スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

日本芸能の発祥地(土舞台)にて

2008-01-31 20:49:31 | 出来事

近鉄桜井駅から南方800mの桜井小学校の隣に「土舞台」と呼ばれる丘があり、「市の児童公園」になっている。

推古天皇の時代、聖徳太子が、わが国はじめての「国立の演劇研究所」と「国立劇場」を設けられた場所として伝えられているところだ。


「土舞台」の石碑。保田與重郎氏の揮毫によるものだ。

『日本書紀』の推古紀20年に百済人(くだらびと)の味摩之(みまし)が、わが国に帰化して、『呉(くれ)の国に学び、伎楽(くれがく)の舞が出来ます。』と言ったそうです。
そこで、聖徳太子はその「伎楽舞」を見られて、ここ「桜井の土舞台」で少年を集め伎楽の舞を習わせたのです。


児童公園の一角で、丘の頂上は平坦になっている。

伎楽とは、古代チベットやインドの仮面劇で中国に伝わってきたものです。

当時、「神楽」というものはあったものの、このとき以来、宮廷に伎楽が加わり、日本芸能の幅が広くなったのです。
爾来、1300年間、舞楽は宮廷が衰えた武家時代にも、春日大社、住吉大社、四天王寺などに保護され、民間でも演技が行われるようになり、伝えられてきたのです。
つまり、「土舞台」は日本芸能の発祥地なのです。




戦後、文学者・保田與重郎氏が「聖徳太子伝暦」を調べ、「土舞台」は日本最初の「国立劇場」であり、太子は「国立演劇研究所」をも併置して芸能文化のために尽くされた、といったことを発表。

昭和47年2月、この「土舞台」で市が後援となり盛大な「顕彰式典」が催されたのです。
参加者には、朝永振一郎(ノーベル賞・物理学者)、福田恒存(劇作家)、森繁久弥、岸田今日子、仲谷昇氏らの出席を得たのです。
毎年、この地で「顕彰式典」が行われています。




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庭の花と小鳥たち

2008-01-30 18:21:03 | 出来事

久しぶりに庭を覗くと、こんな花が・・・。
まずは、庭植えの「クリスマスローズ」。
花芽はまだ生えたばかりで小さくて・・・。
紫色の花弁のはずですが、もう少しかかりそうです。
クリスマスローズ 



これも庭植えの「ルピナス」。
昨秋に種を撒いていたものが、芽を出し、葉っぱが大きくなってきました。
花のかたちや咲き方から日本では「昇り藤」と呼ばれています。
花色は、青、赤、ピンク、オレンジ色などカラフルな種類があるそうですが・・・この花色は? 楽しみです。
「ルピナス」。 さて、何色の花が?


庭で花を写していると、小鳥の鳴き声が・・・・・。
ハナミズキの枝に止まったのは、「メジロ」かな?
  「メジロ」かな? 近づくと逃げてしまうため・・・・これが限界で・・・ピンボケですが・・・。

庭にミカンを置いておけば、もっと訪ねに来てくれるかも・・・・。

そして鳴き声が賑やかな「ジョウビタキ」かな? 庭の梅の木から隣家の屋根に移ったところをパチリ。
「ジョウビタキ」のオスと思われるが・・・・。

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大和路の「石」⑱ 「ヘディングしている八咫烏くん?」

2008-01-29 11:39:48 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

この神社の境内に、3本の足を持つ大カラス?というか「八咫烏(やたがらす)」の石のモニュメントが置かれています。
日本サッカー協会のシンボルマークに使われているあの鳥です。サッカーボールをヘディングしています。
顔がちょっとヒョウキンに見えるのは・・・私だけでしょうか?



ここは宇陀市榛原区中心部から南に向い、県道31号榛原宇陀野御杖線の高塚というところにある「八咫烏神社」。



県道に面して大きな鳥居が目立ちます。
境内は広く綺麗に整理されていて、本殿が見当たらないため探すと拝殿の裏手の山の上に朱塗りの小さな社が・・・・。
面白い神社です。まるで隠れるように高い木に赤いカラスがとまっているようで・・・。
この拝殿横に、ヘディングしている八咫烏くんがいるのです。



祭神は武角身命(たけつのみのみこと=建角身命)。慶雲2年(705年)から祀られています。
神武天皇即位前紀によると、熊野で道に迷った天皇を宇陀まで道案内をしたのが八咫烏なんです。
古くから宇陀には「八咫烏伝承」があり、これがのちにこの神社の創祀となったようです。大伴氏や八咫烏の子孫といわれる賀茂氏などの氏族が祭祀に大いに努力したと伝承されています。
『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』には、鴨武角命が八咫烏とされているのです。
この人は勇猛で山野を行く姿が、烏が空を飛ぶようであったことから八咫烏という尊称で呼ばれるようになったと伝えられています。
三本足のその姿は、吉兆を呼ぶものとして崇拝され、日本酒、また日本サッカー協会のシンボルマークとして有名です。


日本サッカー協会の創始者が熊野出身だったので協会のマークにした、という事らしいのですが・・・・。どうなんでしょう?


