それが真相であったと受け止めれば、現在私が進めている仮説「♣」の検証をさらに押し進めてゆけそうな気もしてくる。
 というのは、澤里武治は
 後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
と昭和31年2月23日付『岩手日報』連載の「宮澤賢治物語(50)」において証言しているのだが、賢治はチェロをマスターしようと思って上京したのだったがそれがはかばかしくいかなかったということを意味するこの証言と前掲の(1)~(3)の中身は符合することになるからである。
 したがってこれら(1)~(3)からは、意気込んで上京した約3ヶ月の辛くて厳しいチェロの練習だったがその腕前を上げること叶わぬままに賢治は疲れ果て、病気になって花巻に戻ったというのが実態であったであろうということが現実味を帯びてくる。ひいては、賢治のチェロの腕前を証言しているこれら(1)~(3)は仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♣
を傍証してると言えそうである。
 賢治のオルガン演奏技能
 さて、昭和48年に井上敏夫氏が藤原嘉藤治と行った「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」の中で次のようなことが語られている。
◎ 宮沢君の音楽は視覚型
井上 音楽的には、宮沢賢治はチェロのほかに何かやってましたか。
藤原 オルガンをやっていました。しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした。だが、音楽を感じることに関してはとっても優れていました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)24pより>
この証言を最初に知った時私は驚きを禁じ得なかった。先に触れたように、賢治のチェロの腕前については最愛の教え子の一人が
 実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…
と証言し、同級生の阿部孝が
 実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで
と証言(詳細は後述)しているから、賢治のチェロの演奏技能はほとんど上達しないままであったであろうということは歴史的事実として受け止めねばならぬと覚悟していたのだが、賢治のオルガンの演奏技能までもが
   幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした
という友人藤原嘉藤治の証言を知ったからである。チェロの腕前についてはさておき、少なくともオルガンについては相当の演奏技能を賢治は持っていたとばかり思っていた私だけに、この藤原嘉藤治の証言はかなりのショックだった。
 しかし冷静になって振り返ってみれば、如何に私は巷間伝わっている賢治のイメージをそのまま鵜呑みにして来たのかということを思い知らされることでもあった。そして、私は今までそのことに疑問を持たなかったことに対して多少無念さも残るが、そんなことにこだわっているよもっとプラス思考をしよう。他ならぬ音楽教師で友人の藤原嘉藤治等の証言であるだけに今後は
◇賢治のオルガンの演奏技能はまったく初歩の段階であった。
というのが歴史的事実であったと受け止めざるを得ないようだから、そう捉えれば今まで見えなかったことがきっと見えてくるはずだと。
 そうすれば、例えば大正15年年12月12日付政次郎宛書簡「221」の中には
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
とあるが、この解釈も自ずから今までのものとは違ってくる。 以前の私ならこの書簡を読んで素直に
◇おお流石賢治、オルガンの腕前は凄かったんだ。プロの先生もひどく誉めてくれるようなオルガン演奏技能を持っていたんだ。
と称賛しているところだが、今後はこれを真に受けては真実から遠ざかってしまうのだということが分かった。賢治のチェロもまたオルガンでさえも全くの初歩であったと認めれば、新たな真実の世界が広がっていくような気がしてきた。
 例えば、賢治にはちょっと気の毒な気もするが、「先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」は賢治のついた嘘であり、方便であったということがこれで明らかになったということである。
 楽器演奏技能の結論
前述したように友人藤原嘉藤治、愛弟子澤里武治が後々語っていた証言、そして賢治の音楽に関して詳しい佐藤泰平氏の評価等から導かれる賢治の楽器演奏技能は、
◇最後まで、チェロは「ドレミファもあぶなかった」。
のであり、
◇最後まで、オルガンは「まったく初歩の段階」であった。
というのが妥当な結論であり、これが賢治の楽器演奏技能の真実であった。
 すると、賢治のチェロの腕前は最後まで全く上がらなかった訳だから、それ以前の時期であればその程度かそれ以下の腕前でしかありえず、仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                 ……………♣
は真実味をまた少し増した。

3 尾崎喜八と賢治
 さて、山と自然とクラシック音楽を愛し、「高層雲の下」等を著すなど雲の研究家としても知られている詩人に、尾崎喜八という詩人がいるという。
 賢治の尾崎宅訪問
 この詩人尾崎喜八に関しては、重本恵津子氏が『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』で次のようなことを述べている。
