スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

天誅組の足跡を訪ねて (終)

2010-01-26 14:49:28 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて


天誅組終焉之地・・・・鷲家口の死闘


▲「天誅組紀行」吉見良三著より引用


彦根藩は、鷲家口において、出合橋を挟んで福屋に本陣を構え、向かいの碇屋に脇本陣を置き、近くの宝泉寺には地元民を詰めさせ篝火を焚いて前線基地とします。彦根藩の陣容は30名ほどであったという。


▲碇屋の脇本陣・・・その家はまだ残っていて、案内書きも掲げられています。那須信吾が斬りこんだところだ。


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24日の夜8時頃。天誅組決死隊の那須信吾を隊長とする6名が宝泉寺に斬りこみ、更に碇屋脇本陣に向かって斬り込みますが、その付近で全員銃弾に倒れます。







▲ここ鷲家には、義士の足跡がアチコチに残されている。

▲宝泉寺から少し東に向かったところにあった「天誅組明治谷墓所」。


▲宝泉寺に建てられている「天誅義士記念碑」。


▲天誅組義士と共に闘いで亡くなった彦根藩士もこのお寺に葬られている。


宝泉寺から出店坂を降り右に曲がると正面に碇屋の脇本陣がある。決死隊の先頭にいた植村定七は、この辺りで彦根藩歩兵頭を斬り倒し突き進む。

決死隊が突撃を開始した直後、忠光ら本隊約20名は、福屋本陣前を通過。出合橋を渡り戦闘最中の碇屋前を突っ走り、何とか鷲家近くまで行きます。

でも、鷲家には和歌山藩の大軍が待ち構えています。このため、手前の鷲家谷で解散し、個々で大坂の長州藩邸で落ち合うことにし、少数に分かれ山の中に逃げ込むのです。この地が「天誅組の解散地」となるのです。


▲鷲家川に沿った県道16号線沿いに建つ、「天誅組終焉之地」の碑。(東吉野村鷲家)



▲東吉野村各所の天誅組遺跡を示す看板も建っている。


▲天誅組湯の谷墓所。国道166号線沿いに石碑が建っています。<o:p></o:p>



3人の総裁の最期>

藤本鉄石と松本奎堂の後発組が足ノ郷道峠を過ぎた頃、麓から銃声が聞こえてきます。那須信吾ら決死隊が鷲家口に突入していたのです。
このため、橋本らの案内で藤本と松本は、蟻通神社(現・丹生川上神社中社)に出て、高見川をさかのぼり伊豆尾村笠松の松本清兵衛宅に潜伏しますが、翌日、和歌山藩に探知されます。


▲丹生川上神社中社の前を通り、高見川をさかのぼり伊豆尾に向かいます。


▲伊豆尾の堂本さん宅を訪ねる途中に「小」の地区がありました。「東吉野村小」という地区です。

▲伊豆尾から国道166号線に到る途中の光景です。この辺りを藤本鉄石と松本奎堂は、進んで行ったのです。

二人の総裁は、他の隊士を先に脱出させると庄屋宅を出る。駕籠に担がれた松本は遅れ、地蔵堂前まで来たとき庄屋宅で銃声がし、その音に驚いた駕籠人足は逃げ去り、従者・村上万吉に手を引かれて山の中に逃げたが和歌山藩に見つかり銃殺されてしまう。奎堂、33歳。最期の地、笠松山頂(640m)に、「戦死之地碑」が建っている。



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▲国道166号線新木津トンネルの右手前に「天誅義士戦死の地」の石碑があり、松本奎堂の石塔もある。



▲案内板によると「この地より900m上の笠松頂上に松本奎堂先生墓所がある」と示されていた。この笠松山の上にあるのだろう。

一方の藤本鉄石と従者・福浦元吉は、伊勢街道を目指したが既に和歌山藩が見張っていた。和歌山藩脇本陣・日裏屋に斬り込むが討ち死にした。藤本鉄石48歳、福浦元吉35歳。この日裏屋跡は現在駐車場になっており、隅に碑が建っている。