拝殿の裏手の山の上に朱塗りの小さな社が・・・・

『ボールを押さえている三本足の烏は、中国の古典にある三足烏と呼ばれるもので、日の神=太陽をシンボル化したものです。』とも言われています。
この八咫烏像は、2002年日韓共催のサッカーワールドカップを記念して、奉納されたもので、今でも評判を聞いて、遠方から参拝に来る人がいるとか・・・。

祀られている武角身命(たけつのみのみこと)さんも、1300年の時を経て、驚いているでしょうね。



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大和路の「石」⑰ 「コウモリがいた古墳」

2008-01-28 20:43:03 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

昨日、粟原寺(おおばらてら)からの帰路、すぐ近くの国史跡「赤坂天王山古墳」に立ち寄った。場所は桜井市倉橋。

国道166号から粟原川を渡り300mほど南に向かった丘にある。
国史跡の1号墳を中心に、6基の横穴式石室墳により形成される群集墳である。その中心の1号墳を訪ねてみた。50年振りの再会だ。


田圃の畦道を登り、樹木の生えている中腹に・・開口部が・・・。 
案内看板横の田圃の畔から丘の右手に登っていくと、中腹の開口部(盗掘穴)が目に付く。
1号墳の一辺が約45mの方墳で、高さ約9m、三段に築成されている。規模は全長14.7m、玄室の長さ6.3m、幅3m、高さ4.2mもある大型の古墳だ。古墳時代後期の築造とみられている。


盗掘穴があけられ・・・中に入ることが出来るのです。

では、誰の墓か・・・。被葬者は、崇峻天皇の没年に近く、日本書紀によると、崇峻5年(592年)11月3日に、蘇我馬子の命を受けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)によって殺され、その日のうちに倉橋岡陵に葬られたとあるが・・・すると、天皇在位中にこの古墳は築かれてあった、いわゆる寿塚(じゅちょう)かも知れないとする説もある。

このように規模の大きさや造られた時代から、6世紀末に暗殺された崇峻天皇の墓ではとみられているが、宮内庁が陵墓に指定する崇峻天皇陵は、倉橋溜池の西北側に位置し、聖林寺より多武峰方面へ1kmほど上った所にある。



中腹の盗掘穴の入り口付近は、土砂と落ち葉で埋まっている。自然光では、5mくらい先の石組みは見えるものの、石棺までは見えない。


60cmの高さの中を・・・・四つんばいになって・・・。

入り口から約8.5m、四つんばいになって滑り込むと、巨大な横穴式石室の闇の中に立っていることに気がつくはずだ。そして、玄室中央やや北寄りに家形石棺が1個置かれているはずだ。
今回は、汚れるとカミさんに叱られる服のため、入り口から写真を撮ることに・・・・。
でも、フラッシュでも石棺まで光が届かず・・・・明るさ補正しても・・・・この程度です。


大人ひとりが何とかホフク前進で入っていけるのだが・・・。

今も、玄室に入れるように綱が羨道に向って伸びている。誰かが曳いたのだろう。
玄室には大型家形石棺が置かれ、二上山産の白色凝灰岩といわれている。


家形石棺があるのだ。盗掘穴が開けられている。 

石棺の身の長さ2.4m、幅1.7m、高さ1.2m、蓋の厚みは 60cm、身と蓋の南側に方形の彫りこみがあり、石棺の前面 に盗掘孔が開けられており、中には何も入っていない。何が入っていたのだろう。

この状況は、既に、元禄10年(1697年)に、倉橋村の庄屋が南奉行所に出した「覚書」に「塚穴」が存在すると記し、当時すでに巨大な横穴式石室が開口し、玄室内の石棺の状況等が明らかになっていたようだ。

近畿地方における後期の代表的な方墳として知られ、1954年3月17日、史跡に指定されています。



私が小学生の頃、この古墳に入って遊んだものだ。
当時は、コウモリが棲んでおり、懐中電灯で照らすと天井には50匹ほどぶら下がっていた。
子供にとっては恐怖とスリルが味わえ、秘密の遊び場の一つであった。
石棺の盗掘穴から、恐る恐る手を入れて探ったが・・・何も手に当らなかったことを覚えている。

天皇の墓に入って、石棺に触れて・・・凄い体験が味わえるのです。
懐中電灯持参で、貴方も、如何ですか?


