このお寺には、いろんな書がある。楽しみなお寺だ。
猛暑の中、誰も訪れない境内は、蝉の鳴き声だけが響いていた。
金剛葛城山系の大阪府側、南河内郡河南町平石にある「高貴寺」。
村の方に場所を聞くと「この道を真っ直ぐ行って、村の墓の上にあるよ。」とのこと。
途中の道路案内には、小さく書かれた「高貴寺」の名前が朽ちかけた木板に薄く残っている。
路肩の草むらに「高貴寺」と彫られた石碑がポツリと建っていた。
『この字は、バランスのくずれたところに質朴のよさがあり、太くて単純な点画に気性の強さがあらわれている。』と莫山さんは評されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/da/9cfb8420bba0b38791128faab073a143.jpg)
草むらにポツリと建っていた「高貴寺」の石碑。
文武天皇の御代役行者が法華経28霊場のひとつとして設け、その後、嵯峨天皇の弘仁年間に弘法大師が堂塔を建立したと、境内の看板に記されていた。
仏に供養する香花(こうげ)が四季絶えなかったことから「香花寺」と名付けられたこともあったとか。
広場に車を停め、境内に向かう途中に、タイサンボクの老木に実が成っていた。「香花寺」の名前の由来を示すひとつなのかもしれない。香りの良い花の咲く時期に再び訪ねたいものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/33/699a1cc51be05fd3aac1811fcc0858d6.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/bc/f8548b71393e6bc792b62bd674467266.jpg)
タイサンボクの老木に実が成っていた。花はいい香りがするのだ。
参道途中の釣り鐘堂の前に、「大界外相」を正面に向け、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑が建っていた。 この石碑は「結界石」と言われるもので、寺を外の世界とは違った聖なる場所とするために置かれているものです。女子の立ち入りも禁じられていたのだ。なかなか良い書体だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/a2/c251c4e68ff0ec89c74958aa5ef8ef8c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/a2/31df8762d9aa8a5d111c9c34d85c8eef.jpg)
「大界外相」を正面に、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑。なかなかいい感じの字だ。
風情ある土壁の塀と、椿の木々に挟まれた参道を進むと、お堂が建ち並んでいた。
「高貴寺」の扁額が掛かったお堂。
その左隣に緑の宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。寛政年間(1789~1800)の建立のお堂に慈雲(江戸中期の大阪を中心として活躍した仏教僧)が書いたものである。ケヤキの板に書かれている。崩されている字は難しい。なんとか読める。
莫山さんは『はなやかではない。だが、その素朴平易な姿の中に清冽な精神の高さをしめし、なにげない線脈に、いかにもあたたかい人間のにおいを蔵している。』と、言っておられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f6/a3408c6c1f99237c05ce79a8889a1115.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/0e/bf1452b1d44b76e73ae591c0a613459d.jpg)
「高貴寺」の扁額と、隣に建つ宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。
境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が見られた。好物のミミズや草の根を狙いに来ているのだ。裏山は木々に囲まれ、うっそうとする境内だ。
事務所と思われる奥からテレビの音声が聞こえてきて、人のいる気配はあるが誰も出てこない。
今にも、イノシシが出てきそうな境内を蚊や虻を追っ払いながら、いろいろ尋ねることも出来ず、次の弘川寺に向かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/76/b62d59f82ed138a80ab0b29576579f9e.jpg)
裏山は木々に囲まれ、境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が・・・。
猛暑の中、誰も訪れない境内は、蝉の鳴き声だけが響いていた。
金剛葛城山系の大阪府側、南河内郡河南町平石にある「高貴寺」。
村の方に場所を聞くと「この道を真っ直ぐ行って、村の墓の上にあるよ。」とのこと。
途中の道路案内には、小さく書かれた「高貴寺」の名前が朽ちかけた木板に薄く残っている。
路肩の草むらに「高貴寺」と彫られた石碑がポツリと建っていた。
『この字は、バランスのくずれたところに質朴のよさがあり、太くて単純な点画に気性の強さがあらわれている。』と莫山さんは評されている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/da/9cfb8420bba0b38791128faab073a143.jpg)
草むらにポツリと建っていた「高貴寺」の石碑。
文武天皇の御代役行者が法華経28霊場のひとつとして設け、その後、嵯峨天皇の弘仁年間に弘法大師が堂塔を建立したと、境内の看板に記されていた。
仏に供養する香花(こうげ)が四季絶えなかったことから「香花寺」と名付けられたこともあったとか。
広場に車を停め、境内に向かう途中に、タイサンボクの老木に実が成っていた。「香花寺」の名前の由来を示すひとつなのかもしれない。香りの良い花の咲く時期に再び訪ねたいものだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/33/699a1cc51be05fd3aac1811fcc0858d6.jpg)
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タイサンボクの老木に実が成っていた。花はいい香りがするのだ。
参道途中の釣り鐘堂の前に、「大界外相」を正面に向け、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑が建っていた。 この石碑は「結界石」と言われるもので、寺を外の世界とは違った聖なる場所とするために置かれているものです。女子の立ち入りも禁じられていたのだ。なかなか良い書体だ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/a2/c251c4e68ff0ec89c74958aa5ef8ef8c.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/a2/31df8762d9aa8a5d111c9c34d85c8eef.jpg)
「大界外相」を正面に、左側面に「禁女人入門内」の文字が彫られた石碑。なかなかいい感じの字だ。
風情ある土壁の塀と、椿の木々に挟まれた参道を進むと、お堂が建ち並んでいた。
「高貴寺」の扁額が掛かったお堂。
その左隣に緑の宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。寛政年間(1789~1800)の建立のお堂に慈雲(江戸中期の大阪を中心として活躍した仏教僧)が書いたものである。ケヤキの板に書かれている。崩されている字は難しい。なんとか読める。
莫山さんは『はなやかではない。だが、その素朴平易な姿の中に清冽な精神の高さをしめし、なにげない線脈に、いかにもあたたかい人間のにおいを蔵している。』と、言っておられる。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/f6/a3408c6c1f99237c05ce79a8889a1115.jpg)
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「高貴寺」の扁額と、隣に建つ宝珠を乗せたお堂「香亨閣」に掛けられた木額。
境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が見られた。好物のミミズや草の根を狙いに来ているのだ。裏山は木々に囲まれ、うっそうとする境内だ。
事務所と思われる奥からテレビの音声が聞こえてきて、人のいる気配はあるが誰も出てこない。
今にも、イノシシが出てきそうな境内を蚊や虻を追っ払いながら、いろいろ尋ねることも出来ず、次の弘川寺に向かった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/76/b62d59f82ed138a80ab0b29576579f9e.jpg)
裏山は木々に囲まれ、境内の至るところにイノシシが掘ったと思われる穴が・・・。