▲鷲家の国道166号線沿いにある竜泉寺にも天誅組が眠っている。鉄石の歌碑もある。

また、残る1人の総裁・吉村の最期には諸説あるらしい。
駕籠に乗って森下幾馬ら4名の隊士と共に本隊の後を追い、鷲家口手前1kmの島原山道で、鷲家口から聞こえる銃声に怯えた人足が逃げてしまう。
一旦、小村へ下り、駕籠かき人足を雇い、小津川(こつがわ)の庄屋・堂本孫兵衛宅に潜伏。

同家の蔵に匿まわれたが追討軍の捜索が厳しく、森下らを先に脱出させる。その3日後の27日、鷲家谷・石ノ本の薪小屋で潜んでいるところを藤堂兵に見つかり銃殺される。吉村寅之祐27歳。
この吉村寅太郎の原えいの地として石碑が建ち、県道16号線・鷲家川を渡った巨岩の下に墓所がある。

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▲吉村は、この堂本家(現在は建てかえられている。)の土蔵で匿われていたのです。

訪ねた伊豆尾地区には「堂本」という看板が多く見られ、資材置き場におられた方に訪ねると・・・どうも親戚に当たる方のようで・・・『あぁ、あの叔父さんの・・・』と、教えて貰った。「堂本家」は、村の一番高台にあり、周りが一望出来る位置にありました。


▲堂本家の前にある、この薬師堂の天井裏に隠れていたのです。

堂本家としては、駕籠を用意して逃がしてあげるのです。吉村は駕籠を担いだ人にお礼として「鹿の子しぼりの手拭」と「銀の箸」を手渡されたそうだ。





▲吉村寅太郎・「原えいの地」碑があり、鷲家川の向こう岸の巨石の下に墓所があった。今、遺骨は明治谷墓所に移されている。

▲吉村寅太郎の歌碑も建っていた。

『吉野山風にみだるるもみぢ葉は 我が打つ太刀の血煙と見よ』

24
日夜、忠光ら7名は、松山城下を北に迂回し、宇陀・岩清水から半坂、忍坂を経て三輪に抜け、高田を経て、大和と河内の境にある竹之内峠を越えて、27日夕刻に大坂の長州藩邸に入ったのです。

一方、鷲家谷で解散した時に別れた10余名は、小名峠を経て宇陀に出たが、池内蔵太らを除いては捕捉または射殺されてしまいます。
池内蔵太は、後に坂本竜馬の海援隊に入るが海難事故で亡くなる。
橋本若狭は、翌年、大坂で捕捉され、慶応元年(1867年)京都六角獄舎で刑死となっている。享年44歳。

鷲家口を逃れ、大坂の長州藩屋敷に逃げ込んだ忠光らは、大坂町奉行所を逃れ、長州に。その後、下関、長門など隠匿生活を続け、最期の隠れ家は、豊浦郡田耕村原久保の太田新右衛門宅だったという。この宅の近くで暗殺されている。19歳であった。

忠光が大峰の笠捨山を越える時、歌がある。

『武夫(もののふ)の赤き心をあらはして 紅葉とちれややますらをの友』


生き残った義士には、「平岡鳩平」と「伊吹周吉」がいる。

特に、平岡鳩平は、維新後、北畠治房と名乗り司法官になり、大阪控訴院長、正二位、男爵に栄進し、義士出身としては珍しく出世している。


今回の探訪記には、次の書籍を参考にさせて貰った。

 ・「天誅組紀行」吉見良三
・「維新の魁 天誅組」天誅組保存伝承・顕彰推進協議会




新しい世の捨石に・・・志半ばで悲願の維新を見ることなく散ってしまった「天誅組」。

また、機会があれば、彼らの足跡を追いたい。もっと彼らのことを知りたい。

吉野路を駆け巡る時、彼らの石碑を見ては一人ひとりのことを思い出したい。
義士たちに優しく接した地元の人に尋ねたい。

折々の印しを見つければ、また紹介したいと思います。




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天誅組の足跡を訪ねて (19)

2010-01-26 10:02:42 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

 