 さて、この時代でもう一つ書き落とせないのは、大正十四年か十五年かはっきりしないが、「蒼天居(尾崎喜八の自宅のこと:筆者註)」に宮沢賢治の訪問を受けたことである。 …(中略)…賢治生前の唯一の詩集『春と修羅』が千部自費出版されたのは大正十三年(一九二四年)である。そして賢治はそれを喜八に贈呈しているのである。
《或る日幾つかの郵便物にまじって、その畑中の一軒家へ一冊の詩集が届けられた。差出人は遠い岩手県に住んでいる未知の人で、タンポポの模様を散らして染めた薄茶色の粗い布表紙の背に、「詩集 春と修羅 宮澤賢治作」とあった。私もその頃第二詩集『高層雲の下』の原稿をまとめていたが、今と違って知らない人から自著の寄贈を受けることなどは稀だったので、新婚早々のおおらかな気分、世の中との新しい交わりや人の訪れを広々と迎えようとする気持も手つだって、この未知の詩人からの贈り物を一つ大いなる祝福のように喜んだ。ときに宮澤賢治二十八歳、私は三十二歳だった》(「尾崎喜八資料」第七号)
 賢治が尾崎家を訪問した用件は
「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということであった。
 その前に高村光太郎を訪ねたようだが、すげなくことわられたらしい。尾崎家でも喜八は旅行中で留守だった。夫人の實子は、この無名の詩人がはるばる岩手県から上京してきたと聞いて気の毒に思い、たった三日でセロが弾けるようになるものかどうかわからないが、知人を紹介した。当時親しくしていた新交響楽団のトロンボーン奏者でチェロも弾く大津三郎氏である。彼女は住所氏名を教え、「多分この方ならお望みを叶えてさしてあげられると思います。尾崎家から聞いてきたとおっしゃいますように」と丁寧に対応して賢治を帰した。
<『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』(重本恵津子著、河出書房)71p~より>
 ここからは次の4点が例えば導かれる。
 その一点目は、賢治の尾崎喜八宅訪問はやはり大正15年であろうということである。なぜならば、「大正十四年か十五年かはっきりしないが」とあるが、賢治の大正14年の上京は少なくともないというのが通説だから、この訪問の年次は残りの方の「大正十五年」である可能性が高いことになるからである。つまり、大正15年12月2日に上京した際の滞京期間中に賢治は尾崎喜八の自宅を訪れたという可能性が極めて高い。
 このことは一方で、大津三郎が前掲の「三日でセロを覺えようとした人」の中で、賢治への「チェロの特訓」の時期について
 それは大正十五年の秋か、翌昭和二年の春浅い頃だつたか、私の記憶ははつきりしない。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
と証言していることとも矛盾しない。つまり、「チェロの特訓」は尾崎及び大津の両者の証言が矛盾しない大正15年のことになるのではなかろうか。
 ただしその場合、「大正十五年の秋」ということなので「大正15年12月」という季節とは時期的に合わない。がしかし、賢治が大津三郎宅を訪問した際に「バターのお土産」を持参したという話(詳細は後述する)が残っているから、秋よりは冬の方が季節的にはふさわしく、大津の勘違いということもあり得る。
 その二点目は、尾崎喜八とは一面識もない賢治ではあるが、賢治は尾崎に『春と修羅』(大正13年4月20日刊行)を贈呈していたということの不思議さである。このとき尾崎は32歳だったというから、重本氏の同書所収の「尾崎喜八 略年譜」によれば大正13年のことにそれはなろう。しかもそれは「新婚早々のおおらかな気分」と書き添えていることから、大正13年のそんなに遅くない時期と思われる。なぜならば、同年譜によれば尾崎が結婚したのは大正13年の3月だからである。
 それにしても、どういう訳で一面識もなかったという尾崎に賢治は出来上がったばかりの『春と修羅』を早々に送ったのだろうか。当時は今とは違って、インターネットが普及していた訳でもない。如何なる方法で賢治は尾崎宅の住所を知ることができたのだろうか。いや、というよりは、当時の詩人達の間にはよくできたアナログな情報ネットワークが存在していたということなのかも知れない。
 では三点目であるが、それは賢治がチェロを買ったのはこの尾崎宅を訪問した頃ではなかろうかということである。というのは、尾崎の留守宅を訪問したことになったしまった賢治が、實子夫人に対して話したのであろう「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」が示唆していると思うからである。それは、この際の賢治の依頼は「たった三日でセロが巧く弾けるように」というものではなくてあくまでも「たった三日でとりあえずセロが弾けるように」なることを教えてもらいたいという意味に取れるからである。この点からも、
◇大正15年12月末賢治は最高級のチェロ一式を入手していた。
可能性が高いと考えられるのではなかろうか。
 最後の四点目は、「その前に高村光太郎を訪ねたようだが、すげなくことわられたらしい」という部分である。もしこの部分が著者重本氏の推測でなくて、尾崎喜八あるいは同夫人實子自身の証言ならば興味深い。
 というのは、当時賢治は千葉恭をして「先生は都會詩人所謂職業詩人とは私の考へと歩みは違ふし完成しないうちに會ふのは危險だから」(『四次元7號』の「宮澤先生を追つて(三)―大桜の実生活―」より)と言わしめている訳だから、私は何でわざわざ「都會詩人」の光太郎を訪ねたのか今ひとつ解らなかった。もちろん賢治は光太郎から『春と修羅』を誉めた葉書(<*>)を既にもらっていたようだからそのお礼のために訪ねたという可能性もあるとは思うが、もしかすると賢治が光太郎を訪ねた理由は尾崎宅を訪れたと同じ理由、すなわち「たった三日でセロが弾けるように教えてもら」えるようなチェロの先生を紹介してもらうためだったのではなかろうか。
<*註 吉田コトの証言>
