手打ち蕎麦をする私の徒然日記

2003年1月に手打ち蕎麦に初挑戦。手打ち蕎麦の事ばかりでなく、日常インパクトのあった事柄を思ったまま綴ったブログです。

すがすがしかった内藤選手に栄光あれ

2007-10-12 10:24:07 | Weblog
秋晴れとなった今朝、朝食時にテレビを観ていたら、昨晩のプロボクシングWBC世界フライ級タイトルマッチ12回戦で初防衛に成功した内藤大助(33)選手と奥さん、それに奥さんに抱っこされた息子さんが登場していた。内藤選手の顔面にはまだ打撲の跡が残り、左まぶたには出血の跡がなまなましく見える。その内藤選手と家族には、十分好感を持てた。笑顔も可愛い奥さんと息子さん、家庭での明るさ・温かさが伝わってくるような爽やかなインタビューだった。
内藤選手は、学生時代に地元の北海道でいじめを受けたのをきっかけにボクシング界に入ったこと、月収12万円で過ごしたこともあった結婚生活、などを話す一方で、昨晩の挑戦者にもエールの言葉を送るなど、随所で謙虚さが感じられた。
ところで、昨晩の試合は王者内藤選手に、同級14位の亀田大毅(18)選手が挑戦したもので、私は最近ではめずらしく、夕食時にテレビにかじりついて観戦した。と、いうのも挑戦者の亀田選手のあまりにも横暴とも映る最近の言動がマスコミで大きく取上げられていたからだ。試合前日の両選手の合同会見の席上では、亀田選手は「オレは必死でベルトを獲りにいく。オレが負けたら、切腹するで。内藤は負けたら、どないすんねん」などと公言し、同席した王者内藤選手にケンカを売っていて、とても私には好感を持てなかった。試合では、挑戦者の亀田選手が前代未聞の反則を連発、最大で10点差が開く大差の判定負けを喫した。亀田選手にとっては、プロ11戦目で初黒星となった、という。
マスコミによれば、試合後は、無言で会場から引き揚げた亀田選手に対して、彼の決死覚悟の「負けたら切腹」宣言をヤジるように、アンチ亀田の観客から「切腹しろ」「腹切れ」と屈辱の罵声(ばせい)を浴びたそうだ。私は、敗れた亀田選手には、今後もボクシングをやっていく以上は、謙虚になってほしい、と思う。
苦労して勝ち取った王座の座、これからも、内藤選手とその家族の未来に栄光あれ!

秋晴れの一日、幼稚園の運動会をみんなで楽しんだ

2007-10-07 10:17:14 | Weblog
昨日からの3連休、その初日の昨日10月6日は、孫娘たちの通う幼稚園の運動会で、私と家内とは前晩から娘宅に泊り込んで、この日に備えた。昨日は秋晴れの絶好の運動会日和となり、娘の夫の両親も早朝から自動車で駆けつけて、一緒に幼稚園の会場に出かけて見物した。私はいつもの通り、ビデオカメラを持参したことは言うまでもない。
運動会は、運動場に幼稚園児全員が整列しての開会式で幕を開けた。まだ3歳にも拘わらず、最近幼稚園に入園したばかりの妹の方の孫娘もその列に加わっていたのだが、彼女の位置は年少組の列の最後部に並んでいたので、彼女の背の高さが小さいこともあって特にひときわ可愛く、目立つ存在に見えた。
競走や玉いれなどの競技も行われ、もちろんユウギも披露された。中でも、年長組の女子全員が演じるユウギのときは、6歳の孫娘がキビキビした動作で踊りまくる姿には、見ていて、まさに輝いている、という言葉がピッタリあてはまる光景だった。なんか小学1,2年生でもいいほど、に思えたほどだ。
午前の部の最終演目は年長組の生徒全員が参加するマーチングが行われた。以前から、我が孫娘がその指揮者に抜擢されている、と聞いていたので、私にとっては、最も楽しみにしていたシーンだ。マーチングは、孫娘が先頭に立って鼓笛など大勢のブラスバンドの生徒たちを従えて運動場に入場してくるシーンから始まった。バトンを廻したり首から下げた笛を鳴らしたりして、周囲で演奏してるブラスバンドの部隊を統率している姿は実に格好よく、素敵だった。白地に赤い線の入った円筒型をした帽子、それと白い制服の上に赤いベストを着た姿は颯爽としていて、とても良く似合っていた。
大観衆を前に孫娘はちっとも物怖じすることなく、堂々と指揮を執っていて実にきまっていた。後で聞いたところによると、娘の夫のお父さんは、このマーチングの時ばかりは、指揮者の孫娘だけに集中したため、周囲のブラスバンドの演奏風景は全く見ていなかったそうだ。
運動会が終わって、娘宅に帰宅し、夕食後、ビデオカメラで撮影したシーンをテレビに再生してみんなして楽しんだ。

