(日溜まりの中でのクライミング)
先日(12/10)のNHKで、
「ワーキングプア2」という番組をやっていた。
今年7月に放送された「ワーキングプア」の反響が大きかったため、その第二弾と言う所だろうか。
TVで紹介されているような状況が今多数派になりつつあるという事は、この問題が個人では解決出来ない、日本の社会構造の欠陥であることを証明している。
自営業者である僕は、これを現実問題として捉えていて、二回とも大きな関心を持って観た。
自営業はいい意味で自立した存在ではあるが、その分経済基盤が小さく不安定で将来についての保証もない。
それに正に「体が資本」であり、事故や病気で倒れれば明日からの収入は途絶える。
僕が、ワーキングプア スパイラルの至近席にいることは事実である。
こうした遠近の将来に対する不安感は日常的にあり、精神的にもつらいものがある。
そんな強迫観念に苛まれる生活の中で、夫婦であるいは親しい友人と行うクライミングや山登りは、
僕にとって生きていく希望であり喜びであると感じている。
幸い若い時から山での活動を展開してきたので、基本的な装備と技術的な事は身につける事が出来た。
当然クライミングや山登りをするのにも、お金はかかる。
しかし贅沢さえしなければ、比較的安価で継続的に楽しめるのも事実である。
それ以上に、何事にも替え難い友人がたくさん出来たし、僕は山やクライミングに出会えて本当に幸運だった。
なぜにクライミングや山登りは、こんなにも心地いいのか。
山に入れば、自然が与えてくれる緊張感の中で、自分の意志がすべての価値観となる。
リアルな自然環境であらゆる選択を自らに迫り、選びとり行動していく。
そこには、真の意味での「自由」があるように思うし、それがとても心地いい。
そんな心地良さを得るがために、自らスキルアップを計る。
特にクライミングは、日常的なトレーニングが必要と感じている。
僕もご多分に漏れず、多くのクライマーがそうするように人工壁ジムでのクライミングを行っている。
週一では大きなレベルアップは望めないが、続けているおかげで現状維持は出来ているようだ。
またジムに行けば、クライマー同士でコミニュケーションでき、世代を超えた交流も図れる。
僕にとっては、願ったりかなったりの場である。
それと同時に、クライマーとしてこれを継続していく上で、ジムでのクライミングが必要不可欠な時代にもなったんだと実感する。
しかしながら、こうした場に集まるメンバーの顔ぶれを今フト思い返してみると、ちょっと違和感を感じてしまった。
顔ぶれがみな一様に上品で分別があり、におい立つようなアウトロー的な者が見えてこない。
老若問わず、どちらかと言えば経済的にも安定した、一定層のみの集まりとなっていることに気付く。
僕が山を始めた20年ほど前、山屋と言えばバンパーをガムテープで止めたようなボロ車で山に出向き、
装備や着ているものと言えばいつも御決まりもので、ほころびなんて当たり前、
遠くにいてもその出で立ちですぐにあの人だと判ったものだ。
あの頃は、大多数の山屋(クライマー)が貧乏 だったような・・・。
またその頃はクライミングに没頭するあまり、定職を捨てアルバイトで生計立てる者が仲間内でも多くいた。
でもそうした者も仕事は探せばあったし、がんばればそれなりの収入も得る事が出来て、ちゃっかり山には行っていた。
けっしてあの頃がいい時代だったとは思わないが、きっと社会や人の心にもまだ余裕があり、こうしたアウトロー達にも寛容だったのだろう。
そして、情熱さえあればだれでもが山や岩に出向き、そこにトライするチャンスを得る事が出来た。
誤解しないでほしい、今の人は恵まれていて贅沢だなんて言っているのではない。
僕が危惧するのは、経済状況の安定こそがクライミングする何よりの条件となってはいないかということ。
経済的理由で目標や希望を断念しなければならない、そんな事例が実際多くあるのではないかということ。
ジム通い出来ない者=クライマーにあらず 的な思考に、僕ら自身がいつの間にかなってしまっていないかということ。
一昔前、山岳は一部のブルジョア層のもので、一般人には入り込めない世界であった。
しかし、そんな山岳はやがてマンネリ化し停滞した。
そんな中、高度経済成長の背景もあって野武士的な社会人クライマー達が、澱んだ山岳界に風穴を開けるようなクライミングを各地で実践した。
彼らの多くの議論や活発な活動はクライミングを大きく発展させ、そしてクライミングはみんなのものになっていった。
だが、格差社会というものが現実となりつつある中で、かつてのようにクライミングがまたある一定層のものになろうとしている。
これはある意味時代の逆行であり、クライミング衰退の序曲ではと考えてしまう。
クライミングや山が文化であるとするなれば、多種多様でより多くの人がこれに関わらなければ、この文化の進展はあり得ない。
経済的な理由や固定化された思考が、活動の継続や機会を奪ってしまう。
そんな事が多くなるとすれば、結果的にクライミングや山の世界にとって大きな人的損失となろう。
いまこうした窮屈な時代だからこそ、僕らは機会をうかがっている人に対しても、もっと寛容になってもいいのではないだろうか。
今の日本の社会全体が、画一的な価値観で物事を見て判断していると感じるのは僕だけだろうか。
事のおこりに対し人のせいにして、保身に考えを巡らしてはいまいか。
己の損得だけで、物事をけっして見てはいけない。
いつも体の中に広い選択肢を持ち、その中から最善のものを選びとれるような、濁りのない澄んだ思考を巡らすことのできる自分を創り上げていく必要があるのではないか。
僕は個々の思考を変えていく事が、社会全体がいい方向に変わっていく源泉だと信じている。
少し自己犠牲してでもより良い環境を作ろうとする精神こそが、こうした悪循環社会からの脱却の原動力となるのだ。
憧れの岩や山に挑む、そんなチャンスを奪ってしまうような社会であってはならないはず。
ワーキングプアという前時代的な貧困層が多数派となるような日本に、良き将来はない。
自分の明るい未来像が誰もが描けるような、そんな社会が形成され成長する事を、今強く望む。