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大和路の「石」⑯ 「1300年前・粟原寺跡の礎石」

2008-01-27 21:44:04 | 大和路・飛鳥路の「石」を訪ねて

巨石・奇岩を求めて大和路をウロウロしています。
また桜井に戻ってきました。雪が降ったり止んだりの天候の隙間をぬって、粟原(おおばら)の里に向いました。

今日、訪ねた国指定史跡・粟原寺跡は、粟原集落の端にある天満神社の境内とその隣接地に、1300年前に建てられた塔と金堂の跡が残っているのです。礎石の上に立って、1300年前の寺を想像してきたのです。


標識に導きられながら・・・。

国道166号の「粟原(おおばら)バス停」の南側の坂道を下り、粟原川を渡り更に急な坂道を登ります。私は車だが、リュックを背に降りてこられる方もおられます。

途中に立てられた標識通りに進むと、標高260mの樹木が茂った一画があり「粟原寺跡」の標識とともに十三重塔が目に入ります。

この粟原寺跡に隣接して天満神社の境内があり、この神社も寺跡なのです。なぜこんな山奥に菅原道真が祀られているのか、不思議です。今度、調べたいと思います。


粟原寺跡の石碑が・・・。




入り口の案内看板には、次のような説明がありました。

『粟原寺建立のいきさつを刻んだ三重塔の伏鉢が、江戸中期、談山神社から発見され、現在は談山神社に国宝として所蔵されている。
その伏鉢に刻まれている「路盤名」によって建立の経緯が判明している。
すなわち、中臣大嶋(なかとみのおおしま)が草壁皇子(持統3年(689)死亡)のために建立を発願したが、持統7年(693年)に大嶋が死んだ後も、大嶋の遺志を継いだ比売朝臣額田(ひめのあそんぬかた)が持続天皇8年(694年)から造営を始め、和銅8年(715年)までの22年の間に伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させたのです。』


談山神社に国宝として所蔵されている粟原寺建立のいきさつを刻んだ粟原寺三重塔の伏鉢。


三重塔の礎石なのだろうか?

塔跡には心礎、四天柱、側柱の礎石が残っていると言われており、これらの礎石から、6.06m四方の建物(三重塔)があったことが窺われるというが・・・。
また、金堂跡といわれるものも、塔跡の西に3~4個の礎石を残すだけで規模等は明確でない・・・と言われるが、確かに礎石の形をしたものがあった。専門家が見れば分かるのだろう。


塔跡の東側にも多数の礎石が並べられていた。

また、塔跡の東側の一段低いところにも、金堂跡北西の竹薮などから出土したといわれる多数の礎石が並べられていた。出土瓦には、奈良時代前期のものがあったとか。


十三重塔がありました。鎌倉時代後期の作とか・・・。明治22年にこの地に移されてきたとか・・・。

この金堂跡の西隣りに十三重石塔が立っています。「鶴の塔」と伝承されている花崗岩で造られた塔で、鎌倉時代後期の作とされている。
もとは、宇陀市大宇陀区半坂に至る半坂道にあったものを、明治22年(1889年)にこの地に移されたものとか。これらのことは桜井市史にも記されている。


大昔、この谷にあった粟原寺が、土石流で流されてしまったのです。この谷の中央の緑の木々が茂る一角(電柱のあるところ)が、寺跡のところです。はるか下には国道166号が見えます。(粟原寺跡のかなり上部から撮影)

いつの時代か定かではない・・・大昔、土石流で粟原寺が流されたとき、この寺に伝来した仏像の多くが桜井市内の各地に辿り着いたとか。
大字桜井の来迎寺の本尊や、大字外山(とび)の報恩寺の本尊など。
また、今は長野市の清水寺(せいすいじ)にある観音菩薩立像・木造千手観音・地蔵菩薩座像も「粟原流れ」とされ、これも大字忍阪の石位寺に流れ着いたものといわれている。
いずれも、国の重要文化財の指定を受けているものばかりなのです。

私としては、なぜ石位寺に流れ着いたものが長野・清水寺まで行ってしまったのか・・・この調査もしなければなりません。


礎石だけが1300年前のことを知っているようで・・・・。

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