 あれは初めて花巻に行ったときじゃなかったかな。甚次郎さんとしまちゃんと私、みんなで宮沢家でごちそうにな ったんですよ。…(中略)…
 このとき、賢治が自費出版で出した『春と修羅』の話もしてましたよ。「おらいで金出したんだけどよー。だれも認めなくてよー」なんて言ってた。ちょっと正確な数は忘れたけれど、一〇〇部だか二〇〇部だか、作家とか詩人に送ったんだって。だけど、みんな返事もよこさないで、草野心平さんと高村光太郎さんだけがハガキをくれた。そのハガキを賢治がお守りさんみたいに大事にしてたんだって。私、政次郎に「どんなこと書いてあった」って聞いたっけの、そしたら政次郎さん「なんもなんも」って。「贈ってくれたありがとう。ゆっくり読ませていただきます。これからもがんばりなさい」みたいなものだっけな。まあ、普通の礼状だね。
<『月夜の蓄音機』(吉田コト、荒蝦夷)15p~より>
 突如チェロを習おうと思い立つ
 したがって、この『花咲ける孤独 評伝尾崎喜八』に基づけば次のようなことが一つの可能性として浮かび上がる。
◇賢治が尾崎喜八宅を訪ねたのは大正15年である。その理由は、手に入れたばかりのチェロが弾けるようになりたいがために、それを三日間で指導してくれる先生を紹介して欲しかったからである。
 そして仮にそうだったとすれば、それに付随して
◇大正15年12月の滞京当初、賢治はチェロを習おうと思っていた訳ではない。その上京の際に賢治はチェロを持って上京していた訳でもない。
ということも自ずから言えよう。
 そしてこのことは次のことからも言えるであろう。それは、宮澤政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕の中には、タイプライター、オルガン、エスペラントのそれぞれの学習についての報告はあるものの、チェロの学習に関しての報告は一切ないからである。セロの「セ」の字さえもそこには出てこない。そしてそれは、この滞京中に賢治が出した他の書簡の中でも同様であってチェロに関しての記載は一切ない。やはり、もともとチェロの学習を思い立って上京していた訳でもなかろう。
 もし賢治が当初からチェロの指導を受けようとしていたのであれば、 「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」ということを依頼するために、チェリストでもない詩人尾崎喜八宅を訪ねる訳がない(もしかすると、賢治の「たった三日でセロが弾けるように教えてもらいたい」という口跡の依頼の仕方からすれば、賢治は尾崎がある程度チェロを弾ける詩人であると思い込んでいたということはあるかもしれないが)。
 あるいは、以前賢治は尾崎に『春と修羅』を贈っていてその住所を知っていて、しかも尾崎はクラッシック音楽にも造詣が深いということを賢治は知っていたからかもしれない。この滞京中に急にチェロをやりたくなった賢治はチェロを教えてくれそうな専門家を知らなかったので、細いつてだがその尾崎宅を訪ねたのかもしれない。逆に言えば、面識もなく懇意にしていた訳でもない尾崎喜八を賢治が訪ねたという行動は、賢治がチェロを習おうと思い立ったのはその滞京中に突如であるという可能性が高いことを示唆している。
 一方で、しばしば見られるように賢治(あるいは天才)の性向としては思い立ったら直ぐ飛びつく(諦めるのもまた早い)性向があるが、まさしくその性向をして賢治にチェロを買わしめたのがこの上京の折のことであろう。なおかつその時期もこの滞京期間の終盤(大正15年12月下旬)であろう。なぜならば「たった三日でセロが弾けるように」と言っていたようだから、そこからは念願のチェロは入手できたが、ほどなく花巻に戻らなければならないので時間的余裕がなく、そこでそのような無理なお願いを賢治はしたのだという推理ができるからである。いずれこのことは後程再考したい。 
 年末チェロ特訓後直ちに帰花
 さて尾崎喜八は、賢治没6年後の昭和14年版『宮澤賢治研究』(草野心平編)所収の「雲の中で苅つた草」において次のように
 多分四五年前になると思ふが、彼は上京中の或夜東京の某管弦樂團のトロンボーン手をその自宅に訪問した。海軍軍樂隊出身の此樂手は私の友人で、一方セロも彈き詩が好きで、殊に「春と修羅」のあの男らしい北歐的なノルマン的な、リヽシズムを愛してゐた。其時の宮澤君の用といふのが、至急簡單にセロの奏法と手ほどきと作曲法の初歩とを教授してくれと云ふのだつた。併し之はひどくむづかしい註文で遂に實現出來ず、やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つたのだが、その熱心さには、ワクナアのファンファールを吹き抜いて息一つ彈ませない流石のトロンボーン手さへ吐息をついて驚嘆してゐた。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)203pより>
回想している。
 もちろんこの「トロンボーン手」とは大津三郎のことであり、賢治が大津の自宅に例の「三日間のチェロ特訓」を受けに行った際のことを語っていることになろう。その特訓期間は通説では「三日間」だが、尾崎の言っている「一日か二日」も似たり寄ったりで、いずれその期間は短期間であったということをこの証言は駄目押ししていると思う。
 ただしこのことよりももっと注目したいことは次の二点である。その一点目は
  ・多分四五年前になると思ふが
にである。このことからは、この証言はそれほど昔のことを言っている訳ではないということになる。そして二点目は
  ・やがて一日か二日で宮澤君は郷里へ歸つた
にである。
 とりわけ、私はこちらの証言が重要だと思った。この証言からは、この際の滞京はこの「チェロの特訓」を受けた直後に終止符を打ち、即帰花したということが導かれるし、その信憑性がかなりの確度で保証されることになろうと思えるからである。さほど昔のことを言っている訳ではないからである。
