スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

人間のにおいを蔵している高貴寺の「香亨閣」木額 ⑥

2007-08-31 13:08:28 | 魅せられた「書」探訪
このお寺には、いろんな書がある。楽しみなお寺だ。

猛暑の中、誰も訪れない境内は、蝉の鳴き声だけが響いていた。

金剛葛城山系の大阪府側、南河内郡河南町平石にある「高貴寺」。
村の方に場所を聞くと「この道を真っ直ぐ行って、村の墓の上にあるよ。」とのこと。

途中の道路案内には、小さく書かれた「高貴寺」の名前が朽ちかけた木板に薄く残っている。
路肩の草むらに「高貴寺」と彫られた石碑がポツリと建っていた。
『この字は、バランスのくずれたところに質朴のよさがあり、太くて単純な点画に気性の強さがあらわれている。』と莫山さんは評されている。

草むらにポツリと建っていた「高貴寺」の石碑。

文武天皇の御代役行者が法華経28霊場のひとつとして設け、その後、嵯峨天皇の弘仁年間に弘法大師が堂塔を建立したと、境内の看板に記されていた。
仏に供養する香花(こうげ)が四季絶えなかったことから「香花寺」と名付けられたこともあったとか。

広場に車を停め、境内に向かう途中に、タイサンボクの老木に実が成っていた。「香花寺」の名前の由来を示すひとつなのかもしれない。香りの良い花の咲く時期に再び訪ねたいものだ。

タイサンボクの老木に実が成っていた。花はいい香りがするのだ。

参道途中の釣り鐘堂の前に、「大界外相」を正面に向け、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑が建っていた。 この石碑は「結界石」と言われるもので、寺を外の世界とは違った聖なる場所とするために置かれているものです。女子の立ち入りも禁じられていたのだ。なかなか良い書体だ。

 「大界外相」を正面に、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑。なかなかいい感じの字だ。

風情ある土壁の塀と、椿の木々に挟まれた参道を進むと、お堂が建ち並んでいた。
「高貴寺」の扁額が掛かったお堂。
その左隣に緑の宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。寛政年間(1789~1800)の建立のお堂に慈雲(江戸中期の大阪を中心として活躍した仏教僧)が書いたものである。ケヤキの板に書かれている。崩されている字は難しい。なんとか読める。
莫山さんは『はなやかではない。だが、その素朴平易な姿の中に清冽な精神の高さをしめし、なにげない線脈に、いかにもあたたかい人間のにおいを蔵している。』と、言っておられる。

 「高貴寺」の扁額と、隣に建つ宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。

境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が見られた。好物のミミズや草の根を狙いに来ているのだ。裏山は木々に囲まれ、うっそうとする境内だ。

事務所と思われる奥からテレビの音声が聞こえてきて、人のいる気配はあるが誰も出てこない。
今にも、イノシシが出てきそうな境内を蚊や虻を追っ払いながら、いろいろ尋ねることも出来ず、次の弘川寺に向かった。

裏山は木々に囲まれ、境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が・・・。 

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拳が泳ぐ、太い隷書・・・一心寺の碑 ⑤

2007-08-30 06:50:37 | 魅せられた「書」探訪
豪快な筆遣いの隷書で書かれた「一心寺」の石碑。

ここは、大阪・四天王寺さんのすぐ西側にあるのだ。
大阪夏の陣での、徳川家康公の本陣となり、世に言う「茶臼山の本陣」となったお寺でもあるのです。

莫山さんは、「この太く彫られた字の中に握りコブシを入れたらコブシは泳いでいた」と、書かれていた石碑だ。
この碑のまわりを回って、寛永2年(1849年)の建立も確認されている。

私も、この碑を見たくて探したが見当たらず、常駐の警備員の方、お寺の事務員さん、更にお坊さんに確認したが、首をかしげられる。ついには、若いお坊さんが走って確認に向かわれる始末。
「見つけましたよ。正面入り口の塀の上です。」(当たり前だ! と思ったが・・・言えなかった。)

3mほどの石垣の上に、石塀に囲まれ木陰に隠れるように、建っていた。道路から見上げるので分かりづらいのだ。
新しく建てられた仁王門の迫力に圧倒されているようだ。
でも、もう少し目立つところに置いても・・・と思ったが・・・。

莫山さんは、石垣をよじ登ったと言われていたが、今では垂直の壁に近い石垣となっていて、まず登ることは不可能だ。
またカメラのフレームに「一心寺」の文字を入れるのも、一苦労だ。
真下からでは、撮れない。信号を渡った道路の向こう側から撮ったのがこの写真だ。




江戸も終わりに近い頃、この碑が彫られたのだ。鏨(タガネ)をたたいてコツコツと彫られたのだ。
車の排気ガスにも耐えながら、綺麗な文字が木陰から睨んでいるようである。


法然上人が約800年前に創建され、無名戦士のお堂があり、幕末の名優 八代目市川団十郎、昭和の名優 坂東寿三郎などの墓もある。
右の奥に「通天閣」が見えている。

また、面白いのは、本多出雲守の墓であり、戦に向かう前に酒を飲み、深傷のうえ戦死したこのひとの墓に参ると「断酒」できるという。
「自分の墓に参れば、お酒を飲めないようにしてやる。」と遺言したからとか。この墓に参るひとがいると言うことだが・・・・。アル中さんはどうぞ!


昭和20年の大阪空襲で、堂塔伽藍のすべてが焼失。その後再建され大本堂、信徒会館、念仏堂、更に平成9年には鉄骨造り山門と青銅製の仁王像が睨んでいます。
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円盤と六角柱はアートだ! ④

2007-08-29 08:23:46 | 魅せられた「書」探訪
多武峰・談山神社の東大門から登っていく途中に、重要文化財「摩尼輪塔」がある。
この変わった石碑(というより塔婆)の八角形の石塔の正面と左側面に文字が彫られている。
上円部には大日如来の種字である「アーク」という記号が彫られている。

正面の塔身には、「妙覚究竟摩尼輪」と彫られ、側面には「乾元二年癸卯五月日立之」と1303年の銘があることから、700年ほど前に造られたものなのだ。

梵字は「薬研彫」の手法で彫られている。
この「薬研彫」とは、昔、薬を粉砕する道具の「薬研」とい道具のV字型から、この「薬研彫」の名称が出来たとか。

摩尼とは「宝珠」という。では宝珠とは何かといえば、仏像やお地蔵さんが手にしている、球形で上部が尖っている珠なのです。五重塔の仏塔や仏堂の頂上、また橋の欄干に付けられた「擬宝珠」などもその現われとか。
石の笠の頂上に、橋の欄干の形をした「宝珠」が乗っていました。

円盤と六角形という組み合わせは、ひときわ目立つデザインだ。現代でもヒケをとらないアートだ。

『かなり薄くなっている「妙覚究竟摩尼輪」文字の「妙覚」とは、仏に帰依して良い報いを受けることで、それがここ談山神社で究意、すなわち究極となる、ということである。』(莫山先生の説明引用)


重要文化財の「摩尼輪塔」。なかなかユニークな存在だ。
六角柱の石に「妙覚究竟摩尼輪」と書かれているそうだが、薄くて見ずらい。


参道の傍ら、小川の縁に建てられていた。

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威厳ある命令調の文字「下馬」「下乗」? ③

2007-08-28 09:55:53 | 魅せられた「書」探訪
由緒ある神社・仏閣には、その門の前あたりに必ずこの「下馬」なり「下乗」の石碑が置いてある。
馬に乗ってきた偉い人を降ろすほどの威厳ある文字でなければならないのだ。

ひとつは高市郡明日香村にある西国三十三番札所・第7番「岡寺」の朱塗りの仁王門前にある「下馬」の石碑。
もうひとつは、多武峰・談山神社の東大門をくぐった広場にある「下乗」と彫られてデンと構えている石碑である。

岡寺の「下馬」


「岡寺」の仁王門前にある「下馬」の石碑。

岡寺の創建は663年(天智天皇2年)。でも、いつ頃からこのような乗り入れ禁止の碑が出来たのだろうか。
この岡寺の場合は、境内への乗り入れ禁止は分かる。階段が多く狭い境内であり、馬では無理。
まあ、それよりも神聖なる境内への立ち入りを禁じたのだろう。


談山神社・東大門の「下乗」 


談山神社・東大門の奥に置かれている「下乗」の石碑。20mほど奥、石垣手前に置かれている。門の真下にあるのは車止めの石。

多武峰・談山神社の場合はどうだろう。
藤原鎌足の墓として678年(天武天皇7年)鎌足の長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父・鎌足の墓を大阪・高槻からこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥である。この領域への乗り入れ禁止は、当時の権力者の墓地であっただけに当然だったのだろう。

ここ東大門の奥に置かれているのが「下乗」の石碑。「乗」の文字が凄い睨みを利かせている。

「下馬」「下乗」というのは、屋外に置かれるためだろうか太い文字が深く彫り込まれ、風雪に耐えるようにされている。

もし、創建当時から置かれているのであれば、1330年以上も経っている。なかなか力強い彫り物だ。これは、書き手より彫り手を褒めるべきだと思うのだが・・・。


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『飛鳥寺』にある、貫禄と流麗の文字 ②

2007-08-27 08:02:44 | 魅せられた「書」探訪


「飛鳥大佛」の貫禄ある字が、門の前で迎えてくれる。

ここ飛鳥寺は、法興寺・元興寺ともよばれており現在は安居院(あんごいん)と呼ばれている。
でも「飛鳥の大仏さん」があるため、私は「飛鳥寺」と呼ぶほうが好きだ。

596年に蘇我馬子によって建てられた本格的な伽藍配置の日本で最初の大寺院であり、本尊の釈迦如来像(飛鳥大仏)は、年代のわかる現存の仏像では日本最古のものと言われている。

創建時の飛鳥寺は、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し、その外側に回廊をめぐらした伽藍配置であり、敷地は、東西約200m、南北約300mであった。
建築には、百済から多くの技術者がよばれ、瓦づくりや、仏堂や塔の建設に関わったとされ、これらの技術者や弟子達が全国の寺院建築に携わっていくことになるのです。

この日本一古い「飛鳥大仏」を迎える石標も、デンと構えた貫禄十分の文字だ。
昔の位置からかなりお寺の入り口に移されたようだ。
お寺の門前は駐車場になっており、門の手前にこの石標が座っている。


上部に<飛鳥大仏> 下の二行に<ましまして 斗帳に花の 主かな

このお寺の境内には、関西の高浜虚子と言われた「松瀬青々(まつせせいせい)」の句碑がある。
1961年(昭和36年)の建立である。崩し字であるため、なかなか読めない。
この青々さんの他にある句碑は、もっと崩して書いてあるそうだ。他の書も見てみたいものだ。

丸い円の中に、飛鳥大仏と、下に句を二行に分けて書いてある。
『ましまして 斗帳に花の 主かな』
上部に書いてある「飛鳥大仏」??・・・これが・・・?難しい。
ここまで崩されると、私には読めなくなってしまう。
でも、バランスの取れた流麗な文字だ。

御影石を磨いてあるのか、フラッシュを焚くとハレーションを起こしてしまう。近寄って、撮った。

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