穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

破片まとめ、80-89

2020-05-01 09:10:21 | 破片

80:抗議しようと思ったが

JH老人は無精ひげの伸び具合を確かめるように大工のようなごつい手で顎の下を撫で上げた。「しかし、窓口に座っている末枯れた女行員に文句を言っても始まらない。この前みたいにもう一回り末枯れたばあさんをバックオフィスから連れてきて『私が応対します』なんてすっとぼけられるだけですからな」

「そうですな」
「それに末端の女行員が銀行の電算システムをいじれるわけじゃない。それでね、今日はパソコンを持ってきてね、さっきから財務大臣や警察庁長官への抗議文を書こうと四苦八苦していたんですがね。さっきは若い人には揶揄われるしね。あなたが記事にしてくれるならそのほうがいいな、と思った。どうせ、抗議文を送っても大臣なんかに届くはずもないからね」
厄介なことをお願いしたんじゃないかな、と老人は呟いた。

「この業界はギルドみたいなものでね。金融犯罪というと手ごろなテーマだから時々取り上げているんで、結構取材ルートを持っている連中がいるんですよ」
「だけど彼らはそれぞれ会社というか出版社とか週刊誌の会社に雇われているんでしょう。そんなに組織横断的に動けるものですか」

「普通の会社とは違いますからね。それに記事がものになりそうなら彼らの雑誌に譲ってもいいんですよ。いつか見返りがありますから」
「ははあ、ネタは天下の回りものだね」と老人は感心した。

ようやく客が一人入ってきた。常連のエッグヘッド老人だった。チョンマゲ男を認めると
「おや」と驚いたように声をあげた。「あなたは確かこの間、、、」
「いやお騒がせしました」と彼はちょっと頭を下げた。チョンマゲが頭の上で頼りなげに揺れた。
「もうよろしいんですか」
「慣れない葉巻の濃い煙をいきなり吹き付けられので喉がびっくりしたんですな。私もびっくりしたしたよ。窒息するかと思った。しばらく上の診療所のベッドに寝ていると嘘のように咳が収まりました」
「それはよかった」

「コロナ騒ぎで外出自粛要請が出ているから今日は自宅で蟄居中かと思ったよ」とJS老人がエッグヘッドをからかった。
「なにもしないでいるというのも結構つらいな」
「掃除でもしていればいいじゃないか」
エッグヘッドは笑って取り合わなかった。チョンマゲのほうを見て
「そういえば、あなたはこの前新型コロナウイールスは人工的だとか言っていましたね。生物兵器の可能性があるとか。ただ何だか完成度がいまいちだとかおっしゃっていたようだが」と思い出しながら話した。「完成度というのはどういうことですか」

81:ものの見方にもよりますが

チョンマゲは不審そうな顔をした。「そんなことを言いましたっけ」
「おっしゃいましたよ。生物兵器としては完成度がいまいちだとか」
「そうでしたか」彼は感慨深げに首をかしげた。「どうも発作で直前記憶が吹っ飛んでしまったらしい。そうですね、あれが生物兵器だという説はありますからね」と言葉を切るとしばらく考えていた。
「そうですね」とチョンマゲは考え考えするようにゆっくりと話し始めた。
「生物兵器とするともう少し練り上げたほうがいいかもしれない。いってみればマイクロソフトが完成度が全然ないOSを販売するようなものでしょうね」

話が急激に飛び離れたので皆は驚いた。「マイクロソフトはひどい会社でね、普通ならリコールになるような製品を平気で押し売りする。そうして『アップデートしなさいよ』と一日に数回アップデートさせる。普通の商品ならリコールものですよ」
「まったくなあ、最低でも一日に一回はそういう強要メッセージが現れるな」

まるで利用者がアップデートをしないと、ハッキングなどの被害にあっても、お前の責任だというんだからひどいものだ。さすがにアメリカの会社だね、とJSが頷いた。
「マスコミなんかもだまされて、とくにIT評論家と称する人間はマイクロソフトのお先棒を担いで『頻繁にアップデートしないのは利用者が悪い』なんて頓珍漢なことを訓示する」
「まるであべこべだね」

タマゴあたまが聞いた。「それでどの辺が完成度が低いんですか」
チョンマゲは困ったような顔をした。私は生物兵器の購入者でもないし、利用者でもないから、どこがどうだとかは言えませんよ」
「そりゃそうだ」

