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お愉しみはココからだ!!

映画・音楽・アート・おいしい料理・そして...  
好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

料理は人生とよく似ている。過程を無視して急ぐとやけどをしてしまう

2017年08月20日 | パルプ小説を愉しむ
マンハッタンで超美味しくてイケているコーヒーショップの店長にして、仕事にもプライベートにもバリバリ充実しているあらフォー独身女性、クレア・コージーの素人探偵シリーズ第9弾、『深煎りローストはやけどのもと』(クレオ・コイル)の中の台詞。

このアラフォー女性もいいが、それ以上に良いのは義理の母親。とっくに齢60を超えているだろうに、人生を愉しむ術を知り尽くした感のある女性で、気品と教養、そして何よりも強さと逞しさを持っている。十分な貯えがある余裕だろうか、それとも今まで生きてきた人生からであろうか、滲み出る品性と趣味の良さが年齢を感じさせない女性であり、いつまでも「女」でいることを止めない欧米諸国の女性の鑑のような存在である。

台詞は、その義理の母にではなく、クレアの一人娘に対して発せられた言葉。なにせ、働いているレストランのオーナーシェフにして、親子ほど年が違う遊び人の恋人を持った娘に対して、恋愛の苦労を知り尽くした母親が言う台詞がこれだ。

こんな台詞が自由に発せられる男になりたい。尤も、私が言うのであれば、

恋愛は料理と似ている。過程を無視すると、碌なものができない。


「恋という言葉のすべての意味を理解した」

2014年02月02日 | パルプ小説を愉しむ
万城目学が描く世界は漫画チックだ。活字で書かれているために一応は小説というジャンルに含まれることは間違いないのだが、読んだ活字が目から入って脳内で処理される時には完全にマンガに変換される。目は活字を追っているにも拘わらず、脳ではマンガが投影されているという、不思議な世界で体験する浮遊体験にも似た奇妙な感覚を覚えながらの読書となったのは驚いた。

『ホルモー六景』は6つの独立した物語から成り立っているが、すべてが「ホルモー」という競技に関係しているお話が続く。特別な能力を有している人々が10人一グループとなり、20センチほどの大きさの鬼を引き連れて行う戦争ごっこ、というのが「ホルモー」なのだが、この小説は「ホルモー」自体の描写ではなく、それを行う人々の生活や感情の機微を映し出している。しかもマンガチックに。

題材が題材だけに現実離れした物語なのだが、第2話は主人公「俺」の高校自体の思い出話で、「もっちゃん」という親友を描いている。「もっちゃん」が電車の中で他校に通う女性に一目ぼれした挙句に告白することを決意し、「俺」の部屋で徹夜でラブレターを作る。「俺」も付き合わされるが、もっちゃんほど深刻ではない「俺」は、吹き出しが入った漫画仕立てにして早々に寝てしまう。翌朝もっちゃんは間違えて自分が作ったラブレターではなく「俺」が作ったものを持っていってしまった結果、相手に気味悪がられて振られてしまう。レモンがお話の進行途中のそこかしこに出てくるのはどんな伏線なんだろうと思っていると、相手に振られたもっちゃんは文学部に転籍して小説を書くようになる。梶井基次郎がもっちゃんだった。レモンは「檸檬」に昇華し、これまでにあちらこちらに出てくるレモンは梶井基次郎が世に出したたった一冊の本「檸檬」に繋がっていく。「俺」は、「檸檬」を手に取り早世した親友に思いを馳せながら、あの時もっちゃんがラブレターを間違えなければこの秀作は世に出ていただろうかと一人思う。

若き時を思い出しながら感傷的な気分に浸るという、映画『スタンド・バイ・ミー』にも似た感覚を覚えつつも、物語は「もっちゃん」が「俺」にくれた懐中時計を通して「ホルモー」に繋がっていく。京都支社に移った「俺」は、昔なじみの店にたまたま来た学生に懐中時計を渡し、その時計は「ホルモー」の時間を測るためのものになっていくが、その時計に印された「基」という字の意味は分からないまま学生たちは代々時計を受け継いでいく。世の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず...

「恋という言葉のすべての意味を理解した」という台詞は、もちろんもっちゃんが言ったもの。この台詞のインパクトと、梶井基次郎に繋げる技、そして時計は代々受け継がれ歴史は動いていくが人は時計の物語には無頓着という平家物語にも似た無常観。う~ん、参った。漫画チックだと軽く見ていたところに一本取られてしまっって完敗。

このオムニバス映画にも似た仕立ての小説を読んでいる最中に観た映画が『クラウド・アトラス』であったことも影響しているのかもしれない。時空を隔てて幾つものストーリーが一見脈絡なく進行していくこの映画がこの小説と私の中で同調していった。遠きよき日を思い出す心地よさと一抹の哀しさ、物語がどう進行していくのかというハラハラドキドキ感、小説と映画の両方の狙いにまんまと嵌ってしまった週末でした。





