スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

この頃の「ラン君」

2007-10-31 12:32:58 | 出来事


何、オレのことで、何かお騒がせしてる?

久しぶりの「ラン君」登場です。

最近、深夜や明け方に吠えることがあって、ご近所迷惑な存在となっているのです。発情期ではないのに・・・。
で、眠けマナコで周りを見ても何も無く・・・・。
ところが、行けば鳴き止むのです。

甘えているのかなぁ。
困ったヤツです。

人や車が見えないところに繋がれているのに、わが家の3台の車と新聞配達の単車の音は聞き分けて、夜中に帰ろうが鳴かないのだが・・・・。
初めての車や、門の外に立ち止まる人がいると、すぐ吠える。
家人が居る方に向かって鳴き、教えてくれる。
番犬としての役目はいいのだが・・・。

何日も続くため、睡眠不足が続いております。

野良犬か野良猫なのか・・・。それとも不審者なのか?

ラン君が鳴けば、監視カメラ代わりに、ビデオ撮影できるようにしょうかと、考えたりしておりますが・・・。

まあ、暫くは、ラン君が鳴けば・・・見に行ってやることにしよう。


オレだって、眠いのだょ!

オレだって、一生懸命、家の番をしているんだょ! 知~らないヨ~ダ!

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実りの秋

2007-10-29 18:32:07 | 出来事

木の葉が色付き、実りの秋ですね。




ラン君を連れて散歩に出かけていたカミさんが、近所で草刈りされたところから、小さな実をつけた枝をもって帰ってきた。
直径5mmほどの緑・黄・赤(赤はなかったのです。ゴメン!)の実。何の実かわからない。何の実だろう?
鳥達ののうわ前をはねて・・・。わが家の玄関を飾っている。




もうひとつ、ご近所から貰った「柘榴(ざくろ)」。
大きく割れている。
赤い実は、ちょっと酸っぱくて甘い。
中国の古名、石瘤(せきりゅう)を転訛して和音読みにしたものとか。
大きな口をあけて、玄関で睨みを利かせている。

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「磯城における古墳時代遺跡」セミナー

2007-10-28 11:51:33 | 出来事


昨日は、桜井市立埋蔵文化財センターで催された「ヤマト王権はいかにして始まったか」の講座に参加してきた。
田原本町と桜井市の教育委員会、(財)桜井市文化財協会の共同企画事業として、9月から10月にかけて催されている講座で、「磯城の古墳時代遺跡・後編」について文化財担当職員を講師としたセミナーである。

 「考古学ファン」と思われる方々約50名に混じって聞かせて貰ったが・・・難しくて・・・ 

昔の磯城郡(桜井市・田原本町)において、数多く発掘されている弥生時代から古墳時代の遺跡についての調査結果を通じて、「ヤマト王権」を解き明かそうというわけである。

最終回の今回は、古墳時代における発掘遺跡が中心。
古墳時代は、前期(3c~4c)・中期(5c)・後期(6c)・終末期(7c)に分けることが出来、それぞれの年代の特徴を発掘した遺跡から分かったことを話されていた。

<古墳時代における遺跡の特徴>
●前期(3c~4c)・・・・青銅の「鏡」が造られていた。
●中期(5c)・・・・・・・武器、馬具、甲冑が造られていた。大量の鉄、金工技術の発達が窺える。
              大陸からの影響を受ける。
●後期(6c)・・・・・・・横穴式石室の登場。 家族と同じ室に埋葬する。
●終末期(7c)・・・・・・方墳の登場。(6c迄は前方後円墳であった。)



興味のあったことについて、いくつか紹介します。

下記の「畿内主要古墳編年表」を見ても分かるとおり、古墳時代・前期に、大和地方から河内(難波)地方に古墳造りが移っている。
河内(難波)に造られた理由としては、騎馬の風習を持つ勢力が攻めてきたのでは・・・と言われているが、この当時の大和地方の遺跡からは「馬具」や「馬に関するモノ」が発掘されていないため、この説は当らない。

また、九州方面の勢力が、大和の手前の河内や堺に政権を構えたのではないか・・・とも言われているが、考古学的な連続性見地から見ても、古墳作りだけが緩やかに大和から河内(難波)に移ったと考えるのが自然である。
当時は、河内(難波)も含めて大和の政権範囲であったと思われる。

