私はニューヨークでの展示会場の入り口に、ナチからアメリカへと逃れてきた報道写真家、アルフレッド・アイゼンシュタットの写真「War End Kiss」を張り出した。
私がこの写真に惹かれるのは、写真的構図のみならず、写真そのものに戦争が終わった、戦争から自由になったという喜びが溢れているからだ。これは硫黄島における有名な報道写真、すなわち戦勝を記念した星条旗を掲げる兵士(そこには明らかな敵対概念が前提とされている)とは異なり、愛し合っている男性(水兵)と女性(看護婦)が戦争から自由になったというお互いの身を祝う喜びのみが感じられる。
終戦記念日という言葉は日本の敗戦を的確に表現していない、という批判が度々聞かれるが、私は終戦記念日という言葉が好きだ。戦争は終わった、それを祝うということが重要なのだ。そうでないと、敗戦記念日がある限り国民国家の外部における戦勝記念日が必要とされ、戦争の構造が持つ国家間の対立(それは必ずしも必要ではない)そのものを理解することに繋がらない。またこういった対立は、わかりやすい構図、すなわち差異を強調しては消費していく傾向のある資本主義社会において、発生しやすいと私は考える。
国家的立場、または状況はいわば「個人」のそれに還元することができるが、国家の利益も個人の利益も、他者に対する目的性が確立した際に、パレーシアが成立する。また同時に、他者との間に差異が存在する限り、それは可能性であり続ける。それを履き違えずに、そこにある差異を止揚していくことが哲学の実践であると私は考える。
とはいえ、批評を必要とする芸術活動は、常に困難に直面する。単純に、ニューヨークにおいてこういった問題意識を共有することは困難であったと言わざるを得ない。
日本でよく一般的に語られるようになった大阪万博以前・以降の文脈は、日本から一歩外へ出れば、もう通用しない。赤瀬川原平氏の作品「万博跡地利用の提案」に見られる「万博跡地に万博を建造する、以上、安保改正の度に行う」という表記も、アメリカの側に立ってはかなりの説明がない限り、理解するのは困難である。そういった意味で、高度にコンセプチャルな作品であると言えよう。
逆に日本において、中央・東ヨーロッパにおける国民国家問題を共有するのは困難であった。プラットフォームという場を用いて、国民国家を形成するネーションの概念がナポレオン戦争以降に東ヨーロッパに持ち込まれ、そこから言語、宗教などを元にネーションが形成されていく過程の中で紛争が発生して行く様子を述べたのだが、現在、圧倒的な資本の流入がもたらすダイナミズムの中、東ヨーロッパで起こっている出来事を日本で把握するのは困難だと感じた。
逆に、沖縄における問題をアメリカで、そして他の地域(特にヨーロッパ)と接続して考えるのも、非常に困難である。バスクやコソボ、台湾などのミクロネーション問題は、議論としてはヨーロッパが先行しているものの、根本的な視点という点でつまづいている印象がある。つまり、サバルタン的な立場における人間に対する、根本的な「語りかけ」の時点で躓いている感が否めない。これは大きな問題だ。
サラエボ出身の2人のアーティスト、セイラ・カメリッチとネボイサ・セリッチ・ショーバがクロージング・パネルにて面白い指摘をしていた。キプロスの首都ニコシアにて開催されたマニフェスタだか、マニフェスタは新しいヨーロッパを掲げるEU諸国のリーダーによって文化戦略として機能しており、今回はEUに加盟する側であるギリシャ領キプロスにおいて開催された。しかし、これはある種西ヨーロッパの資本の流入によって可能となった、トルコ領キプロスさらにはトルコそのものを牽制する意味合いが強く、それに参加するアーティストがその意味合いを見切れておらず、鑑賞者もそうである、という点である。アーティストとしてはこれを見切った上でメタレベルにて参加するか、または拒否するか、またはベタに参加するか託されているのだが、そういった点を考えると、美術と国民国家問題は今まさにアクティブな問題であると言うことが可能であろう。
また、このパネルにおいて、私に対してはガザにおけるイスラエル人入植者撤退に関する質問が出た。私はそれに対して、現状の民主主義の意思決定のプロセスである多数決のルールがある限り、少数派として入植している側はある一定の地域からは意思決定プロセスの外部に出てしまう為、排除される可能性がある、と述べた。これは大きな枠で見れば、リベラリズム敗北のルールと中位投票者理論と似ていると言えよう。それは今の日本にも当てはめることが可能だと思う。
現在の自民党が圧勝した日本では、これから恐ろしいことが起ころうとしている。真の意味で(ネオリベという意味ではなく)リベラリズムの敗北は自明である(選挙における天木直人の得票数を見よ)。
戦争の足音が聞こえてくる気がする。そんな中、私は美術に関わる人間として、展示を通じて、自分の考えていることを少しでもメッセージとして発信できたら、と思う。
そして最後に、展示にご協力してくれた皆様に感謝したいと思います。皆様のご協力なくしては、展示の成功はありませんでした。
本当に、ありがとうございました。
渡辺真也
私がこの写真に惹かれるのは、写真的構図のみならず、写真そのものに戦争が終わった、戦争から自由になったという喜びが溢れているからだ。これは硫黄島における有名な報道写真、すなわち戦勝を記念した星条旗を掲げる兵士(そこには明らかな敵対概念が前提とされている)とは異なり、愛し合っている男性(水兵)と女性(看護婦)が戦争から自由になったというお互いの身を祝う喜びのみが感じられる。
終戦記念日という言葉は日本の敗戦を的確に表現していない、という批判が度々聞かれるが、私は終戦記念日という言葉が好きだ。戦争は終わった、それを祝うということが重要なのだ。そうでないと、敗戦記念日がある限り国民国家の外部における戦勝記念日が必要とされ、戦争の構造が持つ国家間の対立(それは必ずしも必要ではない)そのものを理解することに繋がらない。またこういった対立は、わかりやすい構図、すなわち差異を強調しては消費していく傾向のある資本主義社会において、発生しやすいと私は考える。
国家的立場、または状況はいわば「個人」のそれに還元することができるが、国家の利益も個人の利益も、他者に対する目的性が確立した際に、パレーシアが成立する。また同時に、他者との間に差異が存在する限り、それは可能性であり続ける。それを履き違えずに、そこにある差異を止揚していくことが哲学の実践であると私は考える。
とはいえ、批評を必要とする芸術活動は、常に困難に直面する。単純に、ニューヨークにおいてこういった問題意識を共有することは困難であったと言わざるを得ない。
日本でよく一般的に語られるようになった大阪万博以前・以降の文脈は、日本から一歩外へ出れば、もう通用しない。赤瀬川原平氏の作品「万博跡地利用の提案」に見られる「万博跡地に万博を建造する、以上、安保改正の度に行う」という表記も、アメリカの側に立ってはかなりの説明がない限り、理解するのは困難である。そういった意味で、高度にコンセプチャルな作品であると言えよう。
逆に日本において、中央・東ヨーロッパにおける国民国家問題を共有するのは困難であった。プラットフォームという場を用いて、国民国家を形成するネーションの概念がナポレオン戦争以降に東ヨーロッパに持ち込まれ、そこから言語、宗教などを元にネーションが形成されていく過程の中で紛争が発生して行く様子を述べたのだが、現在、圧倒的な資本の流入がもたらすダイナミズムの中、東ヨーロッパで起こっている出来事を日本で把握するのは困難だと感じた。
逆に、沖縄における問題をアメリカで、そして他の地域(特にヨーロッパ)と接続して考えるのも、非常に困難である。バスクやコソボ、台湾などのミクロネーション問題は、議論としてはヨーロッパが先行しているものの、根本的な視点という点でつまづいている印象がある。つまり、サバルタン的な立場における人間に対する、根本的な「語りかけ」の時点で躓いている感が否めない。これは大きな問題だ。
サラエボ出身の2人のアーティスト、セイラ・カメリッチとネボイサ・セリッチ・ショーバがクロージング・パネルにて面白い指摘をしていた。キプロスの首都ニコシアにて開催されたマニフェスタだか、マニフェスタは新しいヨーロッパを掲げるEU諸国のリーダーによって文化戦略として機能しており、今回はEUに加盟する側であるギリシャ領キプロスにおいて開催された。しかし、これはある種西ヨーロッパの資本の流入によって可能となった、トルコ領キプロスさらにはトルコそのものを牽制する意味合いが強く、それに参加するアーティストがその意味合いを見切れておらず、鑑賞者もそうである、という点である。アーティストとしてはこれを見切った上でメタレベルにて参加するか、または拒否するか、またはベタに参加するか託されているのだが、そういった点を考えると、美術と国民国家問題は今まさにアクティブな問題であると言うことが可能であろう。
また、このパネルにおいて、私に対してはガザにおけるイスラエル人入植者撤退に関する質問が出た。私はそれに対して、現状の民主主義の意思決定のプロセスである多数決のルールがある限り、少数派として入植している側はある一定の地域からは意思決定プロセスの外部に出てしまう為、排除される可能性がある、と述べた。これは大きな枠で見れば、リベラリズム敗北のルールと中位投票者理論と似ていると言えよう。それは今の日本にも当てはめることが可能だと思う。
現在の自民党が圧勝した日本では、これから恐ろしいことが起ころうとしている。真の意味で(ネオリベという意味ではなく)リベラリズムの敗北は自明である(選挙における天木直人の得票数を見よ)。
戦争の足音が聞こえてくる気がする。そんな中、私は美術に関わる人間として、展示を通じて、自分の考えていることを少しでもメッセージとして発信できたら、と思う。
そして最後に、展示にご協力してくれた皆様に感謝したいと思います。皆様のご協力なくしては、展示の成功はありませんでした。
本当に、ありがとうございました。
渡辺真也