神はおれのことなどなんとも思っちゃいまい。

2013年11月10日 | パルプ小説を愉しむ
『ロンドン・ブールヴァード』が気に入ったので、ケン・ブルーエン(ブルーウンとも書くらしい)の作品、『酔いどれに悪人なし』を続けて読んでみた。前作に引き続き、いや前作以上に主人公のジャックはアル中でヤク中でしかもろくでなしだ。交通違反をしたアイルランド下院議員を殴ったために警官をくびになり、私立探偵もどきの仕事を始める。アイルランドで私立探偵という職業が成り立つかどうか自体、主人公自身が懐疑的に思っている。物語が始まって間もない頃ジャックはこう言う。

アイルランドに私立探偵はいない。アイルランド人はそんなものになろうとは思わない。
 -こんな書き出しでは、まっとうな探偵小説やミステリーになるであろうことは200%ありえない。物語の性格をあからさまにして読み手に小説のイメージを早々と持ってもらうにはいい手だ。そして続けてこう言う。

ある朝目を覚まし「神はわたしに発見者となれと仰せになった!」と叫んだわけじゃない。神はおれのことなどなんとも思っちゃいまい。
神には本物の神とアイルランド版の神がいる。だから神は無責任でも許される。興味がないんじゃなく、わずらわされたくないだけだ。


神をも恐れぬ所業とはこのこと。モラルもへったくれもないろくでなし野郎だが、どこかに可愛らしさがある男だ。行き着くところまで行っても、それなりの価値観を堂々と表明している男は、何らかの共感を得られる点が見つけられるのが小説だ。だからピカレスク小説というのが存在するのだろう。現実世界ではこうは行かない。

主人公のジャックはとんでもない呑み助で始終酔っている。酔っ払う程度も酩酊などという可愛いものではなく泥酔だ。記憶が飛んだ上ゲロを吐く。何度も吐く。ベッドのシーツの上に、寝転がったまま服の上に。しかもヤクもやる。ヤクをやった時の効果も見事に伝えてくれるが、醒めた時の感覚も強烈に伝えてくれる。

友人、知人にはいい人間もいるが、類は友を呼ぶでとんでもない奴も多い。

世の中には映画の登場人物みたいな人生を送っている連中がいる。サットン(ジャックの友人)の場合はさしずめ、出来の悪い映画みないな人生を送っているといったところだ。

依頼された事件を見事に解決する手並み拝見という物語ではない。なにせ解決しようという意志はあるが、酒を前にするとそんな意志など何処かに吹っ飛んでしまう奴だから。だから正統派ミステリーであるはずもない。ロクデナシが酒とヤクでヘロヘロになる中、あちこちで拘わりあう人物や出来ことを愉しむ小説だ。

アル中でヤク中ではあるが、主人公はなかなかの読書家だ。この作家が作る物語の主人公はやたらに本を読む。友人(これまたロクデナシの一人)は、小説ならエド・マクベインにかぎる、などとほざく。エド・マクベインが悪いんじゃなくて、こんな小説まで登場させる作者の選択の広さに驚く。

小説ほどではないが音楽も語る。エルビス、イーグルス、ジェイムス・ラスト、ザ・ロイヤルズ、ディクシーズ、アリソン・モイエなんて名前が挙がる。大半は知らない名前だ。アイルランドで流行ったのだろうか。U2についても薀蓄が語られる。小説、音楽、映画などをちりばめることで、主人公のキャラクターに共感できるものが生まれるとともに、「何だ、この男、ちょっとは奥深いところがあるんじゃないか?!」と思わせてくれるのだろう。いい手だ、覚えておこう。






カミングアウトする前のジョージ・マイケルみたいだ

2013年10月26日 | パルプ小説を愉しむ
ケン・ブルーエンの「ロンドン・ブールヴァード」の主人公ミッチェルは、なかなかのインテリだ。ムショでしっかりと読書した成果で、娑婆に出てからもしっかりと読書を続けている。だからこんな内輪ネタ的な台詞が言える。

ミッキー・スピレーンは登場人物にいつもウィスキーを飲ませてるが、それはコニャックという単語を綴れなかったからだ

出所後もやばいことに片足を突っ込みながらも、面倒から助けた女性から仕事を紹介される。彼女のおばである往年の舞台スターの世話係を。この60過ぎの元大スターのツバメみたいな立場になりながら、やばい仕事のおかげで次々と事件に見舞われる。でも、出会う事件は変な方向に進み、東欧あたりの秘密機関メンバーであった元大スターの執事兼元夫(自称)が仕掛けた罠に落ちていく。

ピカレスク的魅力を持ったミッチェルが一人称で語る物語は単純明快で、雰囲気が暗くなることなく一気に物語に引き釣りこんでくれる。

犯罪者でありながらインテリなミッチェルの台詞。

おれたちに明かりは要らない。きみの目がどんな部屋も明るくしてくれる。
 -歯が浮く台詞だ。でも使ってみたい。

ブライオニーはぴかぴかのバッグレディみたいな格好で現れた。ブランドもののゴミ袋みたいなものを着ている。
 -どこがよいのかちっとも分からないだけではなく、悪趣味的なものはこの世にありふれているよね。「ブランドもののゴミ袋」と呼ぶことにしよう

