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「2.朱子学の作用」より
(本文要約)
敗戦までを近代とすると、その始まりは明治維新の太政官政府が作ったといえる。
その旗印は「尊王攘夷」であった。
この「尊王攘夷」には、崇高な「人類の理想」や「人間の基本課題」などの理想はなく、革命思想としては貧弱なものであった。
どちらかと言えば、「ナショナリズム」を煽るものであった。
この思想の起源は中国の「宗」の時代になる。
宗学として「正義の設定→正当化→実行」をさせる、イデオロギー思想を構築する学問として発展した。
「宗」は脆弱な国家であったので、そうした時代/国家背景があって、この学問が重用されたようだ。
これがやがて「朱子学」となり、鎌倉時代前夜に日本にも入る。
しかしこの学問、その後官僚徴用には利用されるものの、日本では重視されなかった。
が、それを見いだし、長期にわたり修史した土地があった。
それが江戸中期の「水戸」であった。
日本史編さんの大事業を企てていた水戸光圀は、水戸に多くの学者を集め、これを修史事業とし展開させまとめあげた。
しかし、この「朱子学」は、学問的後世への価値はほとんどなかった。
だが、この考えがやがて水戸イデオロギーとなる。
そして皮肉にも、このイデオロギーが徳川封建社会の解体に繋がっていくのである。
「朱子学」は、官学でありイデオロギー思想である。
またそこで唱えられる「尊王攘夷」は、「異民族をうちはらえ!王を重んじよ!」であり、「ナショナリズム」のスローガンでしかない。
威勢こそいいが、そこに国家人民に対する理念は薄い。
外圧から自国を守ろうとする思いから、このスローガンに執着した当時の尊王攘夷運動(革命者)にも思想の薄さがある。
そうした中で起った倒幕や明治維新、そして近代日本建設は、やはり理念の薄い国家社会を作っていったようである。
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この章より、過去からの”時間の繋がり” を痛感する。
また、寒さを覚えるほどの怖さも得た。
また、寒さを覚えるほどの怖さも得た。
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