スターアニスの 『大和路 里の光彩』

アーカイブ中心の風景写真、趣味の書・刻字など・・いろいろと楽しんでおります。

奈良・赤膚焼「正人窯(まさんどがま)」を訪ねて  ⑪

2007-10-26 18:32:40 | 奈良県のモノづくり探訪記


だいたい、日展入賞を重ねられている著名な奈良・赤膚焼、八代目・大塩正人窯にアポなしでお伺いするとは・・大変失礼なこと。

(お訪ねしてはじめて、赤膚焼の歴史と著名な窯(かま)であることを知ったのです。以前、インターネットで検索した「奈良の工芸品」で紹介されていたものをメモしていたものですが、昨日、近くを通ったため、急遽立ち寄ったのです。)

突然の訪問にも拘らず、快くお受け頂き、ご対応頂いた奥様とご長男・正巳氏には、深謝、深謝である。


奈良・赤膚焼、大塩正人窯(おおしお まさんど がま)。大きな柿の木があった。

赤膚焼の窯は初めての訪問だ。
場所が分からず道に迷いつつ、駐車場の看板に救われる。
車を停めた前にあった正人窯の作業場に直接伺ったのだ。
(隣に、作品の展示・販売スペースがあったのですが・・・気づかず・・)



ロクロを回されたり、土を練っておられるところに声を掛けたのだ。

この赤膚焼とは、小堀遠州公七窯の一つで、ここ赤膚山にある鉄分の多い陶土を使った陶器である。
焼き方により赤味、黄味、黒味と変化する。絵付けに奈良絵(大和絵も言う)という赤や緑の鮮やかな色彩で簡略な鳥居や鹿などを描いているのも特色だ。



豊臣秀吉の弟で、千利休とも親しかった豊臣秀長が、尾張の国(愛知県)常滑(とこなべ)の陶工を招いて赤膚山で茶器を焼かせたのが始まりとされている。



その後、寛政の頃に大和郡山藩主・柳沢堯山(保光)公の保護で御用窯となり、中・西・東の3窯が出来たという。
また天保年間には、柏屋武兵衛、一名奥田木白(もくはく)などが赤膚焼を全国に広めたという。

「赤膚焼」というのは、釉薬(ゆうやく)によって赤く焼き上げられたものでなく、五条山(赤膚山)近辺の赤い陶土を使って焼くため、釉薬のかかっていない素肌の部分(茶碗であれば高台のあたり)に、温か味のあるほのかな赤みを指すことから柳沢堯山(保光)公によって、「赤膚焼」と名づけられたとか。

現在の赤膚焼の窯元は、ここ奈良市に4軒、そして隣の大和郡山市に2軒の、6軒の窯元があるという。

作業中の女性が手を止めて、「登り窯」と「穴窯」を案内して貰うことに・・・。



「登り窯」は10年前までは使っていたが、現在は電気窯を使っているという。その上部にある「穴窯」は1年に一度程度使うとか。
この「登り窯」は、素人の私が見ても、かなり立派な雰囲気のある窯であることがわかる。大量に焼くときに使われるのだろう。恐らく4日間ほど寝ずの番をして焼くのだろう。

作業所の軒下には、赤膚山から採取されたと思われる「赤土」と、黒っぽい固めの土が積まれていた。

そして作品が展示販売されている建屋に案内された。




展示販売コーナーでは、八代目・大塩正人(おおしお まさんど)さんの奥様がおられ、更に説明を聞くことに・・・。

人肌の優しい色の器、紫陽花色の花器、薄緑色の花器が、そして、奈良絵といわれる絵が描かれている器があった。趣のある部屋に展示されている。一つ一つが、綺麗な作品だ。



釉薬(ゆうやく)には、藁灰(わらばい)と落葉樹のクヌギ・樫の葉っぱを燃やした土灰(つちばい)に長石の粉を混ぜた「萩釉(はぎゆ)」と呼ばれるものを使うという。これが赤膚焼独特の乳白色の色合いを出すのだ。

この萩釉は、流れ落ちて塗りにくいとか。そのため、綺麗に出来上がると高価な作品になるという。

また、「石灰釉(せっかいゆ)」、または「透明釉(とうめいゆ)」と呼ばれる釉薬もあるとか。これは茶色や青色を出すときに使うという。
また、「キショウ(?)」と呼ばれる、中国から来た釉薬は、紫陽花色が出るという。

茶器から始まった赤膚焼だが、やがて皿や花器なども焼くようになり、コーヒー茶碗やアクセサリーも。



途中から正巳氏が帰宅され、引き続き説明を受け、再び作業場に案内されることに・・・。別の棟にある絵を描く作業場にも案内頂いた。



ところが、残念なことに昼の休憩時間になり、作業を見ることは出来なかった。

八代目・大塩正人(大塩正義さん)の次男・正さんは九代目で、日展入賞も重ねられて、販売展示コーナーの一角にその作品があった。新しい色と形、新しい感性の作品とお見受けした。
伝統の技術を守りながら、代々の陶工が新しいことにチャレンジしてきたという。これからも、新しいことにチャレンジされるだろう。



かわいい奈良絵が描かれた一輪挿しの花瓶を買い求めた。壷の裏に「赤膚山 正人」の銘があった。



正巳氏は、『私は、奈良絵が描かれていない、素朴な人肌の「赤膚焼」のほうが好きですね。本当の値打ちがあると思いますよ。』とも。



また、氏から「伝統工芸士」を訪ねる場合の心得を教えて貰った。(ご注意とも・・・)
①「作品を見せて欲しい。」と言うのではなく、「作品を拝見させて頂きたい。」と言うこと。ただ単に見るのではないという印象を与えること。
②事前に電話し、都合を聞くこと。作業場の写真を撮る場合は、特に必要なのだ。
③手土産などを持参し、心配りをすること。気はこころ程度に・・・だ。

②と③は、心得ているつもりであったが・・・・①については、「なるほど!」と思った。
加えて④番目として言えることは、事前にその工芸品についての予備知識を得てから訪ねたいものです。

今回は、飛び込み訪問であったため、全てがバツ!
まあ、これも素人だから許されることとは云え、常識に欠けた行動に「反省!」。
皆さんも、くれぐれもこういうことの無きように・・・ご参考迄に。


正人窯 (まさんどがま)
八代目 大塩正人
〒630-8035 奈良市 赤膚町1051-2
電 話 : 0742-45-4100

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墨造りに伝統を練りあげた・・㈱呉竹さん  ⑩

2007-10-25 16:30:36 | 奈良県のモノづくり探訪記

お訪ねした㈱呉竹・本社。

昨日お訪ねしたのは、墨、墨液、ふでペン、水墨画用品、絵手紙・水彩スケッチでおなじみの「株式会社 呉竹」さん。明治35年創業、105年の歴史ある会社である。

呉竹さんのHPを見ていると「墨の製造工程見学・・・」と書いてあった。
早速、お客さま窓口に電話をさせて貰った。本来は、5名以上でなければ受けて頂けないのだが・・・ご無理をお願いしたのだ。
ということで、カミさんと2人、奈良市内の本社へ。
お迎え頂いたのは、お客さま窓口の坪倉士郎さん。早速、墨の製造工場へ。

製造工程順に従って写真と説明書きを読んでいただくとして、説明書きには記されていない坪倉さんから伺った内容を紹介したいと思います。(「墨の製造」については、KuretakeさんのHPをご参照下さい。詳細に記載されています。)


見学用に通路が設けられ、各工程がガラス越しに見られ、それぞれ工程の写真と説明が掛けられている。

数千年の風雪に耐える記録材料としての墨は、推古天皇18年(610年)に高麗の僧、曇徴が墨造りを伝えたとの『日本書紀』に記載があるとか。この1千年余の歴史を持つ、奈良の墨づくり。

全国需要の90%のシェアを占めている。しかし「墨」を造るところは、現在では15軒(社)程度に減っているという。

墨は、原料の松の木を燃やして採る煤(スス)か、植物油を燃やして採る煤(スス)に分けられ、前者を「松煙墨」、後者を「油煙墨」と呼ばれている。



ここで使われているのは、植物性油の「菜種油」が多い。椿油は菜種油の10倍の原料費だとか。

昔は、油を入れた土器に灯芯をともし、上蓋に付くススを集める「土器式採煙法」だったが、昭和30年始め頃からこの「自動採煙機」を採用しているという。


松のススを作り出す「山小屋」の模型。
ただ、原料の松の木を燃やして採る松煙墨については、和歌山県などで作られたススを買われているという。
現在も松煙墨作りは、紙張り障子で囲った小屋にカマドを設け、倒木や枯れた松の木の根っこを燃やし、障子や天井に付いたススを払い落として集める方法だとか。
手間が掛かっている分だけ高価なのです。

ススはダイヤモンドに次いで粒子の細かいものだとか。
細かい粒子ほど、濃い黒色となるのです。



膠(にかわ)の役目は、ススの粒子を接着させることと、紙に移って(書かれて)からはススの粒子を紙に接着させ、艶を与えるのです。

バケツの中に水を入れ、その中にススを入れて混ぜてもススは浮いたままであるとか。ニカワでススの粒子をくっつけることで、水に溶け紙の上に移すことができるわけです。

ニカワは、なまぐさいニオイがするため、麝香(じゃこう)、竜脳(りゅうのう)、梅香香(ばいかこう)などの香料を加えられるのです。これが墨のいい香りなのです。

ススとニカワを混ぜる比率は、10対6が一般的で、細字やかな文字用は、ニカワの量を少なくしてネバリを下げるとか。





現在、この練り・型入れ工程の「墨作り職人」と言われる方は2名。(他に社員が1名)体力が必要な作業であるため高齢化により職人さんも少なくなっているという。

この工程作業は、10月から翌年4月までの寒い期間のみ行われ、職人さんはこの期間以外は他の仕事(農業など)に就かれている。ちょうど、お酒造りの「杜氏」と同じだ。
早朝4時頃から開始され、昼食抜きで午後2時過ぎには終えられるという。

墨の玉(固まり)は、餅のようだ。この黒い餅を作業所に持ち込み足で踏み、手で捏ねる。ススとニカワをしっかり練りこむのだ。

そして、座った股の下に挟み込む。必要な分だけ取り出し、型入れ用に千切り採る。余ったものはすぐに股の下に挟み込むのだ。これは常時体温と同じにすることで、練り易く、型入れしやすくするためだ。
この墨の玉を直接触らせてもらった。人肌の温かさだった。

固形墨には、色んな形があるが、仕上がりの重さが15gのものを1丁形と呼んでこれを基準とし、これを作るためにナマの墨の玉を26.25gを木型に入れるのです。
千切って天秤ばかりで計量し、木型に入れ、決められた時間プレス機に掛けられます。この加圧具合も難しいのです。木型から出された墨の形は、仕上がりの墨の倍ほどのふっくらとした大きさなのです。





型から出された墨は、乾燥室へ。
そのままの状態では、表面がヒビ割れするため、表面と芯を同時に乾燥させるため、木灰(クヌギの木)の湿度を変えたものを1日毎に変えるのです。それも直接、灰に触れさせず、新聞紙を入れ均等に乾燥させていくのです。1丁型で7日間灰の中で乾かされる。

灰による乾燥が終わると、藁(わら)で編んで、天井に吊るされ、室内で1~2ケ月乾かされます。
この工程の担当者も、「職人さん」と同じ時間帯の作業となります。

墨が乾ききるのに3年、更にニカワが熟成しその特性が安定するのに3年掛かるという。ススである炭素は安定していますが、ニカワは動物性の蛋白質のため、長い間に変質する。墨が本来の真価を発揮するのは、製造後20年~50年と言われています。



1日だけ灰の中で乾燥された墨を、木枠の型で出来たバリを、カンナやナイフで削り取る。
同時に、検品も行われている。昔は、この検品工程には会社のトップクラスが担当し、『墨の出来具合、つまり職人の技術の良し悪しの査定をしたのです。』と云われていた。




木型の胴やフタの彫りは、それだけでも芸術品だ。
書道家が書かれた文字を忠実に、梨の木に彫りこんでいく。
「福」という文字を、字体を変え丸い墨の周囲に現された「木枠」が展示されていた。木枠そのものも芸術品だ。
書道家の書と同じ風合いを出さなければならないのだ。



墨はニカワの劣化があるため、作り方と原料によって差があるものの40~50年迄が円熟期といわれている。
しかしながら、紙に移された墨は、300年、500年の時を経ても残っている。

虫に食べられて・・・というのは、表装の糊の部分であるとか・・・墨そのものは虫に食べられていないのです。
大昔の竹簡・木簡などが土の中から発見されているが、そこに書かれた墨文字は腐らずに残っている。
また、寺院などの扁額も、木は朽ちていても墨文字の部分だけが、浮き出て残っている。

古文書の収集家などの家には、瓶(かめ)が備えられているという。
万一火災が起これば、その瓶の中に古文書を投げ入れ焼失を防ぐためと言われている。
墨で書かれたものは、濡れても乾かせば元に戻るからだ。

昔は1シーズンに1丁型にして2000万~2500万丁を作ってきた墨の業界だが、近年では年間350万丁に落ち込んでいるという。


松煙墨が作られる工程を説明して頂く。 



墨と硯の関係について 

硯の材質と墨の磨り方によって、墨色が大きく変わるとか。
墨を磨(す)って、よく下(お)りるかどうかは、硯の表面にあるギザギザの硬さ形・方向にあるとか。その表面あった磨り方が大切とか。縦長の硯では前後に磨り、幅広の硯では「の」の字を描くようにします。

墨を磨るには、硯の丘に少しずつ水をしたたらせ、磨っては墨池に落とし込む。このほうが墨液の粒子がよく揃い、磨る時間も少なくてすむという。
手と墨だけの重みで、大きくゆったりと磨ることが良い磨り方だとか。


会議室に設けられていた「墨のコレクション」。

特別に、会議室に案内して頂き、貴重ないろいろな墨を拝見させて貰った。


「正倉院展」に展示される舟型の墨の復刻版だ。

10月27日から催される「正倉院展」に展示される「舟型」の墨の復刻版もあった。



書家の榊莫山さんの揮豪の入った「干し鰈」「山魚女」の金色の墨が・・・。 



そして、ここで榊莫山さんの作品に出合ったのだ・・・。
正面の屏風仕立ての壁面に書かれた絵と文字。まさしく莫山さんの作品だ。呉竹さんと先生の親交の深さを現すものだ。
この前で、ずっと眺めていたかったのだが・・・。


液体墨の「墨滴」を開発・発売されたのは、昭和33年のこと。
最近では「くれ竹万年毛筆夢銀河」「絵てがみ・顔彩耽美」「香りがついた墨滴」などが開発・発売されており、新製品も次々と発売されている。



いろいろお世話になった「お客さま窓口」の坪倉士郎さん。正面玄関入り口には、製品が陳列され販売もされていた。

株式会社 呉竹
奈良市南京終町7-576
TEL 0742-50-2050


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「茶筌づくりの里」奈良・高山の伝統工芸士を訪ねて  ⑨

2007-10-24 18:31:23 | 奈良県のモノづくり探訪記

去る22日にお訪ねしたのは、日本の「茶筌づくりの里」にある「翠宏園」。
奈良県生駒市高山町にある「翠宏園」は、高山茶筌・伝統工芸士・平田俊之さんのご自宅兼作業場である。
氏は、高山茶筌生産共同組合・理事長もされており、昨日も京都で開催の経済産業大臣指定・伝統的工芸品の近畿・四国ブロックの展示会に行かれていたとか。

そんな多忙な中、茶の心得もない無粋な私と、少しばかりお点前をしていたカミさんを前に、高尚で緻密で精細な技法で作業をされるご子息の手元に感心しながら、茶筌師の説明を聞くことに・・・。

この「高山茶筌」は、室町時代末期から500年の歴史があるという。 室町時代の中期、大和国添加郡鷹山(やまとこくてんかぐんたかやま)の城主大膳介頼栄(だいぜんかいよりさか)の次男・宗砌(そうせつ)が、その親友の称名寺(しょうみょうじ)住職・村田珠光(むらたじゅこう)が茶の葉を粉末にして飲むことを考案し、それを攪拌する道具の製作を頼まれ作ったのが、高山茶筌の始まりと伝えられている。

時の天皇に茶筌を献上し、「高穂」の名称を与えられ、宗砌は以後、城主一族にその製法を秘伝として伝え、代々「一子相伝」の技とし、 後の高山家没落後も、その秘伝は十六名の家臣によって伝えられ今日まで受け継がれているとか。
つまり、何故今日までこの地域にとどまり続いてきたのかといえば、「跡継ぎにしか技術を教えない。娘は嫁いで他の土地にいくこともあるため教えない」という拘りがあったのだ。なるほどと唸るしかない。

材料として使う竹は、直径7~8.5厘(2.1cm~2.55cm)の太さだが、なかなか揃わないという。
茶筌として最も良い竹とは、堅い竹であること。その竹が育つ良い条件とは、陽がよく当たる痩せ地で育ったものだとか。
ここ高山で採れる竹と、滋賀県産しかないという。
南国九州の竹は柔らかすぎて使えず、雪国の竹は雪の重みでシナリ癖がついているため使えないという。

茶筌の種類としては、100種類ほどあると言われているが、ここ平田さんの翠宏園では20~30種類程度しか作っていないという。
表千家、裏千家、武者小路千家などの流派によって、茶筌の竹の色、穂の形、竹の太さ・長さ、糸の色が異なる。
「茶人は、人が持っていない珍しい茶筌を欲しがられるものです。竹に虫食いの跡がついた面白味のあるものとか・・・」

国内で作られる茶筌のうち、裏千家の千家流と言われるものが80%を占め、白色の茶筌だ。
黒色の茶筌は、表千家だとか。
黒色の竹とは、わら葺き屋根で使われススで燻されたもので、竹にネバリが少なく、作りにくいという。

竹の太さによって、80本立、100本立、120本立という名称が付く。 戦後は、太い茶筌は点てにくいと敬遠されているとか。
「やはり、持ち易く、指の形が綺麗に見える、細い茶筌が好まれるようです。」と言われる。

天皇から賜わった名称の「高穂」と国名「鷹山」、それらから「高山」となったこの地。
高山茶筌生産共同組合員は23軒。非組合員を含めても30軒ほどが、ここ高山地区で茶筌を作っているという。
国内生産の茶筌の全てを、この高山地域(隣の精華町などを含む)で作られているという。

「茶筌を作るには、ノコギリ、包丁4~5種類、金ヘラの道具だけで、すべてが手作りなんですよ。」と、言われる。
小刀と指先だけで作ることから「指先の芸術品」なのだ。
ご自宅の一室を作業場とされ、跡継ぎのご子息と奥様の一家で、茶筌だけを作っておられる。
一日で、何本ほど・・・と聞くと「10本ほどかなぁ!」

この茶筌を作る工程において得手・不得手の部分があって、原材料となる竹を切り、大割り・小割りまでの荒仕事は男の仕事。その後の糸掛け(糸で編む)などの繊細で緻密な仕事は女性の仕事で、二人で一人前といわれる所以だとか。なかなか根気の要る、繊細な仕事なのだ。

この「翠宏園」に伺う前に、生駒市が運営する「高山竹林園」に立ち寄り、茶筌の色・形・種類などを見させてもらってきた。

この高山竹林園では、毎年、10月第2週の日曜日頃にお点前披露、茶筌製作実演、竹を使った光のアート、コンサートなどのイベントが催されるという。
また、常時、第一・第三日曜日(1日2回)には茶筌づくりの実演と、お点前が催されているのだ。

また、共同組合としては、地域の小学校の児童のために、丹精込めて作った茶筌の竹が割れて商品にならない茶筌と信楽焼のオウスを自腹で寄付したり、余り材の竹を使った「横笛作り」を提案・実施しているとも。
地域と共に歩みながら、「高山茶筌」を守り・育てておられることも話されていた。

これらの功績等が認められ、「経済産業大臣指定・伝統的工芸品」指定を受けるに至ったとか。
この指定とは、『主として日常生活の用に供されるものであり、製造過程の主要部分が手工業的であり、伝統的(100年以上の歴史を持つ)技術・技法によるもので、原材料が伝統的に使用されてきたものであり、一定の地域で10企業または30人以上の従業者がいること』が指定要件なのです。
この要件を満たしている「高山茶筌」。

その生産共同組合・理事長の職も、多忙を極める毎日なのです。


高山茶筌・伝統工芸士・平田俊之さん。仕事の手を止めて、説明して頂きました。


されている作業は「仕上げ」。穂先の乱れを直し、形を整えられています。 


ご子息がされているのは、「味削り」。穂先の部分を湯につけ、身の方を根元から先になるほど薄くなるように削るのです。この味削りによってお茶の味が変わるといわれ最も難しい工程なのです。見事な小刀さばきです。


「やはり、持ち易く、指の形が綺麗に見える、細い茶筌が好まれるようです。」と言われる。


仕事場に掛けられていた「茶筌の基本的な形・種類」の写真。その一つ一つを説明して頂いた。中央の白色の茶筌が裏千家用だ。この種類が80%を占める。左端の黒色の茶筌は、表千家用だとか。