「ところであの事変、武漢肺炎事変とでもいうべき騒ぎはどういう経緯だったのかな」
とJSが言った。「いや、つまり意図的にどこかが細菌戦争をしかけたものかな」
「それはないだろう」とタマゴ頭が反論した。
「するってえと、事故ということかな」
「事故説というか誤って漏出させたというのが有力な説のようですね」
「武漢のあの辺りに細菌兵器の研究所があるそうですな」
「そのようですね」
「そうするとそこの研究者が誤って漏出させたと?」
「まあ、真相は藪の中ですが、こういう説がありますね」と軍事評論家のチョンマゲが披露した。「ご案内のように新型コロナウイールスは遺伝子解析から野生のコウモリがもっているウイールスに近い。それでその研究所では蝙蝠を大量に捕獲して研究実験に使っていたらしいんですよ」と彼は言うとコップのお冷で喉の繊毛に湿りをくれた。なにしろ彼のノドは処女膜のように繊細である。

皆は黙って彼の説明を待っていた。「実験に使ったコウモリの死骸はウイールスが外に漏れないように徹底的に殺菌して焼却処分にすることになっているが、そういう作業をするのは末端の日雇いのような人間でしょう。そういう連中が蝙蝠の死骸を海鮮市場にもっていって小遣い稼ぎに売っていたというんですよ」
「本当ですか」
「それは分からない」
「かの地の民度を考えるとありそうだな」と誰かが言った。「コウモリの肉は珍味なのかもしれない」
「高値が付くのかしら」と憂い顔の長南さんがつぶやいた。


82:すくなくとも経緯の説明はすべきだ

シナ人はゲテモノ食いですからね。蝙蝠でもナメクジでも食うんじゃないですか、といつの間にか店に来ていたCCが言った。
「アメリカの国務長官が武漢ウイールスといったら、中国が抗議したというんだから呆れるね」
「少なくとも、武漢での発生や蔓延の経緯を正直に説明すべきですよ。武漢が震源地であることは明白なんだから。例えば外国から来たなんて珍妙な主張をするなら経緯の説明が不可欠ですよ。挙証責任はシナにあることは明白だからね」
「中共も虚証の権利だけは持っていると信じているらしい」

「しかし中国は封じ込めに成功したといっているが、本当ですかね」
「さあねえ」
「発生したのは12月らしいけど、明るみに出たのが二月だったかな」
「一月の末じゃなかったかな」
「それにしても、彼らの云うことが本当だとしたらわずか二か月ほどで片をつけたのなら大したものですね」
「逆に言えば、それは中国が熟知していたウイールスであるということでしょう」と第九は言った。
「そうだね、自分のところで開発した生物兵器なら扱いは知っていたということになるからね。蔓延した場合の対処法も兵器使用法の一部だからね」とチョンマゲが応じた。「独裁国家ならではの乱暴な取り締まりもある程度効果があったかもしれないが」

「最初のころはすさまじいことになると思ったからね。本当に目途をつけたんなら大したものだ。それにしても分からないのは欧州やアメリカでの広がり方だよね。欧州では油断があったようだけど、アメリカで短期間に爆発するなんて意外だったな」
「そうですよね、真っ先に中国との人の往来をシャットダウンしたのはトランプだったしね。常識的にはアメリカが一番防御していると思ったがな」
「それがコロナ流行に関する最大のミステリーだろうな」
「中国は新型コロナの対処法の勘所は秘密にしているんだろう。自分では情報は透明化しているなんて言っているが」
「そんなのは真っ赤な嘘でしょうね」

「あのウイールスは人種的に選り好みがあるんじゃないかしら」突然憂い顔の長南さんが発言してみんなを驚かせた。「ヨーロッパの流行を見るとイタリアとかスペインとかフランスがひどいでしょう。ラテン系というかロマン系というか」
「じゃあ、アメリカの流行はどうなんだい」と誰かがきいた。
「アメリカの流行でもヒスパニックが多いんじゃないかしら」
「そんな報道はないぜ」