伯母峯峠越えて鷲家口へ・・・


9
23日早朝、上北山村白川郷を出発する予定であったが、「天誅組に加担すると首がはねられる」と村人から聞いた人足たちは恐れをなして逃亡。10人ほどの怪我人・病人を運ぶ駕籠や武具を運ぶ人足が足りません。止むを得ず荷物や武具を林泉寺に集め、本堂ごと焼却してしまいます。

白川郷から河合郷へ。河合から小橡(ことち)に向かうには、辻堂山(1308m)、伯母ケ峯(1262m)の尾根道を通り、夜を徹して歩き続けます。


▲大台ケ原道路から伯母ケ峰方面を見ると・・・凄い山並みが続きます。こんな山の中を歩き続けたのです。

23日深夜、伯母谷郷を先に出発した約30人が到着。駕籠に乗った怪我人などは1日遅れで到着。
休憩する間もなく、彦根藩が和田村(169号線の大迫ダム付近)まで迫っていると聞き、傷病者を村人に世話を頼み、忠光と元気な隊士達は彦根藩を迎え撃つべく出発するのです。

回復した隊士も後を追って参戦したが、高熱の小川佐吉と医者の乾十郎だけは、村人によって山中の洞窟(地元では天誅窟と呼ぶ)に匿われます。(二人は翌年正月まで世話になる。)
(この「天誅窟」は、国道169号線 現・新伯母峯トンネルの上辺りにあるのだろうか?かなりの絶壁にあって、近づけないと言われている。今回は行けそうもない。諦めよう。)

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9
24日、彦根勢を迎え撃つため和田村まで進んだが、敵の姿がなく、更に北側の武木村まで進んだ。
武木村庄屋・大西吉右衛門などの家で休憩。ここでの会食が最後となるのです。大西家では鰹節と勝栗をそえてもてなしたところ、『これは縁起がいい!』忠光は大いに喜んだという。この時の隊士は20余名ほどになっていた。

藤本鉄石は、お礼に短冊に和歌をしたため大西家に・・。これが鉄石の絶筆となったのです。

『雲をふみ岩をさくみしもののふの よろひの袖に紅葉かつちる』

武木村を後に、足ノ郷越(白屋岳の東麓)を通り鷲家口(現・東吉野村小川)へ。
藤本鉄石と松本奎堂は、本隊より1時間ほど遅れて武木村を出発。
松本奎堂は、いよいよ両目とも視力をなくし、駕籠に乗せられている。


▲松本奎堂は、このような駕籠にのっていたのだろうか?(十津川歴史民族資料館に現物が展示されていた)
でも、最期のほうでは竹の棒を通した「ムシロや麻袋」だったとも言われているが・・・。


▲この辺りは、彦根藩・和歌山藩の兵士が、天誅組を待ち伏せていたのです。(中央の奥が彦根藩本陣の油屋)


追討軍は、事前の情報で、鷲家口で待ち伏せています。
伴林らが通過した2日後の23日には、彦根藩の先発隊が、また和歌山藩も数百名の陣容で鷲家に移動させていたのです。
これら追討軍の様子を、雇われていた村人から聞きだし、天誅組決死隊が切り込んでいるスキに忠光ら本隊を逃がす作戦をとるのです。


▲伊勢街道道標・・・詳細は下記に記載されています。この道標の隣が、藤堂藩陣所跡なのです。




▲藤堂藩陣所となっていた油屋。今も残され、子孫が住んでおられます。



▲彦根藩脇陣所となっていた碇屋。ここも子孫が住んでおられます。




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天誅組の足跡を訪ねて (18)

2010-01-25 10:40:03 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて


何故、十津川郷の志士も離反したのか?


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914日、天辻本陣が陥落。30人対3000人では勝てるはずがない。吉村寅太郎は、陣に火をつけて小代村(天辻峠の少し南側)に撤退する。

同じ日、十津川郷では、朝廷から『天誅組を討ち果たせ!』との厳しい沙汰を受けて帰郷した十津川郷士たちが、これ以上、天誅組に協力を続けるか否かの会合をしていたのだ。

在郷の郷士も、朝廷からの御沙汰書を見せつけられ、十津川郷が知らぬ間に朝敵とされつつある事実に驚愕する。
でも、討伐には・・・賛成しかねる。今でこそ朝敵と言われるが今まで、共に戦い同じ倒幕義軍だった。同じ同志だったのだ・・・。討伐には反対した。
天誅組には略奪暴行という行為は一切なく、むしろ追討軍に多くみられたというから・・・その面でも同情的だったのだろう。

その解決策として、天誅組にこの郷の実状を訴え、納得して十津川から退去して貰おうと決めた。<o:p></o:p>


その通告は密書として14日深夜、忠光に届けられた。
忠光は、一部の重臣と相談、翌15日早朝、『去りたいものは去れ!脱出し道なければ敵と戦って潔く死のう。運がよければまた再び相見ることもあろう。』そういって水杯を交わすのです。ここに天誅組の解散を宣言するのです。

ところが、まだ吉村寅太郎の部隊は小代に居て、闘いながら上野地に向かっているところなのに・・・。またしても置き去りにして勝手に解散してしまったのだ。

水杯を交わした十津川郷士は、陣を離れていった。ただ、十津川郷士である幹部の野崎主計、深瀬繁理らは、とどまった。


▲この地で退去の交渉が行われたのだ。当時の福寿院は、風屋ダムの底に沈んでいる。湖畔に本陣跡を示す碑が湖面を見下ろしていた。


風屋村の福寿院で退去の交渉を持つことになり、上平主悦と伴林光平との話し合いがもたれ、結果、退去することになる。

伴林光平はこの結果報告を総裁の藤本宛にしたため、乾と野崎に託し、彼は上野地には戻らず、平岡鳩平とともに、深瀬繁理の案内で風屋を発ち、内原、花瀬から嫁越峠(吉野郡下北山村)を越え前鬼に向かい、十津川を脱出し、忠光とは別行動をとるのである。
この時、日本100名滝のひとつ「笹の滝」にも立ち寄っているらしい。


▲伴林光平は、この「笹の滝」にも立ち寄ったのだろうか。滝に向かう途中に歌碑があるそうだが、探したが見当たらなかった。


十津川郷士が去って、わずか隊士は50人たらず。
この時、吉村が詠んだ歌は

『雲なき月を見るにも思ふかな あすは屍の上を照るやと』

駕籠に揺られ、寂しい上に、既に、死を覚悟しているような・・・歌です。

更に辛い立場にあったのは「野崎主計」だ。
十津川郷士の総代で、全郷を率いて天誅組に参加、天誅組の立場逆転を知ってはいたが、吉村と共に転戦してきたのだ。そのうち、尊攘派が巻き返し再び倒幕が起こるのでは、と期待していた。
そのためにも谷瀬の砦(夢となった「黒木御所跡」)を作りたかったのだと思う。

その野崎主計は、全ては我が責任として辞世を残し、924日狸尾山(たのお)にて割腹した。享年39歳。辞世は、
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『大君に仕へぞまつるその日より 我身ありと思はざりけり』

『うつ人もうたるる人も心せよ 同じ御国の御たみなりせば』


▲野崎主計の辞世の句は、今は旧川津ユースホステルの庭や天ノ川本陣の維新歴史公園に建っている。


本隊は、徹夜で風屋に移動したが、そのあとすぐに津藩が上野地へ、また和歌山藩は山手村(現在の十津川村山天)まで来ているのだ。



917日、本隊は、風屋を出発し小原村天ノ川(9/2に本陣を構えていた鶴屋治兵衛の家)まで南下。翌日は下葛川村へ。
更に上葛川村を経て笠捨(1352m)を越え、下北山村の浦向に辿り着いた。
この時は隊士60名、人足100名ほど。

浦向村の人々は親切であったという。浦向の正法寺などに分宿する。
同行してきた郷士や人足は、天誅組が十津川の郷から出たことで役目も終わり、十津川に引き返し、新たに浦向や周辺から120人ほどの人足が集められた。

21
日には、池原村を経て上北山村・白川郷の林泉寺に着いた。
そこに伴林と平岡を案内し嫁越峠を越えて来た深瀬繁理が姿を見せる。前鬼を通り白川まで来ていたのだ。
伴林らはここで忠光宛の手紙を深瀬に託し、3日前の19日には白川村を出ていたのである。
忠光らは、23日朝まで、この地に留まるのです。

一方の伴林と平岡は、伯母峯を通り20日に入之波(しおのは)村に、21日には鷲家口(東吉野村小川)を通り、22日には桜井を通過。そして駒塚(法隆寺前。現在の斑鳩町東福寺1丁目辺り)の自宅に帰っていたのです。

また、天誅組と決別した水郡善之祐ら河内勢は、先に十津川郷の奥に南下し、16日、上湯川村(十津川温泉の西側。県道735号)の田中主馬蔵宅で休息。
主馬蔵が留守のため弟の勇三郎の案内で新宮方面への脱出を勧められ、村境まで案内される。

和歌山藩領の野中村(現・田辺市中辺路町野中。熊野本宮大社の西側)に入った途端、和歌山藩兵に襲われたため、再び田中宅へ戻ることに・・・。
この田中宅に泊まることになる。その間も刀の稽古しており“天”といえば“誅”という掛け声を掛けていたという。(これが「天誅組」の名前の由来かも・・・)


勇三郎らは山小屋でもてなし、寝入ったところを爆殺しようとするも、水郡は重症を負いながらも逃げ、山の中を彷徨ったところ、22日、小叉川村(現・田辺市竜神村小叉川。竜神温泉があるところ)で、和歌山藩に自首した。

その後、和歌山に送られ、善之祐の息子英太郎(13歳)を除いて京都六角獄舎に収容されるが元治元年720日、斬首されている。

水郡善之祐は、農家の米倉に幽閉されていたとき柱に辞世を書いている。

『皇国のためにぞつくすまごころは 知るひとぞ知る神や知るらん』


▲大阪府富田林市宮甲田町の「錦織神社」には「天誅組河内勢記念碑」がある。竜神で紀州藩に降伏した河内勢であるが、水郡善之祐の長男・英太郎を除く全員が京都に送られ刑死したのです。


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天誅組の足跡を訪ねて ⑰

2010-01-24 10:37:56 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて


何故、河内勢は離脱したのか?
 


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「下市の大火」により勝利し勢いづいた天誅組は、一気に五條から河内に脱出しょうと朝の軍議で決まった。
そのため、忠光は大日川に集合するよう前線の水郡・安積などの部隊に命令を出す。ところがその直後、藤堂勢の攻撃が始まったのだ。兵の疲れ、弾薬も底をついてきた。このままでは負ける・・・。

傍に居た藤本鉄石らからは、「河内への脱出をあきらめ、再び十津川に立て篭もって時期を待とう」という意見が出て、急遽、作戦変更だ。

翌朝、忠光は藤本・吉村ら本隊を連れて、天辻に引揚げたのだ。
総裁の吉村は、傷が治らず駕籠に担がれての移動。また、もともと片目であった松本奎堂も失明同様の状態で移動だ。

この移動についても前線にいた水郡や安積の将には知らされていなかった。

「またしても前線の我々を見捨てたのか・・・」水郡は、怒り心頭だ。
若狭のとりなしで、その場は収まり、とりあえず大日川陣に向かう。


▲忠光は、前線にいた水郡や安積の将には知らせずに、この場所にあった「天辻本陣」に引揚げたのだ。この地は地主であった鶴屋治兵衛の屋敷があったところで、その治兵衛翁の碑と野崎主計の歌碑などが建てられ、歴史公園となっている。その一角にはネットが張られていて近づくことが出来ない。もっと近寄ってみたいのだが、何故か隔離しているようで・・・可哀そうな感じがした。


藤堂勢は、10日の一斉攻撃を控え、深追いせず和田村に放火してすぐ退却。天誅組としては、彼らが何故退却したのか分からずに、安積勢は北曽木(西吉野村)の陣所を奪回。水郡の河内勢は追撃し丹原村(五條)まで進軍しそこに陣を張った。かつての天誅組櫻井寺本陣からは3kmほどの距離だ。


▲安積勢はこの北曽木(賀名生皇居跡)の陣所を奪回し、河内勢は丹原村(五條)まで進軍たのだが・・・。


水郡は、丹原村に居れば、忠光は河内に脱出する時は必ずここを通るはず、と考えていたのだろう。

ところが前日夕刻の軍議変更は知らされず、待てども本隊は来ない。自ら確認するため、大日川に行くと、既に天辻に向かったと聞かされる。またも置き去りにされたのだ。

ついに、安積五郎は懸命に引き止めたが、水郡善之祐は河内から行を共にしてきた同志12名を引きつれ、案内役として4人の十津川郷士とともに天誅組に決別する。

やはり相次ぐ、忠光公の前線部隊への思いやりに欠けた采配に嫌気が差したのだろう。
忠光は京から連れてきた者を庇い重用し、河内・大和から集めた者には前線に立たせ辛い目に合わせる。情報を与えない・・・。これでは、部下は付いてこない。

忠光は、離脱した水郡たちのことを、頭から脱走者と決め付け、更に献金を奪ったなどと横領の罪までかぶせる始末。

9
12日朝、和歌山勢が富貴村(和歌山県高野町)から進入し、鳩の首峠を占領。追討諸藩が12日からの一斉攻撃を仕掛けてきたのだ。
五條の藤堂勢も大日川に向かって攻めてきた。


▲この辺りが鳩ノ首峠なのだろうか? 右に行けば和歌山県高野町冨貴です。


でも、最強の河内勢はいない。もはや防ぎようがない。いよいよ天辻の本陣を放棄し、十津川に退くことになった。総勢60名は急ぎ十津川に逃げるように出発。

十津川に潜んで、時を待とう・・・。そして、十津川郷士の助けを得てゲリラ戦をしてでも持ちこたえよう・・・と。
郷士の心を掴むため、伴林光平に命じて十津川への挨拶状を書かせ、野村主計を通じて郷中に届けさせた。


▲伴林光平が書いた十津川郷中への挨拶状。(十津川村歴史民族資料館蔵)


9
12日、小代村(大塔村)で一泊。翌13日出発。山の稜線に沿って谷、川を越えて南に向かう。
藤本鉄石はこの時の様子を次のように詠んでいる。

『雲を踏み巌(いわお)さぐくむ武士(もののふ)の 鎧(よろい)の袖に紅葉かつ散る』


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▲十津川村上野地「谷瀬のつり橋」近くの、町営駐車場の片隅に天誅組の碑がありました。

上野地村に着いたのは、夜遅くのこと。東雲寺(西雲寺という説もあり・・・でも、町営駐車場にある本陣跡碑には東雲寺と書かれていたので・・やはり東雲寺なのだろう)を本陣とする。

忠光が考えていた谷瀬本陣は、「谷瀬のつり橋」を渡ったところにある黒木御所跡であるが、ここに立て篭もる計画だったようだ。忠光は、翌日に下見する予定であったが・・・夢となったのだ。


▲忠光は、この「谷瀬のつり橋」を渡った先の「黒木御所跡」に陣を築くことを夢見ていたのでは・・・と思われる。

この黒木御所跡とは、橋がなければ全く寄せ付けないところで、農地もあり自給自足が出来る土地であるとか・・・。この地に篭り、時を稼ぎたかったのだろうか?

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天誅組の足跡を訪ねて ⑯

2010-01-23 18:39:32 | 志に生きた天誅組・・・終焉の地を訪ねて

<丹生川上神社下社の神官・・・橋本若狭の働き>

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橋本若狭の策は、
①下市の広橋、栃原、樺ノ木(かばのき)に砦を築くこと。
②銀峯山(白銀岳)に本陣を構えること。
若狭の手配により、銀峯山・波宝神社の陣所には幕を張り、かがり火を焚き、いかにも大軍が居るかのように見せかけたのだ。






▲県道20号線・十日市の辻から林道を登ること6km。銀峯山(614m)の頂上に波宝神社がありました。柿の梢越しに、北側には五條の町、西側には和田村、東側には下市村、南側には十津川連山が一望できます。