禁酒会ではよくHPという言葉を使う。ハイアー・パワーのことだ。ストリートでもHPという言葉を使うが...こちらはホームレスパーソンのことだ。両者に共通するのは酒だ。アルコール依存者は生きるためにそれを断たなきゃならない。ホームレスは生きるためにそれに依存する。
 -この言い回しは利用できそうだ。おなじ頭文字や略語を対にして、それっぽい注釈をつけれやれば、気の利いたユーモアにもなるし、嫌味にもなる。

その場かぎりの些細なことだと思っていたものが、思いがけないできごとを連鎖的に引き起こしていくことがある。自分が選択しているのだと思い込んでいても、予め運命づけられた結末のピースをはめているにすぎないことが。
 -こんな警句的な台詞を言えることがインテリの証だし、物語をハイパワーを与えてくれる。






「翼を探しているんだ。君は俺の守護天使にちがいない。」

2013年10月06日 | パルプ小説を愉しむ
グレゴリー・デイヴィッド・ロバーツの長編小説「シャンタラム」の中の台詞。武装強盗の罪で服役していたオーストラリアの刑務所を脱獄した男が、逃亡先のインド、ボンベイの街かとで知り合ったスイス人美女に対して言う台詞。

この「シャンタラム」はとても変わった小説で、脱獄囚が逃亡先のインドで心の友を見つけ、彼らと一緒にスラムで無免許の医者として人々を助け尊敬される一方、マフィアの一員として犯罪行為に手を染め、挙句のはてにソ連に侵略されていたアフガニスタンに戦いに行く、その一方で話の冒頭で出会ったスイス人のカーラという女性に恋心を抱きながら、裏切られ、その恋から逞しく成長していくという、とても欲張りな内容の小説。上・中・下に渡り各巻が約700ページある長い物語だが、不思議な力で絡め取られ、まるで中毒になったかのように引き寄せられた。

この小説に絡め取られるであろう事は、読み始めの1ページで分かった。映画やTVドラマにあるような、主人公とその周りでストーリーが進行しているのだが音が無音で何も聞こえないシーンを彷彿させる書き出しは、世界中の時間が止まった中で自分だけが人生という時間を刻んでいるような不思議な感覚を生んでいる。自分をヒーローとは思わずに自虐的に捉えている主人公に知性と理性を見出し共感し、これは凄いぞ!読む価値がある小説に出会ったという予感がビンビンに感じられた。

『愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、いま自分が知っていることを学んだ』 という不気味かつ深遠な書き出しで始まり、『私はヘロインの中に理想を見失った革命家であり、犯罪の中に誠実さをなくした哲学者であり、重警備の刑務所の中で魂を消滅させた詩人だ』 という自分の紹介の仕方も、これから始まる波乱万丈の人生の物語を、不可思議で魅力的にさせる魔力を持っていた。3つの繰り返し、3種類の異なる言い換えや形容が、あちらこちらで文章に説得力を与えるとともに魅力を加えている。

ストーリーも破天荒だが、主人公のリンが父として心から慕うインドマフィアのボス、カーデルとの哲学論争に似た会話と、リンの心の中に住み続けるカーラという女性の謎とリンの心の成長がこの物語を短なる冒険小説という小さな枠に止まらせずに、先々へと読み続けさせる力を持っているのだと思う。

タイトルの台詞はキザで歯が浮くようなものだが、善とはなにか、生命の始まりはどんなものだったかといった内容のカーデルとリンの会話は哲学思考そのもの。なんでマフィアのボスと脱獄した武装強盗がこんな高尚は会話ができるのだろうかと不思議に思うのだが、そんな懐疑的な考えを吹き飛ばすくらいの内容の濃さと文章力とでグイグイと惹き込まれて行く。

リンのヨーロッパ人仲間たちがいつも集うバーでの会話に、
『フランス人は世界で一番洗練されている』 というフランスからの流れ者の発言に対して、
『あんたの国の町やぶどう園がシェイクスピアを生み出すようなことがあったら同意してあげる』 と返す。これがウィットなんでしょうね。そんなことあるか!とか、フランス人の欠点を論って反論するのではなく、こんな風な相手に反撃できたら英語での会話が面白いのだろうね。(でも、日本でこれをやると嫌味な男にまっちまうのだろうが...)

これを受けたフランス男も大したもので、
『ぼくが君たちのシェイクスピアに敬意をはらってないなんて思わないでくれ。僕は英語が大好きだ。あまりに多くの英語がフランス語に由来しているからね』 と負けていない。論点がガチンコにぶつからずに微妙にずれながらも、会話自体はガチンコでぶつかって昇華していく。

『政治家というのは、そこに川がなくても橋を作ると約束するような連中のことだ』
 -言い得て妙だ。政治家とは世界のどこでも同じ種族なのだろう。

『錆付いた大型船と優美な木造船のコントラストは、世界における近現代の冒険のテーマが、海上生活というロマン願望から、暴利をむさぼる商人の味気ない効率重視の儲け主義へと移り変わった歴史を如実に物語っていた』
 -ロマンから儲け主義へ!という台詞は自分の就いている仕事にも使えそうだ。

