スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

大和路の「石」⑱ 「ヘディングしている八咫烏くん?」

2008-01-29 11:39:48 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

この神社の境内に、3本の足を持つ大カラス?というか「八咫烏(やたがらす)」の石のモニュメントが置かれています。
日本サッカー協会のシンボルマークに使われているあの鳥です。サッカーボールをヘディングしています。
顔がちょっとヒョウキンに見えるのは・・・私だけでしょうか?



ここは宇陀市榛原区中心部から南に向い、県道31号榛原宇陀野御杖線の高塚というところにある「八咫烏神社」。



県道に面して大きな鳥居が目立ちます。
境内は広く綺麗に整理されていて、本殿が見当たらないため探すと拝殿の裏手の山の上に朱塗りの小さな社が・・・・。
面白い神社です。まるで隠れるように高い木に赤いカラスがとまっているようで・・・。
この拝殿横に、ヘディングしている八咫烏くんがいるのです。



祭神は武角身命(たけつのみのみこと=建角身命)。慶雲2年(705年)から祀られています。
神武天皇即位前紀によると、熊野で道に迷った天皇を宇陀まで道案内をしたのが八咫烏なんです。
古くから宇陀には「八咫烏伝承」があり、これがのちにこの神社の創祀となったようです。大伴氏や八咫烏の子孫といわれる賀茂氏などの氏族が祭祀に大いに努力したと伝承されています。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、鴨武角命が八咫烏とされているのです。
この人は勇猛で山野を行く姿が、烏が空を飛ぶようであったことから八咫烏という尊称で呼ばれるようになったと伝えられています。
三本足のその姿は、吉兆を呼ぶものとして崇拝され、日本酒、また日本サッカー協会のシンボルマークとして有名です。


日本サッカー協会の創始者が熊野出身だったので協会のマークにした、という事らしいのですが・・・・。どうなんでしょう?


拝殿の裏手の山の上に朱塗りの小さな社が・・・・

『ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。』とも言われています。
この八咫烏像は、2002年日韓共催のサッカーワールドカップを記念して、奉納されたもので、今でも評判を聞いて、遠方から参拝に来る人がいるとか・・・。

祀られている武角身命(たけつのみのみこと)さんも、1300年の時を経て、驚いているでしょうね。



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大和路の「石」⑰ 「コウモリがいた古墳」

2008-01-28 20:43:03 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

昨日、粟原寺(おおばらてら)からの帰路、すぐ近くの国史跡「赤坂天王山古墳」に立ち寄った。場所は桜井市倉橋。

国道166号から粟原川を渡り300mほど南に向かった丘にある。
国史跡の1号墳を中心に、6基の横穴式石室墳により形成される群集墳である。その中心の1号墳を訪ねてみた。50年振りの再会だ。


田圃の畦道を登り、樹木の生えている中腹に・・開口部が・・・。 
案内看板横の田圃の畔から丘の右手に登っていくと、中腹の開口部(盗掘穴)が目に付く。
1号墳の一辺が約45mの方墳で、高さ約9m、三段に築成されている。規模は全長14.7m、玄室の長さ6.3m、幅3m、高さ4.2mもある大型の古墳だ。古墳時代後期の築造とみられている。


盗掘穴があけられ・・・中に入ることが出来るのです。

では、誰の墓か・・・。被葬者は、崇峻天皇の没年に近く、日本書紀によると、崇峻5年(592年)11月3日に、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって殺され、その日のうちに倉橋岡陵に葬られたとあるが・・・すると、天皇在位中にこの古墳は築かれてあった、いわゆる寿塚(じゅちょう)かも知れないとする説もある。

このように規模の大きさや造られた時代から、6世紀末に暗殺された崇峻天皇の墓ではとみられているが、宮内庁が陵墓に指定する崇峻天皇陵は、倉橋溜池の西北側に位置し、聖林寺より多武峰方面へ1kmほど上った所にある。



中腹の盗掘穴の入り口付近は、土砂と落ち葉で埋まっている。自然光では、5mくらい先の石組みは見えるものの、石棺までは見えない。


60cmの高さの中を・・・・四つんばいになって・・・。

入り口から約8.5m、四つんばいになって滑り込むと、巨大な横穴式石室の闇の中に立っていることに気がつくはずだ。そして、玄室中央やや北寄りに家形石棺が1個置かれているはずだ。
今回は、汚れるとカミさんに叱られる服のため、入り口から写真を撮ることに・・・・。
でも、フラッシュでも石棺まで光が届かず・・・・明るさ補正しても・・・・この程度です。


