さて、太平洋戦争が激しくなり(アメリカに攻めまくられて)荷風は麻布のペンキ館を焼け出され、中野のアパートも焼け出され、明石の寺に身を寄せたが、そこもアメリカ軍の空襲で焼け出された。こんなに空襲で避難する先々で続けざまに被災するのも珍しい。
そして、敗戦、帰るところのない荷風は仮住まいを転々とする。その事情や社会の経済状況などが昭和二十四年ころまで続く。それはそれで読める。世相の変遷の記述はそれなりに読ませる。さて、二十四年になって、またまた浅草の劇場で自作の上演が始まり、連日連夜の浅草がよいが復活する。昭和十年ころのように。
日和下駄があるように荷風は散歩好きである。そういえば、ちょっと私が興味をひかれたことのある、おーすたーもニュウヨークを歩き回るが、荷風も散歩好きである。ちょっと病的である。
それでこんな風な記述が多い。相当はなれているところで、たとえば、「小岩浅草辺を散歩」みたいな記述がある。相当な健脚でないと歩けない。もっとも小岩でちょっと電車を降りて付近を散歩し、また電車にのって浅草にいって散歩したというならわかるが、小岩浅草辺を散歩というと小岩から浅草まで歩いたととるだろう。超人的な健脚である。それが70歳を過ぎてからの話である。
どうなんだろうね、