これは、生駒市が運営する「高山竹林園」に展示されている「高山茶筌」だ。この竹林園では、毎月第一・三日曜日(1日2回)、茶筌づくりの実演も行われている。

茶道具も一緒に展示されている。庭園も立派だ。茶筌づくりの実演当日はお点前も行われている。全て、茶筌生産共同組合の組合員の持ち回りで運営されている。


●「翠宏園」高山茶筌・茶道具製造元
●経済産業大臣指定・伝統的工芸品
  大和高山茶筌
  奈良県高山茶筌生産共同組合・理事長
     伝統工芸士・平田俊之さん


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大吟醸はやはり旨い! 造り酒屋「今西酒造」 ⑧

2007-10-12 22:27:48 | 奈良県のモノづくり探訪記

朝夕が涼しくなり、ちょっと熱燗が恋しくなる季節となった。
ということではないが・・・今回お訪ねしたのは、地元桜井市三輪にある醸造元「今西酒造」さん。

前日に電話を入れたところ、今は11月からの仕込み準備中。それでも良ければ・・・ということで快く受けて頂き、杜氏さんにも会わせてもらえるという。

ここは三輪神社に近く、JR三輪駅からもすぐのところ。
店の軒下には、造り酒屋を示す「杉玉」が掛けられ、「三諸杉」の板看板が目をひく。

奥様の出迎えを受け杜氏の中村さんの案内で、醸造蔵を見学させて貰うことに・・・。

11月から3月までが一番忙しい時期とか。
今は、各機械や備品の清掃・洗浄作業中で、嵐の前の静けさといった感じだ。

清酒の原料である米は、酒のランクによって精米の仕方が異なるという。
玄米の表層部や胚芽の灰分やビタミン類、タンパク質、脂質などを取り除き、米の中心部のデンプン部分だけを残す比率が異なるのだろう。
一般の清酒は70%が残るという。つまり30%を捨てる。吟醸酒は40%を捨て、大吟醸となると50%を捨てる。
なるほど大吟醸は高いはずだ。

更に「洗米」して「米を研ぐ」のだという。
研ぐとは? 白米の表面に残っている糖分を水で洗い削り取るのだとか。2~3%カットするとか。

次に直径2mくらいはある大きな釜で米を「蒸す」のだ。
写真は釜だけだが、この釜で湯を沸かし、この上に蒸し器の釜を乗せて米を蒸すのだ。赤飯作りと同じ要領だ。

蒸された米の一部は室(ムロ)に入れられ「麹菌」を作る。このムロは昔からのもので、壁面、天井、扉まで全て籾殻(もみがら:玄米にするときに除去される表皮)が入れられていて厚みは40cmほどもある。
壁面に入れられている籾殻の入れ替えや補充は天井の隙間から行うという。製麹室をいろいろ見てきたが、こんなムロは初めてだ。
今は殺菌中で、中には何もない。ただ、消毒中の匂いだけが漂っていた。

ムロの室内は、35~40℃に保たれ48時間かけて麹を育成されるのだ。

次は、発酵タンクに麹・水・蒸した米などを入れる、仕込みの工程だ。
酵母を増殖させアルコール発酵させるのだ。この状態が「もろみ」なのだ。
5,000リッターのモロミが入るタンクが何本も並んでいる。
「当社は地酒ですから、少ないですよ。」と言われていたが・・・。それでも多い。
今は空っぽのタンクだが、モロミが入るとどんな匂いが漂うのだろうか。

次の工程では、発酵が進んできた「もろみ」を圧搾機に掛けるのだ。
「槽(ふね)絞り」といわれる方法で、「もろみ」を布袋に入れ積み重ねた上から加圧していく。
この工程で「酒粕(さけかす)」と「酒」に分けるのだ。
昔、この絞り具合で緩くしたものが「大吟醸」となり、絞り込んだのが一般の清酒だったとか。
今はこの「槽絞り」は大吟醸専用とか。手絞りだから高価なのだ。
隣には、自動で絞る機械もあったが、これは一般の清酒用なのだろう。

道路を挟んで、瓶詰め工場があった。瓶詰めの充填ライン、瓶詰め用タンク、ろ過器などがあった。
瓶詰めされたケースが高く積まれている。発送を待っているのだろうか。

中村・杜氏に、「杜氏」とは? と聞いてみた。
『工場長のようなものですよ。』
『全ての工程に責任を持っていますが・・・他の2人と同じことをしてますわ。』 と、笑っておられた。

大学卒業後、新潟の杜氏に弟子入りし、みっちり仕込まれてこの今西酒造へ。
自宅は会社のすぐ近くとか。ムロでの麹菌作りは昼夜を問わないため、徒歩で通勤できるほうが良いとのこと。

『お酒は、3分の2がコスト。化粧品などに比べコストの比率が高い。米代・水道料、加えて酒税。なかなか厳しいのです。』と、経営者的な視点も。

奈良県下での杜氏は3人。そのうちの一人。36歳の若手だ。
70歳以上が多いなか40~50歳台はいないという。これからの「酒造り」に貴重な存在だ。

古くて新しい酒造法、「室町時代の僧坊酒の酒母造り」を奈良の若手蔵元グループが500年ぶりに復元したという。
このメンバーの一員でもある。この蔵でも『菩提もと・三諸杉』という名で売られている。

また、テレビでも紹介された、和製シャンパン「雷来(らいらい)」の発売など、新製品の開発にも力を入れている。
また、蔵主の積極的な方針は、直営居酒屋「diningbar雷来」を、奈良市内にオープンされている。

とは言ってもこの「今西酒造」は265年の歴史を重ねた老舗蔵なのだ。
創業は江戸時代中期の寛保2年(1742年)という。


こんな手間のかかった「大吟醸」を飲まないわけにはいかない。
「お勧めのお酒は?」と、中村・杜氏に聞いた。
「大吟醸・みむろ杉」は、どうでしょう? 500CCで、2000円。

晩酌にコップ一杯だけ飲んだ。まったりした味。旨い!
  手作りの現場とその工程を見ると、やっぱり、旨いのだ。


軒下には、造り酒屋を示す「杉玉」が・・そして「三諸杉」の板看板が目をひく。


精米された米を「研ぐ」のだ。白米の表面に残っている糖分を水で洗い削り取るのだ。


この大きな釜で湯を沸かし、この釜の上に蒸し釜を乗せて米を入れ、米を蒸すのだ。


この「室(ムロ)」に入れられ「麹菌」を作るのだ。この壁面・天井・扉には、籾殻が詰められている特殊な構造なのだ。室内を35~40℃に保たれ48時間掛けて麹菌を育てるのだ。


5,000リッターのモロミが入るタンクが何本も並んでいる。



「槽(ふね)絞り」といわれる方法で、「もろみ」を布袋に入れ積み重ねた上から加圧していく。この工程は「大吟醸」を造る専用のものだ。


隣にあった「もろみ」の自動絞り機。これは一般の清酒用なのかなぁ。


色んなお酒が・・・。「室町時代の僧坊酒の酒母造り」の『菩提もと・三諸杉』も並んでいた。


醸造工程の写真が掲示されていた。


若手のホープ、杜氏の中村祐司さん。


杜氏お勧めの「大吟醸・みむろ杉」。早速、買い求め晩酌で・・・。やっぱり旨い!


今西酒造株式会社
住所:奈良県桜井市三輪510
電話:0744-42-6022
FAX:0744-42-3612
HPアドレス:今西酒造
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『飛鳥味噌』(法論味噌)復活の嶋田味噌店を訪ねて ⑦

2007-10-11 22:49:29 | 奈良県のモノづくり探訪記

嶋田味噌・麹製造元 19代当主 嶋田 稔さん。

1週間前に立ち寄った時、「午後から春日大社の権宮司ご夫妻が味噌作りに来られるので・・・その準備で・・」という事だった。

そして今日、あらためて奈良県田原本町の味噌・麹の醸造元「嶋田味噌店」第十九代当主の嶋田さんを訪ねた。

創業250年の老舗の店構えは、看板もなく敷地に蔵が建つだけで、ひとつの民家として見過ごしてしまうほどの佇まいだ。
屋号の看板の文字も薄くなっており「これは新しく掛け直さないといけませんなぁ。」と写真を撮る私の横で嶋田さん。

厚かましくも部屋に上がらせて頂き、茶菓子とお茶をご馳走になりながら、いろいろお尋ねした。

嶋田家のルーツは江戸時代初期までさかのぼるという。
八代目の「茜屋八兵衛さん」が醤油・味噌の醸造を始められ、その後代々「八兵衛」を襲名して「茜八(あかはち)」を屋号として親しまれてきた。

現在の当主が高校・大学生の頃、この店を継ぐのが嫌だったため、後継者が無いと諦めた18代目の父親は、初代から続く「麹室(こうじむろ)」だけを残して、醤油樽などの諸設備を失くしたという。

18代目の期待に背き、会社勤めとして大手カメラメーカー「ペンタックス」へ。
そして重役を定年退職されてから、やっと家業を継ぐことに目覚めたとか。

昔は、この大和地方に味噌・醤油に必要な「麹」を作るところは、80軒もあったが、今では3軒ほどしか残っていないという。

この嶋田さん、昨年暮れに江戸時代から途絶えていた「法論味噌(ほろみそ)」(飛鳥味噌とも言う)なる古代味噌を復活させ、奈良・春日大社に奉納されたのだ。

法論味噌とは、室町時代に南都の寺院(東大寺・興福寺など)において僧侶が法論を行う際、睡魔を払うために味噌を用いたことから名づけられたもの。
味噌を焼き、胡麻・胡桃・麻の実・山椒などを煮込み、これを天日に乾し、最後にホウラクで煎って作るものだ。
当時は、奈良の名物としてもてはやされていたが、製造に手間がかかるため、500年以上もの長い間絶えていたのです。この間、白味噌や赤味噌で代用されていたとか。

春日大社の岡本・権宮司の力添えもあり、これまでの代用品に変え、今年の「歳旦祭(元旦未明に行われる行事)」に「法論味噌」を奉納されたのだ。
そのときの苦労は、「大和志」などの古文献などを参考に昔ながらの製法で造り上げられたのだ。
これらの模様は、当時の新聞や雑誌で紹介され、街起こしのひとつとして注目されているのです。

味噌は1400年前、中国から朝鮮を経て日本に来た伝統ある食品で、日本人の知恵で今日の味噌が出来たものです。
今日では、味噌は買うのが当たり前となっている。

嶋田さんは、着色料など一切使わず無添加の本物志向の味噌を自分の手で作って貰おうと、朝日カルチャーセンターの講師として「手作り味噌教室」も開いておられる。
9月は5回も開催したとか。商売度外視の心意気だ。数名の希望者が揃えば応じるという。毎回好評で、年々開催数が増えているという。

米麹、国産大豆、赤穂の塩で「茜八味噌」を作るのだ。まさに「手前みそ」作りだ。
市販の味噌との違いは・・・と聞くと、
「麹菌は日本にしかないもの。中国、アメリカには無い。日本の気候でしか麹菌は作れないのです。」
「手作り味噌を、ビニール袋に入れておくと醗酵が進み膨れてしまうのです。でも市販品は膨れないのです。これが麹菌の有無なのです。」

味噌の風味は、「麹」の出来具合で決まるという。
そのため麹作りには、江戸時代から使われているレンガ造りの「麹室(こうじむろ)」で、約2日間、40度の温度と70~80%の湿度を保ちながら醗酵させるのだ。
何度も混ぜながら徹夜が続く作業となる。

麹蓋の木枠に「茜八店」や「大正○年」の焼印が見える。昔のままなのだ。ここにも美味しい酵母菌が住み着いているのだろう。

『元気で活発な微生物が住み着いている味噌でなければ「本物の味噌」とは言えません。味噌は生き物なんですよ。』と、天然醸造味噌の素晴らしさを熱く語っておられた。

今度、「手前みそ」づくりに参加したくなった。


創業250年の老舗の店構えは、看板もなく民家のようで・・見過ごしてしまうほどの佇まいだ。

江戸時代から使われているレンガ造りの「麹室(こうじむろ)」。

麹蓋の木枠に「茜八店」や「大正○年」の焼印が見える。


朝日カルチャーセンターの講師として「手作り味噌教室」も開いておられる。年々、好評で、数名が集まれば開いてもらえるという。商売度外視なのだ。


麹味噌(粗・粒なし)、白味噌、減塩味噌、麦味噌、モンゴル湖塩味味噌などの天然醸造味噌だ。


嶋田味噌・麹 醸造元
住所:奈良県田原本町505
電話・fax:0744-32-2114


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