古墳時代前期(3c~4c)の纒向(まきむく)遺跡では、20~30mくらいの埋蔵古墳(平坦なところに石棺を置き、その周囲を掘り、その掘った土で石棺を覆いさらに高く積みあげ古墳にしたもの)が多い。
それらの古墳は、田圃や畑にするため石棺の周囲が埋め戻されたため、盗掘されずに遺跡がそのままの形となっているのだ。

古墳時代中期から後期に変わったのは、古墳の大きさである。
前期~中期には100m~300mだったものが、後期になると30~40mとなり、古墳の大きさが小さくなった。

これは天皇の命により、古墳の大きさ規制がおこなわれたものと思われ、前方後円墳の前方部が短く、ホタテ貝型と言われている。これは茅原(ちはら)古墳や小立(こたて)古墳にも見られる。

しかし、古墳の大きさは小さくなったものの、権力は持っていた。
これは、池ノ内古墳に見られ、小規模であるが官僚的役割を担った発掘物の副葬品(鏡・腕輪・鎧・鏃・斧など)からみても明らかであるとか。

古墳時代終末期の敏達天皇までは前方後円墳であったが、用明天皇以降の崇峻、推古においては「方墳」に変わり、舒明天皇においては八角墳になっている。
方墳に変わったのは、中国の影響を受けたためと思われ、以降も立派な墓を造ることはなくなったのである。



2ケ月前から予約して、ヒゲ面の風貌からして「考古学ファン」と思われる方々に混じって聞かせて貰った。
これらの方の質問内容も、かなり専門的(?)と思われるが、コチラはチンプンカンプン。
やはり難しい。ついて行けない。

今住んでいる土地や近くの地名が、次々と出てきて、その土地名と古墳名・遺跡名・天皇名・豪族名などとの繋がりが面白いのだが・・・。
悲しいことに、昔の土地名と現在の地名がつながらず、ついていけない。
まずは、土地名のルーツをマスターすることからせねば、理解出来ない。
今度は、勉強してからということで・・・・。


当日、配布された資料から・・・ 
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奈良・赤膚焼「正人窯(まさんどがま)」を訪ねて  ⑪

2007-10-26 18:32:40 | 奈良県のモノづくり探訪記


だいたい、日展入賞を重ねられている著名な奈良・赤膚焼、八代目・大塩正人窯にアポなしでお伺いするとは・・大変失礼なこと。

(お訪ねしてはじめて、赤膚焼の歴史と著名な窯(かま)であることを知ったのです。以前、インターネットで検索した「奈良の工芸品」で紹介されていたものをメモしていたものですが、昨日、近くを通ったため、急遽立ち寄ったのです。)

突然の訪問にも拘らず、快くお受け頂き、ご対応頂いた奥様とご長男・正巳氏には、深謝、深謝である。


奈良・赤膚焼、大塩正人窯(おおしお まさんど がま)。大きな柿の木があった。

赤膚焼の窯は初めての訪問だ。
場所が分からず道に迷いつつ、駐車場の看板に救われる。
車を停めた前にあった正人窯の作業場に直接伺ったのだ。
(隣に、作品の展示・販売スペースがあったのですが・・・気づかず・・)



ロクロを回されたり、土を練っておられるところに声を掛けたのだ。

この赤膚焼とは、小堀遠州公七窯の一つで、ここ赤膚山にある鉄分の多い陶土を使った陶器である。
焼き方により赤味、黄味、黒味と変化する。絵付けに奈良絵(大和絵も言う)という赤や緑の鮮やかな色彩で簡略な鳥居や鹿などを描いているのも特色だ。



豊臣秀吉の弟で、千利休とも親しかった豊臣秀長が、尾張の国(愛知県)常滑(とこなべ)の陶工を招いて赤膚山で茶器を焼かせたのが始まりとされている。



その後、寛政の頃に大和郡山藩主・柳沢堯山(保光)公の保護で御用窯となり、中・西・東の3窯が出来たという。
また天保年間には、柏屋武兵衛、一名奥田木白(もくはく)などが赤膚焼を全国に広めたという。

「赤膚焼」というのは、釉薬(ゆうやく)によって赤く焼き上げられたものでなく、五条山(赤膚山)近辺の赤い陶土を使って焼くため、釉薬のかかっていない素肌の部分(茶碗であれば高台のあたり)に、温か味のあるほのかな赤みを指すことから柳沢堯山(保光)公によって、「赤膚焼」と名づけられたとか。