83:屁でためす

どうしたらいいんだろうね、と誰かが言った。
「かからない用心は三密をさけろなんていってるね。このごろでは人との接触を八割減らせなんて、お経みたいなことをいう政治家もいる」
「問題はかかっても自分で分からないということだろうね。余計に不安になる」
「においが分からなくなるって云うじゃない」と憂い顔の長南さんが言った。
「なんの症状もまだ出ていないのににおいが分からなくなったら危ないのかな」
「ほかに原因もないのににおいを感じなくなるのは明らかに異常だからね」
「俺は子供の時にひどい風邪をひいて、においや食い物の味が分からなくなったことがあったな。親父が医者でそういったらバカに慌てていたな」
「花粉症なんかでにおいが分からなくなって云うわね」とママが言った。
CCが思いついたように発言した。「女がダイエットをするとにおいを感じなくなりますよ」
一同が不審そうな顔をした。どうしてだい、とJSが聞いた。
「極端なダイエットをすると栄養が偏る。とくにミネラルが不足するらしいんですよ。亜鉛だったかな、あれもごく少量でいいが体内に無くなると味覚や臭覚障害を起こすらしい」
「するってえと、若い女には臭覚障害が多いんだろうな」
「そのとおりです。だから香水をつけてもにおいを感じない。そこでこれでもか、これでもかと安香水をジャブジャブかける。においを感じられるまでね」
「ははあ、若いのにビショビショになるまで香水をかけないと安心できない女がいるね。あれはそういうことなのか」と卵頭が気が付いたように言った。
忘れちゃいけませんぜ、とJSが注意した。臭覚は加齢とともに衰える。痴呆の進行度と大体おなじらしい。
「まったく、ばあさんの中にはこれでもか、これでもか、と白粉を塗りたくるのがいるね。どうだ、恐れ入ったか、におうだろうってね、威張ってる」
皆さんは大丈夫ですか、臭覚のほうは、と第九が問いかけた。
おれも心配だからさ、毎日確かめているんだと卵頭が言った。
「コーヒーのにおいをかぎますか」
「いや、家ではコーヒーを飲まない。それに魚の干物みたいにマンションの隣の部屋にまでニオイが侵入してくるものはもともと家族全員が嫌いなんだ」
「それじゃ困りましたね」
「それでさ、ガスのにおいを試した」
「ガスって都市ガスですか」「そうよ」
「臭いはないでしょう」
「点火すればにおわない。だからガス栓を開けて火をつけないで顔をレンジの上にもって来るんだ」
「危ないな、大丈夫ですか」
「大丈夫じゃなかったな、嫌な臭いは嗅いだんだが、すっと気が遠くなって流しの床に倒れてしまった。気を失ったんだよ」
「えれえこった」
「生ガスはどんどん出る。ガス検知器はがなり立てる。火災警報器がマンション中に鳴り響いたな」
「無事だったんですか」
「救急車が来てさ、病院に連れていかれたよ」
みんな呆れかえった顔をしていた。
「それでさ、自分の屁で試すことにしたんだ」
「へえ」(一同)
「そんなに都合よく出ましたか」と第九が心配そうに聞いた。
「いや、出ないね。都合のいい時にでるものじゃない。都合の悪い時に出てきそうになる。それにさ、年を取ると屁も淡泊になるんだな。いつもにおうわけじゃない。全然無臭の屁というものもある」
「たしかにあるな」
「それでサンプルを増やすために孫娘にも協力させているんだ」
「どうやって」
「屁が出そうになったら我慢して俺のところに来て嗅がせろってな」
「お孫さんはいくつなんですか」
「当年とって24歳の独身さ」
「それで協力的ですか」
「俺の言うことは何でも聞くのさ」
「それで今のところ臭覚は異常なしと」
「そういうことだ」


84:外出自粛下のダウンタウン

公共交通機関に乗るのをやめろと高札に出ていたから、模範的市民である第九は毎日歩いてダウンタウンに通った。片道二時間かかる。殺風景な東京の街を歩くのは苦痛と言っていいが、日ごろの運動不足の解消にはなるだろうと思ったのである。そのかわり目標にしている毎日一万歩は軽く達成できた。しかし普段そんなに歩かないからたちまち足の指が痛くなりだした。今日は電車で帰ろうかなと考えながらダウンタウンのある階まで登って行った。エレベーターに乗るのも怖いから階段を登るのである。店内は超閑散としている。普段からコーヒー一杯千円の店が場末で流行るわけがないのだが、コロナ騒ぎで一段と店内はさびれてきた。

席に着くとママがいそいそと注文を取りに来た。今日は女ボーイのすがたが一人も見えない。何時もの常連も来ていない。みんな今日は来ないのかな、とママに云うと「そうですねえ、これからどなたかいらっしゃるでしょう、来られるのが遅くなりましたね」という。