『運命にはいつもふたつの選択肢がある-選ぶべき運命と、実際に選ぶことになる運命のふたつだ。』
 -渋い、渋すぎる。

チャンドラーが描くフィリップ・マーローが吐く台詞のようだが、「シャンタラム」のリンはマーローが持つヒーロー願望など欠片もなく、自分に対して後ろめたさを常に隠し持っている。スラムに住む貧しくとも心豊かで正直な人々に憧れつつ犯罪の手助けをする自己贖罪に満ち満ちた人物という設定も、物語を神秘的なものにしている。

お前が『もしもし』という声を聞くだけで、心配事があるかどうかぐらいのことはわかるんだよ

2008年11月15日 | パルプ小説を愉しむ
ボブ・グリーンは昔から好きだった。彼の書くエッセイは、ページにすると4・5ページが多いのだろうが、そんな短い文章の中にも、人間、一人きりで生きていく寂しさを持った中にも本来は優しさや思いやりを持った生き物であり、愛情がないと枯れてしまうか弱いけれどの素晴らしい存在であることを思い出させてくれる。

そんなボブ・グリーンが書いた長編小説「オール・サマー・ロング」を読んだ。とっても羨ましかった。40代半ばを迎えてしまった高校時代の大親友3人組が、ひと夏、しかも5月から9月初までのなが~い夏休みを自分たちにプレゼントし、どこに行くかも前もって決めることなく、気の向くままに自由に旅して廻るのだ。

同窓会に集った時に一人が言う、子供の頃は夏になること自体が愉しかった、夏は自由・喜び・冒険・恋の予感すべてを持った贈り物だった。なのに、大人になって、いつしか夏はかつてのような存在ではなくなった。春のあとに来て、秋になるまでの間の期間でしかなくなってしまった。ひと夏だけ、すべてを忘れて昔のように夏を愉しめたら、どんなにすばらしいだろうか、と。

確かに夏は興奮に満ちた時だった。誰にとってもそうだったと思う。一番長い休みだったこともあるだろうが、それ以外にもギラギラ輝く太陽、虫や植物の躍動する生命、そんな説明は後付けでしかない。単純に夏は愉しさ満喫の時期だった。そんな夏休みが大人になっても愉しめるのなら、すぐにでも飛んで行きたい。

そしてこの3人はやっちまった。仕事も家庭も後において(もちろん円満なかたちで)、なが~い夏休みを心から愉しみまくった。オハイオ周辺でぶらぶらしていたのが、途中から飛行機を乗り継いで東海岸から西海岸、南部テキサス、フロリダ。最初の頃は高校時代とは違っていることに戸惑いがあったが、いい大人として3人は心から夏、いま何ものからも自由であること愉しんだ。今の出来ごとの合間には、昔の思い出話が満載。旅の終わりごろには、3人それぞれに自分の人生での岐路となる出来事がおきる。一人は自分の会社の会長職を解任され、TVレポーターである主人公にはロンドン転勤の辞令がでる。もう一人は、かつての親友である実業家から自分の会社に来るように誘われ悩むが、それでも生まれ育った土地で高校教師であり続けることを選ぶ。親友の会社に移れば、年収が大いにあがり、苦しい家計も助かることがよく判っているのだが、それでも愛する家族と今のままであること選ぶ。今のままであることが大事なのではなく、富も名声、世界を飛び廻る華麗なキャリアも、人間一人の存在には関係ない。金持ちという外側、TVレポーターという外側は、内側にあるその人そのものとは関係ない。そんな台詞が、旅の途中で出会い、一時一緒に旅することになった女性の口から発せられる。3人組の一人は、ある日ホテルのバスルームにあった等身大の鏡に映った自分の裸を見て、「人間は皆骨袋だ」という。

ボブ・グリーンの根底にあるのはこんな考え方だったのだろうと思う。それが土台にあるからこそ、3人は皆人生の岐路を懸命に乗り切り(賢明であったかは神のみぞ知る)、日常へと戻っていく。3人の中で誰が一番はない。だが、最も地味でスポットライトを浴びる回数が少ない存在だった高校教師のマイケルの生き方を、ボブ・グリーンは最も優しく描いている。

ボブ・グリーンの文章を読むと、いつも心が穏やかになり、人生が素晴らしいと思うようになる。この長編小説もそうだった。それに加えて、何も心に病むことなどなかった子供の頃の幸せな自分が投影されて、懐かしく思うとともに、二度と戻らない夏の日を恋しく思った。

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主人公が母親に電話した時に、母親が尋ねる、「どこか具合が悪いんじゃないかい?」

たったひと言聞いただけで、その声の調子からこちらがどんな精神状態にあるかを判断できる人間がいることを忘れてしまうとボブ・グリーンは言う。自分の母親だから当然だとは言わない。大きくなるにつれて、そんな人がいることすら忘れてしまうようになることを気付かせてくれる。彼の文章は、愛だとか優しさといった言葉が大上段に振りかざされることはない。誰にもある生活の一断片、暮らしの中の一片から、人々の暖かさや優しさが満ち溢れてくる。「愛が大事」そんな台詞はない。あるのは、ごく普通の人のありふれた暮らしの中の一局面だけ。だからこそ、心がほっと息をして、あたたか~い気持ちになれる。

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邦題は前半が「夏を追いかけて」、後半が「夏がいっぱい」。なぜに前後半で題名が違うのだろか?そう言えば、旅の前半には子供の頃の思い出話があちこちに顔を出している。旅自体ではなく、主人公が思い出す子供の頃の夏の情景の方が話のメインといっても良いくらい。それが後半になると、3人それぞれが何をしたかが話の中心になってくる。やがては終りを迎える長い夏休みを大人3人が精一杯愉しもうとしている。そんなことに気付かされたのが、この前後半で異なる題名だった。当っているかどうかは知らない、でも私はそう思った。

まるで自分のリビングにヒトラーとスターリンが同席しているのを目撃したみたい

2008年03月02日 | パルプ小説を愉しむ


『豚が飛んだら』(ロビン・シスマン)という、人の目を惹きつける奇抜さと何となくストーリーを予想させる題名に惹かれて手にとってしまった。非常に軽いタッチの恋愛小説で、『ブリジット・ジョーンズの日記』などと同じように、女性が書いた肩のこらない現代風恋愛御伽噺。

イギリスからNYに出てきて画廊経営で頑張っている30代女性が、ずっと友達付き合いをしていた年下男と結婚する。しかも、フジテレビお得意の恋のすれ違い、互いの意地の張り合い、誤解によるすったもんだがふんだんにあった後でだ。男はイケ面(そのように描いてある)で、実は南部の金持ち家族の長男。実家をおん出てしまったために稼業は継げなくなるが、それでも才能ある小説化の卵。おとこの質を極めてよろしいことが、女性が書く恋愛小説の定番であることは韓国ドラマに劣らない。

しかも30代半ばだというのに、主人公のイギリス女は、独立心旺盛、画廊経営としての素質もバッチリで、しかもそれなりの容姿も備えているようだ。自分がヒロインになりきるときに、感情移入する先の女がデブでブス女で成功する訳がない。とは言って、モデルのような特別な存在では手が届かない。そこそこの女で、実は才能があって、見てくれも悪くはない。そんな女(実は自分の投影)が、素敵な男とスッタモンダの挙句に結ばれるのだから、現代版の御伽噺として読まれるのだろう。そんなことを言ってはみたが、男にとっても気軽に愉しめる恋愛小説でありました。


まるで自分のリビングにヒトラーとスターリンが同席しているのを目撃したみたいにびっくり仰天していた
自分のガールフレンドがたまたまルームシェアリングをさせている相手(女)と一緒にいるのを目撃したときの驚きのさま。

もはやイギリスでは、信仰目的で教会に来る人など皆無といっていい。結婚式、お葬式、洗礼式、クリスマス、-そんな行事が。食事を知らせる鐘の音みたいに礼拝堂に人を呼び寄せて、宗教心を栄養補給させるわけだ。
宗教心を栄養補給という比喩が気に入りました。著者は宗教には寛容な方と見た。

「業者はこちらの足りない分には責任を負わないの」

2007年10月13日 | パルプ小説を愉しむ
カルフォルニアよくあるオーシャン・ビューとつく地名なのに、海がまったく見えないと文句を言った相棒に対してジェーンが言った台詞。身長が20メートルはあったら海が見えるのだが、そこまでの身長が無いのは業者の責任ではない、というのがカルフォルニアの常識なのだろう。

『蒸発請負人』(トマス・ペリー)の主人公はインデアンの血を引くジェーン・ホワイトフィールド。職業は訳ありで隠れなければならなくなった人々を痕跡なく蒸発させること。そんなジェニーの元に、横領の罠を仕掛けられたために逃げざるをえなくなったという元警官の会計士ジョン・フェルカーが現れる。追っ手に追われながらカナダ国境を越え、身寄りのインディアン居留地に身を隠した後に全くの違う人間として生活するノウハウと新しい名前、各種証明書を与えて分かれた翌日、5年前にジェーンが蒸発させた男、ハリーが殺された。

逃がしたばかりのジョン・フェルカーが実は、ハリーを追っていた殺し屋だと知ったジェーンは、ジョンの跡を追う。追ってくることを予期していたジョンは生まれ故郷の森の中でジェーンを迎え撃つ。湖を渡っている途中に狙撃されて武器も身の周り品も失ったジェーンはインディアンの知恵を使って、殺しのプロと対決する。

ストーリーは面白いし、蒸発請負人という主人公の設定も奇抜かつ魅力的なのだが、話の運び方に着いていけない。訳が下手なのか、それとも俺の頭が悪いのか?ジェーンがジョンを殺し屋だと知ったことは明白なのだが、どうしてそう思うようになったのか?相手の行く先を推理する時もそうだが、細かいところの説明が理解できていない箇所が多くあり、それが興味を殺いでしまうのが勿体無いんだなぁ。

「愛にもいろんな種類がある。この種類のやつには指輪はついてない」

2007年02月18日 | パルプ小説を愉しむ
ジャネット・イヴァノヴィッチのプラムシリーズは、腹の底から笑って愉しめるスラップスティック・ノベルだと思う。

9作目の『九死に一生ハンター稼業』で笑かしてくれるのは、相棒のルーラ。失踪人を追ってラスベガスへ飛んだステファニーだが、ついてきたルーラの勝手な行動に振り回される。トム・ジョーンズのコンサート会場で、大大大ファンを自称して常軌を逸っしてしまった状態のルーラが舞台上のトムにTバックのパンツを投げつける、しかも特大の。見事に顔で受け止めたモノを見て度肝を抜かれたトム・ジョーンズは、頭の中が真っ白になって歌詞を忘れてしまうほど。そのコンサートがそっくりさんのコンサートと知ったルーラは逆ギレして、舞台に上がってパンツを返せと喚き出す。見物客や警備員とが入り乱れた乱闘騒ぎの中、やっとの思いで抜け出すことができるのだが、この場面は本当に笑わせてくれましたよ。

いつもはブッ飛んだ発言と行動で愉しませてくれるステファニーのおばあちゃんは今回は活躍の場がないのが残念だが、スフフのボディガードを見て、

「「あの男は年上の女を好きになると思うかい」

それに対するステフの心の中の台詞が、年齢差どころか種別をも乗り越えてしまう。
「若い女だろうが、年取った女だろうが、庭で飼っている動物だろうが」

読んでいていつも思うのだが、このプラムシリーズが映画化された時の主演女優のイメージが湧かない。小悪魔的セクシーさと可愛らしさを持ちつつもお転婆で、気が強いけれども小心で、ニュージャージの片田舎が世界のほとんどだと思っているような田舎娘で、家族と離れたいと思いつつも離れられない家族主義者、明日のことは全く気にせずに今日を生きるのが精一杯、そんな彼女のイメージは誰だ?メグ・ライアンの可愛らしさに、アンジェリーナ・ジョリーの強さと小悪魔的な容貌を足した感じかな?

「たとえこちらがなにをもらたしたところで腹を立てる能力を持つ人間がいる」

2007年02月11日 | パルプ小説を愉しむ
『天使と罪の街』(マイクル・コナリー)はとってもハードボイルドな読み物だった。「天使」というからにはロス・アンジェルスだろうと想像は付くが、4年間住んだことのあって多少は知っているこの街の知らない側面が描かれていた。

元LAPDの私立探偵のハリー・ボッシュ、過去の出来ことで冷や飯を食わされているFBIの女性プロファイラーのレイチェル・ウォリング。この2人に加えて、レイチェルの元上司にして元FBIの天才プロファイラーで今や詩人(ポエット)と呼ばれて追われている連続殺人魔。物語はこの3人が語り合いつつ、時々三人称でストーリーが進む面白い形になっている。

昔一緒に働いたことのある元FBI捜査官の妻から死因調査を頼まれたボッシュ。調査していく内に不審人物に行き当たる。一方GPSで指示したラスベガス近郊の場所に10人ほどの死体が埋められているのが発見され、犯人はその地点を"ハローー、レイチェル"と名づけて挑戦してくる。左遷された身であるために、正規の捜査メンバーからは厄介がられているレイチェルとハリーが協力して、ポエットを追い詰めていくのだが、さすがに元プロファイラーであるだけあって一歩先を行く後を二人は必死に追い続ける。行き着いた先は、数年前にポエットが殺し損ねた元LAPD警官を今度こそ殺害しようとするポエットの執念。大雨で洪水一歩手前となったLAリバー岸での二人の対決と川の中での決着。

マイクル・コナリーはチャンドラーがお好きなようです。マーロウばりのハードボイルドの役割をハリー・ボッシュに与えたのだが、ちょっと遣りすぎ。事件解決後、依頼主が子供に絵本を読んでやるところで、調査の発端となった元FBI捜査官はポエットに殺されたのではなく自殺だったことに気付き、レイチェルもそのことに気付いていたと責める。「俺はただ、嘘をつかれるのが嫌いなんだ」といって、折角の二人の関係を冷えたものにしてしまう。自分の流儀をあくまでも負い続けされることはハードボイルドには不可欠だが、ここまでする必要はないだろう。実世界では、こんな人間はハードボイルドを通り越して単なる堅物と言われるだけです。

不遇をかこっているレイチェルが冷たいFBIメンバーに対して漏らす愚痴っぽい台詞に実生活で使えそうなものがありました。

「あなたは批判をしたいだけで、解決策はいっさい提供しないのね」

「たとえこちらがなにをもらたしたところで腹を立てる能力を持つ人間がいる」


どちらも、会社にいる嫌な奴や上司をやりこめてやる時に使いたい台詞だが、直接言うには問題を起こしかねないほど刺激が強すぎるかもしれない。


「契約するのはあなた。わたしはそう仕向けるの」

2007年02月04日 | パルプ小説を愉しむ
こんな台詞を言われたら、しかも途轍もない美人に言われたら、脈がありそうと思うと同時にこのままなるようになれ!って思っちゃいます。実世界で出くわす可能性はほとんどゼロだけれども。