現在の赤膚焼の窯元は、ここ奈良市に4軒、そして隣の大和郡山市に2軒の、6軒の窯元があるという。

作業中の女性が手を止めて、「登り窯」と「穴窯」を案内して貰うことに・・・。



「登り窯」は10年前までは使っていたが、現在は電気窯を使っているという。その上部にある「穴窯」は1年に一度程度使うとか。
この「登り窯」は、素人の私が見ても、かなり立派な雰囲気のある窯であることがわかる。大量に焼くときに使われるのだろう。恐らく4日間ほど寝ずの番をして焼くのだろう。

作業所の軒下には、赤膚山から採取されたと思われる「赤土」と、黒っぽい固めの土が積まれていた。

そして作品が展示販売されている建屋に案内された。




展示販売コーナーでは、八代目・大塩正人(おおしお まさんど)さんの奥様がおられ、更に説明を聞くことに・・・。

人肌の優しい色の器、紫陽花色の花器、薄緑色の花器が、そして、奈良絵といわれる絵が描かれている器があった。趣のある部屋に展示されている。一つ一つが、綺麗な作品だ。



釉薬(ゆうやく)には、藁灰(わらばい)と落葉樹のクヌギ・樫の葉っぱを燃やした土灰(つちばい)に長石の粉を混ぜた「萩釉(はぎゆ)」と呼ばれるものを使うという。これが赤膚焼独特の乳白色の色合いを出すのだ。

この萩釉は、流れ落ちて塗りにくいとか。そのため、綺麗に出来上がると高価な作品になるという。

また、「石灰釉(せっかいゆ)」、または「透明釉(とうめいゆ)」と呼ばれる釉薬もあるとか。これは茶色や青色を出すときに使うという。
また、「キショウ(?)」と呼ばれる、中国から来た釉薬は、紫陽花色が出るという。

茶器から始まった赤膚焼だが、やがて皿や花器なども焼くようになり、コーヒー茶碗やアクセサリーも。



途中から正巳氏が帰宅され、引き続き説明を受け、再び作業場に案内されることに・・・。別の棟にある絵を描く作業場にも案内頂いた。



ところが、残念なことに昼の休憩時間になり、作業を見ることは出来なかった。

八代目・大塩正人(大塩正義さん)の次男・正さんは九代目で、日展入賞も重ねられて、販売展示コーナーの一角にその作品があった。新しい色と形、新しい感性の作品とお見受けした。
伝統の技術を守りながら、代々の陶工が新しいことにチャレンジしてきたという。これからも、新しいことにチャレンジされるだろう。



かわいい奈良絵が描かれた一輪挿しの花瓶を買い求めた。壷の裏に「赤膚山 正人」の銘があった。



正巳氏は、『私は、奈良絵が描かれていない、素朴な人肌の「赤膚焼」のほうが好きですね。本当の値打ちがあると思いますよ。』とも。



また、氏から「伝統工芸士」を訪ねる場合の心得を教えて貰った。(ご注意とも・・・)
①「作品を見せて欲しい。」と言うのではなく、「作品を拝見させて頂きたい。」と言うこと。ただ単に見るのではないという印象を与えること。
②事前に電話し、都合を聞くこと。作業場の写真を撮る場合は、特に必要なのだ。
③手土産などを持参し、心配りをすること。気はこころ程度に・・・だ。

②と③は、心得ているつもりであったが・・・・①については、「なるほど!」と思った。
加えて④番目として言えることは、事前にその工芸品についての予備知識を得てから訪ねたいものです。

今回は、飛び込み訪問であったため、全てがバツ!
まあ、これも素人だから許されることとは云え、常識に欠けた行動に「反省!」。
皆さんも、くれぐれもこういうことの無きように・・・ご参考迄に。


正人窯 (まさんどがま)
八代目 大塩正人
〒630-8035 奈良市 赤膚町1051-2
電 話 : 0742-45-4100

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

墨造りに伝統を練りあげた・・㈱呉竹さん  ⑩

2007-10-25 16:30:36 | 奈良県のモノづくり探訪記

お訪ねした㈱呉竹・本社。

昨日お訪ねしたのは、墨、墨液、ふでペン、水墨画用品、絵手紙・水彩スケッチでおなじみの「株式会社 呉竹」さん。明治35年創業、105年の歴史ある会社である。

呉竹さんのHPを見ていると「墨の製造工程見学・・・」と書いてあった。
早速、お客さま窓口に電話をさせて貰った。本来は、5名以上でなければ受けて頂けないのだが・・・ご無理をお願いしたのだ。
ということで、カミさんと2人、奈良市内の本社へ。
お迎え頂いたのは、お客さま窓口の坪倉士郎さん。早速、墨の製造工場へ。

製造工程順に従って写真と説明書きを読んでいただくとして、説明書きには記されていない坪倉さんから伺った内容を紹介したいと思います。(「墨の製造」については、KuretakeさんのHPをご参照下さい。詳細に記載されています。)


見学用に通路が設けられ、各工程がガラス越しに見られ、それぞれ工程の写真と説明が掛けられている。

数千年の風雪に耐える記録材料としての墨は、推古天皇18年(610年)に高麗の僧、曇徴が墨造りを伝えたとの『日本書紀』に記載があるとか。この1千年余の歴史を持つ、奈良の墨づくり。

全国需要の90%のシェアを占めている。しかし「墨」を造るところは、現在では15軒(社)程度に減っているという。

墨は、原料の松の木を燃やして採る煤(スス)か、植物油を燃やして採る煤(スス)に分けられ、前者を「松煙墨」、後者を「油煙墨」と呼ばれている。



ここで使われているのは、植物性油の「菜種油」が多い。椿油は菜種油の10倍の原料費だとか。

昔は、油を入れた土器に灯芯をともし、上蓋に付くススを集める「土器式採煙法」だったが、昭和30年始め頃からこの「自動採煙機」を採用しているという。


松のススを作り出す「山小屋」の模型。
ただ、原料の松の木を燃やして採る松煙墨については、和歌山県などで作られたススを買われているという。
現在も松煙墨作りは、紙張り障子で囲った小屋にカマドを設け、倒木や枯れた松の木の根っこを燃やし、障子や天井に付いたススを払い落として集める方法だとか。
手間が掛かっている分だけ高価なのです。

ススはダイヤモンドに次いで粒子の細かいものだとか。
細かい粒子ほど、濃い黒色となるのです。



膠(にかわ)の役目は、ススの粒子を接着させることと、紙に移って(書かれて)からはススの粒子を紙に接着させ、艶を与えるのです。

バケツの中に水を入れ、その中にススを入れて混ぜてもススは浮いたままであるとか。ニカワでススの粒子をくっつけることで、水に溶け紙の上に移すことができるわけです。

ニカワは、なまぐさいニオイがするため、麝香(じゃこう)、竜脳(りゅうのう)、梅香香(ばいかこう)などの香料を加えられるのです。これが墨のいい香りなのです。

ススとニカワを混ぜる比率は、10対6が一般的で、細字やかな文字用は、ニカワの量を少なくしてネバリを下げるとか。





現在、この練り・型入れ工程の「墨作り職人」と言われる方は2名。(他に社員が1名)体力が必要な作業であるため高齢化により職人さんも少なくなっているという。

この工程作業は、10月から翌年4月までの寒い期間のみ行われ、職人さんはこの期間以外は他の仕事(農業など)に就かれている。ちょうど、お酒造りの「杜氏」と同じだ。
早朝4時頃から開始され、昼食抜きで午後2時過ぎには終えられるという。

墨の玉(固まり)は、餅のようだ。この黒い餅を作業所に持ち込み足で踏み、手で捏ねる。ススとニカワをしっかり練りこむのだ。

そして、座った股の下に挟み込む。必要な分だけ取り出し、型入れ用に千切り採る。余ったものはすぐに股の下に挟み込むのだ。これは常時体温と同じにすることで、練り易く、型入れしやすくするためだ。
この墨の玉を直接触らせてもらった。人肌の温かさだった。

固形墨には、色んな形があるが、仕上がりの重さが15gのものを1丁形と呼んでこれを基準とし、これを作るためにナマの墨の玉を26.25gを木型に入れるのです。
千切って天秤ばかりで計量し、木型に入れ、決められた時間プレス機に掛けられます。この加圧具合も難しいのです。木型から出された墨の形は、仕上がりの墨の倍ほどのふっくらとした大きさなのです。





