スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

「ひばり山・青蓮寺」を訪ねて

2008-05-27 08:18:55 | 出来事

奈良県宇陀市菟田野区宇賀志にある標高595メートルの日張山の中腹にひっそりと佇む青蓮寺に、テッセン(鉄線)を訪ねたのですが・・・。

国道166号を東吉野に向う途中に立つ、「日張山・青蓮寺 ここより3.5km」の大きな看板。
宇賀志の村落を通り杉木立が並ぶ道ではヘビの横断中を待ちながら・・・。うっ蒼とした山道を進むと駐車場にたどり着く。
昼なお暗く、訪ねる人も居ない。
「お寺の跡だけで・・・誰も居ないのでは・・・」と、カミさん。確かに不気味です。静寂さの中に清流の音だけが聞こえるだけです。
手水舎の横に「杖」が置かれていて、急な坂道を予感させてくれます。
山道を右手に向かい、つづら折れの急な坂道を登ります。人が歩いた形跡がありません。坂道の途中に、石碑が建っていた。

なかなかに
 山のおくこそ 住よけれ
   草木(くさき)は人のさがを言わねば (中将姫)

こんな山の中にあるのかナァ? どんなお寺かなぁ? と不安と期待の入り混じった気持ちで喘ぎながら進みます。
「やはり杖を使えば良かったなぁ。」と思いながら・・・上り詰めると山門が見えました。
周りの緑色の樹木の中に赤いシャクナゲが見え、ホッとさせられます。

山門には、謡曲史跡保存会の名で案内板が立てられています。

この青蓮寺は謡曲「雲雀山」の舞台で、山号になっている日張山は、古来狩場として知られていた、と記されています。
石段を登って、寺の境内に入ります。立派な堂宇が建ち並んでいます。鐘楼もあります。
人が住む気配があり、庫裏と思われる入り口には白い犬が・・・・。

鐘楼の横に「中将姫遺跡」と書かれた略記があり、
『奈良朝天平宝宇(ならちょうてんぴょうほうじ)4年(760年)、右大臣藤原豊成(ふじわらとよなり)公の息女中将姫は、継母のざん言により14歳のときここ日張山に配流されたが、その家臣、松井嘉籐太春時(まついかとうたはるとき)と妻静野(しずの)の情けによって危うきを助けられ、ここに草庵を結び、先の句を読み閑居練業(かんきょれんぎょう)、2年6ヶ月の間、念仏三昧(ねんぶつさんまい)の日々をおくられた。
そのうち父君(豊成公)が、この地に狩りに来られ中将姫と不思議な再会を得て、奈良の都に帰られたが、菩提(ぼだい)の志(こころざし)止みがたく、ついに当麻寺(たいまでら)に入り出家剃髪(しゅっけていはつ)の身となり、「法如尼」と名のられた。
その後、当麻曼陀羅(たいままんだら)を感得され、19歳の夏、再びこの山に登り一宇の堂を建立して自らの影像と嘉藤太夫婦の形像を手づから刻み安置して、ひばり山青蓮寺と名づけ、永く尼主(にしゅ)の道場とされた由緒ある山寺である。
以来、1200年の星霜を経て、幾多の変遷まぬがれず、現今の堂宇は天明4年の火災につぎ文化12年の水害の後、弘化4年に建立せられたものである。
数々の遺物と、嶺の松風、谷の清流は昔ながらに中将姫にまつわる哀れにもゆかしい物語りを伝えて今日に至っている。』
と、記されています。

境内には、目当ての「テッセン」が見当たらず、草引きをされている尼主らしい方に尋ねると・・・。

『昔は、かなりのテッセンがあったのですが・・・周りの木が大きくなって・・またイノシシが根を掘り返して・・・絶えてしまいました。申し訳けございませんネ。今は、シャクナゲだけが満開です。』とのこと。

中将姫お手植えの「紅梅」や、枝垂れ桜、幹周り5mほどの樫の大木、石楠花の古木・・・などがあります。
「再会寺」とも呼ばれる世阿弥(ぜあみ)の謡曲「雲雀山」の舞台で、中将姫の画像や彫像、曼陀羅図などがあるそうです。

テッセンは見られなかったものの、静寂な佇まいの中に咲く「石楠花」が今までに見た花とは違って見えたのは気のせいなのだろうか。


▲昼でも暗い山門付近です。

▲この赤いシャクナゲが綺麗です。


▲本堂は小さい。

▲日張山・青蓮寺の由緒が記されていました。鐘楼。一突き100円です。

▲境内から山門を見下ろすと・・・両側にはシャクナゲが・・・。

▲何の花だろうか? 

▲急なつづら折れ階段をやめて、車道を降ります。振り返ると、左側には樫の木の大木が見えます。この老木は、松井嘉籐太夫妻の墓石の横にありました。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする