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好きなことを好きなだけ楽しみたい欲張り人間の雑記帖

コージーミステリを読み耽る愉しみ その21 リリー・ウーとジャニス・キャメロン(ジャニータ・シェリダン著)

2022年05月13日 | パルプ小説を愉しむ
”リリー・ウーとジャニス・キャメロン”というシリーズ名は私が勝手につけた名前。なぜなら、このコージーミステリーにはシリーズ名がなかったから。著者のジャニータ・シェリダンは1974年に68歳で死亡している。著作も少なく、本作『翡翠の家』を含めて4作。あとはドロシーダドリーとの共著がある他、TVや映画の脚本書きを生業としていたとのこと。

リリー・ウーという名前から分かるように中国女性が主要な登場人物の一人。ハワイから移ってきたキャメロンとルームシェアをするのがリリーで、ルームシェアする建物を調べるためにキャメロンが選ばれたらしいことが読んでいて分かる。とは言え、ハワイ時代にキャメロンが働いていた大学学生寮にリリーがいたという偶然もあったが。ルームシェアする相手としてキャメロンが相応しいかを判断される面談がリリーの叔父の家でなされるのだが、その際の部屋の記述が気に入っている。

黒い羽目板の壁には刺繍をした絹の布がかけらていて、桃色の絨毯が部屋の奥まで敷き詰められている。彫刻を施したチーク材の家具の上には、紅石英や翡翠のランプがあった。部屋の中がかなり暖かいせいか、白檀の香りがそこかしこに漂っている。立派な蒔絵の衝立の向こうに、窓があるのかもしれない。

部屋のイメージを目に浮かぶように書いてくれること、しかもその部屋はゴージャスであること。これが私の欲しいもの。先日の『ブラッドオレンジティーと秘密の小部屋』にはこの手の記述が不足していたのだと分かった。

リリーの両親は裕福な漢方薬店を営んでいたが、知人に財産を騙し取られて落ちぶれた。騙した本人が刑務所から出所したので、娘のリリーが当人が住んでいた建物に間借りするための必要なルームシェア相手を探していて、キャメロンに白羽の矢が立ったのだった。関係者の一人にされてしまったキャメロンも何かあると気付きはしたが、リリーの言うがままに振る舞う。信頼が半分、好奇心が半分といったところか。本音をうまく隠して調査を進めるリリーも賢そうだが、それを見通したキャメロンの頭脳もなかなかのもの。

建物の管理人として入り込んでいたチャールズ・チャドウィック(リリーの親を騙した当人)は建物の地下で殺されて事件が起きる。間借り人の7人の中に犯人がいる。リリーが冷静沈着に調べ進む様子にキャメロンは気付いているが、深く問い詰めるような真似はしない。不思議な同居人程度として心配していると同時に何か裏があることに気付いている。そして二人目の殺人が起き、2つの事件が関連している連鎖が判明すると犯人が分かる。そして、リリーの両親に財産が戻り、リリーが幸せな暮らしに戻るとともに、キャメロンも家族の一員として迎え入れられる。

読んでいる中、リリーは探偵業を営んでいる女性なのかと思ったのだが、そうではない。両親のメンツを立て直すために叔父たちの助けを借りて動いているだけの勇敢で賢い素人なのだと分かる。時代は戦争が終わってから左程年月が経っていないころ。NYの騒然とした街並みの描写はないものの、静かに物語が進んでいくタッチは読んでいて快かった。

ほんの表紙に、深紅のチャイナドレスの裾を翻した女性のシルエットが描かれている。セクシーでありながらエレガントなデザインであったことに目を奪われてこの本を図書館で借りることにした。この本に出会えたことはラッキーだった。

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「彼女はチャイナドレスを着ていた。金糸で模様をあしらった白いレースのドレスは、実にエキゾチックな感じがする。黒い髪は中国風にオイルで整えられ、小さな頭がいっそうつやつやして滑らかに見えた。きれいな三つ編みで束ねた髪は、うなじのあたりで翡翠や真珠をちりばめた金色のピンでとめられている。耳元でゆれている翡翠のイヤリングは、海のように深く透き通った緑色に輝いていた。」」
これです、この描写。この4つの文章がなくても物語の進行には何の差しさわりもないが、あることによって俄然と彩りが帯びてくる。しかもさりげない描写でありつつも、リリーの家族の裕福度のみならずその場の雰囲気が手に取るようにイメージできる描写。表紙の挿絵に加えて私がこの作家を気に入った理由です。

「愛のささやきと勘違いしたもの。経験という名の神のお告げだったのかもしれない」
若いころの失恋を吹っ切っている様が分かる。「経験という名の神のお告げ」という比喩が美しい。このような表現ができる著者がもっと多作であればよかったのにと思わずにいられない。


コージーミステリを読み耽る愉しみ その18 チョコ職人と書店主の事件簿(キャシー・アーロン著)

2022年04月12日 | パルプ小説を愉しむ
シリーズ第二作『トリュフチョコと盗まれた壺』では、主人公ミシェルと親友のエリカが営むチョコレートショップ兼本屋が、地元の名士一族の所蔵物であったマヤ文明遺跡品が博物館に寄贈されるにあたってのお披露目パーティ会場として貸し出さるところから物語が始まる。名士一族の指名でケイタリング業者がミシェルのチョコレートショップのキッチンを台無しにしながらもパーティが続けられる中で、後で事件の関係者と目される登場人物を一同に登場させる方法としてはこのパーティという設定は上手だね、

今回は事件は、ミシェルの店で展示されていたマヤ文明の展示品が盗まれてしまう事件。他のコージーミステリーとは異なり人殺しでなかったので、舞台として設定されているエリアの雰囲気や状況を加味した上でのことかと思ったところ、あにはからんや殺人が起きてしまう。もちろん、ミシェルとエリカはだらしない地元警察に睨まれながらも事件を探っていく。

チョコレートを食べだすと止まらないという一種のチョコアレルギー症状を持つ私としては、ミシュルが作る様々なチョコラがすべて美味しそうで堪らない。アメリカの甘味というと、彼らが作るド派手な色使いをしたくどいばかりの甘ったるさしかないケーキに辟易していた記憶しかない私だが、チョコレートとなると一切の記憶がない。口にする機会があまりなかったようなのだが、今思うとちょっと残念ではある。

さてさて、このシリーズは主人公2人がまともに事件を嗅ぎまわることと美味しそうなチョコレートが色々と出てくることが特徴で、2人の恋愛はちょっとばかり脇に置かれている。男っ気がないというわけではないのだが、ミシュルの意中の人であるエリカの兄との中が進展しないのだ。遠くから見て憧れを募らせる中で偶にお話をする程度。エリカは警察に勤めるボビーとついたり離れたりはっきりしない。恋愛にもっとハイライト当てて物語の脇道も華やかにした方がいいよ、とアドバイスしてあげたいぐらい。加えて、主人公2人のリアリティ感が乏しい。20代なのだろうが、20代ならではの溌剌さが感じられない。ミシュルはやたら人が良いように描かれているが、そんなに気前が良すぎて店の経営が成り立つのかが読んでいて心配になるくらい。物語の中のお話という匂いがプンプンするのもいかがなものか...

ラテン系イケメン2名がいかにも怪しげな存在として登場するものの、犯人は寄贈元の地元名士一族の次男。自分の出来が悪いことを棚に上げて、自分の扱いが不当との思いから一族が持っていたマヤ出土品を秘密裏に売っていた。それに加担していたのが殺された元大学教授で博物館キュレーターとなった人物。仲介手数料をごまかしていたことが晴れて始末されてしまった。でも、いくらひねくれていても金持ちのボンボンが簡単に人殺しなどするのかねぇ?読んでいる時は気にならないあったが、これを書いている今は気になる。

ほかの人が着ればさぞかし素敵だろうというカクテルドレスに身を包んでいた。
皮肉が利いている形容の仕方だね。素敵なドレスも着る人次第ということか。

プロの作家というものは、”すごくきれい”よりもっと気の利いたセリフを思いつかなければだめな気がする。
ミシェルが恋心を募らせている相手(作家)がミシェルのことを”すごくきれい”と褒めた時に、物足りなさを感じた主人公がこう言う。でもその直後に「まるで妖精のよう」とフォローさせることで、恋のお相手としての資格を物語の中で維持し続けることが許されている。私だって”すごくきれい”以上のセリフを口に出せると思うよ、日本語ならばね。

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コージーミステリーの主人公の主人公も段々と専門化してきた。このシリーズではショコラティエと共同店の片割れで書店を営む親友の2人組の活躍する東海岸の小さな村が舞台。早くに両親に死に別れて兄に育てられたミシェル・モラーノは、何に対してもやる気が行かったが、ある日チョコレートショップでアルバイトをしたときにチョコレートの魅力と自分の嗅覚能力に気付いてショコラティエとなった。そうだよね、順風満帆で育ってきた優等生という設定では共感が得られないからね。名門貴族の生まれであっても貧乏だとか、成功したお金持ちであったとしても性格がひねくれているとか、何か欠点だったり弱点があることが主人公となるための条件だね。

落ち目の町で町おこしイベントをすることとなったものの、イベント直前にミシェルの作ったチョコを食べて人が死んでしまった。しかもその人は隣の店で写真店を営むお知り合い。チョコには毒が仕込まれていた。さあ、町は大騒動。そして町興しイベントにも悪影響が出そう。それよりも、ようやく軌道に乗りかけて御贔屓さんも出てきたチョコレート店の事業に大打撃。警察も頑張ってくれているが、やはり自分たちで解決することが早道と、ミシェルと親友のエリカは捜査に乗り出す。コージーミステリーとして当然の進行。

犯人は、ミシェルたちが通っていた学校の尊敬されている校長先生と町長の2人組。この二人が犯行を行うようなそぶりや気配がまったくなく、完全に裏をかかれた。町長は新興のソーラーエネルギー会社から裏で政治献金をもらっており、校長はその町長と不倫関係。これをつかんだ写真店主のデニースが二人を強請り始めたために犯行に及んだもの。