鬼畜にも劣る時津風親方の行為

2007-10-05 10:23:46 | Weblog
今年6月、大相撲の時津風部屋の若手力士の時太山が急死した問題、未だに徹底究明による真相がはっきりしないが、今までに判ったことだけでも、それらを知れば知るほど、怒りを覚え、あきれるばかりだ。彼のお父さんが、息子の時太山が亡くなる前日に、息子本人からかかってきた電話の内容とか親子のやりとりにつき、涙ながらに、テレビインタビューに応えて、
「・・ボク、いい子になるから迎えに来て!、って言ってた。それを信じてやれなかった・・」と、無念の思いを語っていた。--このシーン、まさに見ていて、あまりにも切なく、そして悲しい。
お父さんは、当時、時津風部屋からは、息子の死を知らされると同時に、火葬してお骨にしておくる、という電話連絡を受けた、という。そして、火葬にされることを断ると、息子の遺体は、二人の業者によって運ばれてきた、と言う。
これらの事実、まさに間の行為そのものだ。特に、時太山をビール瓶でなぐったことや、意識不明になった後も、すぐには救急車を呼ばなかったことなど、蛮行を取った時津風親方の行為そのものは、まさに殺人行為そのものだ。そして、遺体を、業者に頼んで、まるでなんらかの"モノ"みたいに、親のもとに届けた、っていう事実は、時津風親方の人間性の本質を如実に表しており、間の行為だ。私は、殺人を犯した者は、その者自身もまた、殺人を犯されてしかるべきだ、と思っている。時津風親方は時太山の苦しみを痛みを全く無視して、自分勝手な行動を取って死に至らしめたのだ。その責任は重大だ。
人の命の尊さ、っていうものは、たとえようのないほど尊いものなのだ。
時太山の急死が、時津風部屋の殺人行為を明らかにした。世の中には、時津風部屋にかぎらず、似たような蛮行をしている組織とか(人間の姿をした)人間が数多く潜在しているようで、その証拠に連日のように、殺人など犯罪事件が取上げられている。実に情けない現実だ。

自分勝手なお年寄りに煮え湯を飲まされる思い

2007-10-04 21:15:58 | Weblog
私の家の庭先には、数年前に、私たち夫婦の友人から贈られて、大切に育てている二本の木がある。一本はバラの木、そしてもう一本は、ノウゼンカズラの木だ。つい先日まで、このノウゼンカズラは橙色の大きな花をたわわにつけて私たちを楽しませてくれていた。
ところで、昨日の夕方、やぶからぼうに、家内は私の母から、そのノウゼンカズラとバラの木を切ってしまいたい、との意向を伝えられた、という。今でもときどき出没するアリの巣屈になってるから、とか大きくなりすぎてみっともないから、というのが理由らしい。もちろんこの母の提案に家内はすぐさま、「絶対、切らないでほしい」と反対した。
ところが、今日夕方、仕事を終えて我が家に帰宅した家内と私は、そのノウゼンカズラの木が無残にも根元からバッサリ切り落とされているのを目にした。自宅に上がりこんだ私たちには、母は木を切ったことにはまったくのノーコメント!。家内も私も腹わたが煮えくり返る思いだが、母を責める気にもならない。今までの例から、こんな時に、母を責めると、きまって「二人して私をいじめるのかい?」なんて罵声が飛んできて大声で自分の主張を正当化して、議論が平行線を辿るのが目に見えているからだ。
例えば、数年前にこんなことがあった。--、私が丹精込めて育ててきたゴムの木を、母が、私に無断で植木鉢から引き抜いて、根っこごと掘り起し、蒔きの束にしてしまったことがあった。当時、私は母に猛抗議したが、"あれは大きくなりすぎて不恰好だから!"とかなんとか、母特有の持論を叫んで、彼女は絶対に非を認めなかった。
こんなこともあって、最近は議論してもナンセンスだという思いがあるのだ。結局はなんでも母の気のすむようにさせておくほか、手の打ちようがない。
それにしても、彼女は、私たちが大切に育ててきた、ノウゼンカズラの木に対する思いいれというものを全く理解できていない。実に情けない。そして、悔しい。

ジャイアンツ優勝で選手たちがビールかけに酔う

2007-10-03 09:08:47 | Weblog
今年のプロ野球セ・リーグの優勝はジャイアンツに決まり、昨日のテレビでは、優勝を祝って選手たちがビール瓶の栓を勢いよく抜いて、お互いにビールをかけあっていた。これは、今年に限ったものではなく、毎年のように見られる光景だ。ビールをかけあう習慣は、日本独自なものかな、と思っていたら、アメリカでも同じように優勝チームの選手たちがビールをかけあっていたので、もしかすると、アメリカのをマネたのかな、とも思う。
私は、こんなビールをかけあっている光景を見て、実に馬鹿げたものだ、と思う。ビールの無駄使いであり、お金をドブに捨てるに等しい行為だと思う。毎年毎年こんなことを恒例のように繰り返していて、"もったいない"、という気持ちにならないのだろうか? こう考えるのはミミっちいと言われるかもしれない。でも、いくらお祝いだから、といって、そのお祝いの仕方に能がなさすぎるのでは、と思う。
ビールかけのような光景を見て、私は、ときどきテレビで見かける、アフリカで飢餓で苦しむ子供たちのことが脳裡に浮かんでどうしようもなかった。100円のお金があれば、何人もの命が救われる、というニュースもときどき耳にしており、どうせなら、ビールかけに消費するお金を、このような子供たちのために使ったらどうなのかな、と思ったものだ。