『仕事くれ』(ダグラス・ケネディ)の主人公ネッド・アレンは遣り手セールスマンだが、会社が買収される時にあっさりとクビ。高校時代の友人ジェリーに拾ってもらったものの、気がつけば仕事はマネーロンダリングの片棒担ぎで、不要になればいつ消されるかわからない裏金の運び屋。しかもセールス時代の天敵を殺す場面に出くわすように仕組まれ、容疑者最有力者にされて首根っこをつかまれてします。抜けるに抜けられず、消耗品のようにいずれはポイされる運命が明らか。そこでネッドが
仕組んだのは、自分を嵌めたジェリーが裏金をくすねたように見せかけるように細工すること。その細工はばれて身が危なくなる最後の対決シーンでは、運良く組織のトップにジェリーが勝手にやっているサイドビジネスとくすねている裏金を直訴することができる。これまたやばいことを平気でやるトップはジェリーからネッドに鞍替えして、ネドの命はジェリーの命と引き換えに助かった。

本筋は単純だがその廻りに色々な事件が加わる。そしてそれらがものすごい速さで展開し、如何にもニューヨーカーらしいエキサイティングかつスピード感たっぷりの物語。読んでいてついついスピードが速くなってしまいました。

「ヘルペスや淋病のことを知ったからって、セックスをあきらめましたか?」

2007年01月20日 | パルプ小説を愉しむ
『幽霊の怯えた男」(パトリック・A・ケリー)の素人探偵、ハリー・コルダーウッドは落ちぶれたマジシャン。場末のショッピングセンターでの冴えない興行でくびになった直後に、超常現象を調べてくれとの依頼を受ける。思いもよらない大金を積まれてOKしたものの、依頼人は翌日飛び降り自殺を遂げる。未亡人からも自殺の理由を探るように依頼されて、地元の美人記者といっしょに事件を探る。

物語は込み入ったままで謎が上手な伏線になっていない。マジシャンという役柄を生かしてトリックを交えて解いた謎を披露することが見せ場。未亡人の居間で引田天功ばりのマジックを見せつつ真犯人を暴いていく。犯人は遺言で古書店を譲られた後継者なのだが、自殺に見せかけた殺人に結びつかない事実が大半。結末に行くまでにこれでもか、これでもか、と事件や新事実が出てくるが、真犯人の動機はその中のチッポケな事実。超常現象は、殺された男が若い頃に捨てた女が身篭っていた実の子供が起こしたもの。この子供がマジシャンの見習いであったために、実の父親を脅かして復讐しようとマジックのトリックを悪用して超常現象らしく見せかけていた。これも反則だろう。物語を盛り上げようとする努力は買うが、何の脈絡もなく不自然ですよ。

なんじゃかんじゃと悪口ばかりになってしまったが、読んでいる分には可笑しくて愉しいダメ探偵ものではあった。

「下着もロンドンに洗濯に出しているに違いない!」

2006年11月19日 | パルプ小説を愉しむ
『死にいたる芳香』(ユベール・モンティエ)の主人公であるスイス人保険調査員が、著名なコニャックに毒物が混入していたことから、製造元であるコニャック地方の名家にやっかいになりながら調査を進めていく。調査員のペーターが入院中の妻であるシルヴィア宛てに実にマメに手紙を書くのだが、この手紙を介して物語が語られていくという形になっている。

ペーターがコニャック地方の名家の主人であるサー・ジョンを評するコメントが上のもの。夕食に招かれた際に主人の仕草やスタイルを見てこう言った。

夕食にスモーキングを着る習慣はロンドンで身に着けたのだろう。下着もロンドンに洗濯に出しているに違いない!

聞きようによっては厭味だが、主人公ペーターは仕事熱心ではあるが、どちらかと言うと世間ずれしていない方だから、こんな表現も厭味に聞こえない。ちょっとしたユーモアにとれてしまう。

元テニスプレーヤーであり、今や高級コニャック製造主として優雅かつ裕福に生活しているサー・ジョンが持つ貴重な原酒が危機にさらされている。サー・ジョンの妻は非常に知能指数が高いのだが欝病に陥っている。欝病になった原因はサー・ジョンの浮気のようだ。頭の切れる欝病持ちの女は何をして亭主の浮気に復習するだろうか?そして、それはいつ?

妻に書く手紙を通して物語が語られるのでゆったりとしたテンポで進むが、中々どうして物語りに惹きつけらたね。途中までは、あまりに欝病の妻にとって不具合な状況が続くので、これは他に犯人がいるのだろうな、と思ったのだが、その予感は半分当たったというべきか。

冒頭部分で、美食評論家が毒入りコニャックを飲んで死ぬのだが、この美食評論家の美食度合いが凄い。メニューを見て、焼き加減や調理法が説明されていないことからレストランが大した店でないことを見抜くこと、生ハムは何という血統の豚を何ヶ月乾燥させたのか、スモークサーモンはどこから買い入れたものか、牛肉は廃棄された牝牛か若い牝牛か?ホルモン抑圧剤を使用しているのか?傷みやすいフォアグラはどのくらいの期間貯蔵されているのか?チーズの仕入先はどこか?これら以外にも次から次へとメニューに関する質問を給仕長にぶつける。こんなことを気にしながらフレンチを食べたことなどありませんぜ。挙句に、スクランブルエッグという料理は、かき混ぜた卵をフライパンの上でフォークを使って掻き合せたものではないことも知らされた。かき混ぜた卵を目の細かい漉し器にかけてなめらかにした上で、湯煎鍋を使って9分間ゆっくりとかき混ぜて作るものだという。その間ダマにならないようにクリームを加えながら。