最期の最後まで、とうとう誰が犯人なのか分からなかった。と言うか、ヒントが少なすぎて読み手の犯人捜しが進まない。そして、お話の進行もスロー。ミシェルの視点で物語が進行するように一人語りで書かれているが、興味をそそられるサブエピソードが乏しい。他に魅力的だったり強烈な個性を持つような登場人物がいないのだ。平均的な人物、良くも悪くも、ばっかりの田舎町での物語なので半分くらいまで読むのが辛かった。メインプロットとサブプロット、そして主人公に対抗できる魅力的な登場人物、それがストーリーテリングには欠かせないことがよーく分かった作品だった。

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魔法のあまりきれいではない部分はお客様に見せたくなかった。
白鳥の姿は優雅だが水面では必死に水かきしていると言う。人には知られたくない必死の姿や舞台裏を隠すときに、「魔法の・・・」という言い方はとても綺麗だよね。

字幕なしでスペイン語のメロドラマを見ているような気分だった。
日本だったら「字幕なしの韓国ドラマ」と言うところか。なんとなく雰囲気は分かるが細かいところが理解できない、ちょっと気取ってはいるが分かりやすい。

「ちょっと褒めすぎかも。わたしの類語辞典はもうネタ切れよ」
類語辞典を出しても、何人が理解してくれるだろうか。相手の知性の程度にもよる言い方だね、

「チョコレートにはアレルギーがあるのよ」
「食べるとどうなるの?」
「太るのよ」

この意表をつく冗談はいい。いろいろなケースで使えそうだ。特に私の場合、チョコレートを食べだすと止まらないというアレルギーがあるので。

コージーミステリを読み耽る愉しみ その17 お毒見探偵シリーズ(チェルシー・フィールド著作)

2021年10月02日 | パルプ小説を愉しむ
女の賞金稼ぎ、大統領専属シェフ、元富豪で今は貧乏な元セレブ兄妹、嫌みな元PR会社社長、体形が大違いな似ても似つかない姉妹、自分勝手な元海軍提督夫人等々、コージーミステリーの主人公の設定にはいろいろな工夫がなされていることは作者にとって大いなる苦労だが、毒殺を恐れるセレブのための毒見を仕事とするお毒見探偵という設定には恐れ入りました。このシリーズ主人公のイジー・エイヴェリーは、生まれ育ったオーストラリアからアメリカ・LAに逃げてきた。理由は、元夫が自分の莫大な借金の半分をイジーにおっかぶせたために、悪徳金融会社(カモノハシ金融という名前)の借金取りから逃れるため。元々毒に強い遺伝子を持っている体であったのが幸いして(という便利な設定)、セレブの毒見を仕事とする会社「テイスト・ソサイエティ」で研修を終え、最終テストに臨もうとしていた。

その時、他の毒見役が毒のために命の危険に陥るという事態に遭遇して、テイスト・ソサイエティのメンバーと一緒に事件の究明することになった。怪しい人物がゴロゴロでてくるし、容疑者No.1の男がイジーに興味を持ったがためにストーカーまがいの行為をされたり、レイプドラッグを盛られたりして、コージーミステリお約束の泥沼に入り込む。そして、イジーのおっちょこちょいな性格がそれに輪をかけて事態を混乱されるものの、なぜか探偵の素養があったのか偶然なのか事件の真相にたどり着いてしまう。毒見役を殺そうとしては、毒見を依頼したセレブ・シェフ自身。毒見役が20年以上昔の事件を記した新聞記事を持っていたために、事件を明るみに出さないように毒を持ったのだった。真相を探りながら一歩一歩進むうちに、事実が一つ二つと明らかになっていく。真相が明らかになったのは、勘違いしたイジーから本人に一人で接触してしまった時。ロジカルシンキングで真相にたどりつくのではなく、ドタバタから真相を偶然知ってしまうというのもコージーミステリーのお約束通りの展開でした。

それにしても、訓練すれば匂いや味で毒の有無だけではなく、毒の種類まで判明するというのは本当なのだろうか?それでも、29歳、バツイチ、借金取りに追われるイジーの活躍はとても面白い読み物だった。

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ダナはこの部屋で、生活という作業を、ただ淡々とこなしていたようにも思える。
命の危険に陥った毒見探偵の部屋を調べた時のイジーの感想。「生活という作業」という言葉が、仕事を最優先させるために殺伐とした生活をおくる同僚の暮らしの様をよ~く表している。

この仕事についてまだ三日目だが、ドラッグより、ハイヒールが原因で死ぬ可能性が高いような気がしてきた。さすがアメリカ。ドラッグが比喩として使われるとは。

商品を売っているのか自分の魂を売っているのか、ときどきわからなくなるけど。
「自分の魂を売っている」、そんな手合いは日本にもいるよね。ゴロゴロいるそんな奴らをさんざん見てきたよ。

コージーミステリを読み耽る愉しみ その17 ニューヨーク五番街の事件簿(マライア・フレデリクス著)

2021年02月19日 | パルプ小説を愉しむ
シリーズ第一作を読んでから半年も経過していないのに、細かい事柄は頭から抜け落ちている。年のせいもあろうが、このシリーズは他のコージーミステリーとは異なり、主人公のジェインは完璧すぎる。完璧なレディース・メイドのジェインにだけスポットライトが当たっているのがこのシリーズの特徴だ。一緒に事件を解決するパートナーとなる新聞記者はいる、一緒にお屋敷で働くメイド仲間もいる、理解深い雇用主のお金持ち上流階級家族も登場する。でも、すべての人が刺身のつまでしかない。ジェインが完璧すぎて、ジェインの周りをある建物や景色程度にしか回りの人々の重要性がないとしたら、半年も経っていなくても細かい事柄が頭から抜け落ちるのは仕方がないよね。

第二作『レディーズ・メイドと悩める花嫁』では、雇い主家の長女が結婚することとなったものの怖気づいている。元々自分に自信を持てないタイプの女性であったのだが。お付のメイドとして結婚式が執り行われる屋敷に同行するジェインだが、そこで殺人事件と遭遇する。その屋敷に住んでいるのは、花婿の叔父家族。生まれたばかりの子供のナニーがある夜に喉をかききられて殺されてしまう。外部からの侵入者か、屋敷内にいる人間の犯行か。冷静沈着、頭脳明晰、マナーの完璧、すべてにおいて申し分のないジェインが調べて回った結果、犯人が明かされる。

第二話の特徴として、何十年も経った後でジェインが1912年を振り返るところがプロローグ、そして同じく何十年後かにメトロポリタン美術館で使えていた屋敷に飾られていた絵を娘と一緒に見にやってくるジェインがエピローグとなっている。そう、昔を回想する体になっているのが、第二話のスタイル。1912年はタイタニック号が沈んだ年で、その事件もジェインが働いていた上流社会ではごくごく身近な事件として登場している。社会での出来事を上手く織り込みつつ、時代背景を設定している異質なコージーミステリといったところか。


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事情がとても込み入っていてここでは説明できないけれど...
これには驚いた。ある章の書き出しがこれだったのだが、まるで実際の立ち話であるかのような言い回しだ。ちっとも小説っぽくない。こんな手を使うなんて、作者は手馴れだ。

悪いやつらがいないと言い募ったところで、善良な人たちを助けることにはならないんだ。
確かに!見たくないものから目を背けたところで解決にはならない。平和がいいと願っていても、それをぶち壊す国や人間がいる以上、理想だけを口にするだけで理想が実現するわけでないことと同じだね。

この世界に生まれてくることが、最初の人生の現実なんじゃないかしら
男女同権が叫ばれ、女性も投票権を与えられるべきという動きに対して、ある男が「男は世界に立っている、男は人生の現実と向かい合っている、女と違って」と言ったことに対してのジェインの反論。自分に都合の良い身勝手な論理を思い知らせてくれる。こんな調子にジェインは完璧な存在なのだ。


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シリーズ第一作の『レディーズ・メイドは見逃さない』 レディーズ・メイドと言えば、『英国王妃の事件ファイル』シリーズ(リース・ボ-エン著)の主人公のレディ・ジョージアナがダメダメな自分のメイド、クイーニーに対して「レディーズ・メイドだったら...」とご指導している際によく出てくる台詞です。

ダメダメ・メイドのクイーニーとは違って、このシリーズの主人公、ジェイン・プレスコットは良くできる優秀なレディーズ・メイド。言われたことはもちろん、言われなくてもメイドのプライドに賭けて率先してお仕事をやり遂げる様は完璧なくらい。そのジェインが、新しく雇われた新興リッチ家族(要は、旧家からは成金と呼ばれている家族)のお世話とすることとなった。大人しくパッとしない長女と違って、次女は美人で快活。その次女が、地元一の名家であり金持ちである御曹司と婚約することとなったが、この御曹司の素行が宜しくない問題児。幼い頃からの家族同士で付き合っているお隣さん(ジェインはかつてこの家のメイドもしていた)の娘と婚約するであろうと世間様は見ていたのに、よりによって成金の娘と婚約することとなって一波乱。当人同士も色々とあるようだ。

肝心の婚約発表パーティの日に、婚約相手の男が自宅で殺された。自分が使えている婚約者が怪しいという噂も立ってしまい、たまたま第一発見者となったジェインの出番と相成る。素行の悪い名家の息子、捨てられた形となるお隣さんのお嬢さま、そして自分よりも年下の継母の存在、父親が経営する会社が昔起こした事故を糾弾する社会主義活動家たち、ジェインに協力するのか自分のためなのかが不明なゴシップ新聞記者、こういった人間たちが登場する中、ジェインは冷静にきっちりと事実を追って事件の真相に辿り着く。やはり、父親の会社が起こした昔の事件が大きな要因になっていた。

コージー・ミステリーの分野に入る物語ではあるものの、他のコージーとは大いに異なる。ジェインの立ち振る舞いが完璧だし、物語の進行もごく普通のミステリー小説っぽい真剣さで進んでいく。コージー・ミステリーの主人公の多くは欠点が魅力であり、また物語を面白く愉しませてくれる役を持っているのだが、このシリーズにはそれは期待できない。有能で優秀なメイドが自分の明晰な頭脳と使命感を持って事件を解決している筋立て。

超リッチな家族の別宅の描写の中にあった一文:
どこまでもつづくように見える緑の芝に立つ建物は、自然界を支配しているようだ。まるでいまにも、古代ローマの巨大な円柱のうしろから神が姿を現し、嵐雲を払いのけたり風邪を呼び込んだりしそうな趣がある

洒落てはいるが、ユーモアというよりも冷徹な目を通して得られた感想という趣を感じる。そう、ユーモアを愉しむのではなく、ジェインに求められている完璧な役割を果たす姿を期待するのがこのシリーズの愉しみのようだ。

コージーミステリーを読み耽る愉しみ その9 海の上のカムデン騒動記(コリン・ホルト・ソーヤー著)

2021年01月23日 | パルプ小説を愉しむ
『年寄り工場の秘密』
第5作に引き続き、連続で第7作を読んだ。やはり、物語を面白くしてくれる毒のある主人公というスパイスに惹かれてちょっとした中毒になったかな。この第7作は、今までと2つ違うところがある。一つ目として、アンジェラが暮らす老人ホームの支配人が顔を出すこと。二つ目は、アンジェラよりもキャレドニアが活躍して犯人を見つけてしまうことだ。

「海の上のカムデン」の近くにライバルとなる老人ホーム「黄金の日々」ができ、カムデンにいた何人かがそちらに移ってしまう。支配人からしたら由々しき事態、であるから、お話の冒頭は支配人の登場で始まる。建物や設備に趣あるカムデンとは異なり「黄金の日々」は実用一点張りの施設で、しかも食事は美味しくない。それでも、2組の夫婦がカムデンから移り住んでしまう。その一人が、夜に幽霊を見たといって、アンジェラに正体究明を依頼してくる。こんな面白そうな依頼を断るアンジェラとキャレドニアではない。早速、お試しプランを使って「黄金の日々」に2泊してみるが、施設のサービスに不満を募らせはするが幽霊は一向に見つからない。そうしているうちに、「黄金の日々」で暮らしていた人たちが何人か「カムデン」の方が良さそうだと気付いて移ってくる。今まではペット禁止のカムデンだったが、入居者からの要望で猫だけは期間限定のトライアルのために許されることとなり、猫を飼っていた独身男性もカムデンに越してくる。ハンサムで女性入居者へのマナーも良いためにたちまち人気者になる。アンジェラものぼせ上ってしまうくらいに。

支配人にとっては天国のような状況となった中、新しく越してきた中の一人が殺されるという事件が起こる。警察からの自粛要請にも拘わらずに捜査に乗り出すアンジェラとキャレドニア。入居人にいろいろと話しを聞き、ゴミを集めてきだす。何かのヒントが隠されているのではと考えたのだ。嵐のような夜が来てアンジェラの部屋の窓枠が緩んでしまったために、修理することとなり何日か部屋を移ることとなったその夜、何者かがアンジェラの部屋に強力な殺虫剤を規定以上の量で噴霧するという事件が起こる。当初、メイドが気を利かせて殺虫剤を噴霧したのだろうと支配人に感謝したアンジェラだったが、量の多さに不信を持った警察はアンジェラ殺しを狙ったものだと睨む。

ここに至って親友のキャレドニアが頑張る。窓の外から噴霧型の殺虫剤を置くにはマジックハンドのようなものが必要と考えて、入居人に片っ端からマジックハンドを借りに行く。何人目かに借りに行ったのが、新しく入居したハンサムな独り者老人。この男、麻薬売買の仲介をしていた実は50歳台半ばの男だった。老人ホームに入っているような老人は、半ば呆けて毎日をグダグダ過ごすだけと思われ、麻薬売買と結びつけるような人間はいないと目をつけて、年を偽って老人ホームに入居していたのだ。最初はゴミをあさっていたアンジェラが何か気づいたかと思い、今度はキャレドニアが真相を知ったことに気付いて、部屋を訪れたキャレドニアを殺そうとした。危機一髪のところ、猫がキャレドニアの膝に突然飛び乗り、驚きのあまりキャルが騒ぎ出して相手の男に馬乗りになってしまうというアクシデントが。そこに、外で見張っていた警察が乗り込み、無事に解決。

今回は、途中で犯人が見えてしまった。アンジェラがあさったゴミの中に、デリバリーピザの箱がきれいなままで捨てられていた。ふつうは、チーズやトマトソースなどがついているはずなのに何もついてない真っ新なままゴミとして捨てられていたから、これにはピンと来るよね。何か良からぬものを入れて運んでいたのだと。コージーミステリーにしては珍しく伏線が張ってあった作品。


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"無計画"というのが、トッツイの生活様式を言い表すのにぴったりな言葉だ。もしくは”実用的ではなく空想的”、でなければいっそ”だらしなく、ぐちゃぐちゃ”という言葉がふさわしい。
分かりやすく説明するようでいて、段々と厳しい物言いになる、しかも一度で終わらずに二度も繰り返す。この底意地の悪い可愛らしい表現が、毒というスパイスが入った物語に相応しい。

キャレドニアがカロリーという燃料をボイラーにくべる必要があることを理解していた ー そして、それなりの量のカフェインで知性の炎を明るく燃え立たせなければならないことも。
夜型で朝に弱いくせに、食欲だけは旺盛はキャレドニアの朝の様子が垣間見られる。やっとこさ朝食に間に合うように登場したキャルの具合が目に浮かぶようだ。

「歳をとることは別にいやじゃないのよ。ただ、歳をとることで受ける仕打ちがいやなだけ。私は皺が嫌いだし、老眼鏡も、補聴器も「嫌いだし、いちいち書き留めておかなければ、すぐにものわすれするのも嫌いだし・・・・ 嫌いなのは、歳の数でじゃないわ。弱くなったり、痛んできたりするものの数なのよ。歳をとるって、そういうことね。」
そのとおりだ。加えるならば前立腺についても一言付け加えておいてほしかった。


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『殺しはノンカロリー』
第1作を読んだのが2019年9月だったから1年半ぶりのシリーズ。不思議なもので、主人公のキャラが立っているものは、時が経っていても物語の雰囲気は覚えているものだ。例えば、アガサ・レーズンものはその一つ。本シリーズも同様で、亭主に先立たれた齢80歳で身長150センチの元提督夫人のアンジェラ・ベンボウと親友で巨体を誇るキャレドニア・ウィンゲイト(アンジェラと同じ元提督夫人)が殺人事件を見事に解き明かす。

二人が入居している「海の上のカムデン」は、豪華ホテルを改築して作った高級老人ホーム。元提督夫人として人に命令することに慣れきっていたアンジェラは、この共同生活への順応に苦労したものの、次第に性格が丸くなったようだ。友人もできた。その中の一人が、カムデンから数マイル離れたところにスパを経営しているドロシーだった。

ドロシーが経営するスパで従業員が殺されるという事件が発生。ドロシーは事もあろうかアンジェラに相談。何せ、高級スパで殺人が起きたのでは、お客が離れて行ってしまう。警察はドロシーの目には頼りにならなさそうに映る。ダイエットとは無縁のキャレドニアを同行を嫌がるが、なんとか誘って、二人はスパに潜入捜査に入る。

殺されたのは、スパで働くスタッフの一人だが、二人の滞在中に料理アシスタントの女性も殺される。二件の殺人事件。しかも、一緒に行ったキャレドニアが冷蔵倉庫に閉じ込められる殺人未遂事件も起きる。スタッフか、一か月のダイエットプランでスパに来ている金持ちマダムの中の誰が犯人か?

アンジェラが立ち聞きしたことから、客の一人が犯人と判明。マダムと火遊びをした数少ないイケメン男性スタッフが、若いツバメになるチャンスとばかりに恋人と別れよう(スパで働いていた女性)と切り出したところ、逆ギレした女性スタッフがマダムを脅しに行って返り討ちにあってしまった、というのが真相。二人目の被害者は、その女性スタッフの友人で二人の中を知っている可能性があったので、用心のために殺されていた。冷蔵倉庫にキャルを閉じ込めたのは、キャルが何気なく漏らした言葉から自分の犯行がばれているのかもと心配したためにしたこと。

この手のお話の常として、犯罪解決のための伏線が前半に貼ってあるなんてことはなく、謎解きものとしては「ああ、そうだったのね」で終わるものでしかないが、解決に至るプロセスでの主人公の言動が愉しいかどうか。シリーズ第5作の本書でも、老人らしい偏屈さを持つ二人のキャラクターとそこから巻き起こる行動は相変わらずで、二人のドタバタが十分に愉しめる。


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歳をとると、意志の強さは驢馬のごとき頑迷さに、呑気はだらしなさに、几帳面さは粗探しに変わる。いつも自らの権利を主張してきた者は筋金入りのけちん坊になる。
そんな世の中の当たり前の中、なんとアンジェラは性格が「丸くなった」のだそうだ。

私が存じ上げているご婦人がたは、肌が隠れるローブを着ていますよ。人工的な蜘蛛の巣ではなくてね
捜査に来ていた警部補の言葉。

その様子を見たアンジェラは、ヘロデ王の前に進み出るサロメを演じたときのリタ・ヘイワースにそっくりだと思った。
古き良き時代のハリウッド映画が出てくるところは、80歳近いという設定のアンジェラに似つかわしい台詞。

そうだろうね。大勢の人がパラシュートなしで飛行機から飛び降りてるさ。おまけに何人かは生き残っているだろうさ。だけど、いくら不可能じゃないからたって、あたしはやりたくないよ!不可能じゃないと不愉快じゃないってのは、まったく別のことなんだからね!
アンジェラの大親友、巨体のキャレドニアの台詞。不可能と不愉快が別だってことを説明するのに、こんな大袈裟な台詞が出てくるところが人物描写としても面白いし、台詞じたいもとても面白い。


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『老人たちの生活と推理』 
年を取って偏屈になった老人たち、いや老女たちが活躍するユーモアミステリー。主人公のアンジェラ・ベンボウは、元提督の亭主を亡くして一人で生きている未亡人。時間と金はもちろん、誰よりも自分が優れているというプライド、周りの人々が年老いた自分に過大なサービスを提供することを当然のこととして要求するエゴ、時を経ても決して変わることの無い若くて賢くて美しい自己イメージを人一倍持っている。特に最後の自己イメージが問題。周りに対する不当とも言える要求の土台になるのだから。頭の中を占有しているという矛盾と不条理に気付かずに押し通せるのが老人の特権なのだ。

アンジェラが暇を持て余している時に知り合ったのが、キャレドニア・ウィンゲイト夫人。これまた金は充分にあって、しかも威風堂々。キングサイズのダブルベッドを優に二台はおおうエレガントな衣装と、普段着のように無造作につけている宝石の数々。サイズの描写から、マツコ・デラックスを想像してまう女性だね。キャレドニアが澄んでいるのが、海辺の高級老人ホームの名前がカムデン。ここで、お騒がせな老人たちが巻き起こす騒動と、殺人事件解決の顛末が描かれている愉しいお話し。

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ずんぐりひしゃげた茶色の建物は、フランク・ロイド・ライトのゴミ箱から拾ってきたかのようなデザインだ。

人は歳を重ねるにつれ、おのずと個性が際立ってくる。鷲鼻の青年は、本物の禿鷲に。りっぱに胸の張り出した娘は、やたらと胸のせりだした鳩になる。さらに内面や精神的は個性も際立ち、セメントで固めたように固定される。二十歳のすらりとしたブロンド美人のアンニュイな魅力は、単なる不精な五十女のだらしなさに。食べ物をおもちゃにする少年は、全部食べきらないうちに夕食がさめてしまう愚図に。好奇心の強い子度もはお節介な年寄りになり、ガキ大将は暴力夫になり、ませた少女は不倫妻になる。
こんなふうに、誇張してユーモアたっぷりに言い切る台詞がコージーミステリーの愉しみの一つ。実生活でも使ってみたいが、時と場合と、そして聞かせる相手を選ばないと、「偏屈で気難しい年寄り」と言われてしまいかねない。

全員が老人という環境にあっては、死は奇異なものでも以外なものでもなく、単に約束を何度も先延ばしにされ、ついにしびれを切らして現れた客のようなものだった。

コージーミステリーを読み耽る愉しみ その16 大統領の料理人シリーズ

2020年09月18日 | パルプ小説を愉しむ
シリーズ第二作となる『クリスマスのシェフは命がけ』を前作からほぼ一年ぶりに読んでみると、何かと気になることが多い。

まず、どんな設定だったのかの紹介が中々出てこない。例えば、スー・グラフトン描くキンジー・ミルホーンのシリーズでは、必ず冒頭2・3ページの内に必ず「私の名前はキンジー・ミルホーン」のきめ台詞で始まる自己紹介が必ずあって、これがあるからキンジー・ミルホーンの世界に安心して入っていけるサブリミナル効果的な儀式になっている。そこまでは望まないまでも、久しぶりにシリーズを読む読者のために、安心して物語に没入できるような配慮が欲しい。自分が誰で、なぜこの仕事に就いているか、等々。特に、前作でアシスタントシェフからエグゼキュティブシェフに昇格したのだから、その経緯なども簡単に振り返って欲しかったな。

そして、こちらは致命的だと感じたのだが、料理の紹介がなおざり。ホワイトハウス内での事故死事件の真相究明に一役どころか二役も買うことでミステリとして物語が進展することは分かるが、ホワイトハウスのエグゼキュティブシェフ、つまり米国元首に料理を振舞う責任を持っている立場の人間として、用意する料理が涎が垂れるほど美味しそうに紹介して欲しい。クレオ・コイルの「コクと深みの名推理シリーズ」では、コーヒーの味どころか香りまで感じるような描写がなされており、これがシリーズを読むもう一つの愉しみになっている。単に、ホワイトハウスのエグゼキュティブシェフという設定のコージーミステリだけでは物足りないのです。

夫人の方は対照的で、夫よりかなり年上らしい。背中も少し曲がって見えるけど、これはたくさんつけている宝石が重いせいかもしれない。わたしはニューヨークのティファニー以外で、これほどきらきらまぶしい宝石類を見たことがなかった。
いやらしくなるほどではない軽い皮肉ですね。

若くて美しい女性が、こんな年寄り相手にコーヒーを飲みたいと? それを断るほどまだもうろくしちゃいないよ。
似たような台詞が他の物語でもあったが、こちらはさらっとしている。台詞がベタっとしておらず、良い意味で軽いことがこのシリーズの特徴かもしれない。

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第一作が◆『厨房のちいさな名探偵』 。
アレルギーを考慮して、主催、付け合せ、デザートの組み合わせを練るこうしてなんとか、解けたルービック・キューブの面のように、料理のラインナップを整った。

先端技術ですね。これならジェイムス・ボンドも料理することができるでしょう


 登場人物の魅力度 ★★★
 ストーリー度   ★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★★

コージーミステリを読み耽る愉しみ その15 ミステリ書店シリーズ(アリス・キンバリー著)

2020年08月22日 | パルプ小説を愉しむ
出だしはハードボイルド調。1949年、場所はロードアイランド州の小さな町キンディコットに、私立探偵のジャックが人探しのためにやってくる。そっけないの描写に対して、ジャックのシニカルな物言いや態度がダークでニヒルで殺伐とした雰囲気を醸しだす、絵に描いたようなハードボイルド小説かと思いきや、タフな探偵ジャックはいきなり殺されてしまう。

そして、時は突然に現代へ。場所は変わらずロードアイランドのキンディコットという町で書店が舞台となる。ニューヨークの出版業界でキャリアをすり減らすことを諦めた主人公ペネロピ・ソーントン・アクルアが、叔母のサディと一緒に経営する書店の経営立て直しの一環として招いたベストセラー作家、ティモシー・ブレナンを招いたベント会場であるその書店で、こともあろうかブレナンが死んでしまったのだ。しかもイベントの最中に。死因は毒殺。ピーナッツアレルギーだったブレナンが飲んだペットボトルの水に、ピーナッツ成分が混入されていた。しかも、ベストセラー作家にペットボトルを手渡したのはペネロピというだけではなく、ベストセラーが死んだ聖地となった書店に次から次へと人が押し寄せて書店の売り上げは空前絶後の状態。状況証拠としては最悪の状態。ここで突然、ペネロピの頭の中で一人の男の声が響く。その男とは、60数年前にこの町で殺された私立探偵のジャックだった。幽霊探偵の登場と相成る。何故か、書店の建物から外に出ることができない幽霊探偵がペネロピにいろいろなアドバイスを与え、素人探偵のペネロピが独自の調査や聞き込みをすることで犯人が炙り出されてくるというお話し。

ティモシーのベストセラー・シリーズはマンネリ化したために一度は人気が落ちたのだが、最近の3部作の出来が良いために以前以上に人気が出ている。そんな中、作家自らがイベント会場でシリーズを打ち止めすると発表した直後に事件が起きたのだった。

ベストセラー作家のティモシーは威張り散らすだけが取り柄のロクデナシであり、イベントを取り仕切るシェルビーはキャリアを鼻にかける高慢でいけ好かない出版取次会社の広報担当、ティモシーからひどい扱いを受けている娘とその夫、シェルビーの部下のジョシュは上昇志向が極度に肥満した野心家。対する地元民は、書店の贔屓客である大学教授、昔テレビのクイズ番組で大金を手にしたことのある町一番の有名人である郵便配達、我こそは町を背負って立っていると意気込みで何処でも何にでも鼻をつっこむ出しゃばり女、ご近所のカフェ経営する夫婦。一人を除いて町の住民は皆ペネロピに同情的で優しい支援者という立場。外部対内部でキャラクターの設定は正反対という分かり良い描写。外から来た人たちはすべて一癖あって全員が犯人であってもおかしくない。一体誰がペットボトルに細工をしたのか?

人気が盛り返すきっかけとなった最新の3部作を分析すると、書き手がティモシーではなく娘婿のケネスであることを地元大学教授がペネロピのヒントを手掛かりに解明する。そして、書店のトイレで注射器を見つけ出したジョシュが交通事故に見せかけて殺されるという第二の事件が発生。これらすべては、高慢なキャリア女のシェルビーが、片思いするケネスを振り向かせるためにやった殺人と判明。推理が不得意の素人探偵が、幽霊となったジャックの手助けを借りて解明する。

   ☆★☆★☆★☆★☆★

古風で趣のある街の広場の、青々とした芝生。赤く縁取られた真っ白な野外音楽堂。なにもかもがうんざりするほど明るくて健全。どこかそのへんにノーマン・ロックウェルのサインがあるんじゃないかとジャックは思った。

あいつは三ドル札並みにインチキだ。
斜に構えてちょっと毒のある台詞を分かりやすい比喩を使って吐くところがハードボイルド探偵らしい。

だが、いいかい、べっぴんさん、人生ってのはそんなんじゃない。人間ってやつは、そうじゃないんだ。人は怒り、妬む。醜くて、弱くて、愚かさに満ちている。きみもよく知っているようにな。

きみはいやなことから逃げる。隠れる。地面に突っ伏して、対決を避ける。この世はきれいな幼稚園のお砂場だと思っていたいんだ。だがな、目を開けなくちゃだめだ。
幽霊となって体は存在しないが、なぜかペネロピの頭の中だけには出没するジャックが、ペネロピに人生について教える。人、この世中が理想郷の世界でなく、暴力と醜さが満ち溢れる世界であり、それを直視して戦う気構えを持てと諭す。極めてハードボイルド的な世界観だね。

彼の顔には相変わらず笑みが貼りついているものの、小さな丸眼鏡の奥で、緑に瞳に冷たいカーテンが引かれるのを私は見た。

わたしの経験では、怠惰で無能な管理職に気に入られるのは、調子んおいいごますり社員だった。こつこつ努力する地味は社員は見向きもされない。困ったことにわたしは、自分をひけらかすのはいけないことだると教えられて育った。
生き馬の目を抜くビジネスの世界で自分のモラルが旧態依然で使い物にならない。ペネロピはニューヨークの出版業界の世界で、シェルビーのようなキャリア志向の塊たちから、散々いやな目に合わされて逃げるようにして生まれ故郷に帰ってきた存在。そんな弱い彼女が、ジャックの手助けを得て、事件に立ち向かい解決する一種の成長物語でもある。

   ☆★☆★☆★☆★☆★

あとがきを読んで知ったことなのだが、著者のアリス・キンバリーとは一人の作家なのではなく、夫婦合作のペンネームなのだそうだ。そして、この夫婦にはもう一つのペンネームで別シリーズを書いている。その名前がクレオ・コイルだと知った時には驚いた。何と、私が大好きな『コクと深みの名推理シリーズ』の著者ではないですか!!! なんという偶然! なんという奇縁!! なんという巡りあわせ!!! この夫婦が書いたシリーズにはいくつかあって、この『ミステリ書店』の方が『コクと深みの名推理シリーズ』よりも前に作られているし、シリーズ数が少ない。そうだよね、『コクと深みの名推理シリーズ』は今でも続くほど面白いし、華やかでお話しも色々と膨らますことができるので、二人も書いていて愉しいのだろうね。

コージーミステリを読み耽る愉しみ その14 ビール職人・シリーズ(エリー・アレグザンダー著)

2020年08月02日 | パルプ小説を愉しむ
アメリカの北西部、ワシントン州にあるレブンワースという実在の町を舞台にしたミステリー。この街はドイツの村の雰囲気を持たせながら、ビールを町興しの材料として賑わっている。その中でも老舗といってよい醸造所兼お店の”デア・ケラー”の長男と結婚したスローン・クラウスが物語りの主人公。「鼻」を持つ腕の良いビール醸造職人としてだけではなく、料理の腕も上々で色々なことに気が配れる女性で、幼い頃に親元から離れて里親の元を転々として過ごして大きくなったために幸せな子供時代の記憶が少ないという負い目を持っている。そんなスローンがコミュニティ・カレッジで料理とレストラン経営を学びながらファーマーズ・マーケットの露天を手伝う内に、買い物によく訪れるオットーとウルスラという夫婦と出会い仲良くなる。この夫婦の長男がマックで、マックとスローンは結婚して、老舗クラフトビールの醸造所兼店で働くようになる。

万事順調に行かないのが人生の常で、結婚して15年の夫婦に危機が訪れる。夫マックが店で働くバイトの23歳「尻軽女」と浮気をしている現場に遭遇してしまう事件が起きるのが物語が始まって3ページ目。夫を家から追い出すと共に、自分の生活の道を得るために、この町に来たばかりのギャレットの店開きを手伝うようになる。ビール大好き、そして大都会シアトルで働く疲れたサラリーマンから脱しないとこの先どうなるか分からないという瀬戸際まで追い込まれていたところに、レブンワースに住むおばさんが亡くなって店を受け継ぐという幸運に恵まれて、自分のレシピ頼りにクラフトビール造りを始めようと街にやって来たところ。

ちょうど仕事で参っていたんだよ。エクセルのスレッドシートに殺されかけててね。ここに来ることで何が起きるかは分からなかったけど、とにかく何かをしなくちゃいけないってことだけは分かってた。ある日、目が覚めたら50歳になっていて、一番いい時期をオフィスに閉じこもって過ごしてた、なんてことにはなりたくなかったから。

新しいビール造りの情熱はあって美味いビールは造れるものの、どんな付け合せ料理を出すか、店舗の内装をどうするか、醸造所や店の経営に必要な知識がスコッと抜けている。

ほんとうに頭のいい人というのは案外そういうものなのかもしれない。コミュニティカレッジのときもそんな教授がいた。どんな数学の問題でも10分あれば解けるが、鍵がどこにあるかいつもわからなくなるし、近所の食料品店に行くにも道に迷うという人が。
そんなギャレットの良き相棒として、スローンはギャレットの店「ニトロ」のオープンに向けて働き出す。

オープン初日は大盛況で終えた翌日、職場に入ったスローンはビール醸造タンクの中でライバル店の醸造職人、エディーが殺されているのを見つけてしまう。いよいよ本当の事件がここから始まる。

この作者の素晴らしいところは、出てくる人間がすべて犯人ではないかと疑ってしまうように上手く誘導していること。別居している夫、その弟、他店の経営者たち、初めて顔をみるホップ栽培者、街の広報係を自ら任ずる厚顔なゴシップ屋、そして夫のマックと浮気していた23歳の尻軽女もエディーの元カノであることが判明して、これまた怪しい。得てして、コージーミステリはこの手の「正当な疑い」を醸し出すことなく、主人公の身の周りで起きる出来事やドタバタを面白おかしく描くことで成り立っていることが多いのだが、この作者はそんなことなく、ミステリ的要素をしっかりと残しながら話を進めていくところが上手いところだ。ただ、逆に周辺の描き方に物足りなさを感じてしまうのも事実で、レブンワースが魅力的な街として描けていたならば、もっともっと読み物として愉しくなったであろうに。

昔から言うだろ。美しいかどうかは見る人によって決まる。姉さんは本物の美しさが内側からも外側からもあふれ出てるよ。
夫の弟、ハンスが主人公のスローンに対して言う台詞。このハンスは出来た弟で、いつでもスローンの味方になってくれる。それだけに、見方によっては怪しく思わせるように読み手を導く作者の手管は素晴らしい。

犯人はヴァンと名乗るホップ栽培者で、実はヴァンは詐欺師でホップを栽培することなく盗んだものをギャレットに売りつけていただけではなく、ホップ栽培をネタに詐欺も働いていた。こともあろうか、夫のマックが偽の出資話に踊らされて金を騙し取られていたことも判明する。

無事に犯人が逮捕された最後の最後で、「ニトロ」に残されていた古い写真の中から幼い頃のスローンが写っているものが見つかる。ギャレットの死んだおばさんは実はスローンの産みの親だったことが最終段落で判明する。これこそが、この上ない次回作への期待感というものだろう。
 登場人物の魅力度 ★★★
 ストーリー度   ★★★★
 設定の魅力度   ★★
 台詞の魅力度   ★★★

   ★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆

「そんなことしてくれなくていいのに。」
「”してくれなくていいじゃ”なくて、僕がしたいんだ。」

いつも助けてくれるスローンにお礼がしたくてランチに誘った時のギャレットとスローンの会話。そして、行った先の高級レストランのテラス席で二人はランチを食するのだが、このテラスから見た風景をこのように描いている。
ここから見た町の広場は、まるで映画のセットから抜け出したかのようだった。周りの山は紅葉で色づいている。私はその空気を吸い込み、笑みを浮かべた。

もうちっと描き方があるんじゃないですか、エリー・アレグザンダーさん。「映画のセット」と安易な描写でお仕舞いにしてしまうのは惜しいよ。ここが作家としての腕の見せ所なのに、惜しい、実に惜しい。ミステリ的な雰囲気を自然に醸し出せているにも拘わらず、周辺を描ききっていないのは...





コージーミステリを読み耽る愉しみ その13 シャンディ・シリーズ(シャーロット・マクラウド著)

2020年07月26日 | パルプ小説を愉しむ
『蹄鉄ころんだ』はシリーズ第二作。前作で知り合って目出度く結ばれたピーターとヘレンのシャンディ夫婦の周りで再び事件が起こる。まずは、二人が銀食器を買いに行った店に強盗が入り、ヘレンが人質になってしまう。無事に解放されたものの、犯人も盗まれた金と銀の地金も行方不明のまま。そんな中、晩餐に招待した大学関係者の一人が豚舎で殺され、苦労の品種改造の末の成果であった母親豚が誘拐されてしまう。事件が起きたのは、毎年行われ地域を熱狂の渦に包み込む大学対応の輓馬競技会の直前だったから、学長のみならず大学関係者はピリピリしている。

このシリーズは、これといった盛り上がりがあるわけではなく、淡々として物語が進んでいく。淡々とではあるものの、バラクラヴァ農業大学の周りで住み暮らす人々のまじめで善良で長閑な毎日の生活を、温かい目で見守っているようなトーンが文章に見え隠れしており、それが全体を通してユーモラスな感じを醸し出しているのだと思う。そう思うと、設定を農業大学として、畜産動物や穀物類、そして鋤や鍬を使った競技が大学対抗でなされる非日常の世界の中でのお話しにしていることが、物語の成功の大きな要素だと感じる。

もう一つの成功の要素は、大学関係者の異様な姿だ。頭を殴られても平気で強盗を二度三度振り回して荷馬車に頭を叩きつけるほどの巨体と体力を誇るトールシェルド・スヴェンソン学長と女丈夫な妻と5人の娘たちを始めとして、一風変わった教授陣たちの変人ぶり農業大学ならありかな、と思ってしまう。

謎解きは終盤で一気に行われ、それまでにあちらこちらで張られていた伏線が回収されている。決して目から鼻に抜けるようなタイプとは思えないシャンディ教授が、冷静な観察眼と推理力を活かして、殺された装蹄師の親戚で最近村にやってきたばかりの男だと見破る。騙されているふりをしてシャンディとトールシェルドが大立ち回りを演じて、一味が捕らえられる。

シャディ教授は、さっそうと若いわけでも、尊敬をあつめるほど年をとっているわけでもなく、思わず息をのむほどハンサムでもなければ、人の目をひくほど醜くもない。猛スピードで走る貨物列車より速く走れるわけでも、ひと跳びで高いビルを跳びこえられるわけでもなかった。
平凡な様を描写するために、スーパーマンを形容する懐かしい言い回しを持ってくるところが憎いよね。

あの人は、脳みそがあるべきところにスクランブルエッグがつまっているような人だってことは、あなたも知っているはずよ
ひと様のことをこのように悪く言うのは、あまり良い気分にさせないのだが、お話しの流れの中で出てくると、なぜか許せてしまう。言われた相手のことが悪く書かれており、こう言われるのが当たり前のようになっているからなのだろう。文脈の恐ろしさというべきか。

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■『にぎやかな眠り』
堅物の大学教授がいたずらで仕掛けたクリスマスイルミネーションのせいで、ご近所の厄介者のお邪魔虫主婦が死んだ。死体から教授は殺人だと思った。長閑なはずの農業大学がある田舎町のクリスマスが突然にきな臭い時期に変貌。大学教授らしい一歩一歩論理を固めていく推理から教授は殺人犯を割り出していく。ホームズらしい華々しさがあるわけでなく、これと言った冒険がある訳でもなく、それでも一歩一歩進んでいく。大学の学長夫婦、教授や助教授陣たちの田舎での生活を、これまた一歩一歩丁寧に温かくも手厳しく描きだす描写が登場人物の全員を面白く見せてくれる。ニヤリとする笑いが好きな人向けのミステリ。

- たとえティモシー。エイムズが泡立つ生石灰の大桶の中で足の先から一センチずつ溶けて言っているときいても、今のシイラ・ジャックマンは同じ返事をしただろう。
- 監査役のベンが死んだのは、おそらく散文的な理由があるはずだ。

 登場人物の魅力度 ★★
 ストーリー度   ★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★

泥棒シリーズ ローレンス・ブロック著

2020年07月08日 | パルプ小説を愉しむ
ローレンス・ブロックが描く泥棒紳士、「バーニイ・ローデンバー」シリーズの愉しみは、バーニイが巻き込まれる殺人事件を見事に解決してくれること以上に、バーニーと仲の良いキャロリン・カイザーとの間に交わされる丁々発止の無駄話の奔流だと思う。バーニイが目を付けた家に泥棒に入るシーン、「金で買える最も優秀な刑事」であるレイに目を付けられて面倒を抱えてしまう場面、そしてほとんどの登場人物を一カ所に集めて種明かしをして殺人の犯人をあぶりだすクライマックスシーン、これらミステリ小説の本筋以外の7割程度は、キャロリンとの他愛無いが自由奔放に流れる会話が続き、これがこの本を読む愉しみの7割がたを占めている。例えば、

「ホットでゴージャスな女があなたの思いつくかぎりのこと、思いつかないいくつかのことまでした挙句、姿を消すなんて、これ以上素敵なこともない」
「いや、あるよ。明け方四時ごろになって、彼女がピザに変わるとか」
「アンチョビは抜いてね」

理想の女がピザに変わるという御伽噺の変形が、突然アンチョビを入れる入れないというピザの好みの話にすり変わっていく自由度満点のお話しの展開に身を任せる安楽感だったり、

「経済学者のソースティン・ヴェブレンが誇示的消費についてなんて書いたか思い出してごらんよ」
「なんて書いたのの?」
「きみが思い出すと思ったんだけど」

という自分で振っておいて回収できないままの落語的なオチのないままのグダグダ続いていく話もこれまた一興。

「ワーグナーを途中であきらめたからって、その人を責めることはできない」
「そうかな。マーク・トウェインは、ワーグナーの曲は思ったほど悪くないと言ってるけど」
「それってミック・ジャガーがバリー・マニロウのことを言ったセリフだと思ってた」

作者が勝手に作ったセリフだと分かっちゃいるが、あまりのくだらなさゆえにかえって新鮮に聞こえてしまう。

それだけではない。エレベーターが上に上がっていく様を

「5、60メートル天国に近づいてから」
と形容してみたり、口から火を噴きそうなほど辛い料理を食べ終わった後で、

「ふたりとも満足感と唐辛子のせいで発光していたのではないだろうか」
と言ってみたりする表現の自由さ。無駄な表現なのだろうが、読み手の頭の中にイメージが湧きおこしてくれることは間違いなく、こんな刺激を受けたくて、このシリーズを読むことを愉しみにしているのです。

『泥棒はスプーンを数える』は、シリーズ第12作目。自分が営む古書店にスミスと名乗る男がやってくる。ボタンに関するものを蒐集しており、どうしても欲しい蒐集品をバーニイに盗み出してほしいと持ち掛けることでお話しが始まる。もちろん、スミスは偽名で、やがては自分のことをバートン・バートン5世と名乗るが、これもまた偽名。結局、スミス氏はバーニイを裏切って、欲しいものだけ手に入れて金を払わない。それを見越していたバーニイは、彼が別の犯罪に係わっている(金持ち老女の家に侵入して、ボタンに関係する絵を盗んでいる)ことを見抜き、これを暴く。バーニイが関わった死体は、結局は死んだ老女の子供たちが共謀して行った殺人であることも一緒に暴かれる。普通とは異なるのは、話が込み入りすぎているので検察も立件することなく、すべては「金で買える最も優秀な刑事」のレイ・カーシュマンの懐が豊かになる、という通常の勧善懲悪モノではありえない結末となること。Socially Correctではないものの、こんな結末が許せてしまう”ゆるさ”がこのシリーズの持ち味でもある。

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『泥棒は深夜に徘徊する』の中にこんな台詞がありました。

「わたしと寝たら死ぬわよ、それだけの値打ちはあるけど」
こんな女に会ってみたい。

「さっきの男は自分のことを天が寄越した贈り物みたいに思ってて、わたしがそう思わないことが信じられなかったみたい。」
これは相手の男を誉めているわけではないが、言ったのはもちろん「寝たら死ぬくらい」の女でした。

『上流階級』 高殿円著

2019年12月14日 | パルプ小説を愉しむ
1作目が予想外に愉しめたので続けて2作目に手を伸ばしてみました。舞台は前作同様に関西の高級デーパートの外商部。今回闘う女が対決する相手は、お客の一人、朱里を愛人にしている暴力団幹部と超高級マンションをルームシェアしている良い家のボンボンでゲイの桝家の実母、そして男社会であるデパート外商部という存在。色々な相手と戦うことを通して、39歳バツイチ女の主人公、静緒は自らのアイデンティティを模索しつつ作り上げているのだろう。

相も変わらずに、静緒のアイデアは冴えまくる。外商というお仕事の本質は、モノ売りではなく人と人との関係を作ることという気付きから、マンネリ化した催事企画会でマッチングサービスを提案する。結婚相手を紹介しあうことも最終的には行うが、その前に同じ階級の人たちが安心して交わりあえる交友関係を構築するお手伝いをデパートの催事を通して行うという企画。丁度今週聴いたPodcastの中で、とある経営コンサルタントが「リアルな商売がすべてインターネットに取って代わられる、というのはアメリカのドットコム企業をばら撒いた幻影にすぎない。インターネットの攻勢によってリアル店舗が自信を失い、本来の商売の基本を忘れて安売りに走って自ら墓穴を掘ってしまっている。料理が美味しいだけではせいぜい月に1から2回程度しか行かない飲食店が、店員とのコミュニケーションを取るためなら週に何回でも行くのと同じ。小売業の店員は、趣味のみならず生まれ育った背景含めてお客を知っておく必要があり、店のお客ではなく自分のお客を持つように心がけないとこの先の小売は成り立たない」という主旨の話しをしていたことと重なったこともあり、「成るほど!」と思いつつ読み進めた。

第2作ともなると、物語の進行の中に著者の人生観とでも言うような主張が見え隠れする。小説を愉しみながらビジネス訓のヒントもゲットできると得した気分になれるものの、それがあまりに多いと次第次第に鬱陶しくなってくる。この小説では、ちょっと鬱陶しくなってきた入り口あたりで止まっていたので辛うじて鼻につかずに済んでよかった。

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会社というところは不思議なもので、手柄を立てた、あるいは有能な人間が有能さを評価されて出生するということはあまりない。手柄は立てた、それは評価する。しかし実際出世するのは、出世させるものにとって都合がいい人間だ。つまり無害か、その人間の手柄を独り占めできるくらい年次が空いているか。

孤独は100%悪いものではないけれど、沈殿する毒かもしれないと考えます。近いうひに僕らは必ず孤独になる。病や老いが必ず親を失わせ兄弟や友人たちは家族をもち、その問題で手一杯になる。仕事なんていつなくなるかわからない。自分が病気になったら会社なんて手の平返すでしょう。世間体のためではなく、誰かに言われたからでもなく、正しいとか悪いとかいう理由からでもなく、ただたんに自分が不自由だから孤独を回避する。それは生存本能で、けっして罵られるような行為ではない。



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大恐慌で破産の憂き目にあった元上流階級の兄妹の2人が、大叔父の遺産を受け継ぐというアメリカのコージーミステリーを読みながら、日本の上流階級を描いた小説はどんなもんなのだろうか、と比較のために読み出したのが『上流階級 富久丸百貨店外商部』。著者の高殿円は、この本を手に取るまで知らない作家だったのだが、書名に引かれて図書館から借りてきた。

読み始めは、神戸芦屋に住むお金持ちの家のリビングルームがどれだけ豪華なのか、超リッチな人々の生活を垣間見たい、空想して愉しみたいという軽い気持ちだったのだが、主人公である39歳バツイチ女性の鮫島静緒が、デパートの外商という男ばかりの職場の中で、女性初、転職組み、専門学校卒(=学歴なし)というマイナスを抱えつつも、ひたむきにお客さまのことを考え、デパートにも利益になるように日々悩みながらも悪戦苦闘しつつ、成長していく過程が描かれている一人の闘う女性の成長物語であることに気づいた時にはすでに遅く、この小説にどっぷりと嵌ってしまっていた。

父親を事故で亡くした主人公は、大学進学をあきらめて製菓専門学校に進むが、才能がないこととケーキを作るよりも売ることの方に興味をもつようになる。知り合ったパティシエの店を手伝ううちに、いろいろなアイデアを生み出しつつ、猪突猛進型営業を進める。単に売れつければという営業ではなく、お客さまのことも考えながら自らに無理を課してしまうような無茶振り営業。やがて、そのケーキ屋にお客がつきだし、デパートにも出店して成功を収めるようになる。すると、デパートから主人公を雇いたいという希望が来て、その後はとんとん拍子に成功が続く。行き着いた先は、かつて女性が働いたことがない外商という部署。業界でカリスマ外商員と呼ばれた人物の後釜になるべく、日々奮闘すれども目指す先は程遠い。そんな39歳女性の奮闘記であり成長記録でもある小説なのだが、話の中には主人公の過去の恋愛観と本当に求めていたものに気付いて愕然とする姿や、ゲイであることをカミングアウトできずに悶々としつつも表面は明るく振舞う外商のライバルとのぶつかり合い、お客さまたちの欲とエゴと矜持、そして何よりも外商と客という互いに必要としてはいるが一線を越えることのない立場の違い、等々が魅力的に描かれている。

外商というお仕事があることは知ってはいたが、どんなお仕事なのかをこの本を通して知ることができた。お話の中では、デパートの売り上げの3割を占めているということだが、実態はどうなのだろう? 外商を贔屓にする客というのは、忙しい時間をお金で買っている人もいるだろうし、外商員の目ききを信じて任せていたり、一般人に混じって行動することができなかったり(例えば、その筋の人々)好きでなかったりする人たちだったりもする。すべてに共通するのは、そのデパートの信用を外商を通じて買っているということで、その分が金額として乗っていても構わないという意味ではリッチな人たちに限られる。羨ましい.. この羨ましさこそが、私が垣間見たかった要素そのもの。

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主人公を引き上げてくれたカリスマ外商員が教養をこう定義している。
教養とは頭の中につめこんだテキストではありません。教養とは、振る舞いです。手間暇かけた身なりと正しい日本語と落ち着き。
手間暇が必須条件と言われると違うと言いたくなるが、でも身なりは同意する。あくまでも、自分勝手な装いではなく、相手のことを考えリスペクトし、それを身なりとして表している限り、それは教養だと同意する。

結婚してていいな。ダンナさんが有名企業に勤めていていいな。美人でいいな・・・・。若さが免罪符になるのは二十代までだ。自分ができない、持っていないことのいいわけを無くした大人は、三十代を過ぎていよいよ丸裸にされる。たかだか年齢が積み重なっただけなのに、愚痴も泣き言も許されずかんじがらめになり、いよいよ窒息していくか、それとも辺り構わず吐き出すか。
免罪符という強い言葉がいい。年を取るごとに逃げ場がなくって息苦しさが徐々に増し、ますます逃れなくなっていく。それが人間社会の性であるということを暴いている文章だが、できることならばもうちょっと言葉を重ねて追い討ちして欲しかったな。

他人をうらやむのはいい。そこをもくひょうに目指すこともいい。ただそれが妬みになってしまってはダメだ。いいなあ、という妬みの言葉は害悪でしかない。

みんなが強く望んで、それを手に入れるために努力してもがくようなことが、最近は少なくなっているように感じていた。お金を貯めて貯めて女の子を乗せるために車を買ったり、背伸びしてブランド品を買いにハワイに言ったりするような、長い間百貨店を支えてきた”憧れ”が失われてしまっている。だれも憧れなくなった。簡単に手に入るもので満足するように、そういうふうにするしか道がないように、見えない大きな手が旗を持って誘導してしまったのだ。
デパートを舞台にした物語だから消費は美徳となっているが、片方で単にCMに踊らされて必要ないものを幻想のように追いかけさせられていただけという見方もある。どちらにして、憧れという存在がなくなってしまった世の中は寂しい限りだと思う。たとえ、それが作られた幻想であったとしても。夢は夢であるだけで価値があり美しいものだと思うから。




コージーミステリーを読み耽る愉しみ その11 アート・ラヴァーズ・ミステリ(ヘイリー・リンド著)

2019年11月30日 | パルプ小説を愉しむ
第二作が面白かったので第一作目『贋作と共に去りぬ』にも挑戦。世界的な贋作師である主人公のおじいちゃんが贋作師としてのこれまでやってきたことと自らの哲学をぶちまける自叙伝の出版を計画しているとあって、今ではしっかりと堅気の画家兼擬似塗装師の生活をサンフランシスコで営んでいる主人公のアニーは困っている。でもおじいちゃんはヨーロッパのどこかにいてつかまらない。そんな中、アニーの贋作を見る目の確かさを知っている元恋人であり地元有名美術館のキュレーターから、曰くつきのカラバッジョの絵の鑑定を真夜中に頼まれる。贋作と見破ったものの、その直後にその美術館で殺人事件が起こり、依頼したキュレーターは行方不明になってしまう中、好むと好まざるとに関わらず、アニーは事件の真っ只中に入り込んでいく。

相も変わらず、真っ当な生活を送ろうとするアニーの空回り気味の生活、贋作を見抜く目はずば抜けて確かなのに生活には役立たず、日常生活では何か抜けているダメダメぶり。完全無欠ではない、ちょっと抜けているくらいの女性だからこそ、コージーミステリーの主人公として活躍ができる。これって、ダイバーシティが叫ばれている時代にしては問題じゃないかな??

アニーの絵を見る目が確か(らしい)と思わせる台詞が前半部分に幾つか出てくる。例えば、

ピカソはティーンエージャーの頃からレンブラントを彷彿させる素晴らしい才能を発揮していた画家だったのだ。それなのに結局その名を知らしめたのが、やたらとのたくった線とど派手な色彩の作品だっとは。あれが芸術と言える?

ここは(サンフランシスコ)はニューヨークやパリと違って、街区を挙げて芸術に寄与しているわけではなく、真に芸術を愛する街とは言いかねた。この街の人たちは、真の芸術よりも、芸術的な生活を求めていたからだ。

カラバッジョ独自の、ドラマチックな光と影の対比や、まばゆいばかりの豊かな色合い、それらを的確に捉えた贋作士の素晴らしい腕前。


こんな感じ。そして、彼女の性格を形作る手伝いをしているのが、一人称で語られる物語の中の出来事。アシスタントとして雇っている20代が新しい大家のことを
「ヤなやつっぽい」

と言うと、そのコメントを狂信者と正真正銘の若者に特有の断言口調と切って捨てる。この言い切り方こを、アニーの直情的な性格を読者の無意識の中に形作っていく手法だ。

そして、おじいちゃんが出版を計画しているという自叙伝の中で使われる予定であるらしい未推敲原稿の一部が各章の冒頭に出されることで、贋作の世界の奥深さや贋作師として一流のおじいちゃん独自の哲学が見事に語られる。盗人にも三分の理というが、なかなか素晴らしいレトリックがゆえに、思わず贋作というのは実は芸術の一形態なのではないかと洗脳されてしまいそうな言葉が披露されている。

辛辣な批評を吐く専門家とは何者か。人々の涙を誘う素晴らしい作品を生み出すために、骨身を削ってきたのは彼らなのか。キャンバスに絵の具を重ねることで、無神論者に神を信じさせ、冷え切った心に熱い思いが取り戻させ、希望を打ちなった人に夢を見させてきたのは彼らなのか。神のごとく振舞う者たちよ、無から美を創造できないのなら、その口を塞いておくがいい。

芸術は嘘をつかない。画商、収集家、芸術家、そして研究者は嘘をつく。

画家のサインは文字の連なりとしてではなく、キャンバスに描かれた一続きの抽象的な線や形としてとあえるべきである。なぜならこの線こそが競売人に入札開始額を教え、芸術愛好家にその作品を評価すべきか否かを教示し、美術専門家にその作品を賞賛に値するものとして求めるか否か告げるものだからだ。



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世界的な贋作師の孫娘にして、真っ当に生きようと四苦八苦しているアニー・キンケエイドには、厄介ごとが向こうから訪れてくる。祖父から贋作の手ほどきを受けているから、有名絵画の真作と贋作は簡単に見分けられるし、何よりも祖父の友人たち、つまりは絵画泥棒や贋作者たちが身の回りにうようよしている。それでも、運命に負けないようにアニーはフォーフィニッシャーとして塗装師としての仕事を全うしようとするのだが、それでは物語にならない。魅力的な泥棒や贋作を使って犯罪行為を企む悪人たちとの腐れ縁が切っても切れないからこそ、面白い物語が始まる。

『贋作に明日はない』はシリーズの二作目。画廊のパーティで、主賓となっているべきはずの彫刻家の死体を見つけてしまったことから、麻薬取引、殺人、贋作作りが絡んだ事件に巻き込まれていく。推理も何もなし、やたら猪突猛進型で厄介ごとに頭から突っ込んでいくアニーと周りの面々たちの活躍に腹を抱えて笑いながらあっという間に読み終えてしまった。ちょっとイヴァノビッチ描くステファニー・プラムっぽいところのあるお元気姐さんのスラップスティックなミステリ。 

贋作師のワシは、腕のいい芸術家であるばかりでなく、芸術という世に広く普及した概念に闘いを挑む哲学者でもある。
このような台詞は好きです。と言うよりも、口にしてみたい。世の中がどう思おうとも自分の生き様を正当化できる屁理屈を。

最初は気付かなかったんですが、今わかりました。目が似てらっしゃる。笑顔もだ。お嬢さんの笑顔は最高に素敵ですね、キンケイド夫人。
このような歯の浮くような台詞も言ってみたい。でも、30歳を過ぎた娘を持つ魅力的な母親って日本では見たことないぞ。

はっきり言ってわたしは魅力的だと思う。少し努力すれば、かなり素敵に見れるのも知っていた。でも、わたしをめぐって戦いが起こったり、わたしのために国王が王冠をすてたりしないのも知っていた。

 登場人物の魅力度 ★★★
 ストーリー度   ★★★
 設定の魅力度   ★★★
 台詞の魅力度   ★★★

コージーミステリを読み耽る愉しみ その3 おばあちゃん姉妹探偵(アン・ジョージ著)

2019年11月30日 | パルプ小説を愉しむ
凹凸老姉妹が再び殺人事件に巻き込まれた。巻き込まれたというよりも、妹のパトリシア・アンが自らの好奇心で巻き込まれにいっただけ。そうでないと、この手のコージーミステリーは生まれないからね。

『さわらぬ先祖にたたりなし』はシリーズ第三作。今回の事件は、姉メアリー・アンの二番目の夫の間に生まれた娘の結婚式から始まった。結婚相手の親戚の一人である家系譜調査員メグと仲良くなり、後日一緒にランチを食べたのだが、その直後に彼女が飛び降り自殺をしてしまった。腑に落ちないパトリシア・アンが好奇心を抑えきれずに、色々と調べだす。メグの昔の夫の判事も殺されて、隣の家のプールから判事を撃った銃が発見されると、それはメグの仕事仲間である地元の家系譜調査員ジョージアナのものだった。そのジョージアナは生きるか死ぬかの重態で病院のICUに。一体、だれが犯人か??

このシリーズが良くできているなと思う点は、事件が最後までお話の中心であること。これは、決して謎解きミステリ小説だと言っているのではない。他のコージーミステリだと、事件は単なるお話が始まるきっかけでしかなく、途中は主人公とその友人たちの珍道中ならぬ面白おかしな会話や行動で愉しませてくれた挙句、物語の最後に突然事件解決となるものがある。犯人はその人物である必然性がなく、誰であったとしても通るような設定でしかないが、このおばあちゃん姉妹探偵シリーズは事件がお話にずっとついて回ってきながら、正反対の姉妹二人の掛け合いがこの上なく愉しい。互いに相手を大事に思い一日たりとも放れてすごせないのみ、小さなことで言い合いがおこる。まるで幼稚園児のつまらないぶつかり合いなのだが、これが微笑ましくも愉しく、物語のメインテーマはこれではないかと思ってしまうほど。派手な立ち回りはない(なにせ主人公が老人なもので)、辛らつな会話もない。でも、通常の生活らしい(殺人がしょっちゅうあっては通常とは言えないが)状況の中での登場人物たちの会話や行動の中に、二ヤっと笑えるものが随所に散らばっていて安心して物語に入り込んでいける魅力がある。


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片や身長178センチで体重113キロ、髪はブルネットの65歳。片や身長154センチで体重54キロ、髪はブロンドの60歳。誰が見ても血が繋がっているようには見えないこの2人は、同じ両親から生まれ出た正真正銘の姉妹(自宅出産だったので産院での取り違えの可能性はゼロだと両人が物語りの中で断言している)。妹は、細かいことにも気配りができて40年来連れ添った夫と現在も仲睦まじく暮らしているごく当たり前の良識派であるのに対して、姉は細かいことは全く気にせずに大胆な行動で周りを平気で振り回すぶっ飛んだ性格で、その上3度の結婚(そのすべてが富豪相手の結婚)の結果お金持ちとなり現在4回目の結婚相手候補と交際中の超行動派。小さいころの出来事(キャンディーを取っただの、バービー人形を隠しただの)や、来週のパーティに来ていく服だったり、クリスマスのプレゼントだったり、この凸凹姉妹は寄ると触ると言いたい放題。なまじ血がつながっているだけに互いに遠慮がない。相手のことを深く思いやっていることを互いに知っているからこそ、二人のおしゃべりはどこに飛んでいくか分からない。見た目だけではなく、性格も大違いなアラバマ在住のこの姉妹が、殺人事件に巻き込まれてと言うか勝手に首を突っ込んでいってお話が進んでいく。決して、二人が犯人を見つけて殺人事件を解決する訳ではなく、一見筋が通っているような推理もするが結果として的外れだったりする。一人よりも性格が異なる二人が行動する分、周りに対する影響は大きく、しかもこの手のお話に欠かせないお喋りが派手に、そしてどんどんぶっ飛んでいく。

実は、このシリーズ、第1話を読んだ時にはそれほど面白いとは感じずに、お話の途中で読むのを断念した記憶がある。にも拘わらず、この第2話『作者不明にはご用心』はちゃんと最後まで愉しく読み終えることができた。なんでだろう?今度第1話を読み返してみよう。


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こんなにも見た目が違う二人を前にして、ある男がこんな台詞を口にする。
「いや、いや。ひとつの家族にこんなに美しい娘さんがふたりも生まれたことにびっくりしただけさ。」
南部の昔の男たちの言い寄り方だと書いてあったが、こんな物言い好きだな。


「マーシーが死んだわ。」
「シェイクスピアの引用か?それとも他の話か?」

イギリス人相手のお話に挟めば受けそうな受け答えだな。シェイクスピアを他の作家に変えるとどの国相手の会話に転用できそうだ。

ベジタリアン向け高級レストランで、3人分の料金もあれば店に野菜を納入している農場が買えそうなほどだった。(中略)一口いくらかを考えなければ、とても気持ちのいい店なのだ。
なんと皮肉な誉め方。美味しい店であることは十分に伝わるが、それ以上に法外な料金をぶんどるお高い店であることがしっかりと伝わって来るよね。上品な物言いだと評される言い方なのだろうか。

わたしも遠近両用眼鏡を下げて睨み返した。二人の間に、「真昼の決闘」の主題歌が流れる。
これも情景が目に浮かぶような洒落た物言いだね。勇ましい時の物言いには「スターウォーズのテーマソング」でもいいし、ラブラブなお話だったら「ある愛の詩」(ちっと古いかな)と挟んでもいいよね。こんな表現が何気なく出てくるようだと、会話していても愉しいに違いない。




コージーミステリーを読み耽る愉しみ その10 カップケーキ探偵 (ジェン・マキンリー著) 

2019年11月04日 | パルプ小説を愉しむ
コーヒーやクッキーなど、女性が主人公のコージーミステリーに欠かせない職業として飲食業があるが、今回の主人公の職業はカップケーキ屋だ。アリゾナ州スコッツデールで人気のカップケーキを経営しているメルとアンジーは小学校時代から大の仲良し。ここにこれまた学校時代からの仲良しの男、テイトが一人加わるのだが、決して恋が発展するわけではない。三人揃って懐かしの名画を観ることが彼らが大好きな週末の夜の過ごし方。だが、テイトの婚約者が殺され、現場にはメルが作ったカップケーキが落ちていた。死因は毒殺だった。自分が逮捕される前に真相を突き止めようとメルは事件究明の乗り出す。女性二人もいれば恋愛話が出来ない訳がなく、それぞれに心に想う人を抱えながら、ライバルのカップケーキ屋の嫌がらせに対応しつつ、早く結婚させようとやきもきする母親のお節介を上手くかわしながら、いろいろなところに顔を突っ込みだす。

男女の仲良し三人組のみならず、母親や刑事をしている叔父、妹に必要以上の干渉をすることが義務と考えいる共同経営者アンジーの兄たち、それぞれがキャラクター豊かに物語を紡いでくれている。が、肝心のミステリーは置いてきぼりぎみ。最後になって犯人が判明するのだが、普通は感じるはずの解決時の安心感ややれやれ感がまったくないままに小説が終わってしまった。殺された被害者の性格の悪さも十分に読者には刷り込まれ、犯人の動機も十分ではあるにも拘わらず、あっけなく終わってしまっている。読んでいるうちに、気づいたら終わっていた、そんな読後感がある消化不良のミステリーでした。

メルは彼女をハグすべきなのか首を絞めるべきなのか分からなかった。

わたしはどう見てもグラスの中身は半分しかないどころか、だれかが床に落として割ったと思っちゃうような立場だけど。
グラスに半分あると見るか、半分しかないと見るか、というのが定番の心理分析だが、普通の悲観主義者の先を行っている究極の悲観論者のものの見方がこれなのでしょう。

コーヒーにお砂糖は?きみみたいなすてきな(スイート)な人には必要ないかな?
ちょっとキザで歯が浮きそうなセリフです。

四十路キャリアウーマンに昭和のオヤジ戦士が乗り移った (アッコちゃんシリーズ)

2018年08月08日 | パルプ小説を愉しむ
そもそものきっかけは、NHKオンデマンドで観たドラマ、「ランチのアッコちゃん」。ダメOLがキャリアウーマンにビシビシとシゴかれながらも、人と人の間の機微にも通じて人間として一回りも二回りも大きく育っていくというヒューマンドラマが心のどこかに引っかかっていたんだろうな。図書館でタイトルが目に入った瞬間に借りていた。

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真の主人公である黒川敦子は、見た目も精神的にもたくましいキャリアウーマン。それも、ひとつの会社文化の中でのみ通用するカスタマイズされ飼いならされたキャリアウーマンではなく、自分でどんどん新しい事業を切り開いていくバイタリティ溢れるアントレプレナーにして、世の人々を磁石のごとく引き寄せる不思議な磁力を持っている。でも実態は、日本に高度成長をもたらした昭和の"24時間"働ける企業戦士そのもの。その証拠に、言う事がオヤジの論理丸出し。

仕事は仕事、プライベートはプライベートとはっきりと線を引き、押し付けられた忘年会の幹事役にまったくやる気を出せない新入社員(一応、男)に対して、
「あなたが言っていることって矛盾だらけねぇ。文句ばっか言ってるくせいに結局戦わず、昔からのやり方に従うわけ?」
と挑発しておいた上で、トドメの台詞が
「幹事が楽しめば、その忘年会は絶対に成功するの。あなたのフィールドにみんなを引っ張り込めばいいのよ。こんなに合理的でシンプルで双方にとって得なことはないじゃない。(中略)営業の仕事って人対人で出来ているんだから、相手に合わせるだけじゃなく、自分に巻き込むしたたかな力は絶対に必要なのよ」
だって。気持ちと気合の世界を忘年会の幹事役の心得に持ち込んだと思ったら、返す刀で仕事の営業についての説教にまで化けている。ロジックそこのけで、自分の信じるコトを"これしかない!これが絶対!!"とグイグイ押し込む迫力、これこそ昭和のオヤジそのものだろう。

どうして他人が一度食べた串揚げを二度付けしない保証があるのか?と串揚げ屋のソース壷に対して不潔感を露わにするや、
「そうよ。そのとおり。人間はエゴイスト。自分さえよければいいと思っているからこそ、誰も二度づけしないんだとわたしは信じているの」
これって論理が通っているか?でも、こう言われるとそうかなと思ってしまう。ロゴスは大事だが、最後にモノをいうのはパトス。人間としての生命力が強いかどうかが大事であることをこのキャリアウーマンは体言してくれている。
「もし、例えば誰かが隠れて二度づけしてごらんなさいよ。もう何も信じられなくなるじゃない、その人。疑心暗鬼でこの店にもこられなくなるわよ。それがわかっているから、みんな規則を守るの。いわば自分の為に。他人を裏切るということは自分を裏切ることだもの」

そんな黒川敦子のことを冷静に分析する同年代の雑誌編集者がこう言った。
かつて惹き付けてやまなかった能力とは、カリスマ性でも人を引き込む話術でもマーケティング能力でもない。おそらく-。問題を可視化し、物事をすっきり単純化するセンスだ。

そのくせ、妙に神妙なことを言い出す。
私のように、人の上に立つ立場をずっとやっていると、からからのスポンジが水を吸うみたいに知識や技術をぐんぐん吸収するという心地よさを忘れてしまう時があるの。だから、こうして習い事をするのかもしれないわね。あなたみたいな素直な姿勢を時々は取り戻しておきたいと思っているのよ
こんな台詞を敬愛する上司から言われたら、部下として目がハートマークになってしまうやろ!!!!

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この「アッコちゃん」シリーズ(「ランチのアッコちゃん」「三時のアッコちゃん」「幹事のアッコちゃん」)は、男中心の不条理なビジネスの世界で必死に生きる努力を続ける不器用な女性に対するレッドブルのような栄養ドリンクであり、心の清涼剤でもあり、そして一種のビジネス書でもある。