昨日は雨、今朝からは春の陽射し・・・・。
日一日と、暖かくなってきました。
日中、車の中は、冷房が必要なほどの日もあって・・・・3月下旬の暖かさとか・・・。
今冬は、カミさんの車にスノータイヤを履かせたのに・・・効果発揮出来ず出番なし。
そういえば、ワンちゃんの散歩道では、ニョロニョロちゃんがあまりの暖かさで冬眠していた穴から出てきたものの、深夜の寒さでドクロを巻いたまま凍死していたのは1週間前のこと。
寒暖の差がありすぎて・・・・戸惑うモノがあらゆるところに居るようで・・・。
春の花たちが一斉に咲き始めるもの、蕾を脹らませ準備を始めるもの・・・賑やかになってきました。
このぶんだと、各地からの桜の便りが早まりそうです。
そんな中、庭のクリスマスローズが一斉に咲き始めました。
路地植えにすると、わが家では、フキノトウと同じくらいのタイミングで咲くようです。
最近の園芸店では、年中見られ、珍しくもなくなりましたが・・・それでもまだ高価なうち。
下向きに咲いているため、カメラを地面につけて撮りました。
▲新品種はありませんが・・・「クリスマスローズ」が庭で咲いています。
下段左は、「長寿桜」です。ポッと蕾が脹らんできました。
桜井市埋蔵文化財センターで、「忍坂谷(おっさかたに)」(現在の地名表示は「忍阪」)の左右に点在する遺跡の解説案内や古墳から発掘された遺物を眺めております。<o:p></o:p>
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2005年に土地開発のため発掘された「赤尾崩谷古墳群」は忍坂谷の西側にある鳥見山の北麓に連なる尾根上にあり、5世紀末から6世紀初頭にかけて造られたものとか。
この古墳からは、割竹形木棺の中にガラス・琥珀・銀製などの玉類などが多数出土。他に重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)、鉄剣、須恵器なども出土。さらに剣菱形杏葉(けんびしがたぎょうよう)などの馬具類も出土しており、これら副葬品から渡来系集団のエライ方を埋葬した可能性があるとされている。<o:p></o:p>
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また、2008年には、同じ鳥見山の北東にある山の尾根の宅地開発地から4基の「赤尾熊ケ谷古墳群」が発掘されている。<o:p></o:p>
割竹形木棺からは、ヒスイ製の勾玉、ガラス製の小玉や内行花文鏡(ないこうかもんきょう)2枚が出土している。
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これらの古墳のすぐ近くにはヤマト政権の大王クラスの古墳と考えられている「桜井茶臼山古墳」があるが・・・大きさは違えども・・・権力を象徴する2枚もの鏡や豊富な鉄製品が出土していることから、ヤマト政権ではかなり主要な地位であった人物と推定されるとか・・・。<o:p></o:p>
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</o:p>今、日本中が、「おくりびと」で沸いている。
当時としては、庶民が目にすることも無かったであろう埋葬遺物を眺めていると、古墳時代の大王たちのあの世への旅立ちを、どのような形でされていたのだろう・・・。
当時の「おくりびと」の所作や作法は・・・どうだったのだろう。
▲発掘中の「赤尾熊ケ谷古墳群」。
▲「赤尾崩谷古墳群」と「赤尾熊ケ谷古墳群」から発掘された、ヒスイ製の勾玉、ガラス製の小玉など。
▲「赤尾崩谷古墳群」からは、ガラス・琥珀・銀製などの玉類、そして重圏文鏡(じゅうけんもんきょう)、鉄剣、須恵器などが出土。
▲「赤尾熊ケ谷古墳群」からは「内行花文鏡(ないこうかもんきょう)」2枚と鉄剣などが出土。
ブログ仲間の「よりりんさん」に教えて貰った「大和郡山・盆梅展」に行ってきた。
会場となっている「郡山城祉」は、今まで内掘に掛かる『枝垂桜』や城内の桜が印象的で、「盆梅展」が催されているとは・・・初めて知った次第です。
この郡山城祉は、室町時代末期に筒井順慶により築城され、後に豊臣秀長が入り、1724(享保9)年には柳沢吉里が城主となり、 以後柳沢藩15万石の城下町として明治まで続いた大和では現存する城郭としては大規模なものです。
近年、復元された門や櫓など往時の威容が復元されつつあり、普段は非公開の追手門・追手向櫓・多聞櫓に、地元有志の方が持ち寄った盆梅が展示されているのです。
ここの盆梅は、他の展示会場で見るものより古木が多く、盆栽好きの方には、垂涎が出るほどのものばかりです。
まだ見られたことがない方、是非一度、樹形の美しさに酔われれば・・・お勧めのスポットです。
▲入り口の追手門には、白梅の「大職冠」と紅梅の「鳳凰」が出迎えてくれます。
▲樹齢120年のものも・・・・見ごたえがあります。あと1週間早ければ・・・最高の見頃だったのに・・・既に散り始めたものが多かった。
▲何しろ、お城の中ですから・・・雰囲気がピッタリです。係の方に聞くと、約100鉢を展示していて、咲き具合を見て入れ替えているとか。
▲新種の花ではないけれど・・・・なかなか綺麗です。
▲樹皮だけになったが・・・・花を咲かせています。こんな枝ぶりに見とれてしまいます。
▲会場の外にもありました。
▲左奥に見えるのが「旧県立奈良図書館」です。路地植えの枝垂れ梅も見頃を迎えています。
桜井市埋蔵文化財センターの冬季企画展として催されている『忍坂街道を行く』の展示遺物を眺めております。
宇陀に抜ける国道166号線に沿って東南に伸びる「忍坂谷(おっさかたに)」の左右に点在する遺跡・古墳から発掘された遺物です。<o:p></o:p>
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忍坂遺跡の場所は、忍坂谷の東側にある外鎌山(とかまやま)の麓にあって、昨日紹介した場所から300mほど南側に位置している。
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平成16年の第四次調査では、平安時代の木棺墓の中からは、黒色土器壷、土師皿、青銅製の八稜鏡(はちりょうきょう)、横櫛が出土している。<o:p></o:p>
鏡と櫛・・・・このことから被葬者は女性であると見られていて・・・では誰なのか?<o:p></o:p>
允恭天皇(いんぎょう)の皇后・忍坂大中姫の意柴沙加宮(おしさかのみや)の場所として有力視されているところでもあり・・・。<o:p></o:p>
また、この地は南北朝時代には「外鎌城」があったところでもある。この場所の地名が明治時代の地図に載っている「観音寺」というところであって、その昔、お寺があったと推測されるところだ。
更に、推察するとこの近くには忍坂坐生根神社がありこの境内には旧神宮寺の廃円福寺観音堂があったが・・・この円福寺と観音寺との関係は・・。
さらに、近くに白鳳時代様式の国内で最も古い石仏、重要文化財・石造浮彫伝薬師三尊像を安置する「石位寺」があるが・・・このお寺との繋がりは・・・と、話は広がってくる。<o:p></o:p>
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昨年、当ブログでも記した忍阪村から信州・保科の清水寺に渡った千手観音菩薩坐像など7体の重要文化財の「仏像たち」は、この「観音寺」という地にあったものなのか、それとも「粟原寺流れ」のものなのか・・・。興味ある推察と思うのだが・・・・。<o:p></o:p>
四次調査の調査範囲を広め、史蹟の更なる発掘を期待したいものです。<o:p></o:p>
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「粟原寺流れ」とは・・・・<o:p></o:p>
(粟原寺は、中臣大島<なかとみのおおしま>が草壁皇子<くさかべのおうじ>のために建てた寺で、715年に完成したが、大洪水で金堂をはじめ全ての塔が流れたと伝えられているが・・・さて本当かどうか。今は塔跡には礎石4個のみを残すのみである。この寺の建立の謂れが描かれた三重の塔の伏鉢(ふくばち)が談山神社(たんざんじんじゃ)に残っています。)<o:p></o:p>
(この項、続く)
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<o:p>▲平成16年の発掘で出土した「八稜鏡」と「横櫛」。他にも「黒色土器壷」や「土師皿」など多数。</o:p>
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年に何度か、市の埋蔵文化財センターを覗きにいく。<o:p></o:p>
このセンターでは、桜井市の原始から古代・中世までを時代ごとに発掘調査した資料の常設展示コーナーと、期間限定で特別展示企画が催されている。<o:p></o:p>
今は、4月5日までの「冬季企画展」として『忍坂街道を行く』が開催中であった。<o:p></o:p>
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発掘調査員の方にも話を聞く事が出来た。
「この地域は、至る所に遺跡や古墳があって、まだまだ発掘するところがあります。凄く興味のあるところです。」とのこと。<o:p></o:p>
入館料と引き換えに貰った資料には、この地域の主な遺跡・古墳14箇所が紹介されており、この順序に沿って、発掘資料が展示されています。<o:p></o:p>
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常設展示は省いて、特別展示コーナーを見て回ります。
赤尾崩谷古墳群、赤尾熊ケ谷古墳群、忍坂古墳群、忍坂遺跡、舒明天皇陵、石位寺の石仏(重要文化財)、赤坂・天王山1号墳(国史跡)、カタハラ古墳群(市史跡)、粟原カタソバ遺跡群、越塚古墳(県史跡)、ムネサカ古墳群(県史跡)、粟原寺跡(国史跡)、花山塚古墳(国史跡)、花山東塚古墳・・・と、これら14箇所で発掘された資料が陳列され、紹介されています。<o:p></o:p>
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これらの史跡・古墳があるのは、桜井市大字慈恩寺にある宇陀ケ辻から忍坂谷(おっさかたに)といわれる粟原川(おうばらがわ)沿いを通って宇陀方面に続くところで、古代から現代に至る重要なルートなのです。<o:p></o:p>
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忍坂谷には、舒明陵(じょめいりょう <段ノ塚古墳>)、大伴皇女墓(おおとものひめみこ)、鏡女王墓(かがみのおおきみ)があり、南側にある倉橋には崇峻陵(すしゅんりょう)であることが有力視されている赤坂天王山古墳もある。<o:p></o:p>
このように大王家に関係する陵墓が集中しており、まさに「王家の谷」なのです。
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忍坂谷の東側にある忍坂遺跡は、允恭天皇(いんぎょう)の皇后・忍坂大中姫の意柴沙加宮(おしさかのみや)の場所として有力視されているところです。<o:p></o:p>
昭和61年に発掘された忍坂遺跡には、大型掘立柱建物や柵の跡があり、他にも5世紀後半から6世紀後半の柱穴が見つかっており、さらに6世紀後半の土杭からはフイゴの羽口(はぐち)や鉄滓(てっさい)などの鍛冶関連遺物が出土しています。<o:p></o:p>
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これらの遺物から推測されることだが・・・垂仁紀(すいにんき)39年10月の条に皇子の五十○敷命(いにしきのみこと)が一千口の太刀を作って石上神宮(いそのかみじんぐう)に納められる前に『忍坂邑に一時保管されていた』記述があるとか・・・。
まさにこの土地で、武器となる太刀の製造か倉庫(武器庫)があったのでは・・・と思われるのです。
忍坂という土地にはこのような伝承があり、ヤマト王朝と深いかかわりがある土地だったのです。
<この項、つづく>
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<o:p>▲ちょっと写りが悪いですが・・・案内のポスターです。
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▲「忍坂遺跡」です。太刀を造っていたのか、それとも武器の倉庫があったのか・・・・。この柱跡やフイゴの羽口や鉄滓(鉄のクズ)などの鍛冶関連遺物が出土しているのです。
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