ラテン語で太陽を意味するSolも、ケルト語のスリ(光り輝く)や、太陽神スーリア、さらに英語のSunやドイツ語のSonneなどとも同根だと思う。
@arcadie ニール・ヤングは稀代のミュージシャンだと思います。クラウド・アトラスはあまり期待せずに見た分、感動が大きかったです。私も負けていられない、と思いました。
4500人の極右デモってすげーな。
ドイツは確か、立派なヘイトスピーチ規制があるんだが、こういうのは防げないんだなー。
Reading:独でイスラム急進派排斥デモ 40人超けが
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世界とは、自分の内面を投影したものに他ならない。つまり私にとっての世界とは、私自身の感性を通じて恣意的に切り取られた自然のことを指すのだろう。
「世界」とは恣意的に切り取られた自然のことだから、「私の内面」を投影したものが、私の外部にある「世界」と一致する。これはユングのシンクロニシティと、量子力学におけるボームのホログラム理論とも一致するだろう。
自己が確立すればするほど、世界に対する自己投影の度合いが強くなる。19世紀ヨーロッパのキリスト教者たちが仏教に「自己の破壊」という究極のニヒリズムを見出してしまったのは、無我を説く釈尊の教えに、キリスト教近代の根底にあるフィクション「考える自己」がニヒルだと映ったからではないか?
風水とは、外の現象が潜在意識に与える影響を統計的に述べたものだと考えると、ものごとを引き寄せる力とは、潜在意識が外の現象に与えるイメージの力を指すのではないか。
他者に与えた価値の総和が、私の価値と言えるだろう。すると私の価値を高める為には、どうやったら他者に価値を与えることができるのかを考えて、行動することが必要になる。このプロセスが、いわゆる「自分探し」なのかもしれない。
人は事象を分析していると思い込んでいるけれど、実はその事象が、その人の内面を照らし出しているのだと思う。
もしも私たちの身体を遺伝子の乗り物だと考えた場合、被曝という事象は私たちの身体に載っている遺伝子情報を傷つけてしまっている。生命体として重要なのは、遺伝子の乗り物である私たちの身体を守ることではなく、そこに乗っている遺伝子情報を守り、未来へと存続させることなのかもしれない。
「本業と副業、それぞれで得たことをうまく組み合わせることで世界も広がるし、片方だけでは見えないことも見えてくる」評論家/翻訳家・山形浩生 buff.ly/1wxeRl7 pic.twitter.com/c8AscHf6z5
ルイス・キャロルの創ったチェシャ猫という化け猫の怪物は、 パルメニデスが存在の自同律の根底の不可視のパラドクスから創造した オン(存在)とやらいう名のヘン(一者)な魔物の対極に 双曲線状に浮かび上がる存在論的妖怪であるが、
「存在が存在するなら何も存在出来ない」という パルメニデスのパラドクスよりも、 「虚無を無化するためには虚無を欠かすことができない」という 無の還元不可能性(必然性)を論証したルイス・キャロルの 論駁不可能なパラドクスの方が実は遥かに恐るべきものなのだ。
存在に戦慄するものは、 未だ真に必然的なものを知らぬ二流の思想家である。 存在よりも必然的で恐ろしいものは虚無であり、 虚無を滅ぼさぬ限り、存在は無化することはできない。 存在が無化できないのは虚無を無化できないからである。
しかし、もし虚無が無化されてしまうならば、 存在はそのあるがままに存在不可能な生ける屍と化する。 虚無は存在の奥底に地鳴りする存在の生命であり、 存在を存在させているのは実は虚無なのだ。
虚無がなければ存在はありえない。 虚無を無くすことの不可能性を起点にして 存在は常に既に存在することへと湧出するが、 その背後の舞台裏では無からの創造が絶えず行われているのである。
しかし存在自身はこのことに盲目である。「無からは何も生じない」という存在の確信は、存在自身のどうすることもできない 振り向くことの不可能性への呪縛から生じている。
存在はそれを知ることができない ――「《自分は存在する》としか思えない」ということだけによっては、 実は決して存在することはできないのだ、という残酷な真実を。
19世紀欧州の思想家たちが仏教を「虚無の思想」と呼びそこにニヒリズムを見出してしまったのは、自らの存在を存続させる為には、存在を規定する教義の外部に究極のニヒリズムを見つけ出し、その教義の内部に定められた存在の哲学を肯定する必要に迫られていたからだろう。
この仏教を批判した存在の哲学はプラトニズムの延長線上にあり、「有ものはある 有らぬものはあらぬ」としてプラトン批判したパルメニデスの構図の裏返しだ。プラトニズムから生まれた西洋近代がパルメニデス的なものを受け継いだ仏教を批判するという、アレキサンドリアから奪還されたアテネの構図。
パルメニデスの言葉「有ものはある 有らぬものはあらぬ」は、大乗仏教の開祖ナーガールジュナの言葉「有(もの)が生ずるという事は、理に合わない。また無が生ずるということも、理に合わない。有にして無なるものの生起することもない。」に酷似している。
イオニアのパルメニデスと同時代人であるデモクリトスの師は、ディガンバラ派のジャイナ教徒だと考えられる。私はナーガールジュナの思想は、イオニア/ジャイナ教的なものが、アレキサンダー大王の東方遠征以降、プラトン哲学と融合してインド化したものではないかと考える。
トイレの神様というのがいるけれど、これはトイレ掃除をすることで綺麗になったトイレという現象が、自分の潜在意識に好影響を与えた結果、ものごとが好転するという風水的な出来事を事後的に擬人化、神格化したものではないか?
日本でトイレの神様となった烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)は元々ヒンズー教の神様だが、インドや中国はこういった外部現象が潜在意識に与える影響といった風水的なものを考えるのが上手く、日本はそれを「トイレの神様」などとして擬人化するのが上手いのかもしれない。
イギリスにあるローマの温泉都市バースにて私が見たスリス・ミネルヴァ神は、ケルトの神スリスとギリシャの神ミネルヴァがローマ経由で習合したものだったが、このスリス神はインド・ヨーロッパ語族に共通する太陽神スーリヤのことであり、ケルト語の言葉スリ(光り輝く)と同根ではないか?