彼らも電車や地下鉄でなくて歩いてくるのかしら、と彼は思った。
「いっそ、店を閉めて休業手当でも貰ったほうがいいんじゃない」と言ったらママは困ったように苦笑した。彼はいつもの通りインスタントコーヒーをカレー用スプーンで山盛り二杯注文した。二時間歩いていささか疲れたので砂糖は疲労回復の為に20グラム入れてもらうように頼んだ。

新聞のラックからもってきた新聞の記事を片っ端から読んでいると、朝日新聞と読売新聞を隅から隅まで読み終わり、産経新聞を読んでいると入り口で割れ鐘をぶっ叩くような大声がした。顔を上げると下駄顔老人がママと挨拶を交わしている。隣に座ったJSに「あなたも歩いてきたんですか」と聞くとそうなんだ、君はと問い返してきた。
「私も歩いてくるんですよ、片道二時間かかります」
「そりゃ仕事と同じだね」
「まったく。運動不足の解消にはいいかなと思ってね。だけど歩きなれないからたちまち足に来ましたね。あなたはどのくらい歩くんですか」
「一時間とちょっとかな」と湾岸エリアの新開地に住んでいるJS老人は答えた。
老人は第九が広げていた新聞を見て「何が面白い記事がありますか」と尋ねた。そして紙面をぞきこむと第九がちょうど読んでいた「消えた反物質の謎」というタイトルを見て、「ほほう、あなたは科学記事に興味があるんですな」と感心したようにつぶやいた。
「いや、とくには無いんですけどね。反物質なんてなんだろうと思ってね」
「反物質とは向こう狙いのバカげたネーミングだね。反物質なら無ということだべ」
「まったく、最先端の物理学者はお経みたいな世迷い事をいいますね。そうそう、最近読んだ記事でも妙なのがありましたよ。これは数学者の発見だか発明らしいんですがね」

「どんな話ですか」
「京都大学の望月という教授が「ABC予想」という難問を証明したというんですよ」
「一体何のことですか」と分からないことにはすべて直ちに軽蔑の念をしめすJS老人が吐き捨てた。

「いやね、数学的なことは記事じゃよく分からない。取材した記者にも分からないようでしたね」
「それじゃ話にならんね」
「面白のは、この宇宙は幾何学的な図形で出来ているというんですな」
「なんですと」とかれはあまりに突拍子もない話を聞いて、持っていたお冷のコップを落としそうに驚いた。

85:パチプロ橘さんが失業

ところで今何時ですか、と時計を持っていない第九は老人に尋ねた。彼は腕時計に目を落とすと、もう三時だね、と盤面を読んだ。
「もう、だれも来そうもありませんね」というと第九は再び読みかけの記事を読み始めた。
どうもさっき言ったことは間違いらしい。記事で宇宙と言っているのは数学的な宇宙ということのようだ。これでもまだ紛らわしいな、と彼は思った。数学、幾何学で表現できるすべて、ということらしい。それならシステムが違う体系がいくつあっても不思議ではない。べつにSFのように鬼面人を驚かすような話ではないのかもしれない。記事にパラレルワールドなんて書いてあるから誤解するんだ。

オイオイと老人がびっくりしたような声を漏らした。「噂をすれば何とやらだぜ、珍客だ」
第九が見上げると入り口からパチプロの橘さんが入ってきた。今日は景品の茶色の紙袋をさげていない。儲からなかったらしいな、と彼は思った。ママがびっくりしたように大きな声を上げて挨拶をしている。

橘氏は近づくと椅子一つを開けて腰を下ろした。
しばらくご無沙汰だったね。ひと月ぶりくらいかな、とJSが言った。
「十日ほど地方を回ってましてね」
「地方のほうが儲かるんですか」
「いえいえ、そんなことじゃないんです。緊急事態宣言で東京のパチンコ屋は休業中ですからね。まだ営業している地方の店に行っていたんですよ」
「なんか、東京のパチンカーが大挙して田舎になだれ込んでいるらしいな」
「そうなんですよ。いやもう大変な混雑で」
「関東近県にご出張でしたか。家なんかも早朝に出なけれならないんですか。私はパチンコをしないからよくしらないが、開店前に並んで良い、つまりよく鳴きそうな台の奪い合いを客同士でするそうですな」

