昨日、粟原寺(おおばらてら)からの帰路、すぐ近くの国史跡「赤坂天王山古墳」に立ち寄った。場所は桜井市倉橋。
国道166号から粟原川を渡り300mほど南に向かった丘にある。
国史跡の1号墳を中心に、6基の横穴式石室墳により形成される群集墳である。その中心の1号墳を訪ねてみた。50年振りの再会だ。
田圃の畦道を登り、樹木の生えている中腹に・・開口部が・・・。
案内看板横の田圃の畔から丘の右手に登っていくと、中腹の開口部(盗掘穴)が目に付く。
1号墳の一辺が約45mの方墳で、高さ約9m、三段に築成されている。規模は全長14.7m、玄室の長さ6.3m、幅3m、高さ4.2mもある大型の古墳だ。古墳時代後期の築造とみられている。
盗掘穴があけられ・・・中に入ることが出来るのです。
では、誰の墓か・・・。被葬者は、崇峻天皇の没年に近く、日本書紀によると、崇峻5年(592年)11月3日に、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって殺され、その日のうちに倉橋岡陵に葬られたとあるが・・・すると、天皇在位中にこの古墳は築かれてあった、いわゆる寿塚(じゅちょう)かも知れないとする説もある。
このように規模の大きさや造られた時代から、6世紀末に暗殺された崇峻天皇の墓ではとみられているが、宮内庁が陵墓に指定する崇峻天皇陵は、倉橋溜池の西北側に位置し、聖林寺より多武峰方面へ1kmほど上った所にある。
中腹の盗掘穴の入り口付近は、土砂と落ち葉で埋まっている。自然光では、5mくらい先の石組みは見えるものの、石棺までは見えない。
60cmの高さの中を・・・・四つんばいになって・・・。
入り口から約8.5m、四つんばいになって滑り込むと、巨大な横穴式石室の闇の中に立っていることに気がつくはずだ。そして、玄室中央やや北寄りに家形石棺が1個置かれているはずだ。
今回は、汚れるとカミさんに叱られる服のため、入り口から写真を撮ることに・・・・。
でも、フラッシュでも石棺まで光が届かず・・・・明るさ補正しても・・・・この程度です。
大人ひとりが何とかホフク前進で入っていけるのだが・・・。
今も、玄室に入れるように綱が羨道に向って伸びている。誰かが曳いたのだろう。
玄室には大型家形石棺が置かれ、二上山産の白色凝灰岩といわれている。
家形石棺があるのだ。盗掘穴が開けられている。
石棺の身の長さ2.4m、幅1.7m、高さ1.2m、蓋の厚みは 60cm、身と蓋の南側に方形の彫りこみがあり、石棺の前面 に盗掘孔が開けられており、中には何も入っていない。何が入っていたのだろう。
この状況は、既に、元禄10年(1697年)に、倉橋村の庄屋が南奉行所に出した「覚書」に「塚穴」が存在すると記し、当時すでに巨大な横穴式石室が開口し、玄室内の石棺の状況等が明らかになっていたようだ。
近畿地方における後期の代表的な方墳として知られ、1954年3月17日、史跡に指定されています。
私が小学生の頃、この古墳に入って遊んだものだ。
当時は、コウモリが棲んでおり、懐中電灯で照らすと天井には50匹ほどぶら下がっていた。
子供にとっては恐怖とスリルが味わえ、秘密の遊び場の一つであった。
石棺の盗掘穴から、恐る恐る手を入れて探ったが・・・何も手に当らなかったことを覚えている。
天皇の墓に入って、石棺に触れて・・・凄い体験が味わえるのです。
懐中電灯持参で、貴方も、如何ですか?