 よって現時点での私の判断は、父政次郎宛書「222」の中の
御葉書拝見いたしました。小林様は十七日あたり花巻へ行かれるかと存じます。わたくしの方はどうか廿九日までこちらに居るやうおねがひいたします。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238pより>
に注意すれば、
◇大正15年12月の滞京については、その月末に大津三郎から「三日間のチェロの特訓」を受け、直ちに帰花した。
と判断できることになる。
 もちろん、賢治のこの頃の上京といえばそれこそ「昭和2年の11月頃の上京」ということも考えられるが、その際は澤里武治の証言に従うならば病気になって帰花したのだから当てはまらず、この特訓を受けて賢治は直ちに帰花ということが言えるのは大正15年12月の上京しか考えられないことになる。なぜならば、もう一つの「下根子桜時代」の上京、昭和3年6月の上京がもちろん当てはまらないことは自明だからである。

4 チェロの入手について
 エスペラントとチェロ
 さて、賢治はいつ頃からエスペラントを習い始め、いつごろから本格的に学び始めたのだろうか。
 このことに関しては、『世界の作家 宮沢賢治 エスペラントとイーハトーブ』(佐藤竜一著、彩流社)によれば、遅くとも大正15年の秋頃までには本腰を入始めていたであろうことが推測される。
 同書には『アザリア』の仲間小菅健吉の追想「大正十五年の秋」があり、そこには次のようなこと
 大正15年の秋、米国から帰国した小菅は帰朝挨拶のために母校花巻農学校を訪れ、その際下根子桜にも立ち寄ったが、その折賢治が次のように語ったという。
 当時、自費出版で、「春と修羅」「注文の多い料理店」を出したが、日本では解つて貰えないから世界の人に解つて貰う為に、エスペラント語で発表するので、エスペラント語を勉強して居るのだと云つて居た。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左ェ門編著)250pより>
と記されているからだ。このことから、賢治は大正15年の秋に小菅に「エスペラント語を勉強して居る」と語っていることが分かる。
 一方、大正15年12月に始まった羅須地人協会での講義だが、その講義予告表の中に
 三月中 エスペラント地人學藝術概論
<『イーハトーヴォ第一期』(菊池暁輝著、国書刊行会)
とあるし、『大正十六年日記』(いわゆる「手帳断片A」)の1月1(土)」の欄の
   国語及エスペラント
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)408pより>
とあることから、その後も賢治はエスペラントの学習を継続していたことが確かであろう。
 そして、大正15年年12月の上京の大きな目的の一つにエスペラントの学習があったこともまた確かであろう。
 それは、政次郎宛書簡「222」〔十二月十五日〕に賢治が次のようなこと
毎日図書館に午後二時まで居てそれから神田へ帰って…(中略)…午後五時に丸ビルの中の旭光社といふラヂオの事務所で工学士の先生からエスペラントを教はり、夜は帰って来て次の日の分をさらひます。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)238p~より>
をしたためていることからも言えるだろう。
 もちろんそれは、例の羅須地人協会の講義予定表中の「三月中 エスペラント」の講義のための準備ということもあったであろうが、エスペラントの学習はそれだけのためでないことも大津三郎の次のような証言から明らかであろう。
(「三日間のチョロの特訓」に関して)その時初めて、どうしてこんな無理なことを思い立つたか、と訊ねたら、「エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…」とのことだつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)5pより>
 しかし、ここで注意したいのは大正15年12月12日付政次郎宛書簡「221」で
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
と言っていることにである。この賢治の言に従うならばこの時の滞京の大きな目的の一つに
 詩作の必要上、オルガンの悪い処を直して貰ふこと
があったということを「12月12日」時点で賢治は言っている訳である。
 ところが先の大津の証言に従うならば、おそらくこの12月末頃の「三日間のチェロの特訓」の際に、
 エスペラントの詩を書きたいのですが、朗誦伴奏にと思つてオルガンを自習しましたが、どうもオルガンよりセロの方がよいように思いますので…
と賢治自身が言っている訳だから、賢治の滞京の当初の目的
│詩作の必要上オルガンの悪い処を直して貰ふこと│

│(エスペラントの)詩作の必要上はオルガンの悪い│
│ところを直して貰うよりをセロを学ぶこと │
へと変化していった、ということが言えそうだ。
 もしこの私の推論が事実に即しているとすれば、この賢治の変化は少なくとも「大正15年12月12日」以降に起こったということになるであろう。
 つまり
◇賢治は大正15年12月の上京の際は初めからチェロを学ぼうと思っていた訳ではなくて、滞京中のある時点から、次第に「どうもオルガンよりセロ」の方を学ぶべきだと思うようになっていった。
と言えよう。
 東京でチェロを入手
 以前から、賢治のチェロにはその胴の中にサインがあるということは伝聞していたが、その写真が『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)の口絵等に載っていることを知った。
 それを見てみると確かに
   1926.K.M.
