スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

西国33箇寺の「散華」を集めて

2007-09-22 11:09:45 | 西国三十三箇所めぐり
7月で、西国33箇所巡りの満願を迎え、お礼参りのお参りも無事終えることができた。

その33箇所のお寺で掛け軸にご朱印を頂くと、「散華」という小さな蓮の葉っぱの形に漢字の一文字が書かれた紙片が貰えたのです。これはJR西日本が仕組んだイベントのひとつだったのですが・・・。でも「散華」に変わりはない。集めようと思ったのです。

全て集まればいつか額に入れて・・・と思っていたのが・・・やっと完成したのです。(完成というほどのものではないのですが・・・。)

散華とは、もともと寺院で法要した時、諸仏を供養するために花が撒かれるものなのです。
当初は、蓮の生花が使われていたが、いつからか蓮の花を型どった色紙が代用になって・・・。
各寺院では、法要の際、何千枚もの紙花が御堂の屋根から撒かれたりするのです。

このような「散華」を集めたのです。そして、33箇所揃った散華を額に入れたのです。

この西国33箇所の散華は、1番札所(那智山青岸渡寺)2番(紀三井寺)3番札所(粉河寺)を「観」「音」「力」とし、4番以降33番までは、観音経の一部のお経を取り入れ札所の順番に読んでいくと「お経」の一節になるという。
この文字は、各お寺のご住職が書かれたものと思われる・・・確認していないが・・・。

33箇寺とJR西日本が仕組んだ「散華」イベントにまんまと乗せられたと思うが・・・。
でも、貴重な「散華」を入手できたことをありがたいと思っている。


額に入れた西国33箇所の散華。ちょっと詰めすぎ?





「文字入り・散華」ではなく、花を描いた「散華」もあって・・・これが一般的で・・・。これは、長谷寺本堂横にある「能満院」の天井にある西国33箇所などの花の絵である。
昔、この絵を散華にしたものを長谷寺から頂戴したのだが・・何処に仕舞い込んだのか・・・今だ分からないのです。

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お礼参り② わが家の菩提寺へ

2007-07-10 21:50:50 | 西国三十三箇所めぐり

 

融通念佛宗総本山・大源山諸佛護念院・大念仏寺
場所:大阪市平野区平野上町1-7-26 

わが家の菩提寺の総本山は「融通念佛宗総本山・大源山諸佛護念院・大念仏寺」である。今は末寺の一つの来迎寺の更に末寺の石位寺(現在は無住職の為、兼務住職)にお世話になっている。

このわが家の菩提寺の総本山を、西国三十三箇所・巡拝掛け軸の最後の札所として、ご朱印を受けに行って来た。
いよいよ、巡拝掛け軸の満願となったのである。


38箇所のご朱印が揃った。満願である。 

この大念仏寺の本堂は、大阪府下最大の木造建築物であり、末寺として主に大阪府・奈良県・京都府南部・三重県西部にかけ、約350寺ほどあるという。

毎年5月1日~5日の間、阿弥陀教万部会菩薩来迎練供養(あみだきょうまんぶえぼさつらいごうねりくよう)、いわゆる「平野のおねり」も有名で、多数の人出で賑わうのだ。

更に毎年8月の第4日曜には、幽霊博物館として幽霊の掛け軸12幅や片袖などを一般公開しており、多くの方のお参りを受けている。

この融通念仏宗の総本山は、大治(だいじ)2年(1127)鳥羽上皇勅願による良忍(りょうにん)上人の開基である。

その後幾度かの火災により焼失したが、多くの文化財を残している。
1182年(寿永元年)火災にあい、寺運も衰微したが、元享年間(1321~24年)に7世法明上人により復興。
以来、朝廷・徳川幕府歴代将軍の崇敬あつく、たびたび寄進をうけている。
1898年(明治31年)の火災により諸堂は消失したが、その後次第に再建され今日に至っている。

特に国宝の指定をうけている「毛詩鄭箋(もうしていせん)残巻」は寺伝では菅原道真直筆とされている。



山門 は 江戸時代前期の建立。 山号の「大源山」を掲げている。


千早赤坂の戦・大阪の陣等の兵火にあっている。そして明治31年に出火し、大堂ほか多数の堂宇を失い、現在の大堂は、昭和13年に竣工されたもの。


総欅(けや木)造り・銅版葺きである。大阪府下最大の木造建築なのだ。 東西約50m、南北約40mの大きさでカメラに入らなくて・・・。


堂内は撮影禁止である。年3回催される「百万遍大数珠繰り」に使われる「大数珠」が天井に掛けられていた。長さは150mほどかなあ?