こんな感じで食に入れ込んでいる気違いがフランスには本当にいるんだろうか?彼らは「食は芸術」と考えているのは知っているが、それでもこれほどの入れ込みようは度を過ぎている。ただ舌のみで美味しいものが判別できればよかろうに。何かと薀蓄を語らないといけない人種は不幸だね。

「君はキャベツだ!カブだ!ペポカボチャのカタツムリ野郎だ!」

2006年10月09日 | パルプ小説を愉しむ
お国柄なのか英国の小説はテンポが遅い。一方、米国の小説は、すべてがすべて映画のシナリオ化を想定している訳でもなかろうが、話の運びがスピーディー。各章の終わりには何か仕掛けがあって、次の章を待てなくなります。

とは言っても、英国のスクリューボール・コメディ『プリーストリー氏の問題』(A・B・コックス)はスロースタートかつ淡々としたストーリー展開ながら、何か興味心に訴えるものがあって読み続けてしまった。

平穏な生活に満足していたプリーストリー氏は、友人たちのいたずらから、殺人犯として美女と一緒に逃げ回ることとなる。一緒の美女は、氏をいたずらでだましている友人たちの仲間。殺人事件も実は赤インキを使った偽装で、何も知らないプリーストリー氏は逃げ回る。いたずらを仕掛けた友人たちは、警察が事件究明に乗り出したことで、さらに悪ふざけを加速する。近所に住む男が、いけ好かないからという理由だけで犯人になるように工作までされてしまう。事件は、どこかの国の皇太子が殺されたことになり新聞沙汰に。それを読んだプリーストリー氏は自分のフラットにたどり着き、そこに美女を匿うことにした。

友人たちのうちの一人が良心の呵責に耐えかねて、事件の顛末をプリーストリー氏と警察に打ち明け、後はそれを知らない友人たちが踊らされ、結局は逆にいたずらを仕掛けられて、身から出た錆となるというお話。

盛り上がりが欠けるとともに何とも悠長な語り口で話が進むのだが、それでも読ませる何かがある。スルメのような味とでも言うのだろうか。そこはかとない味がだんだんしてくるのだ。それを味わうために、せっせと噛み続ける、そんな読書でした。

英国の小説らしくシニカルで乾いた皮肉が散りばめられたユーモア小説と紹介されている。当事者の視点にどっぷりつかっているのではなく、ちょっと離れたところから自分を見たユーモア感覚なんだな。表題の悪口からお話が始まるのだが、悪口をキャベツからカタツムリ野郎に変えた直後に、「植物から軟体動物へ乗り換えた」などという要らない説明まで付け加える。ヘミングウェイやチャンドラーなら決して入れない表現ですよ。この要らない一言が、底意地が悪かったり暖かかったりもする。

「レジナルド・フォスターは庭を眺めていた。彼と庭はどちらも満ち足りた気分になった」 などと言って置きながら「庭の方は、フォスター氏の慈悲深い視線の影響を受けた訳でも、それに気をよくした訳でもなかった」 などという文句が続く。何だ、このいやらしいユーモアセンスは?!。モッタイぶらないで簡潔に書け!、と言いたくなるのだが、このヘンテコなユーモアが無かったら、この話を読み続けることは決してなかっただろう。スルメ味のエッセンは、いけすかない英国流のユーモアだったという訳だ。


「なにしろ自制心以外のものならなんだってついているんだから」

2006年07月22日 | パルプ小説を愉しむ
『輝ける日々へ』(テレンス・ファハティ)の主人公のスコット・エリオットは元映画俳優の私立探偵。上司パディが車のライターで葉巻に火をつけようと車の窓を覗き込みつつ、

 「おまえさんのこの宇宙船なら、ライターもついているだろうと思ってな」

と言ってのけたパディに返した台詞が上。

映画監督ドルリーから身辺警護の依頼を受け、ハリウッドで、そして出資者の地元のインディアナでドルリーの身の周りを警護する中、広報担当者が殺される。出資者は地元の名家の人間で、この手のお話のお決まりごととして家族内の関係がドロドロ状態。家族の会社を運営する責任を務めている義姉、毅然として家族内に存在する母親、そして何をしたら良いのか分からず母親離れしない当人。ここに、戦争中に味方の砲撃を食らって醜い傷跡を顔と体に受けた傷痍軍人の別荘管理人、一族の言いなりの保安官、一族の会社で働くならず者たち。怪しい人物だらけ。しかも義姉は、スコットに気があるような振る舞い。ハードボイルドに決めるスコットが事件の核心に迫る、途中で何度かヘマをしながらも。

映画俳優・女優、映画のシチュエーションを会話の一端に入れながらの洒落た会話(知らないマイナーな映画ばかりだが)。主人公のスコットもすこぶる魅力的。ストーリー展開も面白い。だが、義姉が多重人格者で、自分の中にある死んだ夫の人格が人殺しをしていたなんてことが、物語の最後であるような展開は、探偵者としては如何かな?それまでのお話が面白いから構わないという人もいるだろうが、探偵ものに拘るファンには裏切りだろう。

でも、お話はおもしろいことは請合う。