大人ひとりが何とかホフク前進で入っていけるのだが・・・。

今も、玄室に入れるように綱が羨道に向って伸びている。誰かが曳いたのだろう。
玄室には大型家形石棺が置かれ、二上山産の白色凝灰岩といわれている。


家形石棺があるのだ。盗掘穴が開けられている。 

石棺の身の長さ2.4m、幅1.7m、高さ1.2m、蓋の厚みは 60cm、身と蓋の南側に方形の彫りこみがあり、石棺の前面 に盗掘孔が開けられており、中には何も入っていない。何が入っていたのだろう。

この状況は、既に、元禄10年(1697年)に、倉橋村の庄屋が南奉行所に出した「覚書」に「塚穴」が存在すると記し、当時すでに巨大な横穴式石室が開口し、玄室内の石棺の状況等が明らかになっていたようだ。

近畿地方における後期の代表的な方墳として知られ、1954年3月17日、史跡に指定されています。



私が小学生の頃、この古墳に入って遊んだものだ。
当時は、コウモリが棲んでおり、懐中電灯で照らすと天井には50匹ほどぶら下がっていた。
子供にとっては恐怖とスリルが味わえ、秘密の遊び場の一つであった。
石棺の盗掘穴から、恐る恐る手を入れて探ったが・・・何も手に当らなかったことを覚えている。

天皇の墓に入って、石棺に触れて・・・凄い体験が味わえるのです。
懐中電灯持参で、貴方も、如何ですか?


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大和路の「石」⑯ 「1300年前・粟原寺跡の礎石」

2008-01-27 21:44:04 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

巨石・奇岩を求めて大和路をウロウロしています。
また桜井に戻ってきました。雪が降ったり止んだりの天候の隙間をぬって、粟原(おおばら)の里に向いました。

今日、訪ねた国指定史跡・粟原寺跡は、粟原集落の端にある天満神社の境内とその隣接地に、1300年前に建てられた塔と金堂の跡が残っているのです。礎石の上に立って、1300年前の寺を想像してきたのです。


標識に導きられながら・・・。

国道166号の「粟原(おおばら)バス停」の南側の坂道を下り、粟原川を渡り更に急な坂道を登ります。私は車だが、リュックを背に降りてこられる方もおられます。

途中に立てられた標識通りに進むと、標高260mの樹木が茂った一画があり「粟原寺跡」の標識とともに十三重塔が目に入ります。

この粟原寺跡に隣接して天満神社の境内があり、この神社も寺跡なのです。なぜこんな山奥に菅原道真が祀られているのか、不思議です。今度、調べたいと思います。


粟原寺跡の石碑が・・・。




入り口の案内看板には、次のような説明がありました。

『粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢が、江戸中期、談山神社から発見され、現在は談山神社に国宝として所蔵されている。
その伏鉢に刻まれている「路盤名」によって建立の経緯が判明している。
すなわち、中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子(持統3年(689)死亡)のために建立を発願したが、持統7年(693年)に大嶋が死んだ後も、大嶋の遺志を継いだ比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持続天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715年)までの22年の間に伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させたのです。』


談山神社に国宝として所蔵されている粟原寺建立のいきさつを刻んだ粟原寺三重塔の伏鉢。


三重塔の礎石なのだろうか?

塔跡には心礎、四天柱、側柱の礎石が残っていると言われており、これらの礎石から、6.06m四方の建物(三重塔)があったことが窺われるというが・・・。
また、金堂跡といわれるものも、塔跡の西に3~4個の礎石を残すだけで規模等は明確でない・・・と言われるが、確かに礎石の形をしたものがあった。専門家が見れば分かるのだろう。


塔跡の東側にも多数の礎石が並べられていた。

また、塔跡の東側の一段低いところにも、金堂跡北西の竹薮などから出土したといわれる多数の礎石が並べられていた。出土瓦には、奈良時代前期のものがあったとか。


十三重塔がありました。鎌倉時代後期の作とか・・・。明治22年にこの地に移されてきたとか・・・。

この金堂跡の西隣りに十三重石塔が立っています。「鶴の塔」と伝承されている花崗岩で造られた塔で、鎌倉時代後期の作とされている。
もとは、宇陀市大宇陀区半坂に至る半坂道にあったものを、明治22年(1889年)にこの地に移されたものとか。これらのことは桜井市史にも記されている。


大昔、この谷にあった粟原寺が、土石流で流されてしまったのです。この谷の中央の緑の木々が茂る一角(電柱のあるところ)が、寺跡のところです。はるか下には国道166号が見えます。(粟原寺跡のかなり上部から撮影)

いつの時代か定かではない・・・大昔、土石流で粟原寺が流されたとき、この寺に伝来した仏像の多くが桜井市内の各地に辿り着いたとか。
大字桜井の来迎寺の本尊や、大字外山(とび)の報恩寺の本尊など。
また、今は長野市の清水寺(せいすいじ)にある観音菩薩立像・木造千手観音・地蔵菩薩座像も「粟原流れ」とされ、これも大字忍阪の石位寺に流れ着いたものといわれている。
いずれも、国の重要文化財の指定を受けているものばかりなのです。

