一昨日、西国三十三箇所と番外3箇所のお参りを終えたため、「高野山・金剛峯寺」へ、お礼参りに行ってきた。
お礼参りのお寺としては、「高野山・金剛峯寺」と「長野県・善光寺」、そして、家の菩提寺であるとか。わが家の場合は「大阪・大念仏寺」である。
巡拝掛け軸には、38箇所にご朱印をもらうことが出来るのだが、いずこのお寺の方に聞いても、最後に貰うのが菩提寺(大念仏寺)であり、残る一箇所は高野山か善光寺。お好きな方を・・・ということだった。
ということで、近場の「高野山・金剛峯寺」になったのだ。
善光寺には、機会を見つけて、お参りすることにしよう。
高野山・金剛峯寺は、西国三十三箇所にはどういうわけか入っていない。
弘法大師(空海)が開祖の真言宗の総本山である。古くから西国巡礼と同時に参詣されてきた。
私も25年前に会社の同僚と観光で来て以来である。
といっても、高野山の街並みと奥の院に向かう杉木立の両側に建つ「墓石」の多さが記憶に残るだけで、金剛峯寺も知らなければ、ましてこの寺の内部がこんなにも立派だったとは・・・。
想像もしていなかっただけに、驚きと感激のひとときであった。
では、海抜800メートルの地に壮大な伽藍や仏都を形成する大霊場をご案内します。
お礼参り 「高野山・金剛峰寺」
場所:和歌山県伊都郡高野町高野山132
大門。開創当時はもっと下にあったが、現在のものは1702年に再建されたもの。高さ25.1m。両脇には法橋運長作の金剛力士像がにらみを利かせている。それにしても大きい!
ここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町なのだ。
晴天の日には遠く淡路島方面が展望できるのだ。
高野山真言宗4000ケ寺、信徒1000万の総本山として全国的に知られている。1593年に豊臣秀吉が亡き母の菩提のために建立、更に1863年再建されたのが現在の建物である。東西約45m南北63.5mに及ぶ。
主殿の屋根の上に樽? 水が入っているのかなぁ。
主殿には龍の彫り物が・・・。
偶然にも「金剛峰寺第412世座主 高野山真言宗菅長 松永有慶師」に出会うことが出来た。
主殿の庭園。
拝観料500円で主殿・別館・新別館・奥殿・新書院などが拝観できる。部屋の内部は撮影禁止なのだ。
歴史に名を残す絵師の筆による豪華な襖絵で飾られた部屋や、豪壮な台所のほか、秀次切腹の間などを拝観した。どの部屋も凄いのだ。!
主殿から別館に向かうところの庭園。
新別館の169畳敷大広間。更に上と下に床の間があり、更に両脇に畳廊下がある。
石庭としてはわが国最大の庭。二匹の龍を巨石で表した「播龍庭」。写っているのはごく一部。
豪壮な台所。今も、大きな行事で使われている。この1釜で98kg、3釜で280kg 2000人分が焚けるという。
台所の戸棚の上にあった駕籠(カゴ)。何に使うのだろうか?
主殿に入るとすぐに狩野探幽(かのうたんゆう)の襖絵が並ぶ。更に奥には歴代天皇の位牌をお祀りした持仏堂、左側には豊臣秀次が自刃した柳の間があり狩野探斎(かのうたんさい)の絵が正面板戸に描かれている。
さらに進むと高野山独特の炉である土室(つちむろ)が設けられた奥書院、稚子の間、座主の間、愛染明王安置の間などへと続く。一方、貴賓室にあたるのが奥殿。昭和天皇が来られた時に使われた部屋である。壁は金箔貼り、天井には花の彫り物が・・・。
霊宝館。
1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文、県文化財や貴重な資料を保管し公開されている。平安・鎌倉時代の仏像・仏典・衣装などが目の前に・・・。ここも撮影禁止だ。
奥の院に向かう参道。「管理登録巨木」は639本。200年~600年の杉の老木にはプレートがつけられている。
「奥の院」手前の水掛け菩薩?
この石橋から奥の院にかけては撮影・拡声器の使用禁止だ。
「金堂」。
本堂として重要な法要が営まれる。819年に弘法大師が創建されたが幾度も消失し、現在の堂は7度目で昭和7年に再建されたもの。
根本大塔。
昭和12年に完成した高さ48.5メートルの朱塗りの大塔。内陣に胎蔵界大日如来を本尊として金剛界四仏が安置されている。
秋篠宮悠仁親王の「お印」は、「高野槇」。境内のアチコチに置かれていた。
買い求めた「高野槇」。切花は500円。植木は1000円であった。
高野槇はスギ科の常緑針葉高木。日本固有の高木で、高野山(和歌山県)に多く生息することから名付けられたものである。
スギ科なのにマツボックリ??