その通りで、というと店の紙ナプキンで脂ぎった顔をごしごしと拭いた。「10時に開店ですから、早くから行列に並ぶには家を7時ごろには出ないといけない」
「それは大変な仕事ですな」とJSは橘氏に同情を示した。
「それでね、東京に近いところは特に込み合うから宇都宮とか福島まで行きました」
「へえ!」と言ったきり驚いて二人は声が出ない。
「何時に家を出るんです」とJSが気が付いたように聞いた。「新幹線でも使うんですか」
「そうなんですね。それでも早朝に家を出なければならないので、向こうでビジネスホテルに泊まっていました。値段的にはそのほうが経済的なんですよ」
「そんなに忙しくてはダウンタウンに帰りに寄るなんて余裕はないわな」
「申し訳ありません」と橘氏は律義に謝らなくてもいいのに頭を下げた。

それで今日はパチンコ屋通いもお休みになったんですか」と第九は聞いた。
「ええ、当分は休業ですよ。地方にもオイオイと緊急事態宣言に追随することが出てきましてね。そのうちに全国のパチンコ屋は休業になるでしょう。それで今日は仙台のビジネスホテルをチェックアウトして戻って来ました」と橘氏は几帳面に報告をしたのである。

「それで今後はどうなさいます」といつの間にか近くに来ていたママが心配そうに聞いた。
いや、それですがね、と橘氏はくちゃくちゃになった紙ナプキンを再び広げると禿げあがった額を二度三度と拭ったのである。「馬券師に復帰しようかと思うんですよ」

86:競馬とな

とJS老人が驚いた。この自粛要請の中で競馬をやっているんですか、と不審げに問いかけた。
「ええ、やってますとも、無観客でね」
「だけど、それじゃ成り立たないでしょう。慈善事業じゃあるまいし」と心配したようにつぶやいた。「しかし、それで大丈夫なんですか。競馬場に入れないとすると場外馬券だけなのか」
「場外馬券も発売禁止ですよ。あれくらい混雑するところはありません。三密状態の典型ですから」
「するってえと、無収入で興行するわけですか」
「そうじゃない。これまででも、インターネットの売り上げが80パーセントあったそうでね。無観客開催で競馬場に行けなくなったので、インターネットの利用者が増えているそうです。政府もやめさせるわけにはいかないんですよ。中央競馬だけでも年間三兆円の売り上げがある。政府がその25パーセントをテラ銭として召し上げる。具体的には農水省がね。それが国庫に入るからやめさせるわけにはいかない」
「なーる」

いつの間にか来ていたCCが診療所から集めて回っている検体の入った四角い銀色のクルーケースを空いた椅子の上に置くと、「橘さんはお医者さんだったんでしょう。コロナ騒ぎでお医者さんの手が足りなくなっているからカムバックしたらどうですか。需要がひっ迫していますから」

「私は精神科だったからね。内科じゃないから。患者の頭に手を突っ込んだことはあるけど、患者の体に触ったことがないからな」と橘さんは応じた。
「競馬には経験があるんですか」
「昔ね、社会人になったころにすこし」
「橘さんはなんにでも博才があるんですね」
「そうでもない。非接触型だけですよ。ちょっとやるのは」
「は、コロナの話ですか。医者の話ですか」
「もちろんギャンブルの話です。博打でもプレイヤー同士の張り合いというか、やりあうのは全然だめですね」
「と云うと」とみんなが怪訝な顔をした。
「麻雀とかは全然だめですね。付き合いでやむなくすることはあっても、交際の出費だと思ってやっている。儲ける気は全然ありませんね。勝てないのが分かっているから」
「なるほどね」
「カジノゲームではブラックジャックとかもディーラーはいるけど、基本的には客同士の競り合いでしょう。そういうのはダメなんだな」
「だから競馬だということですか」
「そうですね。カジノゲームで言えばルーレットは大歓迎ですよ」
「しかし、あれには胴元というかディーラーがいるでしょう」
「一応いますが、あれは進行役でね。基本は客同士のやり取りです。そりゃだれも乗ってこないときや、いわゆる丁半がそろわないときには店が勝負に応じる場合もたまにはあるが、あるいは掛け金が上限のリミットを超える場合でね。そんな勝負はもともとしないから」と橘さんは説明した。「それにね、不思議だけど、客同士の張り合いはいやなんだけど、ディーラーとの駆け引きにはそう気を使わない。どうしてかな。なんか無機物に向かい合っているような気がするんだろうな」

「しかしねえ」と橘さんは心配そうに付け加えた。「競馬の無観客開催もいつまで続けられるかですよ。関係者にコロナ感染者が一人でもでれば中止するそうですからね」
「最近の様子じゃどこで感染するか分からないしね」
「そうすると橘さんは困りますね」
「そう、国内には公認のカジノはないからルーレットも出来ない」
「なんか秘密の地下カジノは日本にもあるみたいですね」
「あってもねえ、そういうところはカジノは楽しめないな。そういうのは胴元が暴力団かヤクザだから、そういう組織に対する警戒感から結局対人型のギャンブルと同じになるんでしょうね。やったことはないけど、そんなことに気を使っていたら勝負になりませんよ」

「そうしたら、お医者さんに復帰ですか」
「それもありですね」

87:暗いカジノもある

JS老人が第九のほうを向いて「あなたが客を呼び込んでいるみたいだな」と言うので老人の視線の向いているほうを振り返るとチョンマゲを頭に載せたフリージャーナリストの五百旗部氏が女主人に会釈しながら店内に入ってきた。

「皆さん、自粛疲れがでたんでしょうね。我慢できなくなって街にさまよい出たみたいだ」
頼りなげに頭の上で揺れているチョンマゲを気にしながら彼は一座に加わった。
「コロナ騒ぎでお忙しそうですね。すっかりお見限りで」
「ハッ?」と彼は一太刀不意打ちを浴びせられたように立ち竦んだ。
「取材で多忙を極めているでしょう」
「とんでもない。商売あがったりですよ」
「へえ、ジャーナリストは忙しくなるかと思っていた。飲食店と同じなんですか」
「覗き屋稼業もこう世間が自粛もムードでは商売できません」
「そんなもんですかね」
「なんだか話が弾んでいたようですね。コロナの話ですか」とチョンマゲは確認するように聞いた。

「そうじゃないんですよ。橘さんのパチプロ商売が立ちいかなくなったというんですよ」
「なるほど、政府はとうとう休業しないパチンコ屋は店名を公表すると言ってますからね」
「それで馬券師になろうというんですが、競馬もコロナの感染者が出れば開催を中止するというので橘さんが困っているんですよ。パチプロでは休業手当も出ないそうで」
「ははあ」
「それにね、日本ではまだIRが成立していないからカジノもないし、という話をしていたんでさあ。あなたはカジノなんかにいくんですか。仕事柄取材で海外にいくこともおおいだろうし」
「ええ、好奇心が強いほうだから機会があれば覗いてきましたがね」
「さっきも話に出ていたんだが、海外ではカジノが公認だからヤクザや暴力団が関係していないから安心して遊べるというのは本当ですか」

そうねえ、とチョンマゲは首をひねった。女ボーイが持ってきたコーヒーを一口啜ると、なにか汚れがカップについていないかと目を細めたが、
「裏社会が、マフィアとかね、そういうところが関与しているかどうかというのは表面からは海外ではわかりませんからね。日本では公認されていないから歴然としていますがね。
とにかく公認されているからこそこそと人目をはばかりながら賭場に入って、怖いお兄さんに監視されることはないですね」

しかしねえ、と彼は考え考え付け加えた。雰囲気は場所によって大きく違いますね。小さなカジノは危険かもしれない。例外なくそういうところは雰囲気が暗いからね。インチキをされているのかもしれないと考えたこともある。モナコとかニースのようなところは安心ですけどね」
橘さんが同意のしるしに頷いた。

具体的に言うとどういうことが、と誰かが聞いた。
「一度ウイーンで入ったカジノは映画で見る日本の賭場のように暗い雰囲気でしたね。ルーレット台が一つしか無くてね」
「ルーレット台は店で操作できるというのは本当ですか」
チョンマゲはギロリと視線を質問者に向けた。
「常識でしょうね。しかし大きなカジノではそういうことはまずしないようですね。さっき言ったところとかラスベガスの大きなカジノでは心配しなくていいようです」

それでウイーンの賭場はどうでした、と橘さんが聞いた。
「一言で言えば店の雰囲気が暗い。これは曰く言いようがないが、直感的に肌で感じる。目で暗さを感じるのではない。肌に迫るのです」といって一同を見回した。
「入った以上そのまま出るのはまずいので適当に低いベットで何回かやっていると、店内に東洋人の集団が入ってきた」
「客だったんですか」
「そうらしい。みんな細い目が吊り上がっていてね。種族的特徴が顕著でした。全員がグループらしい」
「日本人ですか」
「もちろん違います。もっとも彼らは集団にも関わらず一言も話さないからよく分からない」
「どういう連中なんだろう」
「直感ですけどね、北朝鮮を連想しましたね。ピンときました。ウイーンは彼らの欧州での諜報活動の拠点ですからね」
CCが言った。「彼らが現れたのは五百旗部さんが現れたからなんでしょうかね」
「関連がある、というのが直感でしたね。変ね客が来た。どうも日本人らしい。風体が怪しい、というので店の誰かが通報したのでしょう」
へえ、と誰かが言った。
「もちろん推測ですよ」
「どうしてだろう」
「わかりませんね。私が諜報関係者で彼らとつながりのある店を探りに来たと疑ったのかもしれない。なにしろ私はこの風体だし、どこにいっても怪しまれるんでね」とみんなの笑いを誘った。
「あるいは」とJSが言った。いいカモが来た。篭絡して利用しようと集団で押し寄せたのかな」
「その可能性はありましたね。それで私も気味が悪いので、すぐに店を出たんですよ」

橘さんがチョンマゲに聞いた。「ラスベガスはどうですか、あそこは大きな店でもルーレットは一台か二台ぐらいしかないが」
「だけど店自体が大きいから、あまりインチキは心配しなくてもいいんじゃないかな。しかしあそこで気をつけなければいけないのはオンナですよ。部屋にまで入り込んできますからね」
橘氏はなにか思い当たるところがあるらしく頷いた。


88:狂女注意

大分日が長くなった。六時と言うとまだ明るい。JSは自宅に帰ると道路から自宅のただ住まいを一瞥した。怪しいところはないようだ。築八十年の木造二階建てである。玄関の郵便受けの下を確認する。悪質なDMを投げ込まれないように郵便受けはガムテープで封鎖してある。それにも関わらずDMを下に置いていくやつが時々いるのである。今日はなにもないようだ。ドアの上には警備保障会社のステッカーが貼ってある。その下には赤い大きな字で「狂女注意」と書かれたステンレスのプレートがある。

JSは家の横の木戸に回った。表にぶら下げてある南京錠を外すとソロリソロリと秒速十センチで木戸を引き開けた。レールからなかば外れかかった木戸は普通のつもりで引き開けるとばらばらになって倒壊してしまうのである。中に入ると木戸を用心して閉めレールからはずれていないことを確認すると内側から南京錠をかけた。

じめじめした庭を回って勝手口に達すると警備保障会社の操作盤に暗証番号を打ち込んで警報装置を解除してから鍵を差し込み台所の戸を開けた。外出中に警備保障会社からの発報はなかったので無事だとは思うが長年の習慣で用心してそろりと中に身を入れた。電灯のスイッチを入れ、靴を脱いで板敷の台所に上がる。

彼は一部屋ごとに電灯をつけて鋭い一瞥を室内に加える。窓の施錠を確認する。一階の各部屋を点検すると二階にあがり同様にすべての部屋を点検した。用心するにこしたことはない。父の建てた家は大正時代にモダンではやったアールデコとかいう様式だが、いたるところから侵入を誘うような構造上の欠陥がある。外部からテラスに上るのは子供でも出来るし、全部の部屋がガラス窓で雨戸などがある部屋は一つもない。現代の治安状況ではまったく無防備な家である。昼間は毎日外出していて無人となる家では、警備保障会社を使っていても不安なのである。

彼は書斎に使っている二階の一部屋に入った。建築当時の日本家屋には珍しくその部屋だけは板敷なのである。いまではフローリングというらしい。そこには父が使っていた大きなデスクがある。重たい回転椅子がある。彼は椅子に腰を落ち着けるとプリンターに挟まれたままになっているプリントアウトを取り上げて、書きかけの原稿に目を通した。続きを書くために一応これまで書いたところを再読したのである。

庭を隔てた隣の家は昔はどこかの実業家の家であったが、いまではある役所の新入職員研修生のための寮に使われている。書斎の向かいの部屋は女子用になっていて、当たりはばからず喚き散らし、嬌声をあげる新入女子職員の二人部屋らしい。夏などは下着姿で窓枠に腰かけて見られていることなど全然気にしない。

部屋の壁には能で使う般若の面が掛かっている。オヤジの生きていた時からあるものである。子供のころは彼はこの部屋に入るのが怖くてしょうがなかった。行商人がしつこくベルをならして粘るときに、かれはやおら般若の面をつけると、中野のガラクタ屋で買った芝居用の白髪ぼうぼうのかつらをかぶり行商人に応対するのである。相当に無神経な奴でもびっくりして退散する。そこで彼らは玄関にある「狂女注意」のステッカーを理解するのである。


89:異邦人からの手紙

それは六十年前の日付だった。
「君はどうしてそんなに変わってしまったのだと君に聞かれたことがあった。憶えているだろうか。多分もう忘れてしまっているだろう。僕ですら最近ふとしたきっかけから思い出したくらいだから。それで、僕はその時君の疑問に答えていなかったことも思い出した。人は自分にとってもっとも重要なことを明確に真剣に考えることを無意識に防御的に避けるものらしい。質問したのに無視されたのでその時には君は不愉快に思われたのではないかと想像する。古い昔のことでおそらく君も忘れていることに、わざわざ手紙を書いて答えるというのも妙なことに違いない。

自分自身にとって長年の疑団氷解というほど目覚ましいものではないのだが、すこし「解」
に近づいたようなのだ。しかし、頭の中でまとまってきた想念は妄想に過ぎないかもしれない。文章に表現することによって確かめてみたいのだ。それで手紙と言う手段で君の昔の質問に答えてみようかと考えた。君にとっては迷惑なことに違いないが。

あれは中学の二年か三年のころだったと思う。古い話で時期は曖昧なんだが。「大丈夫かい」と心配してくれた。誰が見ても僕は大丈夫ではなかったろう。しかし親切に気遣ってくれたのは君だけだった、と手紙は始まっていた。

知らない男から電話がかかってきたのは十日ほど前の夜の十時過ぎのことだった。三十過ぎとおぼしきハリのあるバリトンの落ち着いた男の声であった。その人は突然電話した非礼をわびたうえで私の姓名を確認した。「大変ぶしつけなことを伺いますが、昭和十七年に旧制府立XX中学をご卒業になりましたか」と聞かれた。不審に思い黙っていると、「今はご存知のように都立XX高校となっておりまして、その同窓会誌で調べました。私の祖父がおなじクラスにいたのをご記憶でしょうか。申し遅れましたがわたくしは一本松と申します」

徐々に記憶が蘇ってきた。同じクラスに風変わりな同級生がいたことを思い出した。
「たしかに一本松君と言う同級生はいましたが、あなたはそのお孫さんなんですか」
私の言葉に不審げな警戒するような雰囲気を感じたのだろう。
「突然このようなお電話を差し上げてさぞご不審でしょう。じつは」と言ってしばらく考えているようであったが、「要点だけ申し上げますが、祖父の遺品を整理しておりましたところあなた宛ての未発信の手紙の草稿が出てまいりました」
「一本松君は最近亡くなられたのですか」
「いえ、五十年ほど前に亡くなりました。私の父も同じ家にその後も住んでいたのですが、昨年父もなくなりまして古い家を処分することにいたしましたので。それで祖父や父の残したものを整理して処分しようとしているのですが、その作業の中で父の手紙が出てきたのです」
「なるほど、私宛の手紙の草稿と言うか、メモのいうのが」
「そうなんです。実は内容にも目を通したのですが、祖父の知らなかった意外な面を知って驚きました。また、平島様には大変親切にしていただいたことが書いてありましたので、もし連絡がつけばお渡ししたほうがいいのではないかと考えた次第です。ご迷惑でしょうか」
「いや、そう言われても」と私には答えようがなかった。
返事を待っていたが、私がなにも言わないので「郵送いたしましょうか、それとも、、何分古いことなのでこちらで処分してもよろしいですか」
「しかし、彼はなぜ手紙を発送しなかったのだろう」と私が言うと
「手紙に付箋が貼ってありまして、あなたの新しい住所が分からないので調べて出すことにした、と書いてありました。それでそのままになっていたのでしょう」
「そうですか、大学を卒業したころから後は会うことも無くなったからな。二人とも違う大学に入ったし、会社に入ってからは会っていないな。しかし、かれがその後も草稿を処分せずにとっておいたということは、なにか読んでほしいことがあったんだろうな。それでは読ましてもらいましょうかな。お手数だが郵送していただけますか」
というわけで手元に届いた彼の文章を読んでいるのである。