大阪市内で、この広さの境内・・・。広い!


毎年5月1日~5日の間に催される、「平野のおねり」も有名で、多数の人出で広い境内が賑わう。


鐘楼。


大阪市の保存樹に指定されたクスノキ。境内北側にあり、幹周り6.8m、樹高18.9m。地上から約3mのところに瘤(こぶ)がある。


境内のイチョウの木には銀杏が・・・。

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お礼参り① 高野山・金剛峯寺へ

2007-06-30 15:33:54 | 西国三十三箇所めぐり
一昨日、西国三十三箇所と番外3箇所のお参りを終えたため、「高野山・金剛峯寺」へ、お礼参りに行ってきた。

お礼参りのお寺としては、「高野山・金剛峯寺」と「長野県・善光寺」、そして、家の菩提寺であるとか。わが家の場合は「大阪・大念仏寺」である。

巡拝掛け軸には、38箇所にご朱印をもらうことが出来るのだが、いずこのお寺の方に聞いても、最後に貰うのが菩提寺(大念仏寺)であり、残る一箇所は高野山か善光寺。お好きな方を・・・ということだった。
ということで、近場の「高野山・金剛峯寺」になったのだ。
善光寺には、機会を見つけて、お参りすることにしよう。

高野山・金剛峯寺は、西国三十三箇所にはどういうわけか入っていない。
弘法大師(空海)が開祖の真言宗の総本山である。古くから西国巡礼と同時に参詣されてきた。

私も25年前に会社の同僚と観光で来て以来である。
といっても、高野山の街並みと奥の院に向かう杉木立の両側に建つ「墓石」の多さが記憶に残るだけで、金剛峯寺も知らなければ、ましてこの寺の内部がこんなにも立派だったとは・・・。
想像もしていなかっただけに、驚きと感激のひとときであった。

では、海抜800メートルの地に壮大な伽藍や仏都を形成する大霊場をご案内します。


お礼参り 「高野山・金剛峰寺」 

場所:和歌山県伊都郡高野町高野山132


大門。開創当時はもっと下にあったが、現在のものは1702年に再建されたもの。高さ25.1m。両脇には法橋運長作の金剛力士像がにらみを利かせている。それにしても大きい!

ここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町なのだ。
晴天の日には遠く淡路島方面が展望できるのだ。



高野山真言宗4000ケ寺、信徒1000万の総本山として全国的に知られている。1593年に豊臣秀吉が亡き母の菩提のために建立、更に1863年再建されたのが現在の建物である。東西約45m南北63.5mに及ぶ。


主殿の屋根の上に樽? 水が入っているのかなぁ。
 
主殿には龍の彫り物が・・・。

偶然にも「金剛峰寺第412世座主 高野山真言宗菅長 松永有慶師」に出会うことが出来た。


主殿の庭園。
拝観料500円で主殿・別館・新別館・奥殿・新書院などが拝観できる。部屋の内部は撮影禁止なのだ。
歴史に名を残す絵師の筆による豪華な襖絵で飾られた部屋や、豪壮な台所のほか、秀次切腹の間などを拝観した。どの部屋も凄いのだ。!



主殿から別館に向かうところの庭園。


新別館の169畳敷大広間。更に上と下に床の間があり、更に両脇に畳廊下がある。


石庭としてはわが国最大の庭。二匹の龍を巨石で表した「播龍庭」。写っているのはごく一部。


豪壮な台所。今も、大きな行事で使われている。この1釜で98kg、3釜で280kg 2000人分が焚けるという。


台所の戸棚の上にあった駕籠(カゴ)。何に使うのだろうか?

主殿に入るとすぐに狩野探幽(かのうたんゆう)の襖絵が並ぶ。更に奥には歴代天皇の位牌をお祀りした持仏堂、左側には豊臣秀次が自刃した柳の間があり狩野探斎(かのうたんさい)の絵が正面板戸に描かれている。
さらに進むと高野山独特の炉である土室(つちむろ)が設けられた奥書院、稚子の間、座主の間、愛染明王安置の間などへと続く。一方、貴賓室にあたるのが奥殿。昭和天皇が来られた時に使われた部屋である。壁は金箔貼り、天井には花の彫り物が・・・。





霊宝館。
1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文、県文化財や貴重な資料を保管し公開されている。平安・鎌倉時代の仏像・仏典・衣装などが目の前に・・・。ここも撮影禁止だ。



奥の院に向かう参道。「管理登録巨木」は639本。200年~600年の杉の老木にはプレートがつけられている。


「奥の院」手前の水掛け菩薩?