というサインがあった。この「1926」とはもちろん1926年、すなわち大正15年のことだろうし
  「K.M.」とはKennji Miyazawa のK.M.である。
ことは間違いなかろう。したがってこのチェロは1926年(大正15年)に賢治が購入したものだと言えそうだ。
 ところでこのチェロをどこで購入したかは現時点では判明していないようだが、『チェロと宮沢賢治』の中で著者横田庄一郎氏は、もし地元花巻で購入したのであれば「このあたりからの証言が出てきてもよさそうなものである」(『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)52p)と指摘する。たしかに地元にいる私もそのような伝聞は聞かない。
 一方で、「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」という対談の中で井上敏夫の質問に対して、
 そのうちに宮沢君もチェロが欲しくなったのか、東京で一八〇円だかで買ってきました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)22pより>
と藤原嘉藤治が答えている。
 また、横田氏は前掲書でこのチェロは「鈴木バイオリン製の六号だということがわかっており、当時の価格表によると百七十円だったのである」(前掲書51p)ということ、しかもこの6号とはチェロの中では最高級品だったこと、また、チェロ本体に弓も含めればその合計価格は約一八〇円になるだろうということも教えてくれている。
 さらに同書には、
 賢治がチェロを習いに上京するとき、教え子沢里武治は、この箱にヒモをつけて運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
とも書かれてあった。
 そういえば、『宮沢賢治と遠野』(遠野市立博物館)の「澤里武治の略年譜」の中にも
  賢治のセロを背負い花巻駅同行し、賢治の上京を見送る。
とあったことを思い出した。この略年譜の記載内容とこれは符合するから、賢治はチェロを納める「セロ箱」も同時に購入していたことは間違いなかろう。

 すると、同書に載っている価格表には50円と60円の「セロ箱」があるから、最高級のチェロ6号と弓とセロ箱の一式で合計価格は
  180円+(50~60円)=230~240円
となる。
 このことに関して、次のような鈴木バイオリン製造株式会社の鈴木社長の
 賢治が買った当時、最高級品のセロは数えるほどしか作っていなかったのだと思います。
とか、
 私は研究したわけではないんですが、賢治のセロは東京で買ったものだと思います。
というコメントがやはり横田氏の前掲書(60p)に載っている。
 したがって以上の事柄を総合すれば、賢治はこのチェロをやはり東京で買った可能性の方が大である、と言えそうだ。
 大正15年末チェロ入手
 それにしても、花巻農学校を依願退職する頃の賢治の月給は約一〇五円(『宮澤賢治の五十二箇月』、佐藤成著、3pより)ということだから、このチェロ一式(約230~240円)を購入するためにはその2ヶ月分以上を要するほどの高額であった。となれば、滞京中の賢治はそのような大金を一体どうやって工面したというのだろうか。やはり、上京中に父政次郎に無心したあの「二百円」がこのチェロを買うためのお金だったのかもしれない、などと想像したくなった。
 ところで、賢治は大正末(正式には昭和元年末)に「チェロの特訓」を受けて後、直ちに帰花したと判断していいということは先に述べた。それではその際に既に鈴木バイオリン社製の最高級のチェロ一式を賢治は入手していたかについてだが、結論から先に言ってしまえば入手していた可能性の方が極めて高い。
 なぜならば、大津三郎が「三日でセロを覺えようとした人」において次のように語っていて、
 第一日には楽器の部分名稱、各弦の音名、調子の合わせ方、ボーイングと、第二日はボーイングと音階、第三日にはウエルナー教則本第一巻の易しいもの何曲かを、説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。ずい分亂暴な教え方だが、三日と限つての授業で他に良い思案も出なかつた。
<『昭和文学全集 月報第十四號』(角川書店)より>
この中に
 説明したり奏して聞かせたりして、歸宅してからの自習の目やすにした。
という大津の証言があるからである。つまり、この証言は、賢治が下宿先の神田「上州屋」に戻ってからチェロの自習をしたということを意味しており、
◇大正15年12月末賢治は鈴木バイオリン社製最高級のチェロ一式を入手していた。
ということが必然的に導かれる。これが、現時点での私の判断である。
 大正15年12月30日帰花
 さて、尾崎喜八の証言等を基にして
◇大正15年12月末念願叶って最高級のチェロを手に入れた賢治は、急遽大津三郎から三日間のチェロ特訓を受け、彼から貰った『ウエルナーの教則本』を携えて下根子桜に戻った。
と結論していいのだと私は判断しているが、ここからはその後のことについて述べてみたい。