私としては、なぜ石位寺に流れ着いたものが長野・清水寺まで行ってしまったのか・・・この調査もしなければなりません。


礎石だけが1300年前のことを知っているようで・・・・。

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大和路の「石」⑮ 「奈良・山添村 鍋倉渓の黒い石」

2008-01-26 16:06:16 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

目の前に黒々とした石が川のようになって流れて(?)います。
上流から今にもゴロゴロと・・・落ちてきそうです。
一昨日降った雪がまだ溶けていない為、岩の上や日陰になった足元は3cmほどの積雪です。


650mにわたって石が川のように流れていて・・・一昨日の雪がまだ残っています。

ここは、奈良県山辺郡山添村にある神野山(こうのさん 618m)の東側にある、黒い基盤岩が露出している、奇観「鍋倉渓」です。



神野山の東側山腹にある橋から眺めると、上流に長さ550m、下流に100m、幅25mにわたり巨石・怪石がるいるいと続いており、昭和33年に奈良県の名勝に指定されています。


橋げたの下から下流のほうを見れば・・・100mほど続いています。

山添村は花崗岩質の地質ですが、神野山だけは角閃斑れい岩という岩質で、花崗岩より硬質なので、大和高原が風化浸食する中でも、この神野山だけは浸食の程度が弱く、岩は黒っぽい独特な色を見せています。 岩の色合いが鍋の底色と形状から「鍋倉渓」と呼ばれるようになったそうです。
鍋倉渓の岩石群の下のほうには伏流水が流れているそうです。


地質地形上、特別の条件のもとに生じたきわめて珍しい風化現象で、全国的にも学術上の価値が高く評価されているのです。

案内看板には、
『伊賀の天狗と神野山の天狗がけんかをして投げ合った岩だという伝説や、火山の溶岩が流れ出して固まったものなどいろいろな伝説があります・・・・』とも書かれている。


何故?天狗のモニュメントが・・・・?なるほど・・・納得です。

  だから、天狗の人形や絵が掲げてあったわけてすね。何故、天狗キャラクターがあるのか不思議だったので・・・ナットクです。
また、『親孝行モノが月夜に鍋倉渓の下を流れる伏流水を見ると、亡き親の顔が映る』といわれており、神野山(こうのさん)と言いますが「かみのやま」とも読めますので・・・信仰の対象になった渓谷だったのでしょうね。



途中の車道脇に『「大師の硯石」へはここから40m』という看板が立っていました。今日は、雪が積もっているため諦めました。
また、石ゴロの横に設けられた階段で山頂をめざせば、途中には竜王岩・天狗岩・八畳岩など、神野山岩石群が見られるのですが、ここも積雪と強風のため諦めました。

撮影しているとますます風が強まり雪も降ってきました。路面に積もると、ノーマルタイヤでは下山が怖くて・・・早々と西名阪国道・神野口ICへと引き返しました。
山頂のツツジが満開になる5月中頃に再度、頂上を目指したいと思います。


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大和路の「石」⑭ 「香芝市・屯鶴峰(どんづるぼう)」

2008-01-25 23:22:00 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

大阪府と奈良県の県境、香芝市穴虫にある屯鶴峰は、標高約150mの山で、白い凝灰岩層が露出した景勝地として、奈良県選定(昭和26年指定)の天然記念物となっています。
地層のおもしろみをみせる風光明媚な名勝、奇勝なのです。
小学校の遠足で来て以来の訪問です。



国道165号線から県道香芝太子線を800mほど近鉄大阪線と並行して進むと北側に登る階段があり、ここが入口です。
立看板の前に車3台が停められるスペースがあり、ここから雑木林を進むと屯鶴峰の頂上に出られるのです。



今から1500万年前から2000万年前ごろという気が遠くなるほどの昔に、二上山が大噴火したときに火山灰や火山弾などがふもとの湖に堆積し、その後の地殻変動で隆起して風雨で浸食され、現在の地形になったのです。



この地層は、白色凝灰岩(ぎょうかいがん)で、地質や植物生態を研究するのに重要な地域なのだとか。
また、この凝灰岩は、古墳の石棺(せっかん)や寺院等の基壇(きだん)あるいは石仏等に利用されてきました。
今でも、すぐ近くに採石場があるのか、ダンプカーの往来が激しく、道路には白い土煙が舞っていました。



遠くからながめると、松林に多くの鶴が屯(たむろ)しているように見えることから「屯鶴峰」(どんづるぼう)と名付けられたとか。
今日は、あいにく曇り空で山の白さはもう少しだったが、太陽が当っていれば、眩しいほどの白さなのだろう。
今冬一番の冷え込みの中、震えながら、奇勝に驚きと感動を満喫したのでした。


(奈良県教育委員会 平成元年・説明板)

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