この橋本若狭は、銀峯山の隣、下市にある丹生川上神社下社の神官で、当然地元の地理に詳しく勤皇の志篤く、820日に天誅組に参加。なかなかの知恵者だったようです。

各藩も、98日から一斉に行動を開始。栃原・樺ノ木峠には彦根藩が、広橋峠には郡山藩と小泉藩が攻めてきます。銀峯山の周りで二昼夜に及ぶ戦いとなります。



▲波宝神社の周りは切り立った崖。藩の追っ手を寄せ付けることは出来ません。下の方にテレビ中継所の鉄塔が見えます。天誅組もこの頂上までよく登ってきたものだと感心するばかりです。


天誅組の広橋峠陣にも郡山勢2000人が押し寄せてきます。若狭は、広橋峠の頂上にある法泉寺で陣頭指揮を執り、銃撃戦を尽くすものの、背後から攻められ、寺に火を放ち退却。それぞれの陣から銀峯山に逃げ込んできます。


▲広橋峠は旧道にあり、今は土地の人達が通る程度で、新しく出来た309号線の上にある。広橋梅林が広がる地域である。


▲広橋峠の頂上に法泉寺があった。橋本若狭が陣を構えたところだ。門前まで行くと犬に吠えられ・・・退散。


▲この広橋峠の北側も絶壁だった。


▲栃本村・永全寺。


▲銃撃戦の弾痕がこの永全寺本堂の白壁に残っているということだったが・・・門が閉まっており観ることが出来なかった。


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天誅組本陣は、いよいよ銀峯山に追い詰められます。<o:p></o:p>

彦根勢の大砲の砲撃を受けるが、何とか持ちこたえます。

広橋峠の法泉寺から逃げた若狭は、丹生村長谷の自宅に帰るが、翌朝、彦根勢に襲われる。それでも逃げ、村内の北川家に逃げ込み裏庭から川に飛び込み逃げる。彦根勢は北川家を燃やすがそれが飛び火し丹生川上神社及び付近の民家を燃やすつくすことになる。




▲訪ねた丹生川上神社下社の由緒書きには、焼失の事は書かれていなかった。



▲社務所の柱に「天誅組史跡・橋本若狭旌忠碑」の案内が掲げられるのみ。その奥には、橋本若狭の碑が建っていた。


この丹生川上神社の火の手は、銀峯山の本陣からも見え、森下幾馬らが駆けつけた。そして彼らを集め、下市にあった彦根藩・陣営の焼き討ちを決行するのです。

30
名が二手に分かれ、陣屋を襲撃。さらに家々にも火を放ったのです。これが「天誅の大火」と呼ばれるもので、下市の街400軒以上を焼き尽くすのです。
また、この時、郡山勢の加勢を食い止めるため吉野川に掛かっていた木製の「千石橋」を焼き落とすのです。
若狭らは、武器などの戦利品を持って引揚げてきたのです。


▲木製の千石橋は、天誅組によって燃やされることに・・・。でも、天誅組のことは書かれていない、何故?

▲明治時代には、鉄橋になっています。


▲現在の「千石橋」。


▲下市町役場の上から眺めた現在の下市の町並み。400軒が燃えたとも言われている。もっと左端の吉野川近くかな?

この「天誅の大火」で、和歌山・津・彦根・郡山の四大藩の申し合わせであった「910日総攻撃」は、一旦中止となった。彦根・郡山藩が出撃不能になっていたのだ。
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この若狭の戦略・・・下市の大火は、味方の仕業だと知らなかった忠光は、再び大日川陣に帰ってしまったのだ。大日川陣に藤堂税が攻めてきたとのことで、ここを落とされると天辻への退路を断たれてしまうと思ったのだろう。

もし、忠光が下市の大火は若狭らの仕業と知っていれば、下市に突っ込み、河内に逃げ切れていたかも・・・・しれないが・・・。



▲下市中央公園に、伴林光平が下市の大火を詠んだ歌碑がありました。『吉野山、峰の梢や いかならむ 紅葉になりぬ たにの家村

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