 まず、宮澤賢治の大正15年12月の上京の際の帰花の時期についてである。通説ではいつ帰花したということになっているのだろうか。残念ながら、「新校本年譜」にはその年月日は明記されていないから通説はないようだ。
 ならば、ここは政次郎宛書簡「222」の中にある「…廿九日までこちらに居るやうにおねがひいたします」及び同「224」の「…二十九日の晩にこちらを発って帰って参ります」のとおりであったとして、
◇賢治は大正15年(正しくは昭和元年)12月29日に東京を発って花巻に戻った。
ということにしてもそれほど間違いはなかろう。
 ところで『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』によれば、
「…二十九日の晩にこちらを発って」とあることから、予定通りであったとすれば東北線下り一〇一・一〇七・一〇五・二〇一のいずれかを利用したことになる。
とあり、同書によれば具体的には
  列車番号  上野   花巻
  一〇一   18:20   08:21
  一〇七   20:05   11:53  
  二〇一   22:30   10:51
  一〇五   23:25   14:31
<ともに『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・伝記資料編』 (筑摩書房)228pより>
ということである。したがって、いずれにしても翌日すなわち12月30日には花巻に戻っていたであろう。
 「ぎいん、ぎいん」
 ところで、賢治の友人阿部孝が「大正の終わる頃」というタイトルの追想を『四次元 百五十号記念特集』に寄せていて、その中に
 二、チェロを弾く賢治
いつの頃からか、賢治は、野中の一軒家のあばら屋にひとり籠つて、食うや食わずの生活をしながら、毎日チェロを弾いていた。
 チェロを弾くといえば、聞こえがいいが、実はチェロの弦を弓でこすつて、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いつぱいで、それだけでひとり悦に入つていたのである。
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)24p~>
と賢治のチェロについて語っている。
 大正15年末、帰花直前に賢治は鈴木バイオリン社製の最高級チェロ一式を手に入れて、下根子桜に持ち帰った賢治は友人阿部孝の前でそれを見せびらかし、弾いてみせたに違いない。そしてその様が阿部にすれば「ひとり悦に入つていた」ように見えたのであろう。
 なお、賢治の帰花が「大正15年(正しくは昭和元年)12月末」で、阿部がチェロの「ぎいん、ぎいん」を聞いたのが「大正の終わる頃」だということであれば問題が生ずる。大正の終わったのは大正15年12月25日だから、同月26日以降は昭和元年となり、これだと阿部孝のタイトルは厳密には「昭和の始まりの頃」でなければならないからである。とはいえ、許容範囲と考えていだろう。なお、後述するような理由から阿部が「ぎいん、ぎいん」を聞いたのは12月内のことであろうと推測できる。
 なお、この追想で阿部はこのチェロを
   町の古道具屋で買いこんできた中古のチェロ
としているが、それは賢治のついたおそらく嘘であり、阿部から
 レコード集めに血道を上げて揚句のはてに、とうとう自分自身で、楽器の音を出してみなければ満足ができなくなつた彼が…
<『四次元 百五十号記念特集』(宮沢賢治研究会)25p~>
と見くびられているような賢治とすれば、そう嘯くしかなかったのであろう。
政次郎と賢治のチェロ
 ところで、次のような宮澤清六の証言があったことを横田庄一郎氏が紹介している。
 羅須地人協会のきびしくなっていく生活が続いて、賢治は一九二八(昭三)年夏に病に倒れ、実家に戻った。このときになって初めて、父親政次郎は賢治がチェロを持っていることを知った。佐藤泰平・立教女学院大学教授が賢治の弟清六さんから聞いた話である。
     <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽の友社)85pより>
 ということは、昭和3年8月上旬に賢治が病気になって実家に戻るまでは、父政次郎は賢治がチェロを持っていたことを少なくとも知らなかったということを意味している証言となろう(もちろん、清六は賢治が下根子桜時代にチェロを買ったことは既に知っていたであろうし、その現物も見ていたであろうが)。これは逆に考えれば、あの大金「二百円」の無心はやはり最高級のチェロ一式購入のためだったのであり、そのことを父に覚られたくなかったから賢治はチェロを持っていることをそれまで教えていなかったのであろうとも推測できる。
 これと似たようなことを板谷栄城氏が『素顔の宮澤賢治』において述べていて、
 筆者が沢里武治から直接聴いたところでは、この時黒いチェロのケースに紐をかけて肩に背負い、羅須地人協会から駅に直行したそうですが…(中略)…。羅須地人協会から駅に直行したということは、チェロのことを父親に知られたくなかったということを示唆します。
<『素顔の宮澤賢治』(板谷栄城著、平凡社)74pより>
と指摘している。
 たしかにこの前半の内容は、横田庄一郎氏がやはり澤里本人から得た証言に基づいて述べいるのであろう
 ケースは、チェロの形に合わせた黒い木の箱だった。教え子沢里武治は、この箱にヒモを付けて駅まで運んでいった。ヒモは縄だったという。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)58pより>
という記述とも符合する。
 ちなみに、下根子桜の宮澤家別宅から花巻駅まで行くのであれば、その途中に賢治の実家が地理的にも位置している訳だから、普通の上京であれば途中で豊沢町の実家に最低限顔を出すぐらいはするであろう。ところがその際賢治がそうしなかったということは、板谷氏の指摘どおりチェロを持って上京することを知られたくなかったという可能性が高そうであるし、あるいはそれ以上に上京そのものを知られたくなかったという可能性すらある。
 やはり矛盾を抱えている
 ここで少し視点を変え、父政次郎に宛てた書簡からこの「知られたくなかった」ことに関して少し考えてみたい。
 「現通説」では、霙の降る大正15年12月2日、澤里武治がチェロを背負って賢治と一緒に花巻駅へ行ったということになるが、もしそうであるとするならば、賢治がその際に父に会わずに直接花巻駅に行ったということはあり得ないのではなかろうかという疑問が、父宛書簡の文面から生じる。
 それは大正15年の次の書簡の中に
220〔十二月四日〕宮澤政次郎あて
 …小林様へも夕刻参り香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました。
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)304pより>
と書いているからであり、
222〔十二月十五日〕宮澤政次郎あて
 …今年だけはどうか最初の予定通りお許しねがひます。
 …今度の費用も非常でまことにお申し訳ございませんが、前にお目にかけた予算のやうな次第で殊にこちらへ来てから案外なかゝりもありました。
<『宮沢賢治全集9』(ちくま文庫)307pより>
と書いているからである。
 これらの内容からは、賢治はこの時の上京については父政次郎と上京前にかなりのことを相談し合っていたことが容易に導き出せる。前者の「香水のこと粉石鹸のこといろいろ伺ひました」とは政次郎から事前に託されていた小林六太郎との商売上の交渉のことであろうし、後者からは賢治の滞京中の予定や予算のことを上京前に政次郎に相談していたことが導かれるからである。
 となると、これらのことは大正15年12月2日の「現通説」とやはり矛盾することになる。なぜならば、澤里武治の証言に基づけば賢治は父政次郎に上京を知られたくなかったとみられる行動をしている一方で、賢治自身のこれらの書簡からはこの上京に関しては事前にかなり父政次郎に相談していたことが窺える訳で、父にその上京を知られて困ることは賢治には何もないはずだからである。
 ではこのような矛盾がなぜ起こっているのか。それはもちろんこの場合も、
 どう考えても昭和二年の十一月ころのような気がしますが…(中略)…その十一月のびしょびし霙(みぞれ)の降る寒い日でした。
『沢里君、しばらくセロを持って上京して来る。今度はおれも真剣だ。少なくとも三ヵ月は滞京する。とにかくおれはやらねばならない。君もバイオリンを勉強していてくれ』
<昭和31年2月22日付『岩手日報』より>
と澤里は証言しているのに、「通説○現」はその上京を
 大正十五年一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。
としているからである。
 そもそも「通説○現」は澤里武治の証言(『宮澤賢治物語(49)』や「沢里武治氏聞書」に載っている)に基づかざるを得ないのに、その澤里の証言自身が「通説○現」の持つ矛盾点をいみじくも指摘しているということになる。自家撞着してますよ、と澤里の証言が忠告していることになる。 
 そこで私は主張したい。「沢里武治氏聞書」や『宮澤賢治物語(49)』における澤里武治の証言に基づくならば、
◇大正15年12月2日の「現通説」は矛盾を抱えている。なおかつその矛盾は解消できない。
◇仮説「♣」ならば全く矛盾を生じない。また他のことも合理的に説明できる。
と。
 バターのお土産
 最後に、前に触れた「バターのお土産」、賢治が大津三郎宅を訪れた際にバターのお土産を持って行ったということについてここでは述べたい。
 それは、『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』の中で次のように語られている。
 大津三郎の次女川原日出(元近衛管弦楽団ヴァイオリニスト)は、母つや子から聞いたことを話してくれた。
「母は賢治が来たといわれている一九二六、七年ころは、生まれたばかりの私や子供のことでたいへん忙しかったから、父の来客のことは覚えていないんですね。賢治については『新聞紙にくるんだバターをお土産に貰ったことしか覚えていない』と言っていたのね」
<『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀男の生涯―』 (中丸美繪著、新潮文庫)116p~より>
 さて、もしこの話が事実であったとするならば、賢治のこの時の大津三郎宅訪問は寒い時期のことであったということになろう。これを大津三郎の記憶どおり「大正十五年の秋」だったとすると、バターが可塑化するのは15℃前後のようだから、バターを手土産とするには時期的に秋では難しそうである。そういう意味では「秋」ではなくて「冬」の方がふさわしい。実際賢治が大津三郎を訪ねたのは「秋」ではなくて大正15年12月だったと考えれば、手土産としてバターを大津家に持参したということは時期的に十分あり得ることであろう。
 ところで、その場合賢治は一体どこでそのバターを手に入れたのだろうか。もちろん花巻から持参するということはあり得なかったであろう。このときの上京は12月初旬だったのだから暖房の効いた汽車の中で持参したバターは溶けてしまったであろうからである。したがって、そのバターは東京で買ったものと推測できる。それもわざわざ賢治がお土産として持参するのであれば、普通のものではなくて岩手に関係するものが有力である。
 そこで当時東京で「小岩井バター」が市販されていたかどうかを知りたいものだと思って、「小岩井農場」の「小岩井農場資料館」に電話してこのことをお訊ねしてみた。すると小岩井農場では明治時代から既に「明治屋」を特約店として東京でもバター販売をしていたということを即答で教えてくれた(さすが小岩井農場資料館!、と感心)。
 それを受けて、「明治屋」にも同じ件で問い合わせみたたところわざわざ調べてくださり、明治35年より「小岩井バター」を一手に販売していたということを教えてくれた(とても対応が丁寧で親切であったことに感激)。よって、賢治は東京の明治屋が一手販売していた「小岩井バター」を購って、新聞紙に包んだそれを手土産に大津家を訪ねたということが十分にあり得る。
 バター持参は昭和2年上京時か
 それから、よくよく考えてみれば手土産に「小岩井バター」を持って行ったということであれば、同時にチェロも持って行かねばならぬので物理的にそれはなかなか難しいことでもある。すると、最初の大津三郎宅訪問の際はチェロを持っていかなかったということも考えられるし、はたまたバターのみを持参して大津家を訪ねたのは別な機会かもしれないとも考えられる。
 そしてその別な機会といえば、それこそ「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する」と言って滞京したその3ヶ月の期間中であったとも考えられる。
 考えてみれば、前年の12月に無理を言った頼んだ「三日間のチェロの特訓」だった訳だから、なおさらそのお礼に賢治が大津の家を訪れるということは自然の成り行きである。
 いみじくも例の註釈「*5」
 大津の夫人つや子の記憶では、次女誕生の後で昭和二年のことであったかもという。…(略)…これらのことから、チェロを習いに上京したことが、昭和二年にもう一度あったとも考えられるが、断定できない。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡校異篇』(筑摩書房)123pより>
の中の「昭和二年にもう一度あったとも考えられる」にあるところの「昭和二年」に賢治はバターを持って一年前のお礼に伺ったということが十分にあり得るということである。
 そしてそれは、まさしく仮説「♣」にあるところの「3ヶ月弱滞京」中にである。
 ところで、賢治は当時菜食主義であったことは千葉恭の講演会(昭和29年12月21日)後の質疑応答からも知ることができる。千葉恭は次のような質問を受けて、
問 賢治の食生活についての考え方は。
答 賢治は菜食主義ではあつたが、バターや大豆などの脂肪蛋白は摂取していた。しかし魚や肉などは食べなかつた。
<「羅須地人協会時代の賢治(二)」(『イーハトーヴォ復刊5号』(宮澤賢治の會)12p)より>
と答えているからである。
 そして、その菜食主義時代にあっても賢治はバターを食していたという興味深い証言である。このことからも、賢治が「小岩井バター」をお土産にしたことは十分あり得たであろう。
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
 さて、以上で関連する証言等については全て網羅したつもりだ(管見ゆえに見落としもあるとは思うが)。したがって、これで証言等による仮説「♣」の検証は完了である。
 その結果、ここまでに限って言えば、仮説「♣」の反例となるような証言等は一切ないことがわかった。同時に、この仮説を裏付けてくれたり、傍証してくれる幾つかの証言等があることもわかった。よって、仮説「♣」は現時点ではほぼ歴史的事実であると確信した。

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『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』の目次(改訂版)〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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