穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

幸田文1956年の文体はどこから来た?

2016-03-29 19:17:59 | 書評

3月23日に幸田文の「おとうと」を読んでいると書いた。読み終わりました。そして同じ年に発表された『流れる』を読んでいる。 

文体は「おとうと」と同じだね。しかし、なかなか前に進まない。まだ半分くらいだ。面白くないから進まないというのではない。これも興味深い小説だ。面白い小説に二種類ある。消化速度というか読書速度というか、面白くて早く読み切ってしまうという種類の本がある。大体これに該当するが、中には面白いが読書スピードがあがらないというのがある。「流れる」はこのクチである。

どうしてかな、と考えたが、文章あるいは文体は面白いがテーマが興味に持てないということがあるかもしれない。おとうとは20歳で死亡した結核のおとうとの看病記である。私自身の家族の経験と重なる所があって、そしてほぼ真逆のというか、まるで違うような状況のようで、比較対比しながら思わず引き込まれてしまうのだろう。

流れるは芸者置屋に住み込み女中としてはたらく女の視線で三業地(中どころ

、場末?)にうごめく女達の生態を描いている。私にはあまり興味が持てない話でね、そのせいかもしれない、読書スピードがはかどらないのは。

ところで、この文体(彼女のこの後の作品でもそうなのかどか、は読んでいないか分からないが)は一体どこから来たのだろう。私の読書経験がとぼしいせいか、読んだことがない。一種の語りのスタイルだと思う。それも会話や座談ではなく、高座から講釈師が話すような職業的な文体ではないか。

あるいは、江戸時代の黄表紙(だっけ)や貸本の叙述スタイルかな。父露伴のこの種の蔵書の蒐集は大したものだったろうし、彼女も父から手ほどきを受けていたのかも知れない(読み方をね)。

父の幸田露伴の小説もあまり読んだことはないが、父のスタイルとも違うような気がする。以上日記風でまとまりが無くて済みません。

 

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