この石橋から奥の院にかけては撮影・拡声器の使用禁止だ。 


「金堂」。
本堂として重要な法要が営まれる。819年に弘法大師が創建されたが幾度も消失し、現在の堂は7度目で昭和7年に再建されたもの。



根本大塔。
昭和12年に完成した高さ48.5メートルの朱塗りの大塔。内陣に胎蔵界大日如来を本尊として金剛界四仏が安置されている。



秋篠宮悠仁親王の「お印」は、「高野槇」。境内のアチコチに置かれていた。




買い求めた「高野槇」。切花は500円。植木は1000円であった。
高野槇はスギ科の常緑針葉高木。日本固有の高木で、高野山(和歌山県)に多く生息することから名付けられたものである。
スギ科なのにマツボックリ?? 


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満願成就のお寺・・華厳寺

2007-06-29 11:19:36 | 西国三十三箇所めぐり
いよいよ三十三箇所目、満願のお寺「谷汲山 華厳寺」。
自宅から車で片道4時間。名阪国道25号-東名阪自動車道-名神高速道-258号-417号の往復376kmである。
あと、大阪市内の菩提寺のお寺も車でお参りできることになり、番外・お礼参り寺を含め38箇所全てを車で日帰りで達成することになる。
4月からお参りを始めて、2ケ月も掛かったのだ。

お参りして得られる「ご利益(ごりやく)」とは、待っていて得られるものではなく、結局のところ自分の気持ちの持ち方、前向きに考え、行動することなのだ。
むしろ、周りの人たちに幸せを与えられることが・・・そんなことを・・・。
これが私が得られた「ご利益」だったような・・・。




ご詠歌が3つあるため、ご朱印も3つなのです。
西国第三十三番 谷汲山 華厳寺(たにぐみさん けごんじ


場所:岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲徳積23

宗派:天台宗
本尊:十一面観世音菩薩
開基:豊然上人、大口大領

京都を訪ねた開祖の大口大領が仏師に十一面観音像を彫ってもらい、仏像を持って会津に帰る途中、この谷汲の地に来ると仏像が急に重くなり動けなくなったという。

そこで山中で修行していた豊然上人の助けをかり、延暦17年(798年)に堂を建て、十一面観音像を祀ったのがお寺の興りであるとか。

この堂を建てるとき、山中から油が湧き、これを仏前の灯明の燃料に用いたという言い伝えもあり、谷汲(たにぐみ)の地名はこれに由来しているという。

満願を迎えた巡礼者は、このお寺の「笈摺堂(おいずるどう)」に、巡礼を共にしてきた杖、笠や納経帳、巡拝軸などを千羽鶴と共に奉納されている。

ここで貴重な体験をさせて貰った。
というのは、本堂の十一面観音像が祀られている床の真下にもぐりこむことが出来る「戒坦めぐり」をさせてもらった。お参りされている方は全くご存知ないらしく、我々夫婦だけが入ったのだ。

薄暗いお堂の中で、狭い急な階段を手摺りを頼りに垂直に降りる。電灯・灯明など光が全く遮断された床下は、真っ暗。
こんなに暗い世界はいままで見たことがない。光が全く無い。真っ暗闇とはこのことだ。
階段の一段一段を左足のつま先で探り、右手でテスリを伝わりながら・・・。
カミさんも「怖い・怖い。これ何処へ行くの!」と、悲鳴に近い声で私の後ろに続く。
平坦な床面になる。手先に柱や石の冷たさに触れる。方向感覚がわからない。
恐らく、十一面観音像の台座の真下をグルリと周り、元の入り口(出口)に戻ってきたのだろう。

目が見えないことの恐怖、辛さ・・・・光が無いことの怖さ・・・を教えてもらった気分だ。
出てきて最初に目にした本堂の灯明の明かりが優しく迎えてくれた。
今までのお寺の厳しい石段・山道も苦しかったが、目は見えていた。でも、本当の苦痛は「光がない世界に住むこと。目が見えないこと。世間から遮断されること。」だと・・・。

さすが、三十三箇所目として貴重な体験をさせてもらった「華厳寺」であった。


門前街入り口の山門。


仁王門。かなり立派だ。 


階段の先に本堂が見える。今までの石段に比べ、優しい感じがするのは何故だろう?


満願の嬉しさを待っていてくれる・・・そんな気持ちに・・・。


貴重な体験をさせて貰った「戒坦めぐり」。ご利益(ごりやく)は、ここで得られたのかも・・・・。


 「笈摺堂」には、巡礼を共にしてきた杖、笠と共に千羽鶴が・・・。お堂の中には納経帳、巡拝軸などが積まれていた。これらの処分はどうされるのかなぁ。「笈摺」とは、巡礼者が着ている白衣なのだ。


笈摺堂の左側の石段を上がると「満願堂」が建っている。丸い石灯籠には『満願』と書かれている。何となく『満腹』を連想させユーモラス。その隣には「タヌキ」が・・・。狸と満願と満腹・・・おもしろい。




この柱に取り付けられた銅板のレリーフの「鯉」。
この鯉は「精進落としの鯉」と呼ばれ、かつての巡礼者達は満願参拝を済ませ、この鯉に触れることで「精進生活」から開放された気持ちになったという。私も、擦ってみたが・・・そして、鯉の口に十円玉を銜えさせたが・・・。



本堂の手前には「真言宗」のお堂も・・・。稲荷神社も・・・


「真言宗」のお堂の庭にあった「水琴窟」。右下の蓮の花の形のところに耳を当てると・・・優しい音色が・・・。

同じく、「真言宗」のお堂の庭に咲いていた「銀盃草」。可愛い花だ。


振り返ると、仁王門からの参道が・・・新緑が綺麗だ。「満願成就」のスッキリした気持ちになれるのだ。

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平成5年に本尊・秘仏9体も灰燼に・・・

2007-06-24 11:21:42 | 西国三十三箇所めぐり

<32番札所  繖山 観音正寺(きぬがさやま かんのんしょうじ)>  


場所:滋賀県蒲生郡安土町石寺2

宗派:天台宗
本尊:千手千眼観世音菩薩
開基:聖徳太子

聖徳太子が琵琶湖の中から出てきた人魚に、『仏道を信じず生前に無益な殺生を重ねてきたため、こんな姿にされてしまいました。どうか成仏できるよう、ここに観音さまを安置し、供養して下さい』と頼まれたという。
この願いを聞き入れた聖徳太子は、千手観音像を自ら刻み、推古13年(605年)に堂を建立し、観音像を祀ったのが寺の創始である。

かつての本堂は明治15年(1882年)に彦根城にあった建物を移したものであったとか。
ところが平成5年(1993年)5月22日に全焼したのだ。これにより本堂に安置されていた重要文化財の本尊、木造の秘仏千手千眼観音立像をはじめ平安後期の毘沙門天像など仏像9体も灰燼に帰したのだ。

平成16年(2004年)3月に再建され、本尊の千手千眼観世音菩薩坐像はインドから特別の許可を得た白檀で造られている。
同年5月22日に落慶されたもので、まだ本堂の裏側は工事が続いていた。


駐車場に建つ石碑。ここからの参道は平坦な木立の中を歩くのだ。本来の参道は「繖山」の麓から自然石や丸太の細い山道が1.4kmも続くという、三十三カ所最大の難所であったとか。今では、この地まで車で来れるのだ。


山門が無いお寺である。その代わり少し広くなった場所に一対の仁王像が置かれている。むき出しで、大丈夫なんだろうか?



「鐘楼」の造りは簡素である。


この「本堂」は平成16年(2004年)3月に再建され、本堂の周囲はまだ整理中の状態で、裏側も工事中であった。


本尊の千手千眼観世音菩薩坐像は、白檀の原木23トンを使用した高さ4.8mの総白檀造りである。


本堂の廊下に置かれていた大きな「硯石」。これは何だろう?


本堂の右手の山側に大きな石が積まれている。寺の方に聞くと「本堂火災により、もう少し敷地拡張するため、山を削った際に出てきた石です。」と言われていた。ところが途中に大きな石が出てきてそこまでにしたとか。


中央に見える大きな石を動かせなかったため、本堂敷地の拡張を諦めたとか・・・。


巨大な石の上には観音像が佇んでいる。


雨が降る中、境内から下界を撮ったのだが・・・。寺の方に聞くと、湖東方面で、晴天の日には近江平野の眺望がいいとか・・・。





これは「観音正寺」の本堂にて買った小冊子。ご住職が著者・発行されているのだ。
2冊で66項目から成っており、私たちが日頃何気なくつかっている言葉の中に、「仏教語」を使っていることがわかる。

その一つを紹介します。

1.しゃかりき(釈迦力)  

私たちは普段何気なく「しゃかりきに~する」と言いますよね。
平仮名で書くよりもカタカナで書いたほうがしっくりしそうな言葉ですが、「釈迦力」と漢字で書けば「へぇ~」とうなずかれるのではないでしょうか。
お釈迦さまは今から約2500年前インドでお生まれになり、苦しむ人々を救おうと仏教を開かれ、すべての人が平安に暮せるように、一生懸命に教えを説かれました。ここから転じてわきめもふらず物事にのぞむさまを「しゃかりき」というようになりました。

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