お礼参りのお寺としては、「高野山・金剛峯寺」と「長野県・善光寺」、そして、家の菩提寺であるとか。わが家の場合は「大阪・大念仏寺」である。
巡拝掛け軸には、38箇所にご朱印をもらうことが出来るのだが、いずこのお寺の方に聞いても、最後に貰うのが菩提寺(大念仏寺)であり、残る一箇所は高野山か善光寺。お好きな方を・・・ということだった。
ということで、近場の「高野山・金剛峯寺」になったのだ。
善光寺には、機会を見つけて、お参りすることにしよう。
高野山・金剛峯寺は、西国三十三箇所にはどういうわけか入っていない。
弘法大師(空海)が開祖の真言宗の総本山である。古くから西国巡礼と同時に参詣されてきた。
私も25年前に会社の同僚と観光で来て以来である。
といっても、高野山の街並みと奥の院に向かう杉木立の両側に建つ「墓石」の多さが記憶に残るだけで、金剛峯寺も知らなければ、ましてこの寺の内部がこんなにも立派だったとは・・・。
想像もしていなかっただけに、驚きと感激のひとときであった。
では、海抜800メートルの地に壮大な伽藍や仏都を形成する大霊場をご案内します。
お礼参り 「高野山・金剛峰寺」
場所:和歌山県伊都郡高野町高野山132
大門。開創当時はもっと下にあったが、現在のものは1702年に再建されたもの。高さ25.1m。両脇には法橋運長作の金剛力士像がにらみを利かせている。それにしても大きい!
ここから弘法大師の御廟所「奥の院」までの4kmの境内地に、大塔伽藍と117寺、そしてみやげ物店・食堂・学校・民家などが立ち並ぶ。高野山町は、人々の暮らしの全てが境内で営まれる寺内町なのだ。
晴天の日には遠く淡路島方面が展望できるのだ。
高野山真言宗4000ケ寺、信徒1000万の総本山として全国的に知られている。1593年に豊臣秀吉が亡き母の菩提のために建立、更に1863年再建されたのが現在の建物である。東西約45m南北63.5mに及ぶ。
主殿の屋根の上に樽? 水が入っているのかなぁ。
主殿には龍の彫り物が・・・。
偶然にも「金剛峰寺第412世座主 高野山真言宗菅長 松永有慶師」に出会うことが出来た。
主殿の庭園。
拝観料500円で主殿・別館・新別館・奥殿・新書院などが拝観できる。部屋の内部は撮影禁止なのだ。
歴史に名を残す絵師の筆による豪華な襖絵で飾られた部屋や、豪壮な台所のほか、秀次切腹の間などを拝観した。どの部屋も凄いのだ。!
主殿から別館に向かうところの庭園。
新別館の169畳敷大広間。更に上と下に床の間があり、更に両脇に畳廊下がある。
石庭としてはわが国最大の庭。二匹の龍を巨石で表した「播龍庭」。写っているのはごく一部。
豪壮な台所。今も、大きな行事で使われている。この1釜で98kg、3釜で280kg 2000人分が焚けるという。
台所の戸棚の上にあった駕籠(カゴ)。何に使うのだろうか?
主殿に入るとすぐに狩野探幽(かのうたんゆう)の襖絵が並ぶ。更に奥には歴代天皇の位牌をお祀りした持仏堂、左側には豊臣秀次が自刃した柳の間があり狩野探斎(かのうたんさい)の絵が正面板戸に描かれている。
さらに進むと高野山独特の炉である土室(つちむろ)が設けられた奥書院、稚子の間、座主の間、愛染明王安置の間などへと続く。一方、貴賓室にあたるのが奥殿。昭和天皇が来られた時に使われた部屋である。壁は金箔貼り、天井には花の彫り物が・・・。
霊宝館。
1200年の歴史を持つ高野山に残る国宝、重文、県文化財や貴重な資料を保管し公開されている。平安・鎌倉時代の仏像・仏典・衣装などが目の前に・・・。ここも撮影禁止だ。
奥の院に向かう参道。「管理登録巨木」は639本。200年~600年の杉の老木にはプレートがつけられている。
「奥の院」手前の水掛け菩薩?
この石橋から奥の院にかけては撮影・拡声器の使用禁止だ。
「金堂」。
本堂として重要な法要が営まれる。819年に弘法大師が創建されたが幾度も消失し、現在の堂は7度目で昭和7年に再建されたもの。
根本大塔。
昭和12年に完成した高さ48.5メートルの朱塗りの大塔。内陣に胎蔵界大日如来を本尊として金剛界四仏が安置されている。
秋篠宮悠仁親王の「お印」は、「高野槇」。境内のアチコチに置かれていた。
買い求めた「高野槇」。切花は500円。植木は1000円であった。
高野槇はスギ科の常緑針葉高木。日本固有の高木で、高野山(和歌山県)に多く生息することから名付けられたものである。
スギ科なのにマツボックリ??