型から出された墨は、乾燥室へ。
そのままの状態では、表面がヒビ割れするため、表面と芯を同時に乾燥させるため、木灰(クヌギの木)の湿度を変えたものを1日毎に変えるのです。それも直接、灰に触れさせず、新聞紙を入れ均等に乾燥させていくのです。1丁型で7日間灰の中で乾かされる。

灰による乾燥が終わると、藁(わら)で編んで、天井に吊るされ、室内で1~2ケ月乾かされます。
この工程の担当者も、「職人さん」と同じ時間帯の作業となります。

墨が乾ききるのに3年、更にニカワが熟成しその特性が安定するのに3年掛かるという。ススである炭素は安定していますが、ニカワは動物性の蛋白質のため、長い間に変質する。墨が本来の真価を発揮するのは、製造後20年~50年と言われています。



1日だけ灰の中で乾燥された墨を、木枠の型で出来たバリを、カンナやナイフで削り取る。
同時に、検品も行われている。昔は、この検品工程には会社のトップクラスが担当し、『墨の出来具合、つまり職人の技術の良し悪しの査定をしたのです。』と云われていた。




木型の胴やフタの彫りは、それだけでも芸術品だ。
書道家が書かれた文字を忠実に、梨の木に彫りこんでいく。
「福」という文字を、字体を変え丸い墨の周囲に現された「木枠」が展示されていた。木枠そのものも芸術品だ。
書道家の書と同じ風合いを出さなければならないのだ。



墨はニカワの劣化があるため、作り方と原料によって差があるものの40~50年迄が円熟期といわれている。
しかしながら、紙に移された墨は、300年、500年の時を経ても残っている。

虫に食べられて・・・というのは、表装の糊の部分であるとか・・・墨そのものは虫に食べられていないのです。
大昔の竹簡・木簡などが土の中から発見されているが、そこに書かれた墨文字は腐らずに残っている。
また、寺院などの扁額も、木は朽ちていても墨文字の部分だけが、浮き出て残っている。

古文書の収集家などの家には、瓶(かめ)が備えられているという。
万一火災が起これば、その瓶の中に古文書を投げ入れ焼失を防ぐためと言われている。
墨で書かれたものは、濡れても乾かせば元に戻るからだ。

昔は1シーズンに1丁型にして2000万~2500万丁を作ってきた墨の業界だが、近年では年間350万丁に落ち込んでいるという。


松煙墨が作られる工程を説明して頂く。 



墨と硯の関係について 

硯の材質と墨の磨り方によって、墨色が大きく変わるとか。
墨を磨(す)って、よく下(お)りるかどうかは、硯の表面にあるギザギザの硬さ形・方向にあるとか。その表面あった磨り方が大切とか。縦長の硯では前後に磨り、幅広の硯では「の」の字を描くようにします。

墨を磨るには、硯の丘に少しずつ水をしたたらせ、磨っては墨池に落とし込む。このほうが墨液の粒子がよく揃い、磨る時間も少なくてすむという。
手と墨だけの重みで、大きくゆったりと磨ることが良い磨り方だとか。


会議室に設けられていた「墨のコレクション」。

特別に、会議室に案内して頂き、貴重ないろいろな墨を拝見させて貰った。


「正倉院展」に展示される舟型の墨の復刻版だ。

10月27日から催される「正倉院展」に展示される「舟型」の墨の復刻版もあった。



書家の榊莫山さんの揮豪の入った「干し鰈」「山魚女」の金色の墨が・・・。 



そして、ここで榊莫山さんの作品に出合ったのだ・・・。
正面の屏風仕立ての壁面に書かれた絵と文字。まさしく莫山さんの作品だ。呉竹さんと先生の親交の深さを現すものだ。
この前で、ずっと眺めていたかったのだが・・・。


液体墨の「墨滴」を開発・発売されたのは、昭和33年のこと。
最近では「くれ竹万年毛筆夢銀河」「絵てがみ・顔彩耽美」「香りがついた墨滴」などが開発・発売されており、新製品も次々と発売されている。



いろいろお世話になった「お客さま窓口」の坪倉士郎さん。正面玄関入り口には、製品が陳列され販売もされていた。

株式会社 呉竹
奈良市南京終町7-576
TEL 0742-50-2050


コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする